第6話「真相解明」
意識が薄明かりを辿る。開けたまぶたから差した光はぼんやりと辺りを照らす巨大な花から発されたものだった。
アリスは気がつけば洞窟の中、無造作に置かれたソファに横たわっていた。頭にはクッションが敷かれ、身体には黄色の柔らかい毛布がかぶせられている。
起き上がってみて周囲を見渡すと、すぐそばで眠りネズミが横たわっているのに気がついた。アリスは驚いて身を引くが、彼がすやすやと寝息を立てているのを聞いて警戒を解いた。
宙を浮く蛍が幻想的な光景を作り出す洞窟内。もしかしたらそこにでも透明なチェシャ猫がいるのかもしれないが、見える限りは二人きりだ。
騒がしい兎も、不審者容疑の巨大愛情人間もいない。
それに気を緩めてしまう自分に嫌気がさし、気合を入れるため頬を軽く叩く。今日だって自分の正体を確かめる為動くべきだし、アリスにはひとつ気がかりなことが残っていた。
「女王……すまない……」
ハートの女王だ。昨日、チェシャ猫に引かれるがまま否定するようなことをしてしまった。話し合わなければ、自分のことを知っているのなら教えてもらわなければ。
──なにより、謝らなくては。
もし昨日から彼が思い詰めてしまっていたら、と思うとよくない気持ちになる。心配で心臓がばくばくとし、唾を飲み込む。
恋などアリスには理解できない。だが好きな相手に拒まれるというのはきっと悲しいことで、ハートの女王ならば自尊心が傷ついて今頃食事が喉を通らないだろう。
ハートの女王がいるお城へ向かうべくソファから立ち上がる。毛布を畳み隅へやるが、これは眠りネズミがかけてくれたのだろうか。
「そういえば昨日はどうして寝てしまったんだっけか……」
昨夜のことが思い出せない。眠りネズミのいるこの洞窟にいるのも、何故なのかわからない。
眠りネズミに一言でも言って行きたいと彼の肩を軽く叩く。
「眠りネズミ。おーい」
声をかけても反応はなく、心地良さそうに眠ったままだ。アリスはうーんと考えた後、手を叩く。手元にトランプが二枚ひらりと現れ、一枚が羽根ペンへと姿を変えた。
そうしてトランプの裏側に文字を書き込む。
「寝かせてくれて助かった……これでいいか」
眠りネズミに向けて感謝を書き残して、アリスはその場を去った。
ハートの女王のいるお城の門をくぐる。相変わらず低木に咲く薔薇は純白で、赤く塗り替えられる様子はない。
階段を上がり廊下を曲がって、途中にある応接間を覗き見る。ハートの女王の姿はなく、トランプ兵が掃除をしているだけだった。
「ハートの女王がどこにいるかわかるか?」
トランプ兵に話しかけると、その場で紙に城のマップを描き起こす。丸をつけた場所はハートの女王の自室だった。
「わかった、ありがとう助かった」
ここは用済みだ。振り返り廊下へと戻ろうとすると、目の前にはチェシャ猫がいた。アリスは声が出ないまま大きく身体を跳ねさせびっくりし後退りしてしまう。
「ななななんでいるんだ!」
「いつもいるよ?」
「そうじゃない!なんで現れているんだ!」
チェシャ猫は尻尾を揺らし、アリスの問いには答えないまま問いかける。
「女王サマのとこ行くの?」
「昨日散々だっただろ。謝らないと」
「え〜そうなんだ!」
アリスは確信めいた嫌な予感がした。
「お前、ついてくるなよ」
「え?なんで?いやだよ?」
「二人っきりで話したいんだ。女王だってそうだろうから尊重させてくれ頼む」
「そう言われても俺は行っちゃうけどね〜」
チェシャ猫に対しアリスは冷静さを失いかけ、怒りを口にしようとした時。チェシャ猫のマフラーが後ろから引かれる。
「ぐえ!」
そのままチェシャ猫の身体ごと後ろへ引かれる。マフラーの先端を握っているのは白うさぎだ。
「ふふ、賑やかだとおもったら君たちね。チェシャ猫はアリスの言うことくらいたまに聞いた方がいいよ?」
「白うさぎは関係ないじゃん……」
「でも一触即発な感じ、僕は見過ごせないな〜良い人だからさ〜」
白うさぎはマフラーを手離す気がなさそうだ。
「ということで、アリス。行ってきていいよ、見張っておくから」
「ありがとう白うさぎ!恩にきる!」
