第21話 もう一つ
翌朝、直人は四つ注文した。
三つは家族の分。
もう一つは黒瀬の分だった。
昨日までなら、そこで終わっていた。
窓の向こうで女が注文を書き留める。
足元では、ぱむちゃんが紙袋を覗き込んでいた。
「ぱむ」
「四つです」
直人は念を押した。
女が頷く。
金属トレーに金を置き、いつもの位置まで下がる。
昨日増えた小さな台は、まだそこにあった。
店の前には直人のほかに二人いた。
一人は昨日も見た買い物袋の女性。
もう一人は、マンションの管理人だった。
「藤村さん?」
「おはようございます」
藤村は店の看板を見上げた。
「本当にあった」
「疑ってたんですか」
「黒瀬さんの『肉なら食う』をどこまで信用していいのか迷ってました」
直人は笑った。
「本人から来たんですか」
「夜中に。バーガーの写真付きで催促されました」
「まだ食べてないのに?」
「ネットで拾った写真でした」
黒瀬らしい。
藤村も一つ注文した。
店の女は、特別なことを聞かなかった。
名前も、マンションの事情も、誰に渡すのかも。
注文。
金。
受け取り。
ただそれだけだった。
直人は少し安心した。
紙袋が二つ出てきた。
直人の袋には四つ。
藤村の袋には一つ。
受け取って帰ろうとしたところで、藤村が言った。
「黒瀬さんのところ、私が持っていきますよ」
直人は足を止めた。
「でも、部屋の前まで行くなら」
「置いて連絡します。昨日決めたやり方で」
「接触しないでくださいね」
「分かってます」
藤村が手を出す。
直人は紙袋を見た。
家族三人分。
黒瀬一人分。
分ければいい。
それだけなのに、手が止まった。
「どうしました?」
「いや」
直人は一つ取り出しかけて、やめた。
「袋、分けてもらったほうがいいですね」
女が聞いていた。
「分けますか」
「お願いします」
直人は黒瀬の一つを戻した。
女は新しい紙袋へ入れ直した。
袋が二つになる。
家族の分。
黒瀬の分。
直人は黒瀬の袋を藤村へ渡した。
「お願いします」
「はい」
藤村はそれを持ってマンションへ戻っていった。
直人も歩き出した。
角まで来たところで、後ろから声がした。
「あの」
昨日の買い物袋の女性だった。
直人は振り返る。
女性は店ではなく、直人の紙袋を見ていた。
「ここ、何個でも買えるんですか」
「何個でもかは分かりません」
「昨日、一個買ったんですけど」
「はい」
女性は少し迷ってから言った。
「同じ階に、おばあさんが一人で住んでて」
直人は黙った。
「昨日から出てこないんです。感染とかじゃなくて、足が悪くて。スーパーまで行けないみたいで」
「食べ物は?」
「たぶん、あんまり」
たぶん。
その言葉に、直人は昨日までの自分を思い出した。
「確認しました?」
女性は首を振った。
「勝手に買って持っていくのもどうかなって」
直人は紙袋を見る。
三つ。
一つ渡せばいい。
そう思った。
すぐに、違うと思った。
それは美咲と子どもの朝飯だった。
「本人に聞けますか」
「インターホンなら」
「食べたいかどうか、聞いたほうがいいと思います」
女性が頷く。
「そうですよね」
スマートフォンを取り出す。
「あ、でも、もし欲しいって言われたら」
「店で注文すればいいんじゃないですか」
女性は店を見る。
「私が?」
「たぶん」
言ってから、直人は笑った。
「いや、聞きましょう」
二人で店へ戻った。
女は次の客の注文を受けていた。
終わるまで待つ。
女性が事情を話した。
「本人は来られないんですけど、代わりに買ってもいいですか」
女は答えた。
「注文が分かれば」
「注文?」
「食べられないものはありますか」
女性が固まった。
「あ」
直人も気づいた。
昨日、発熱した男にも聞いていた。
アレルギー。
食べ物を届ける。
それだけなら簡単に見えた。
食べる人が誰か分からなければ、注文にはならない。
女性はその場で電話をかけた。
「もしもし、佐々木さん? 隣の小川です」
少し間がある。
「昨日言ってた店。バーガー屋さん。……うん。買ってこようかと思って」
また間。
女性の顔が少し緩んだ。
「食べる?」
返事を聞く。
「チーズは? ……だめ? 卵は? 大丈夫。肉は……うん」
店の女がメモを取る。
「一個でいい?」
電話の向こうから何か長く返ってきた。
女性が笑った。
「分かったって。ポテトは聞いてみる」
電話を切る。
「チーズなしで一個。卵は大丈夫です。あと、ポテトがあれば欲しいって」
女が頷いた。
「あります」
「じゃあ、それも」
女性は金を出した。
直人は横で見ていた。
誰かが食べ物に困っている。
だから配る。
昨日までなら、そのほうが早いと思ったかもしれない。
けれど今、目の前で起きているのは違った。
佐々木という人が、チーズはいらないと言った。
ポテトは欲しいと言った。
困っている人ではなく、注文した客になった。
紙袋ができるまで、女性は店の外で待った。
直人もなぜか残った。
「黒瀬さんって、さっきの?」
女性が聞いた。
「同じマンションの人です」
「その人も来られないんですか」
「今は」
「じゃあ、みんなの分をここで買って配る感じになるんですかね」
直人は答えかけた。
なるかもしれない。
効率を考えるなら、まとめたほうがいい。
注文を集めて、誰か一人が買って、配る。
頭の中で、もう表ができかけた。
何号室。
個数。
アレルギー。
支払い。
受取担当。
そこまで考えて、止めた。
「分かりません」
「え?」
「今日は、黒瀬さんと佐々木さんの分だけです」
女性は少し考えてから、
「まあ、そうですね」
と言った。
紙袋が出てくる。
女性は受け取った。
「行ってきます」
「はい」
そのまま角を曲がっていく。
直人は店の前に残った。
女が金属トレーを拭いている。
ぱむちゃんが、その横で布巾の端を踏んだ。
女が引く。
ぱむちゃんも一緒に少し滑った。
「ぱむ」
「そこ、乗らないでください」
「ぱむ」
直人は笑った。
「もう一個、追加できますか」
女が顔を上げる。
「はい」
「僕の分です」
朝、自分の分を買っていなかった。
家族に三つ。
黒瀬に一つ。
それで足りたつもりになっていた。
「チーズありで」
「はい」
「ポテトも」
女が注文を書き足す。
直人は金をトレーへ置いた。
しばらくして、もう一つ紙袋が出てきた。
今度の袋には、直人の昼飯だけが入っていた。
帰り道、藤村からメッセージが来た。
《黒瀬さん受取確認》
続けて、黒瀬。
《肉》
写真が一枚。
バーガーの包み紙だけが写っていた。
《感想それだけ?》
《うまい》
直人はスマートフォンをしまった。
前を歩いていた小川が、少し先の建物へ入っていく。
片手には佐々木の紙袋。
直人の手にも紙袋がある。
同じ店から出た二つの袋は、別々の方向へ運ばれていった。




