第174話 返す席
百五十三日目。
直人は寝具を畳んだ。
壁際に寄せた椅子が一脚ある。昨夜、自分が眠る場所を空けるために動かしたものだった。
直人は椅子をテーブルへ寄せた。
「そこ、戻すんですか」
入ってきた高校生が言う。
「うん」
「今日泊まらない?」
「まだ決めてない」
「また動かすかもしれないじゃないですか」
「その時はその時」
朝の客が二人来た。
片方が、直人の戻した椅子を引いて座る。バーガーを注文し、連れと話し始めた。
直人は寝具を棚へしまった。
少しして、長く泊まっている男も自分の寝具を畳み始めた。壁際の袋も持ち上げる。
「今日、団地に持ってく」
「全部?」
「うん」
男は自分が使っていた椅子へ手をかけた。
「これも戻しとくか」
高校生が聞く。
「どこに?」
男の手が止まった。
「元の場所」
「どこでしたっけ」
三人で客席を見る。
何か月も前から、寝具を広げるたびに椅子やテーブルを少しずつ動かしてきた。どれが最初にどこにあったか、直人にも分からない。
「空いてるところでいいか」
男は近くのテーブルへ椅子を寄せた。
荷物を車へ積み終える。
「じゃ、行ってくる」
「戻る?」
「昼は向こう。夜は分からない」
男が出ていったあと、高校生が壁際を見る。
「一席返ってきましたね」
「誰に?」
「店?」
「借りたっけ」
高校生は少し考えた。
「借りてないですね」
新しい客が三人入ってきた。
「三人なんですけど」
高校生はさっきの一角を示す。
「そこ、三つ使えます」
三人は椅子を引き、テーブルを寄せた。
一脚が通路へ少しはみ出す。
帰ったあと、直人はその椅子を直しかけてやめた。次の客が使えば、また動くだろう。
午後、美咲と子どもが来た。
子どもが壁際を見る。
「ここ、広くなった」
「そうだね」
「前ここで寝てたよね」
「寝てた」
「もう寝ない?」
美咲は少し考えた。
「寝る日もあるかも」
「じゃあ席どうするの?」
「その時、空いてたら動かす」
子どもは棚から赤い色鉛筆を取った。
紙の裏に何か描き始める。
直人が覗く。
「何描いてる?」
「いす」
赤い線で四本脚の椅子を描き、その隣にもう一つ描く。
「どこの?」
「ここ」
「今の場所?」
子どもは客席を見て、首を傾げた。
「わかんない」
描き終わると、色鉛筆をまた棚へ戻した。
夜、高校生が学校へ戻る前に聞いた。
「結局、返したんですかね」
「何を?」
「席」
「使ってないだけじゃない?」
「でも今、客が使ってる」
直人は壁際を見る。
昼とは別の客が、椅子を少し斜めにしてバーガーを食べている。
「じゃあ今はあの人の席だな」
高校生が笑った。
「すぐ返しますけどね」
「借りてないだろ」
今夜、直人は学校で眠ることにした。
寝具は出さない。小さな袋だけを持って入口へ向かう。
壁際では、さっきの客がまだ食べていた。
赤い色鉛筆は棚にある。
直人は椅子の位置を直さず、店を出た。




