三月うさぎ√第1話「階段、第一歩」
何故、自分たちは死んでしまったのか。
『彼』のことを知らないといけない。
人に踏み込むことは危険なことでもある。だけれど、進むためには危険を冒しても探さないといけないことがある。
だから、君のことをもっと知ろうと思った。
………………………………………………………………
天を向き、喉を伸ばして、ガラガラと口から溢しながら錠剤を真っ逆様に飲む少年がいた。
三月うさぎだ。
のどかな花畑で相変わらず彼はそんなことをしているものだから、アリスはパシリと薬箱を奪い取った。
夢中で気が付かなかった三月うさぎは呆気に取られ、耳をピンと立たせている。
「アリス?それ返して!」
「ダメだ。飲み過ぎはよくないぞ」
「ええ?ダメなの?」
あからさまに落ち込む彼の姿を見ると少し可哀想にもなるが、アリスは中身を確かめるように薬箱を振る。中から固いものがぶつかり合う音が聞こえる。いくら飲んでも無限に湧いてくるのか、まだ沢山入っているようだった。
「三月はなんでそんなに薬が好きなんだ?薬は正しく飲んで効果が出るものだろう」
アリスは三月うさぎの詳しい病状を知らない。だが、このような過剰摂取がイコールで治療へつながることはないはずだ。
彼は唇をふにふにと指で潰しながら答える。
「飲むと、フワフワするんだよ!考えなくていいこと考えずに済んで、全身が楽しくなっちゃう」
「サーカスの客席がメリーゴーランドだったらどうなると思う?きっとすごく楽しいよね。それと同じなんだ!」
「……よくわからないが、それが嬉しいんだな」
現実では薬をヤって死んだ。
彼が己のことをそう言っていたことがあった。
おそらく薬の多量摂取のことだろう。
そこまでに至るほどとあれば、きっと依存症状も出ているだろう。生憎アリスは薬の扱いに詳しくはないし、医学的な知識も無いがそれでもそう推測できる。
「……ちなみにどういう薬なんだ?」
「えーと、げんきになる薬!」
「抗不安薬か……?」
医学的な知識はない、と言ったが。
精神病のことなら少しわかる。所謂パニック症状に効くような薬を飲んでいるのかと、これまでの行動を見て考え込む。
考えるアリスの頬を三月うさぎは指で押し込み、口角を上げさせる。
「顔が暗いよ!元気じゃないね、大丈夫?」
「無理に笑わせるな」
そのまま手のひらでぐりぐりと回し、アリスのほっぺたは揉みくちゃにされる。
アリスの声も歪んで何を言ってるかわからなくなった。
「あはは!やっぱり、笑ってる方がいいよ!アリスはかわいいんだから!心配!」
「あのなあ」
心配されるようなことはお前よりしていないと思うが、そんなことは黙った。口にするには少し、頬がぐちゃぐちゃすぎる。
ふと思い出す。
「アリス。警告してあげるけど、この世界の住民はだいたいどこかおかしいよ。自分が大変な目に遭うだけだし、あまり深入りしない方がいいと思うんだ」
「……僕たち兄弟のことは放っておいてほしいってこと」
そんな白うさぎの言葉。
今の自分はきっと白うさぎの意図とは反するものになる。
彼に踏み込むのは止めておいた方がいいのだろうか。だけれど、心体共に異常を抱えている彼を放っておく気にもアリスはなれなかった。
しかし、三月うさぎに声をかけられハッとする。
「ていうかさ!アリスはどうして死んじゃったの?」
軽々と彼はこちらへ踏み込んできた。
こちらがどんなに躊躇おうと、言葉を選ぼうと彼から矢印が飛んできた場合そんなこと気にしていないようだ。
「私……?私は、飛び降り自殺だな。理由こそ覚えていないが……」
「飛び降り」
彼は再びポケットの中から取り出した薬をごくりと飲み込んでこちらの話を聞いた。
「飛び降りた記憶だけがあるんだ……もしかしたら自殺じゃないのかもしれないけど……」
「へえ」
返ってきたやけに静かな返答は、三月うさぎなりに何か考えて喋ろうとしているようだった。
「飛び降り。飛び降り。オレ、あんまりそれ……よくない気がするな。うん、可哀想なんだ。嫌。そんな気がする」
「曖昧だな……」
「よくわからないけど、そんな気がするんだ。飛び降りって死に方の中でも特別な気がする」