最後まで駄々をこねているチェシャ猫の声を後ろに、アリスはハートの女王の自室へと向かっていった。
女王の自室の前はとても静かだった。聞き耳を立てても誰もいないと疑うほど。
あの恐ろしく捲し立てる高身長の男性、そんな最後の記憶があるハートの女王に会うのはアリスにとっても勇気のいることだった。
少し呼吸を整えて、扉を軽く叩く。
「女王。アリスだ、話がしたい」
返事はない。
「昨日の続きがしたいんだ。チェシャ猫はいない」
返事がない。
「謝罪させてほしいんだ、頼む」
暫くの間を置いて、扉が微かに開く。
扉の隙間でハートの女王と視線が交わる。眠れなかったのか隈があり、表情がいつもと違って暗い。充血した目は腫れており、酷く泣いた後なのだとわからされた。
「……謝罪は違います。アリスが謝る必要なんてどこにもないじゃないですか」
「でも、昨日逃げ出してしまった……!」
「それは僕の自業自得です。アリスは正しいことをしました。あなたと僕がお話をするなんてとても烏滸がましいのて、これ以上話せることはありません」
「おこがましいだって?!私はそう思っていない!」
「本来ありえないことなんです、アリスが僕にそんな目を向けてくれるのも……僕は最低の人間なんですから、怒られて当然ですし、記憶を失ったアリスにとって僕は何者でもない他人なんです」
ハートの女王は焦点の合わない瞳のまま、沈んだ声で言い続ける。
「僕と話しても不快なだけです、アリスは優しいですけど僕のことは放っておいて大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう」
昨日のような怒涛の有り余る迫力は無く、今の彼から危害を加えられるなどといったことは想像がつかなかった。
「女王、昨日も言ったが私はお前と落ち着いて話がしたいんだ。今のお前は正気とは思えない」
「ふふ、正気ですか。僕は元からこういう人間ですよ、アリスと会えてちょっと気分が上を向いていただけなんです。見損なったならそれでいいじゃないですか」
ひどく自棄的なこんな人を放って置けるわけはない。それなのに、ハートの女王はこれ以上話すことはないとでもいうように扉を閉めようとした。
「ちょっと待て!」
「えっ?」
アリスは咄嗟に閉じようとした扉に足を挟み、ハートの女王が動揺した隙に無理矢理こじ開ける。じんわりと痛みを感じるが、そんなことどうでもいい。
「アリス!?足!ごごごごめんなさい!怪我……!」
「怪我してない!そんなことより勝手に閉めるんじゃない!」
アリスは手を伸ばし、ハートの女王の腕を掴む。じっと目を見れば自然と視線が交わらされた。
「女王。協力してくれ」
「きょ、うりょく……?」
「お前は私のこと知ってるんだろう!私の知らない私のこと。それは今私が一番探してるものだ」
相手はストーカーだというのに、昨日とは違って自然と口から言葉がスラスラと出てきた。恐怖心はなく、ただ彼と向き合いたい気持ちだけでここに立っていた。
「お前が自分を卑下しようと、女王にしかできないことがここにあるんだ。私が私を取り戻すことを手伝ってくれ」
ハートの女王はマゼンタ色の目を丸くして口をぱくぱくとさせる。自分なりにネガティヴな言葉でアリスの意思を遮断しないように言い方を選んで、視線を泳がせた。少し俯きながらやっとのこと会話を紡ぐ。
「あの、僕が気持ち悪くないんですか?距離感まちがえてしまったのに、喋ることを許してくれるんですか?」
「喋っちゃダメなんてことないだろ。昨日は少し驚いたが気持ち悪いだとかは思ってないし……失敗しても今から学べばいいだろ」
「そ、うですか……」
口をもごもごとさせる。
「僕でもアリスの役に立てますか?」
「立たせる」
彼は俯かせていた視線を前へ向け、アリスの方を見た。が、いきなり目を合わせて話すなんて不可能なので、すぐに逸らしてしまう。
耳は赤く、ハートの女王は自分の鼻の骨あたりが熱くなるような感覚を覚えていた。
「わかりました、アリスがそう言うなら、僕なんでも手伝います……!」
