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第135話 まずい


八十二日目、午前九時五十八分。


田辺は昨日の紙をまな板の横へ置いた。


《酢 小匙一》

《油 小匙一》

《塩 ひとつまみ》


その下へ書き足す。


《玉ねぎ 水五分》


高校生が覗いた。


「レシピできたんですか」


「違う。昨日のをもう一回やる」


「近かったやつ?」


「近かったやつ」


昨日より少し厚く切った玉ねぎを水へ入れる。五分待ち、水を切る。酢、油、塩。昨日の紙を見ながら混ぜた。


田辺が一口食べる。


眉が寄った。


「どうです?」


「まずい」


「同じにしたのに?」


「したつもりだ」


もう一口。


「やっぱまずい」


由佳が来た。昨日の小皿を覚えていたらしい。


「今日もある?」


田辺は一瞬迷い、少しだけ分けた。


由佳が噛む。止まる。


「まずい」


「どこが」


「油っぽい。あと辛い」


田辺は自分の分をもう一度噛んだ。


「俺もそう思う」


高校生が昨日の紙を引き寄せる。


「違うところ、探しましょうよ」


「厚さ」


「昨日より厚い?」


「たぶん」


「水は?」


「今日は五分」


「昨日は?」


「最初三分。辛かったから戻した」


「何分戻したんです?」


田辺の手が止まった。


「見てない」


高校生が紙へ書く。


《厚め》

《水五分》

《油っぽい》

《辛い》


「同じ材料でも同じにならないんですね」


「同じにしてないんだろ」


森田も寄ってきて、一切れつまんだ。


「まず」


「もういい」


「昨日はうまかったんだろ?」


由佳が首を振る。


「私は食べたいって言っただけ」


「じゃあ昨日もまずかった?」


「昨日は近かった」


田辺が答える。


「何に?」


森田に聞かれて、田辺は黙った。自分が食べたい味に、と説明するのも面倒になったらしい。


昼の仕込みが始まると、田辺はボウルを端へ寄せた。


「捨てます?」


高校生が聞く。


「食えるから食う」


「まずいのに」


「毒じゃない」


「店に出すとか」


「出さない」


返事だけは早かった。


昼の注文が落ち着いてから、田辺は自分の飯の横へ失敗した玉ねぎを置いた。一口食べ、米を食べる。また一口。


高校生が向かいに座る。


「修行みたいですね」


「自分で作ったから食ってるだけだ」


「もう作らない?」


田辺は答えなかった。


ボウルが空になると洗い、紙をもう一度開く。


高校生が記録の一番下へ勝手に書いた。


《まずい》


「それはいらん」


「一番分かりやすいですよ」


田辺は鉛筆を取ったが、消さなかった。


学校の子どもが充電に来て、その文字を見つける。


「まずいって何?」


「田辺さんの料理」


高校生が答えた。


「食べたい」


「だめ」


田辺が即答する。


「なんで?」


「まずいから」


「どれくらい?」


「もうない」


子どもは残念そうに離れた。


田辺は《まずい》の文字を見る。


昨日は三回作って、三回目で「近い」と思った。今日はそれを再現しようとして、外した。


高校生が昨日の紙と今日の紙を並べる。


「一回できても、同じの作れるとは限らないんですね」


「そうみたいだな」


「才能なかった?」


田辺が顔を上げる。


「お前、言い方あるだろ」


「でも、一発で完成する人じゃなかった」


「最初からそんなつもりねえよ」


由佳が横から聞いた。


「明日も作る?」


田辺は紙を二枚重ねた。


「分からん」


「まずい方も取っとくの?」


高校生が聞く。


「次、同じの作らないためにいるだろ」


二枚を折ってポケットへ入れる。


厨房にはまだ玉ねぎがあった。


田辺は今日はもう切らなかった。


ポケットの中には、昨日の《近い》と今日の《まずい》が、同じ厚さで重なっていた。

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