「特別?それはどうしてだ」
「わかんない!わかんないってば!」
混乱する姿に悪かったとアリスは宥めつつ、彼からこちらへの微かな同情をはじめて感じていた。
「うん、だから、それはアリスも特別なのかも?オレにとって、そう!アリスは大事な友達だと思う!」
「そうか、ありがとう」
正しい対応がわからない。眉間に皺が寄る。
「アリス、じゃあアリスさ!オレともっと遊ぼうよ、明日またここでピクニックしよう!」
思ってもない誘いに少し驚くが、それも良いだろう。互いのことをよく知れるかもしれない。
「わかった、いいよ。食べるもの持ってくる」
「あ!!食べるもの……弁当がいい。オレあれ好きだから!アリスは?好き?違う?」
「弁当……別に嫌いじゃないな……じゃあ持ってくるよ」
やった、と飛び跳ねる姿は兎そのものだ。心の底から嬉しそうな彼はそのまま手を振るとどこかへ向かおうとした。
「じゃあ!じゃあ!またね!明日来るからね!」
「待っ……どこに行くんだ?」
「嬉しいから走ってくるんだ!!国じゅうを!!」
そう言うと、本当に走り去ってしまった。
速すぎる背中を見つめポツンと取り残されたアリスは小さくため息をついた。
城へ戻ろうと噴水のある広場を通ると、白うさぎが立っていた。
「白うさぎ」
声をかけられた彼は静かにこちらを見る。白い睫毛が相変わらずミステリアスな雰囲気を醸し出していて、何をしていたのかもわからない。
「ああ、アリス。こんにちは。どうしたの」
「お前の弟と色々話してきたんだが……」
アリスは正直に伝えることにした。
「あいつ、どう接するのが正しい?」
そう聞かれれば斜め上を見た白うさぎが黙ってしまった。静寂がしばらく流れる。
「可愛がるといいよ。可愛がられるの好きだから」
「そうなのか」
「むしろ甘やかさないと激しくなる」
「そうなのか」
「あんまり話が通じないと思うけど、薬を飲ませても治るものじゃないよ」
「そうなのか……」
兄から見た意見の数々にアリスは若干圧倒されたが、おそらく的を得ているのだろう。
「あの子がパニックに陥ったらとにかく薬を飲ませる。僕はそうしてるかな」
「わかった。私もそうする」
アリスは、続けて正直に話すこととした。
「三月うさぎについてもう少し知ろうと思うんだが……」
そう言うと彼は首を傾げ少し訝しげな顔をした。
「なんで???」
「なんでと言われても、知りたいと思ったからだな」
「よりによってあの子?君の死んだ理由や過去に繋がることかなソレ。止めはしないけど」
あんまり関わらない方がいいんじゃないの、と言いたげな雰囲気が隠せていない。
「直接繋がらなくてもいい。とにかく少し弟のことを調べさせてもらう。それだけ伝えておく」
「キミが後悔しないならいいけど」
多少の躊躇いはありつつ、彼は話を続けた。
「夢矢 佳斗。それが彼の本名。で、卒業した中学校の話をしてあげる」
白うさぎは中学校の名前を告げる。アリスは咄嗟にメモを取り頷いた。
「調べたかったらあの女の子。栄さん?あの子にでも調べさせたらいいんじゃないかな」
「白うさぎ……ありがとう」
「……あと、今は高校生だけど調べるのは中学がいいよ。高校入ってからあの子不登校だから」
「わかった」
「それがわかったら引き下がるなりなんなりしてね」
そう告げて白うさぎはその場を去った。
アリスも大人しく城へ戻ることとした。
そうすれば大広間で栄が座っている。
まるでアリスを待っているようだった彼女はアリスを見つけ顔を明るくする。
「アリスちゃん!」
「栄。ちょうどよかった」
日は傾き、そろそろ栄は元の世界に戻る頃だった。会えたのは幸運だろう。栄はやる気に満ちた顔で言う。
「わたし、次何を調べればいい?何を伝えにこの世界に来たらいい!?」
「それが……私のことに直接繋がるかはわからないが、この世界の住人について少し知ろうと思って。三月うさぎについて調査してくれないか?」
「三月うさぎさん?」
「ああ。調べて欲しい中学校がある。そこで三月うさぎのこと……例えば家庭環境や死因についてとか、わかったことを教えて欲しい」
