第117話 外の食事
六十二日目、午前八時十一分。
トランシーバーから、旧スーパーの女の声がした。
『昨日の水、使えました』
直人が受話器を持ち直す。
「飲んだ?」
『煮沸して。今朝まで問題なし』
「窓は?」
『風、ほとんど入らない。毛布二枚で足りた』
高校生が配送一覧の《目的》へ丸をつける。
水二十リットルも、毛布八枚も運ばなかった。
それでも目的は届いていた。
◇
午前八時十七分。
『それで、今日なんですけど』
女の声が少し変わった。
『こっちで昼、作ります』
「何を?」
『カレー』
高校生が顔を上げた。
『倉庫に米とレトルトじゃないルーがあった。野菜も少し。水も使えるようになったから』
直人は昨日の一覧を見る。
食事だけは、現地で代えられない。
そう書いた。
少なくとも今日は、と。
その「今日」が終わっていた。
◇
午前八時二十一分。
『食べに来ませんか』
直人は返事をしなかった。
森田が横から聞く。
「何人?」
『来られる人だけでいいです』
高校生が言う。
「行きたいです」
即答だった。
直人が見る。
「配送じゃないぞ」
「分かってます」
「食べに行くだけだぞ」
「だから行きたいです」
◇
午前八時三十五分。
地図を確認する。
橋。
迂回路。
帰還可能時間。
昨日までと同じ確認をする。
ただし、配送一覧は使わない。
高校生が聞く。
「何か持っていかなくていいんですか」
「向こうから頼まれてない」
「手土産とか」
直人は少し考える。
「食べに来いって言われて、勝手に代金みたいなもの持っていくのも違うだろ」
森田が笑う。
「普通にごちそうになればいいんじゃないか」
その普通が、ずいぶん遠くなっていた。
◇
午前十時二十六分。
行くのは高校生と森田の二人になった。
直人は店に残る。
「帰りは迂回路」
「はい」
「橋の水位上がってたら渡らない」
「はい」
高校生が入口で振り返る。
「直人さん、ほんとに行かないんですか」
「店番」
「カレーですよ」
「店番」
森田が高校生の肩を押した。
「置いてけ」
◇
午前十一時四十八分。
旧スーパー二階。
割れた窓は段ボールで塞がれていた。
布テープが銀色の線を作っている。
昨日渡した毛布は、壁際に畳まれていた。
鍋から湯気が上がる。
カレーの匂いがした。
PANDEMONIUMの厨房ではない。
赤いトレーもない。
番号札もない。
それでも、腹が鳴った。
◇
午前十一時五十四分。
「具、少ないけど」
女が皿を渡す。
米。
薄いカレー。
小さく切ったじゃがいも。
人参が少し。
肉はない。
高校生は受け取る。
「いただきます」
一口食べる。
熱い。
辛い。
少し水っぽい。
それから、うまかった。
「どう?」
「うまいです」
女が笑った。
「店のより?」
高校生は困った。
森田が先に言う。
「比べなくていいだろ」
◇
午後零時三分。
六人で鍋を囲む。
旧スーパー側の四人。
店から来た二人。
食べながら、誰も配送の話をしなかった。
昨日の水の話もしない。
乾電池の話もしない。
橋の話もしない。
「じゃがいも、芽が出る前に使えてよかった」
「次は米だけになるかも」
「それでもカレーって言い張る?」
「ルーがあればカレー」
笑い声が出た。
◇
午後零時二十七分。
食べ終わる。
高校生が皿を洗おうとすると、女が言った。
「置いといていいよ」
「でも」
「じゃあ拭いて」
布巾を渡される。
高校生は皿を拭いた。
客でも配送員でもない仕事だった。
◇
午後一時十二分。
帰る前、女が小さな容器を出した。
「直人さんに」
カレーが一人分入っている。
高校生が受け取ろうとして、止まる。
「頼まれてないですけど」
女が笑った。
「これは私が持ってってって頼んでる」
森田も笑う。
「条件成立だな」
高校生は容器を受け取った。
◇
午後二時三十八分。
二人が店へ戻る。
直人はカウンターにいた。
高校生が容器を置く。
「旧スーパーから配送です」
「注文してない」
「向こうからの依頼です」
直人は容器を見る。
蓋の内側に湯気が残っている。
「カレー?」
「カレー」
◇
午後二時四十六分。
直人は休憩席で食べた。
高校生が向かいから見る。
「どうです?」
「薄い」
「そこじゃなくて」
もう一口。
「うまい」
高校生が笑う。
直人は皿ではなく、持ち帰り容器の底まで食べた。
◇
午後三時十二分。
配送一覧には、今日のカレーを書かなかった。
旧スーパーから店へ一人分運ばれたが、物流の記録にはしない。
代わりに高校生が地図の余白へ小さく書いた。
《カレー》
直人が見つける。
「何だそれ」
「今日食べた場所」
「必要?」
「俺には」
直人は消さなかった。
◇
午後三時四十一分。
PANDEMONIUMでは、いつも通りバーガーが出ていた。
今日も食べれば腹は満たせる。
明日も店は開くだろう。
それでも二人は、店を出て昼を食べた。
誰かが別の場所で水を沸かし、米を炊き、鍋をかき混ぜた食事を。
PANDEMONIUMがなくても作れる一皿を。
六十二日目。
食べる場所は、初めて店の外にもできた。




