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第140話 名前が変わる


八十七日目、午前十時九分。


団地から来た女の子が、カウンターへ一冊の図鑑を置いた。


「これ返す」


「はい」


高校生が受け取る。


先週貸した植物図鑑だった。表紙の端に、小さな紙片が挟まっている。


《みどりの本》


「これ何?」


「名前」


「図鑑だけど」


「団地では、みどりの本」


正式な題名はもっと長い。植物と野草の見分け方、食べられるもの、触らない方がいいもの、似た種類の注意点。


「『みどりの本どこ?』って言えば、みんな分かるよ」


「誰がそう呼び始めたの?」


「知らない」


高校生は昨日の椅子を思い出した。


女の子は棚を見た。


「もう一冊借りていい?」


高校生がサバイバルブックを出す。


「これ」


女の子は表紙を眺めた。


「なんて呼ぶの?」


「サバイバルブック」


「長い」


「じゃあ何て呼ぶ?」


女の子は少し考えた。


「まだ分かんない」


◇


充電池を届けに団地へ行くと、入口の男が高校生を見るなり聞いた。


「みどりの本、返した?」


「返しました」


「また借りる時言うわ」


「本当の名前、知ってます?」


男は首を振る。


「表紙見れば分かるからいいだろ」


団地の裏では、昨日の椅子に老人が座っていた。


右前脚の針金と金属板が日に光る。


「銀脚、今日は平気だよ」


高校生が止まった。


「銀脚?」


老人が足元を指す。


「これ」


「誰がそう呼んでるんです?」


「みんなじゃないか」


近くにいた団地の男へ聞く。


「昨日まで椅子だったじゃないですか」


「椅子何個かあるから」


「これ一個しかないですよ」


「だから銀脚で分かる」


確かに、右前脚だけが銀色だった。


そこへ、さっきの女の子が借りた本を抱えて通る。


団地の女が聞いた。


「それ何?」


「店から借りた」


「みどりの本?」


「違う。火とか水のやつ」


「じゃあ火の本?」


女の子は首を振る。


「火だけじゃないよ」


「じゃあ何」


「まだない」


女の子は本を抱え直して歩いていった。


高校生は椅子を見る。


「銀脚」は、もう説明なしで通じている。


新しい本の方は、まだ説明が要る。


◇


PANDEMONIUMへ戻ると、高校生は備品表を開いた。


《折り畳み椅子 店四・団地一》

《右前脚補修》

《修理者 不明》

《使用可》


その横へ《銀脚》と書きかけ、止めた。


直人が聞く。


「書かないの?」


「店では銀脚じゃないから」


「でも団地ではそうなんでしょ」


「はい」


高校生は欄外へ書いた。


《団地呼称:銀脚》


次に貸出表を開く。


《植物図鑑》


その横へ、括弧で、


《みどりの本》


田辺が紙片を見た。


「みどりの本?」


「団地での名前です」


「題名あるだろ」


「あります」


「じゃあ間違いじゃないのか」


高校生は図鑑と貸出表を見比べた。


「向こうでは、こっちで通じるんです」


田辺は表紙を読む。


「まあ、長いしな」


トランシーバーが鳴った。


『銀脚、今夜も借りる』


高校生は反射的に答えた。


「分かりました」


通信が切れてから、自分が聞き返さなかったことに気づく。


由佳が欄外を覗いた。


「銀脚ってかっこいい」


「団地で勝手についた名前」


「勝手じゃない名前ってあるの?」


高校生は由佳を見る。


由佳は《みどりの本》の紙片を指した。


「これも、誰かが最初に言ったんでしょ」


「たぶん」


「じゃあ名前だよ」


高校生は正式名を消さなかった。


《団地呼称:銀脚》も、《みどりの本》も消さなかった。


◇


夕方、女の子が借りていったサバイバルブックの欄には、まだ別名がない。


高校生は空欄のまま貸出表を閉じた。


店の棚には《植物図鑑》。


団地では《みどりの本》。


店の備品表には《折り畳み椅子》。


トランシーバーの向こうでは《銀脚》。


どれも書き直さなかった。

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