第101話 店内の恋
四十七日目。
朝、直人が目を覚ましたとき、高校生はもう起きていた。
窓際でスマートフォンの黒い画面を覗き込み、前髪を押さえている。離して、角度を変えて、また押さえる。寝床の脇には昨日までクルーの勤務時刻を書いていたノートが開いていたが、そちらには目も向けない。
直人は毛布を畳みながら言った。
「寝癖?」
「違います」
「じゃあ何」
「別に」
入口のベルが鳴った。
高校生の顔が上がる。
入ってきたのは黒瀬だった。
「あ」
すぐ画面へ視線を戻す。
直人はコーヒーを買いに立った。
「誰待ってるの」
「待ってないです」
「聞いただけ」
「その聞き方がもう分かってる人のやつでしょ」
カウンターから戻っても、高校生はまだ髪を触っていた。
八時を少し回ったころ、ベルがもう一度鳴った。
今度は高校生の手が止まった。
ここ数日、朝になると来る若い女だった。二十歳くらい。肩に小さな鞄を掛け、入口で一度だけ外を振り返ってから扉を閉める。
高校生の背中が伸びた。
女はカウンターでコーヒーを買った。空席を見回す。
高校生の隣は空いていた。向かいも空いている。
女は二つ離れた席に座った。
高校生の背中が元に戻った。
直人はカップへ口をつけたまま笑う。
「残念だったな」
「何がですか」
耳だけ赤い。
女は鞄から充電ケーブルを出した。壁のコンセントへ伸ばすが、あと少し届かない。椅子を引こうとして、隣のテーブルに当たりそうになった。
高校生が立つ。
「延長、ありますよ」
女が振り向いた。
「え?」
高校生は壁際に置かれた延長コードを持っていった。
「これ。みんな使ってるやつだから」
「ありがとう」
女が笑う。
高校生は「いえ」とだけ答えて席へ戻った。
そして、何も記録することがないのにノートを開いた。
直人が覗く。
「何書くの」
「書かないです」
「今、開いたけど」
高校生は無言で閉じた。
昼前、美咲が子どもとラッキーセットの図鑑を見ていた。高校生が水を取りに横を通ると、美咲が顔を上げる。
「今日、なんか違うね」
高校生が止まった。
「何がですか」
「髪。ちゃんとしてる」
「変じゃないですか」
「変じゃないよ」
高校生の肩がわずかに下がった。
直人は見ていたが、今度は何も言わなかった。
午後、女がポテトを買った。席へ戻る途中で紙ナプキンを落とす。
高校生の腰が椅子から浮いた。
女は自分で気づいて拾った。
高校生はそのまま座り直す。
向かいで直人が口元を押さえた。
「何ですか」
「何も」
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「顔が笑ってます」
しばらくして、女が空になったカップを持って高校生のテーブルの横で止まった。
「昨日もいたよね」
高校生が顔を上げる。
「いました」
「ずっとここにいるの?」
「まあ、最近は」
女は少し迷ってから聞いた。
「学校は?」
高校生の指が、閉じたノートの角に触れた。
「今、行けないんで」
女の視線が入口へ動く。ガラスの向こうには、以前と同じ町はない。
「そっか。ごめん」
「いや。いいです」
女は一歩戻りかけた。
高校生が口を開く。
「あの」
女が振り返る。
そこで続きが出なかった。
「……延長、まだ使ってて大丈夫です」
女はコードを見る。
「うん。ありがとう」
自分の席へ戻っていった。
高校生はしばらく黙っていた。
「何話せばいいんですかね」
「俺に聞く?」
「やっぱいいです」
直人は笑ってから、少しだけ考えた。
「普通でいいんじゃない」
「普通って何ですか」
その問いには答えられなかった。
水や食料なら、必要な量を聞ける。外へ出るなら、道と帰る時間を決められる。熱が出れば測る。危険なら離れる。
けれど、名前も知らない相手に明日も会いたいとき、何を確認すればいいのか。直人にも分からなかった。
夕方、女が充電ケーブルを抜いた。
鞄へしまい、椅子を戻す。
高校生は朝から何度も見た入口ではなく、今は女の手元を見ていた。
「また明日来るかな」
「聞けば?」
高校生は立たない。
「無理です」
「明日来る? だけだろ」
「その一言が変なんですよ」
女が入口へ歩く。
高校生の指がノートの表紙を叩いた。
ベルが鳴る。
「じゃあ、また」
女が振り返って言った。
高校生は一拍遅れた。
「また」
扉が閉まった。
ガラスの向こうへ姿が消えてから、高校生は大きく息を吐いた。
「明日、聞く」
「延長?」
高校生が直人を睨む。
「昨日の話と一緒にしないでください」
「ごめん」
直人は笑った。
高校生はノートを開いた。
クルーを見た時刻。制服。恐怖についての返答。外へ出た記録。これまで、分からないものを分かる形にするためにページを使ってきた。
ペンを持つ。
何も書かない。
女の名前を知らない。どこから来るのかも、明日本当に来るのかも知らない。
高校生は空白のページを一枚めくり、ノートを閉じた。
「明日、寝癖ついてたら起こしてください」
「自分で起きろ」
「起きられなかったら困るんで」
昨日までなら、困る理由には水や食料や外出の予定があった。
今日は高校生がスマートフォンを枕元へ置き、アラームを一つ早い時刻に変えた。
カウンターから、いつもの声がした。
「お次のお客様どうぞー」




