第105話 三十五日目
五十日目、午前六時五十三分。
高校生がノートをめくっていた。
途中で指が止まる。
「今日で三十五日です」
直人がコーヒーから顔を上げた。
「何が?」
「ここで寝るようになってから」
最初の十五日は、来て、食べて、外へ戻っていた。
十六日目から、店の中に毛布が増えた。
荷物が増えた。
充電器が差しっぱなしになった。
それから三十五日。
直人は店内を見回した。
「そんなになるか」
◇
午前七時二十分。
美咲の子どもがラッキーセットの図鑑を開いている。
由佳は母の薬を確認する。
森田は入口脇で靴底を拭いてから外へ出た。
高校生のスマートフォンはコンセントにつながっている。
画面には、ぱんでむWi-Fiの表示。
カウンターではバーガーが渡されている。
昨日と同じ朝だった。
直人は、その「同じ」を一つずつ数えてみた。
食事。
水。
電気。
通信。
雨風を避ける場所。
眠る場所。
人の気配。
数えるほど、妙な感じがした。
◇
午前八時十四分。
若い女が来た。
高校生が手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
今日は名前を呼んだ。
直人は聞こえないふりをした。
その横で、黒瀬が地図を広げる。
「西側、昨日より通れる」
「どこまで?」
「川の手前」
森田がいないので、直人が地図を見る。
店から伸びる道は、何本も描かれている。
だが、人間の生活はほとんど店の中に集まっていた。
◇
午前九時三十六分。
「これ、まずくない?」
由佳が言った。
直人が振り向く。
由佳は薬の袋を持っていた。
「残り?」
「母のはまだある。でも、そうじゃなくて」
店内を指す。
「ここに何かあったら、私たち何もできないよね」
高校生が会話を聞いて顔を上げる。
「何かって?」
「分からない。火事でも、壊れるでも、入れなくなるでも」
直人はカウンターを見る。
PANDEMONIUMは今日も営業している。
故障していない。
困ってもいない。
だからこそ、考えたことがなかった。
◇
午前九時四十二分。
「でも、ここなくなるんですか?」
高校生が聞く。
由佳は首を振る。
「知らない」
「ずっと開いてそうですけど」
「そう見えるだけでしょ」
直人は何も言えなかった。
ぱんでむWi-Fiはつながる。
電気も来る。
食べ物も出る。
四十九日間、それが途切れなかった。
途切れなかったことを、途切れない証明にしていた。
◇
午前十時十一分。
黒瀬が言った。
「別の場所も見つけとく?」
由佳が頷く。
「住む場所を変えるってことじゃなくて」
「分かってる。水取れる場所とか、休める場所とか」
「連絡できる場所も」
高校生が言う。
直人が見る。
「Wi-Fiないぞ、たぶん」
「トランシーバーあるじゃないですか」
ラッキーセットでもらったものだった。
黒瀬が笑う。
「届く範囲、まだちゃんと測ってないな」
◇
午前十一時二十八分。
森田が戻った。
話を聞く。
「じゃあ避難先探すの?」
「避難先って決めると大げさじゃない?」
由佳が言う。
「店を捨てる話でもないし」
直人が続ける。
「ここ以外でも一日くらい動けるようにしとく、くらい」
森田は少し考えた。
「なら、東の倉庫跡は?」
「中見た?」
「外からだけ」
「じゃあ候補」
初めて、店の外の場所が「行って戻る先」ではなく、「使えるかもしれない場所」として話題になった。
◇
午後零時四十分。
昼食を取りながら、紙に書いた。
《水》
《休める場所》
《連絡》
《夜まで戻れない場合》
高校生が書き足す。
《充電》
由佳が言う。
「それ、店に頼りすぎてる証拠みたい」
「実際そうじゃないですか」
高校生が返す。
誰も否定しなかった。
◇
午後二時十七分。
秩序に直人が聞いた。
「この店って、ずっと営業するんですか」
「営業時間中は営業しております」
「いや、ずっと先も」
「現在、営業を終了する予定はございません」
「絶対に?」
「将来のすべての状況について保証することはできません」
直人は少し笑った。
「そりゃそうか」
欲しかった答えではなかった。
でも、十分だった。
◇
午後三時五十二分。
地図に小さな丸が三つ増えた。
東の倉庫跡。
川手前の高架下。
南の古い集会所。
まだ使えるか分からない。
安全かも分からない。
明日から順番に見ることになった。
PANDEMONIUMから離れる計画ではない。
PANDEMONIUMへ戻れないときにも、人間側の生活が全部止まらないための計画だった。
◇
午後五時六分。
高校生がノートの朝の行を見る。
《三十五日》
その下へ書いた。
《店で寝るのをやめる予定はない》
少し考えて、もう一行。
《店だけで生きるのはやめる》
直人が横から読む。
「まだ何も始まってないけどな」
「だから書いとくんです」
「何で」
「明日、忘れないように」
カウンターから声がした。
「お次のお客様どうぞー」




