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第138話 帰ってこない椅子


八十五日目、午前九時十四分。


高校生が倉庫の壁を見た。


折り畳み椅子。


一、二、三、四。


「一個足りない」


直人が振り返る。


「何が?」


「椅子。五脚あったでしょ」


昨日の記録を開く。


団地へ持っていったのは、貯水容器、工具、予備のパッキン、それから折り畳み椅子三脚。


帰りは二脚。


「置いてきてる」


森田が聞く。


「取りに行く?」


高校生は今日の配送表を見た。午前中に学校へ充電池を届ける。


「帰りに寄ります」


◇


学校からの帰路、団地の入口の日陰に昨日の椅子があった。


座っていたのは老人だった。膝に毛布を掛けている。


高校生が近づくと、老人が顔を上げた。


「これ、あんたらの?」


「そうです」


老人は立とうとした。


「いいです、座ってて」


「持って帰るんじゃないの」


高校生も止まった。


「……そのつもりでした」


「じゃあ立つよ」


「いや、でも」


森田が横から聞く。


「今日いるの?」


「昼くらいまで。中よりここが楽でね」


高校生は椅子を見る。


PANDEMONIUMの倉庫から持ってきたもの。昨日は田辺がここで昼飯を食べながら座っていた。


今日は老人が座っている。


壊れていない。なくなってもいない。


団地の男が出てきた。


「その椅子、昨日から助かってる」


「昨日から?」


「夕方は見張りのやつも使ってた。入口に一人いる時あるから」


自分たちが帰ったあとにも使われていたらしい。


高校生は言った。


「借りるなら言ってくださいよ」


「悪い。今日返そうと思ってた」


「いや、そうじゃなくて……」


森田が聞く。


「店で今日使う?」


「四脚あります」


「じゃあ困らないな」


「そうですけど」


老人がやがて立ち上がった。


高校生は椅子を畳もうとする。


「あ、それ昼に子どもが使っていい?」


団地の女だった。


「何するんです?」


「外で本読むって」


昨日、勉強に来ていた女の子が建物の中からこちらを見ている。


高校生は畳みかけた椅子を、もう一度開いた。


「どうぞ」


「ありがとう」


「でも壊れたら教えてください」


「分かった」


「持っていく時も……」


言いかけて止まる。


団地の中で誰かが使うなら、どこまでを「持っていく」と呼ぶのか、自分でも分からなかった。


◇


PANDEMONIUMへ戻ると、高校生は備品表を開いた。


《折り畳み椅子 五》


その横へ書く。


《店四・団地一》


直人が覗いた。


「貸出?」


「たぶん」


「期限は?」


高校生は返却日の欄を見る。


「ないです」


「じゃあ貸出なのかな」


「分かんないです」


店には四脚ある。由佳が一脚、森田が一脚を使っても、まだ二脚残った。


壁には一脚分の空きがある。


高校生はそこを埋めなかった。


しばらくして、団地からトランシーバーが入る。


『椅子、夜も借りていい?』


「見張りですか」


『うん。立ちっぱなしきついって』


高校生は直人を見る。


直人は答えを渡さなかった。


高校生は備品表を見てから言う。


「……いいですよ」


『助かる』


「壊れたら言ってください」


『分かった』


通信が切れる。


高校生は《団地一》を丸で囲んだ。


返却日の欄には何も書かない。


代わりに、その下へ小さく書いた。


《使用中》


◇


夕方、田辺が倉庫の壁を見た。


「椅子一個どうした」


「団地」


「置いてきたのか」


「はい」


「昨日の?」


「昨日の」


田辺は空いた場所と、残った四脚を見た。


「まあ、四つあれば足りるか」


それだけ言って厨房へ戻った。


高校生は備品表を閉じる。


壁の空きは、そのままだった。

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