「うん……わかった!」
学校名を書いたメモを栄に渡しつつ手を握る。
「私は引き続きここで自分のことを思い出せるように努力する」
「うん、うん!」
そう会話を交わしていれば、時間が来たのか栄がその場に倒れる。アリスは身体を支え、彼女に痣でもつくってしまわないようにした。
アリスはいつも通り彼女を小さくして部屋へ運ぶ。
そうして夜。
明日になれば三月うさぎとまた話せると思いながら、アリスも眠りについた。
朝の陽の光を受けながらアリスは城のキッチンを借りていた。
「本当に大丈夫?あの……怪我とか……」
ハートの女王が心配そうにこちらを覗いているが、大丈夫だと何度言ってもウロウロすることをやめなかった。
アリスはウインナーをフライパンの上で転がし、卵を焼き、弁当箱に詰めながらピックを指していく。
本来、料理上手なハートの女王にでも頼めば簡単にいく話だろう。だけれど三月うさぎへできる範囲では自分の力で向き合うためにも、ピクニックに必要なそれらを自分で作ろうとしてみていた。
……だが、結果は散々なものだった。
表面は黒く焦げ、卵は何故か濁っている。ミニトマトは工夫の施しようもないため綺麗に色鮮やかなままそこに鎮座しているが、そのほかが壊滅的だった。
ハートの女王に中身を見られる前に箱に蓋をする。屈辱だし、確実に彼が作り直すからだ。
「これは私が食べるしかないな……」
三月うさぎが自分で食べるものを持ってきてくれていることを祈りつつ、アリスは花畑へ足を進めた。
花畑はまた景色を変えていた。
毎日、来るたびに咲かす花や色を変える花畑。
赤、白、黄色と色とりどりのチューリップ畑。そよ風に揺られるその中に、三月うさぎはいた。
寝転がりスヤスヤと眠っている。
「三月。起きろ」
声をかければハッと彼は目を覚まし急いで身体を起こした。
「寝てた!今日の天気めちゃくちゃ気持ち良くない!?」
「いつもだろ」
アリスは弁当箱を置き、自身も座る。蓋を開けたくない気持ちでいっぱいになるが、目の前の楽しげなオーラにそんな気持ちも掻き消されそうだった。
「あ!弁当!!」
「悪い。持ってきたが、悲惨だ」
「悲惨!?」
蓋を開ければ中身を見た三月うさぎがその場で爆笑しはじめた。声をあげて笑っているが少しアリスはムッとしてしまう。
「アリスがんばったんだね!」
「悪いな。チューリップに似つかわしくなくて」
「あのさ、実はね!!」
三月は指を鳴らす。そうするとその場から二段の弁当箱が現れた。
「コレ、オレも作ったんだ!朝早起きして頑張った!!見て!!」
じゃーんと大きな声を出しながら開けられた蓋の下には、アリスのものより黒く無惨な姿になった食材だった何かが詰め込まれていた。
「オレもこんなになっちゃった!!」
「お前もか」
更に二段構え。下の段は錠剤で埋め尽くされておりアリスは苦い声を出してしまった。
「よし!食べよう!覚悟するしかないさ!!」
「食材は無駄にできない」
「アリス!一個あげる!」
「では私のもあげよう」
「不毛!!」
黒焦げのものをトレードし、どっちがマシなどという天秤も狂ってしまった。
口に含めば苦く微妙な味がする。こんなに素敵な空間なのに何故口の中だけがこんな目に遭っているのか。
そんなことにも三月うさぎは笑い声を上げた。笑いすぎて目には涙が浮かんでいる。
あまりにその顔が楽しそうで、もしも、この人が死んでいたらと思うと少し胸が苦しくなった。
「なあ、三月は現実に戻れるって言われても絶対に戻らないのか?」
「え」
彼は目を見開き、兎耳を傾けながら唇を舐め困ったようにする。
「戻らない!帰りたくない!絶対この世界の方が楽しい!オレはそう!絶対戻らない!」
「そう。私は戻りたいが」
「え!?アリスも残ろうよ!?なんで!?自分で死んだのに!?」
わざわざ自殺を選ぶ世界に何故戻るのか、と本気で疑問を浮かべながら三月うさぎは必死で止めてくる。他殺の可能性は殆ど考えていないのだろうか。
「戻る術もわからない今にどうとなるわけじゃない。焦るな」
「でもアリスとお別れしたくない!アリスも残ろう!この世界は楽しい!」
