第170話 黒瀬の家
百二十六日目。
黒瀬が店に来て、コーヒーとバーガーを一つ注文した。
高校生がトレーを渡す。
「最近、泊まってないですよね」
「泊まる必要ないからな」
「どこで寝てるんです?」
黒瀬はコーヒーを一口飲んだ。
「家」
「家?」
「家」
「前の?」
「違う。団地の端の部屋」
「いつから?」
「少し前」
「聞いてないです」
「言ってないからな」
黒瀬はバーガーを食べ始めた。
厨房から出てきた直人が声をかける。
「黒瀬、今日どこ行く?」
「家の棚」
「棚?」
「壁に付けたい」
「材料あるの?」
「学校でもらった板。金具は団地」
高校生が店内の棚を見る。
「ここから持ってく物は?」
「ない」
食べ終わるころ、高校生が聞いた。
「見に行っていいです?」
黒瀬は少し考える。
「別にいいけど、今?」
「暇なので」
「店は?」
「俺いなくても回るんで」
黒瀬が笑った。
「じゃあ来れば」
団地の端、二階の一室。
黒瀬が扉を開ける。
玄関には靴が一足。窓際には寝具。壁際に箱が三つ積まれ、小さな机のそばに水を入れた容器がある。乾いた服が畳んで置かれていた。
高校生は部屋を見回した。
「普通ですね」
「何だと思ってた」
「もっと仮の感じかと」
「仮でも使うなら同じだろ」
黒瀬は学校でもらった板を壁へ当てる。
「そこ持って」
高校生が端を支えた。
「ここ、自分で決めたんですか」
「空いてる部屋を団地で確認した」
「PANDEMONIUMには?」
「何を確認するんだよ」
「いや……そうですよね」
金具を留め、棚が一段つく。
黒瀬は箱からカップを二つ出して並べた。
「二つあるんだ」
「割れた時用」
「誰か来る用じゃなくて?」
「来ても使える」
その隣へ小さな缶を置く。
床にあった道具が、一つずつ棚へ移っていった。
高校生は窓の外を見る。団地の人が畑へ向かい、下では誰かが布を干している。
「ここでずっと暮らすんですか」
「分からない」
「じゃあ棚まで付けるんだ」
黒瀬はネジを締める。
「明日も使うからな」
棚を軽く押し、ぐらつかないことを確かめた。
「昼、店戻ります?」
「戻らない」
「何食べるんです?」
「団地で食う」
「夕方は?」
「水汲み」
「夜は?」
黒瀬は窓際の寝具を指した。
「ここ」
高校生が笑う。
「ほんとに家ですね」
「だから最初からそう言ってる」
高校生だけがPANDEMONIUMへ戻った。
直人が聞く。
「どうだった?」
「家でした」
「そう」
「棚つけました」
「へえ」
直人は部屋番号を聞かなかった。
そのあと、団地へ配送に行く人が店へ寄った。
「黒瀬に何かある?」
高校生は配送棚を見る。
「ないです」
「了解」
荷物は増えなかった。
夜、高校生は宿泊表を開いた。
黒瀬の名前はない。
配送表にも、外出メモにもない。
壁際では三人が寝床を作っている。
高校生は余っている毛布へ手を伸ばしかけ、やめた。
三枚だけを壁際へ置く。
棚へ戻した毛布の隣には、まだ何枚も畳まれている。
高校生は宿泊表を閉じた。
黒瀬の欄を作らないまま、店の夜が始まった。




