第136話 もう一回
八十三日目、午前九時四十一分。
田辺が玉ねぎを一個、まな板に置いた。
高校生が気づく。
「またやるんですか」
「悪いか」
「昨日まずかったのに」
田辺は包丁を取った。
「だからだよ」
昨日の紙を開く。
《厚め》
《水五分》
《油っぽい》
《辛い》
《まずい》
最後の一行を指で叩いた。
「今日はこれにしない」
「何にするんです?」
「知らん。作ってみる」
玉ねぎを昨日より薄く切る。一枚を高校生へ見せた。
「これくらい」
「俺に見せても」
「覚えとけ」
「紙に書けばいいじゃないですか」
田辺は少し考え、《薄め》と書いた。
水へ入れる。三分で一枚食べて「辛い」。戻す。四分でもう一枚。五分で、田辺はようやく首を傾げた。
「ここ」
高校生が《水五分》と書く。
「昨日と同じじゃない」
「五分は五分ですよ」
「厚さが違う」
高校生は《薄め》と《水五分》を線でつないだ。
油は昨日の半分。酢と塩は同じ。
混ぜて、田辺が食べる。
「まずい?」
「昨日よりまし」
「うまい?」
「そこまでは言ってない」
由佳がやってきた。
「今日の?」
「今日の」
小皿に少し載せる。由佳は食べてから言った。
「昨日よりいい。油っぽくない」
「辛い?」
「ちょっと」
田辺も食べる。
「俺はこれくらいでいい」
「じゃあ完成?」
高校生が言うと、田辺は眉を寄せた。
「なんで」
「これくらいでいいって」
「俺が食いたいの、もうちょい酸っぱい」
◇
田辺はボウル全部には酢を足さなかった。
一口分だけ小皿へ取り、一滴落とす。
食べる。
「違う」
「減らせないですね」
「だから一口でやった」
次はもっと少なくする。
田辺の手が止まった。
「これ」
高校生が身を乗り出す。
「近い?」
「昨日の近いより近い」
「分かりにくいな」
「俺には分かる」
昼の仕込みが始まり、田辺はボウルを端へ寄せた。紙には《酢 小匙一より少し多い》と残す。
「全然正確じゃない」
「次量る」
昼飯で森田が横から覗いた。
「今日はまずい?」
「昨日よりまし」
「一個くれ」
「だめ」
「なんで」
「まだ俺の」
森田が笑った。
「いつまで俺のなんだよ」
田辺は答えず、自分で食べた。
◇
午後、田辺は計量匙より小さい蓋へ水を入れていた。
「何してるんです?」
「小匙一より少し多いを測る」
「そんな単位ないですよ」
「だから作る」
何度か移し替え、紙へ書く。
《酢 小匙一+蓋半分》
由佳が覗き込んだ。
「蓋なくしたら作れないね」
田辺の手が止まる。
高校生が吹き出した。
「確かに」
「笑うな」
田辺は蓋の半分を小匙へ戻し、液面の位置を睨んだ。
「次、ちゃんと量れるやつ探す」
高校生は、昨日の紙と今日の紙を見比べた。
「なんでそこまでやるんです?」
田辺は顔を上げない。
「食いたいから」
「誰かに出すためじゃなく?」
「まだ違う」
「店のメニューにも?」
「しない」
「由佳さんは食べてますけど」
「食いたいって言うから一口やっただけ」
田辺は昨日の《まずい》に丸をつけた。
その紙を捨てず、今日の紙と重ねる。
◇
夕方、田辺は残った玉ねぎを冷蔵庫へ戻した。
「明日も?」
「分からん」
「でも紙、持って帰るんですね」
田辺は二枚の記録を折ってポケットへ入れた。
「忘れたら、またまずくなるだろ」
冷蔵庫の扉が閉まった。