必死なアプローチに答えまいと雑に巻かれた卵焼きを口にして咀嚼の時間を作る。その間にもずっとオロオロとしている三月うさぎは少し面白くもある。
「オレは絶対戻らないし、アリスにもここにいてほしいよ!その気持ちは変わんないから」
「どうかな。私の説得で変わったりして」
「そんなのグラスを天から落としたのに割れないってくらい不思議なことでありえない!」
不服そうに全てを食べ尽くした三月うさぎは下の段の薬に手を伸ばす。その手を止め、アリスは瞳を見つめた。
「ダメだ。健康に悪いことはするな」
「ダメ?」
「薬なんか飲まなくても今は充分楽しいだろ。まだ足りないか?」
そう言われれば少し動揺したように声をあげながら耳をパタパタと揺らし三月うさぎは目を見開いていた。
「確かに!?楽しいけど!薬を飲みたいのはずっと……気分は観覧車で、絶対下に来るから!その前に飲むんだ」
「そうしたら下に来る時に飲めばいい」
「……じゃあ、1錠だけ!!」
仕方ない、とアリスは手を離す。
言われた通り1錠の薬を飲んだ三月うさぎはまた笑った。
「おやつみたい!」
「おやつも食べすぎたらダメだからそうかもな」
全てを食べ終わって、三月うさぎはアリスの手を取る。
「ねえアリス、もしもさ?アリスが元の世界に戻れるってなったらさ、アリスはオレを置いて戻るの?」
「お前が残りたいって言うなら尊重して、私は戻るな」
「ひ、ひどい……」
ショックを受けたように耳を下げる。
正直なところ、嫌がる彼を連れて現実へ戻れたとして、その責任を負うことができるかと言われれば難しい話だった。
確かに三月うさぎはこの世界にいる方が幸せなのかもしれないと、薄らと思わせるものが彼にはあった。だが、現実で正しい治療を受けてほしいという気持ちがアリスにあるのも本当だ。
「オレが残ってって言っても帰るの?」
「離れるのが嫌ならついてくるんだな。方法なら私も一緒に探してやる」
「え、やだよ!そうなる前に絶対オレがアリスのこと考え直させる」
「私は意志が強いぞ?」
「むずかしそ〜っ」
案外、互いに頑固なのかもしれない。この話はどちらが先に折れるか、なんてところだ。
元の世界に戻る方法が実在するという希望的な願望によって成り立っている会話だが、もし叶うならどちらの意思が勝つのだろうか。
「あ、でも、思った。オレ!アリスとならゆっくりしても暇じゃないかも!」
なにが"でも"なのかはわからないままアリスは真剣に向き合った。
「つまり、どういうことだ?」
「オレ、暇なのキライなんだ。だから本とか読んでられないし、何もしないでぼーっとするみたいなのがすごくつらい!」
「へえ」
「でもアリスと一緒だったら、ぼんやりするのもいいかも」
意外とこれも三月うさぎの精神性に関わる話なのではないか。
確かにこの世界に来てからというもの、アリスが見かける彼は常にドタバタと走り回っていたり叫んでいたら何かしら遊んでいる。落ち着き、なんて言葉と程遠い対極的な人物だった。
「……ちなみに、元の世界ではスマホとかよく触っていたか?」
「どういう質問??」
「いいから」
「えー、結構使ってたよ。ずっと!寝る前とかさ、スマホ触って寝落ちないとこう……暇でしょ、それも」
「ああ……」
「ネットとか使うのかなり好きだし!特に動画見るのとか楽しいよね!あ、でも記憶喪失ならそれもよくわからない!?難しいな……」
アリスの中でひとつ、ドーパミン依存という単語がよぎっている。彼の答えでまたそれに近づいてしまったが、本人の中で結びついているのかは怪しかった。
「じゃあ今から城でぐうたらとするのはどうだ?無駄なことは考えずにぼーっとするんだ」
「えー、楽しいかな?それ。でもアリスと一緒なら……まだ遊びたいし、うーん」
「ダメか?」
「ダメじゃない……!」
三月うさぎがアリスの手を握り、立ち上がった。
今からでもすぐに、城へ行こうと言いたげな表情につられてアリスも歩き出す。
淡い青色をまとった雲は時の流れに沿ってゆっくりと流れていく。通りがかった噴水の水音が心を癒す。こんな音でも流しながら話せば、三月うさぎも少しは落ち着くのではないだろうか。
