第134話 田辺の味
八十一日目、午前十時十四分。
田辺が厨房の隅で玉ねぎを切っていた。
高校生がカウンター越しに気づく。
「今日、仕込み多いんですか」
「いや」
「じゃあそれ何です?」
田辺は包丁を止めた。
「俺の」
小さなボウルへ刻んだ玉ねぎを落とす。棚から酢と塩と油を出すと、高校生がますます首を伸ばした。
「新メニュー?」
「違う」
「試作?」
「違うって」
「じゃあ何ですか」
田辺は面倒そうに玉ねぎを指した。
「俺が食いたいだけ」
直人も厨房を覗いた。
「材料、使っていいやつ?」
田辺は交換で個人に回った玉ねぎの袋を見せる。調味料だけは店の共有分だった。
《酢 少し》
《塩 少し》
《油 少し》
高校生が紙を見た。
「少しって在庫管理としてどうなんです?」
「あとで量る」
「先に量ってくださいよ」
田辺は黙って計量匙を取った。
玉ねぎを水にさらす。三分で一切れつまみ、噛んで顔をしかめ、また水へ戻す。
「何作ってるの?」
由佳が厨房を覗いた。
「まだ決めてない」
「決めてないのに作ってるの?」
「食べたい味は決まってる」
「何味?」
田辺の手が止まった。
「……酸っぱくて、しょっぱくて」
「それだけ?」
「あと、玉ねぎが辛すぎないやつ」
高校生が笑う。
「料理名ないんですか」
「ない」
「昔食べたやつ?」
「いや。こういうの食いたいと思っただけ」
水を切った玉ねぎへ酢、塩、油を入れる。混ぜて一口。首を傾げ、塩を足す。もう一口。今度は酢を足した。
「適当ですね」
「味見してる」
「レシピは?」
「ない」
「サバイバルブックに料理とか載ってないんですか」
「載ってても、俺が食いたい味は載ってないだろ」
厨房の入口から、ぱむちゃんが覗いていた。
「ぱむ」
「これは店のじゃないぞ」
「ぱむ」
「メニューにも入れない」
高校生が吹き出した。
「ぱむちゃんに説明してるんですか」
「お前らが新メニューとか言うからだろ」
◇
昼の注文が入ると、田辺はボウルに皿をかぶせて端へ寄せた。
厨房ではクルーがバンズを焼き、パティを載せ、注文票を一枚ずつ消していく。
田辺は邪魔にならないよう一度外へ出た。さっきまで弄っていた玉ねぎは、客にも出さない。
昼の波が引いてから戻り、田辺は皿を外した。一切れ噛む。
「さっきより酸っぱい」
「漬かったんじゃないですか」
「たぶん」
「狙い通り?」
「違う」
「失敗?」
「まだ分からん」
森田がやってきて、ボウルを覗いた。
「何それ」
「田辺さんの料理」
高校生が答える。
「料理ってほどじゃない」
「食っていい?」
「だめ」
森田の手が止まった。
「なんで」
「まだ俺が食ってる」
「減るから?」
「違う」
田辺は少し考えた。
「まだ、人に食わせるものじゃない」
◇
午後二時すぎ、高校生が在庫表の横へ別の紙を置いた。
《田辺 玉ねぎ》
「何これ」
「記録」
「いらない」
「材料使ったじゃないですか」
「使った量だけ書けばいいだろ」
高校生は紙と田辺を見比べ、《田辺 玉ねぎ》を線で消した。
残ったのは、共有分から使った酢と塩と油の量だけだった。
田辺は新しい玉ねぎを切った。今度は最初から量る。
酢、小匙一。油、小匙一。塩、ひとつまみ。
混ぜる。一口。
「どうです?」
「違う」
「さっきより?」
「分からん」
「何が正解なんですか」
田辺はボウルを見た。
「それを探してる」
由佳が横を通り過ぎ、二歩戻った。
「まだやってる」
「悪いか」
「別に。できたら食べたい」
田辺は返事をしなかった。由佳も待たずに行った。
◇
午後三時五十二分。
三度目は、切るところから高校生も黙って見ていた。
材料は同じだった。水へ置く時間と、調味料の量だけが少し違う。
田辺は混ぜ、一切れを口に入れた。
噛む。
もう一度噛む。
ボウルへ視線を落としたまま、次を取らない。
「それですか」
高校生が聞いた。
田辺はすぐには答えなかった。
「近い」
それだけ言って、もう一切れ食べた。
しばらくして、小皿を二枚出す。
「二枚?」
「一人で食ってても分からなくなった」
「誰に?」
田辺は店内を見た。
森田は奥で何か書いている。直人は注文票を整理している。由佳は窓際のテーブルにいた。
「由佳」
呼ばれて、由佳が顔を上げる。
「さっき食いたいって言ったよな」
「うん」
田辺は小皿へ玉ねぎを載せた。
「これ、PANDEMONIUMの料理じゃないからな」
由佳は皿を受け取り、少し笑った。
「田辺の?」
田辺は一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「……まあ、今は」
由佳はフォークを取った。