アリスはホッとしたように腕を掴む力を緩め、手を離す。口角にかすかな綻びがでる。
「女王!ありがとう……お前が頼りにできてよかった」
「頼りにならないと思いますけど……?」
「なんでそんなに後ろ向きなんだ?」
今更だが、と付け加えながらもアリスにとっては純粋に疑問だった。それなりの実力や身長があるのにここまで自分に自信がなく、見るもの全てに怯えたような挙動をすることは、何か事情があるのだろう。
「……後ろ向きなんじゃなくて、事実なんです。事実を言ってるだけだと思います」
「そんなに自信を失うような理由があるのか……」
「……はい」
彼の人生はアリスの想像が及ばないような道を辿ってきたのかもしれない。心が可視化できたなら、傷だらけで見るに耐えないような状態なのかもしれない。
ハートの女王が兎野アリスを知っていたとしても、逆はない。
アリスは元のハートの女王の人生を知らない。
「……暗い部屋にこもってないで、一緒に外を歩こう。気分転換しないとだろ」
「そう、ですね……」
「それとも私と一緒は嫌か?」
「そんなわけないじゃないですか!いきますっ行きます!」
半ば強引にハートの女王を連れ出して歩く。途中応接間に顔を出すと白うさぎがチェシャ猫を見張っているままなのが確認できた。会話はなく、静かに思い思いに紅茶やら飲みながら座っている。
「白うさぎ。大丈夫か?少し外に出てくるが」
「あー話終わった?僕は今ね、チェシャ猫のこと三月うさぎに押し付けようかなって思ってるとこ。この時間になると走ってくるから。それはもう遊んでくれると思う」
チェシャ猫は不服そうにしている。
「そうか。しばらく預かっててくれてありがとう」
「気にしないでいいよ。さ、チェシャ猫はまだ座っててね」
アリスが応接間の扉を閉めて歩き始めれば、隠れていたハートの女王がついて歩く。
外に出れば爽やかな香りが風に乗って出迎える。蝶が周囲を飛び回っているなかで、ハートの女王は解放されたように外の空気を吸った。
「今日も変わらず天気がいいな。レモンみたいな匂いがするのは不思議だが」
「今日は柑橘系ですね。日によって風の匂いが違うのは現実とちがってちょっと面白いです」
ハートの女王は眉を下げたまま笑った。
「あのままお前が閉じこもって出てこなくなったらどうしようかと思ったが、外の方が息を吸うのも楽しいだろ」
「息を吸うのが楽しい……か。そうかもしれませんね。不思議の国は人も少ないですし」
「人が少ない……」
アリスが顔を見てみると、ハートの女王は複雑そうに空を見上げた。
「人が苦手なんです。人の視線は怖いですし、人の声と一緒に心もざわざわします。だから不思議の国は人混みもないですし、生きててあまり苦しくないんです」
だから一人一人の声や動きを感じるたびに怯えたような様子を見せるのかと、薄々わかってはいたことに改めて納得する。
「息を吸うのも苦手です。生きているって感じがして」
「人間であるかぎり呼吸せざるを得ないもんな」
「そうなんです。吸って吐くたびまた一秒と僕が世界に存在してしまうから。生きなくちゃいけないって身体に言われている感覚もして、いやだなって」
ぼんやりと空を見つめるその表情は見えないが、声からして本気でそう思っているのだろうと思わされた。
「でも、今はアリスがいて、外の空気はいい匂いがして、いつも晴れています。それがすごく楽なんです。だから息を吸うのも苦しくないんです……」
「それに並ぶくらい私の存在は大きいんだな……」
「大きいです!アリスには何が何だかわからないかもしれませんけど……」
「……本当にな」
アリスは何度も思い出そうとした。けれど今も心当たりなどないままハートの女王の隣に立っている。数々の薔薇を眺めながら彼に耳を傾け続けた。
「アリスは汚い僕と友達になってくれたんです。出会った日、僕の人生はいつも通り最悪でした。でもあなたはそんな僕の手を引いてくれたんです」
彼は顔をアリスへ向け、薄く微笑む。
「こうやって外に連れ出してくれたみたいでした。はじめては上手く喋れませんでしたけど」
「過去の私が女王のこと、少しでも明るくしてやれてたのか?」
