第108話 薬は運べません
五十三日目、午前七時五十八分。
直人は昨日の一覧を書き直していた。
《受取可能時間》
《移動予定》
《呼び出し方法》
《本人以外の受取可否》
その下に、もう一つ空欄を作る。
《運ぶもの》
高校生が覗く。
「そこ、今までなかったんですか」
「食べ物しか運んでなかったからな」
直人はペンを置いた。
その直後だった。
「薬もお願いできますか」
◇
午前八時一分。
声をかけてきたのは、昨日の南の団地の女だった。
小さなビニール袋を持っている。
中には錠剤のシートと、白い容器。
「昨日、熱があった人です。家にある薬を届けたいって家族が」
直人は手を伸ばしかけて、止めた。
「何の薬?」
「分からないです。名前はここに」
紙が一枚添えられている。
直人は読んだ。
読める。
でも、それだけだった。
◇
午前八時五分。
「これ、誰が飲むかは決まってる?」
「昨日の人です」
「量は?」
「書いてあると思います」
「保存は?」
女が黙った。
直人も黙る。
バーガーなら、本人に渡せなければ持ち帰る。
冷める。
食べられなくなる。
それで済むとは言えないが、少なくとも直人は何を運んでいるか分かっていた。
薬は違った。
◇
午前八時九分。
由佳が会話を聞いて近づいた。
袋を見る。
「これ、本人の処方薬?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目じゃない?」
女が困った顔をする。
「でも、必要なんです」
由佳はすぐには答えなかった。
「必要なのは分かる」
直人が言う。
「でも、俺がこれを正しく運べるかは別だ」
◇
午前八時十三分。
高校生が聞く。
「運ぶだけならいいんじゃないですか」
直人は袋を見る。
「途中で何かあって遅れたら?」
「戻る?」
「戻していい薬か分からない」
「じゃあ急いで届ける」
「急げない状況になったら?」
高校生は黙った。
直人は続ける。
「受け取った時点で、俺が『届けられる』って判断したことになる」
◇
午前八時十八分。
直人は秩序へ聞いた。
「薬って、店で預かれます?」
「お客様のお薬や医療品について、当店では保管・管理・配送を承っておりません」
「だよな」
「必要に応じ、適切な医療機関または薬剤師等へご相談ください」
直人は苦笑する。
今、その『適切な場所』へ行けるかどうかが問題だった。
それでも、店が境界を越えてくれるわけではない。
◇
午前八時二十四分。
女が袋を持ち直した。
「じゃあ、無理ですか」
直人は頷いた。
「薬は運べません」
言ってから、胸の奥が少し重くなった。
昨日は八人に届けた。
今日は目の前に必要なものがある。
道も分かる。
場所も分かる。
それでも、持たない。
できることが増えたからといって、何でも引き受けていいわけではなかった。
◇
午前八時二十八分。
「でも、何もしないって意味じゃない」
直人は地図を広げた。
「家族はどこにいる?」
女が場所を示す。
団地から二本向こうの住宅街。
「本人の薬なら、家族が本人まで持っていく方法を考える。俺たちは道の情報なら渡せる」
黒瀬が横から言う。
「昨日通れた南側の路地、朝ならまだ使えると思う」
「それを伝える」
「一人で無理なら?」
由佳が聞く。
直人は考える。
「一緒に歩くのはできる。薬を預かって俺だけで運ぶのはしない」
◇
午前九時二分。
薬の持ち主の家族が店へ来た。
五十代の男だった。
事情を説明する。
男は最初、納得しなかった。
「食べ物は運んだんでしょう」
「運びました」
「じゃあ同じじゃないですか」
「同じじゃない」
直人は袋を指さない。
まだ男が持っている。
「俺は薬の扱いを判断できない。途中で何時間か止まった時、それでも渡していいかも分からない」
「でも必要なんです」
「だから、あなたが持つなら道は案内する」
◇
午前九時十一分。
男はしばらく黙っていた。
「一緒に来てもらえるんですか」
「途中まででもいいなら」
「途中まで?」
「危なかったら戻る。そこは変えない」
男は袋を見る。
それから頷いた。
「分かりました」
直人も頷く。
引き受けないことと、見捨てることは同じではなかった。
◇
午前九時三十四分。
出発前、直人は一覧へ書き足した。
《運ぶもの》
その下に小さく書く。
《扱いを判断できないものは預からない》
高校生が読む。
「ルール増えましたね」
「増やさないと、できることだけ増えてくから」
「それ、悪いことですか」
直人は少し考えた。
「悪くない。でも、止まる場所がなくなる」
◇
午前十時四十七分。
住宅街から団地へ向かう。
薬は家族の男が持っている。
直人と黒瀬は前を歩く。
交差点を確認する。
路地を選ぶ。
危険があれば戻る。
昨日と似た道だった。
だが、直人の手は空いていた。
それでよかった。
◇
午後零時三分。
団地の入口が見えた。
家族の男が言う。
「ここから分かります」
直人は頷く。
「じゃあ、ここまで」
男が一度、手の袋を見る。
「ありがとうございました」
「俺、何も運んでないですよ」
「ここまで来られたので」
男は団地へ向かった。
直人は追わなかった。
◇
午後一時二十六分。
店へ戻る。
地図には、新しい線を引かなかった。
代わりに、昨日の線の途中へ小さな丸をつけた。
高校生が聞く。
「何ですか、それ」
「ここまでなら一緒に行けた場所」
「配送じゃない?」
「配送じゃない」
直人はペンを置く。
運べないものがある。
だから線が途切れるわけではない。
物を持たなくても、人を途中までつなぐことはできる。
次に必要なのは、全部を戸口まで運ぶ方法ではないのかもしれなかった。




