第119話 二つの寝床
六十四日目、午前八時四十三分。
森田は帰ってきた。
手には、アルミホイルに包まれたおにぎりが二つあった。
「土産」
高校生が一つ受け取る。
「朝飯じゃなかったんですか」
「朝飯は食った。これは余ったやつ」
直人は時計を見る。
「問題なかった?」
「何も。よく寝た」
それから森田は、自分の席へ戻った。
昨日までと同じように。
◇
午前九時十二分。
森田の荷物は、まだ店にある。
毛布。
着替え。
小さな鞄。
だが、昨日の夜に必要だったものは旧スーパーにもあった。
寝る場所。
水。
食事。
連絡手段。
高校生が聞く。
「もう向こうでも暮らせるんじゃないですか」
森田はおにぎりを食べながら答える。
「暮らすってほどじゃないだろ。一晩寝ただけだ」
「でも、また泊まれますよね」
「まあな」
◇
午前十時三分。
旧スーパーから連絡が来る。
『森田さん、今日も来ます?』
直人が森田を見る。
森田は少し考えた。
「今日は店にいる」
『分かりました』
通信が切れる。
高校生が言う。
「行かないんですか」
「昨日行ったからって、今日も行く必要ないだろ」
直人は昨日の《外泊》記録を見る。
そこには《本人確認》とある。
泊まる自由ができたなら、泊まらない自由も同じだった。
◇
午前十時四十六分。
由佳が森田の席の横を通る。
「向こう、どうだった?」
「床は硬い」
「こことどっちが寝やすい?」
森田は店内の席を見る。
「こっちは明るい。夜中も人来る。向こうは暗い」
「じゃあ向こう?」
「でも向こう、トイレ遠い」
「じゃあこっち?」
「飯は向こうの方が変わる」
「決まんないね」
「決める必要ある?」
由佳は少し考えて、笑った。
「ないか」
◇
午前十一時二十五分。
高校生は地図の《カレー》の文字を見ていた。
その横に、小さく書き足す。
《泊まれる》
直人が気づく。
「また書いたのか」
「事実なんで」
「誰でも?」
高校生の手が止まる。
「……分かんないです」
「じゃあ森田だけにしとけ」
高校生は書き直した。
《森田・泊まれる》
場所があることと、誰にでも使う権利があることは同じではなかった。
◇
午後零時十三分。
昼の注文が増える。
森田はPANDEMONIUMでバーガーを食べた。
昨日は旧スーパーでカレーと魚の缶詰。
今朝はおにぎり。
昼はバーガー。
食べる場所も、食べるものも、一つではなくなった。
「明日は?」
高校生が聞く。
「何が」
「どっちで食べるんです」
「明日になってから決める」
◇
午後一時二分。
トランシーバーが鳴る。
旧スーパーからだった。
『今夜、雨になるかもって団地から聞いた』
直人が外を見る。
雲が厚くなっている。
『森田さん、もし来るなら早めがいい』
森田が受話器を受け取る。
「今日は行かない」
『了解。じゃあまた』
「また」
それだけで終わる。
誰も理由を求めなかった。
◇
午後二時二十一分。
雨が降り始めた。
森田は店の窓際で外を見る。
「昨日じゃなくてよかったな」
直人が言う。
「昨日なら向こうにいただろ」
「ああ。帰らなきゃいい」
その答えが自然に出た。
道が悪ければ、店へ戻らない。
店にいれば、外へ出ない。
どちらも同じように選べる。
◇
午後三時十四分。
高校生が《外泊》の紙を整理する。
昨日の一件だけ。
「これ、毎回書きます?」
直人は考える。
「連絡先と、本人が決めたことだけ」
「帰還予定は?」
「決まってるなら」
「決まってなかったら?」
「空欄」
高校生が顔を上げる。
「いいんですか」
「帰る日を決めないで泊まることもあるだろ」
言ってから、直人自身がその言葉を見るように黙った。
◇
午後四時三十七分。
雨は強くなった。
旧スーパーから定時連絡。
『こっちは問題なし』
「店も問題なし」
『森田さんいる?』
森田が横から答える。
「いる」
『今日はそっちなんだ』
「ああ」
『じゃあ、おやすみ』
「まだ早いだろ」
笑い声がして通信が切れた。
◇
午後六時五十二分。
森田は昨日と同じ上着を丸めて、今日はPANDEMONIUMの席に置いた。
毛布を引き寄せる。
「今日はこっちですか」
高校生が聞く。
「今日はな」
「明日は?」
「だから、明日決める」
高校生はもう聞かなかった。
◇
午後八時十三分。
雨音が店の外を埋めている。
PANDEMONIUMではWi-Fiがつながり、端末が充電され、夜の客へバーガーが出ている。
旧スーパーでは、段ボールで塞いだ窓の内側に人がいる。
二つの場所で、別々に夜を越す準備が進んでいた。
どちらかが仮で、どちらかが本物というわけではない。
◇
午後九時二十六分。
森田は店内の席に横になった。
昨日は旧スーパーの床。
今日はPANDEMONIUMの席。
明日の寝床は、まだ決まっていない。
直人は《外泊》の紙をファイルへ戻す。
空欄の《帰還予定》を、そのままにした。