「はい。友達になって、遊んでくれて、生きる意味がそこに生まれたんです。……そのあと死にかけちゃったみたいですけどね」
「死にかけて今に至るからな」
「ふふ、その先でアリスに会えるとは思ってませんでした」
この話をするハートの女王は、楽しい思い出話をするように心の底から笑っていそうだった。
「アリスがどうしてここにいるのかはわからないんです。だってアリスを最後に見た時は……」
彼は突然何かに気がついたように止まり、言い淀む。心配そうにアリスの顔を見て、一拍置いてから続きの言葉を喋る。
「ここにくる前飛び降りたって言ってましたよね」
「……?そう、言ったな。そうだが」
「僕、アリスといた時に誰かから突き落とされました。落ちて死ぬ人多いですね……」
二人の間に沈黙が流れる。瞬きを忘れて互いの顔を見合った。
アリスは人差し指を立てて声を上げた。
「それは関係あるんじゃないか!?」
「ありますかね!?」
「あるだろう!」
互いにやはりそうだ、となれば空気が一変した。
「最後に見たアリスはその時です!僕、アリスと一緒に出かけたんです。その先で、その……」
「何があった?」
「川、行った場所に川があって、誰だったかは詳しく覚えてないんですけど、突き落とされて。溺れて……そのまま……」
ハートの女王の顔色は先程と違い悪くなる一方で、アリスは彼から聞いたここに来るまでの経緯に内心驚愕していた。
「アリスもそのまま突き落とされたにしてはこの世界で目覚めるまで時差がありましたし、アリスはその場から逃げられたんでしょうか?そもそも誰だった……?一瞬のことで、アリスと僕以外がいたともわからなくて」
「私が覚えていればいいのにそれも無いからな……」
「……思ったんですけど」
ハートの女王は珍しく眉を下げずに真剣な表情をする。
「この世界に住む皆さん、どうしてここに来たのでしょう?」
「……どうしてとは」
「僕の場合は加害性をもった、殺人未遂です。それと同じように人の手で昏睡に陥らせられた人がいるのだとしたら、その人の記憶を辿れば手がかりが掴めるんじゃ無いですか?」
強く納得し、アリスは頷く。
「そうかもしれない!その手があるか女王!もしそれで犯人がわかれば、私の記憶を取り戻すキッカケにもなるかもしれない……」
「だよね?犯人がわかったところで何ができるかわかりませんけど、アリスが思い出すキッカケにさえなってくれるならいいと思うんです」
確かにチェシャ猫や眠りネズミ、白うさぎ達から何故ここにいるのかということは聞かされていないのだ。彼らなら心当たりがあるかもしれない。三月うさぎは薬だと言っていたが、本当かどうか怪しいところである。
「探しましょう。聞いてみましょう……!教えてくれるかわかりませんが、多少こっちから調べてもいいかもしれません!」
仮にハートの女王がストーカーだとして、その言葉には説得力がある。自主的に特定の人物を調べあげるのは得意な部類なのだろう。
「そうだな……。わかった、ありがとう女王。それは大事な手がかりだ!」
「いえ、少しでもお役に立てたなら……」
「大助かりだ!」
彼は照れ臭そうに俯いた。
「調査をするなら栄にもこのこと話しておいた方がいいだろ。今から向かうが、女王はどうする?」
「僕は……ええと……」
「……食事とった方がいいんじゃないか?さては何も食べてないだろう」
図星だったようで、少し気まずそうだ。アリスに言われたらあまり逆らえないのか、大人しく頷く。
「そうします……全然寝てもいないので、帰って眠ったほうが……」
「その方がいいと思う」
「はい……」
歩いていくアリスについていくのを止め、ハートの女王は立ち止まる。軽く距離が空いていったところでアリスは振り返った。
「またな」
「はい!また……ね!」
大きな身体と小さな背で互いに手を振る。分かりあうというには些か一方的に知られすぎている気がするが、アリスもハートの女王のことが少し分かったような。
そんな感覚と手がかりを掴んだことに満足した気持ちを抱いて、アリスは歩きはじめた。
栄はどこにいるのだろうか?
