第139話 誰が直した
八十六日目、午前九時二十二分。
団地からトランシーバーが入った。
『椅子、一回見てもらえる?』
高校生が取る。
「壊れました?」
『いや』
「じゃあ何です?」
『直ってる』
高校生は直人を見る。
「何が?」
『椅子』
◇
団地の入口で、昨日の折り畳み椅子が開いていた。
高校生はしゃがみ込む。
右前脚の付け根に銀色の針金が二重に巻かれ、その上から細い金属板が添えてある。
「昨日、こんなのありました?」
森田が指で触った。
「ない」
高校生は椅子を畳む。開く。もう一度畳む。
ぐらつかない。
「誰が直したんです?」
団地の男が首を振った。
「知らない。夜の見張り二人も違うって」
「朝には?」
「もうこうなってた」
昨日座っていた老人にも聞く。
「わしじゃないよ」
本を読んでいた女の子も知らない。母親も触っていない。
高校生は紙へ名前を書いていった。
三人。四人。五人。
全部に線が引かれる。
「これ、何の板だろ」
森田が金属板の端をなぞった。
「缶じゃないか」
端は手を切らないよう折り返されている。針金にも、一度何かを束ねていた癖が残っていた。
団地にあった物だけで直したらしい。
「別に誰でもいいんじゃない?」
団地の男が言う。
高校生は顔を上げた。
「でも備品なんで」
「壊したなら分かるけど、直したんだろ」
「勝手に触ったことにはなる」
「じゃあ戻す?」
高校生は右前脚を見る。
針金と板を外せば、元には戻る。
緩んだ脚も戻ってくる。
「……戻さないです」
持ってきた備品表を開く。
《店四・団地一》
《使用中》
その下へ、
《右前脚補修》
《修理者 不明》
と書いた。
森田が覗く。
「そこまで書く?」
「誰がやったか分かんないから」
「分かんないなら、書かなくても同じじゃないか」
高校生は鉛筆を止めなかった。
「分かんないって分かってるのは違います」
◇
PANDEMONIUMへ戻ると、高校生は倉庫の椅子を一脚開いた。
右前脚には何も巻かれていない。
形は同じだ。
団地の一脚だけに、店の知らない手が入っている。
直人が備品表を見た。
「修理者、不明」
「はい」
「探すの?」
高校生は少し考えた。
「最初は探そうと思いました」
「今は?」
「もういいかなって」
「なんで」
「ちゃんと直ってるから」
直人は頷いた。
昼すぎ、また団地から連絡が来た。
『椅子、今日も外出してる』
「外出?」
『入口じゃなくて裏。洗濯干す人が座るって』
高校生は昨日言いかけた「持っていく」を思い出した。
「……団地の中ですよね」
『団地の中』
「じゃあ、いいです」
由佳が備品表を覗いた。
「誰が直したか分からないの?」
「分からない」
「ありがとう言えないね」
高校生の手が止まる。
「そうですね」
「でも直ってる」
「うん」
由佳はそれで終わった。
高校生は紙の端へ、
《修理してくれた人へ ありがとう》
と書いた。
しばらく見て、消す。
備品表の《右前脚補修》の横へ、代わりに二文字だけ足した。
《使用可》
◇
夕方、田辺が倉庫の壁を見た。
「椅子、直ったんだって?」
「はい」
「誰が?」
「分かんないです」
「じゃあ団地の誰かだろ」
「たぶん」
田辺はそれ以上聞かなかった。
高校生も、もう名簿を開かなかった。
壁の一脚分は空いたまま。
備品表には、
《修理者 不明》
《使用可》
だけが残った。