「その噴水ほんとに不思議だよね!だって、水なのにラメが入っててキラキラしてるんだよ?すごいよね」
「どこからどうやって湧いているんだ」
「初めて見たときさ、星が散って見えて綺麗だったけど水の正体が何かわからなくて」
「ああ」
「薬物かと思ってめちゃくちゃ飲んだことあるだよね」
「何やっているんだお前は」
三月うさぎが手のひらですくった水には確かに太陽の光を反射したラメが入っていた。
手のひらの隙間から水が垂れていくたびに、それがオーロラのように輝いていく。
得体の知れないこれを初めて見てやることがそれなのは、勇気を別の場所へ使ってほしいとアリスは心底思った。
そんな会話をしながら城へと戻っていく。
赤い蝶が羽ばたき、ざわざわと、虫の群れのように戯れている。蝶とはいえ、あのようにいられると少し気持ちが悪い。
城へ戻ろうとして城門に来て2人は気がついた。
門が閉まっている。
「あれ?閉じてるよ、アリス」
「知らん。なんでだ」
試しに開いている場所がないか確認する。だが、どこも開いていない。それどころか窓には全てカーテンがかかっている。
どうしてか嫌な予感を感じながら、どうしようかと考え込むと突然身体が浮く。
三月うさぎがアリスのことを抱えていた。
「うわあ!?」
「大丈夫大丈夫!オレが運ぶから大人しくしてて!」
「大丈夫って何がだ!?何をする気だ!?」
「オレ侵入の仕方知ってるんだ!探検したからね!二階のバルコニーから行ける!」
そう言うと踏ん張りをつけ、彼は助走した。
まさか、と思った時には遅く、三月うさぎはアリスを抱えて高く跳びあがった。
身体能力と兎であることの合わせ技か、本当に2階に辿り着いてしまった。だが着地の衝撃でビリッと身体が張り詰めた。
「こういうことをする時は先に言え」
「ゴメン!!」
バルコニーに行けば、確かに中に入るまでの扉は開いていた。
中へ足を踏み込んでみるが、トランプ兵も何もいない。
誰の気配もない。
「女王?」
声は返ってこない。
「どういうことだ、チェシャ猫」
声をかける。
だが、必ず返ってくるはずのその声は返ってこない。
チェシャ猫がいる証である、やけに甘ったるいベリーを煮詰めた香りもしない。
「……三月」
「……」
三月うさぎの顔にも動揺が現れ始めていた。ポケットを探る手はおそらく薬を指先で弄んでいるのだろう。
しばらく歩み続ける。
階段を上がる。
誰もいない。
2階より上は全て見て回り、やはり異変を感じざるを得なかった。全てのカーテンが閉じ切っているのも、やけに扉に鍵がかかっているのも。
「下を見るぞ」
「う、ん……」
少しずつ、一段一段、階段を下っていく。
そこで、人の影が見えた。
「!!誰かいた!あっち行こうアリス!!」
「お、おい!!」
大声を出し、緊張感から弾けたのか顔が一気に明るくなる。アリスの手を握り、走る。
辿り着いたのは大広間だった。
確かに人がいた。
この世界で人が浮くなんて当たり前のことで、チェシャ猫はいつだって空気のように現れて、宙から語りかけてきた。
だからこれも、きっとそのはずだった。
誰かが浮いていた。
足の下には影ができている。
ぶらり、ぶらり、揺れも収まったその身体は天井と太い紐で繋がれていた。
太い紐。否、紫のマフラーだった。
首が絞められ、静かに尻尾を垂れ下げてぶら下がっている。
その顔色は血色が失せ、フードで殆ど見えない顔の片鱗は苦しみに歪んでいる。
「チェシャ猫……?」
アリスと三月うさぎはそれを見上げる。
"それ"が何か、認識した。
叫び声を上げることもできず唾を飲んだ。
チェシャ猫が首を吊って死んでいる。
信じられなかった。だけどそうだとしか表現できなかった。
「ぁ、あ……?」
三月うさぎのかろうじて絞り出した、首を絞められるような声が静寂の中でやけに輪郭を保っていた。
そして、三月うさぎに踏み込むと決めたことが。
コレが、不幸のはじまりだった。
後に思えばそのせいで人生が狂ってしまったのだと思う。
理解の追いついた彼の叫びが、けたたましく鼓膜を揺らすのを、アリスは呆然と感じていた。