そう思って探してみても、見つかる気配がない。
聞いて回っても栄を見たという情報がまるで出てこなかった。今日はいないのだろうか?そもそも、いない日というものがあるのか。
時計の針が遅い時間を指して、夜がくれど栄は見つからなかった。
アリスは自室の布団に横たわりながら、明日なら会えるだろうと翌日どう説明するかを考えていた。
しかし、栄は1週間経てど現れなかった。
「なあ、栄はどこに行ったんだと思う」
アリスは隣を漂うチェシャ猫に話しかける。
「さあ……?俺知らないよ。気分が向かないんじゃない?」
困った、というのはそうなのだが、困ったというのは自分本位すぎる。栄にだって事情があるだろうし、仕方のないことだ。
「……とはいえ現実との接点を失うのは……」
「アリス困っちゃった?そりゃそうだよね」
チェシャ猫はニヤニヤと口角を上げながら、なんでもないことのようにアリスの心情を代弁する。
「みんなに死んじゃった理由きいても答えてくれなかったし、それじゃ手がかりがないよね!」
「……三月うさぎに関しては喋ってくれたが嘘八割だと思うな」
アリスは額を指で抑える。そうなのだ。
誰も何故ここに来たのか教えてはくれなかった。眠りネズミはそもそも起きてさえいない。白うさぎには言葉を濁され、チェシャ猫はこの様子だ。
「まあ諦めるなら今かもしれないし、今じゃないかもしれないね。諦めないならもう少し俺と頑張ろう」
「お前に私と一緒に頑張ってくれる気があるのか?素直に頑張れって応援してくれ」
「あははバレてる」
チョコレートでできた木の幹にチェシャ猫が隠れると、そのまま自然と姿を消す。アリスが溜息をついて歩いた先に花畑があり、ここで少し休もうかとしたところだ。
そこに栄が立っていた。
「……!?栄!」
アリスが驚いて向かって走り出せば、栄は大きく肩を揺らした。
その表情は青ざめており、視線が合わない。なにかにひどく恐怖しているように見え、アリスは周囲へ警戒を配るが辺りには誰もいないし何もない。
「栄?どうしたんだ?」
「……あ、の、あ……アリスちゃん……」
詰まる。
「ごめんねしばらく来れなくて……」
「いいんだ、それより何かあったのか?」
「あの、あの……」
栄は周りを見て、小さく震える声で言った。
「不審者、に襲われて。アリスちゃんに関わるなって言われて……怖くて来れなかったの……」
「私に、関わるな……?」
何故そんなことを?誰が?思考を回す。
「ごめんね、でもそれに従ってたらわたしの都合でしかないよ、自分可愛さにここに来なかったなんて……わたし……」
「いや……、いいだろ、そんなの。待て、なんで来たんだ!?」
「だってわたしがアリスちゃんたちと現実の橋渡しだから、わたしがいなくなったら大変でしょ……?」
「そうだけれど!でもそれはお前が危ないだろ!?」
彼女は今、話がわかった上で頷いているのか?
「平気だよ……!」
「私達のために栄まで死んだらどうするんだ」
「だから、そんなこと起きないよ。危険だったとしてもアリスちゃんたちを見殺しにできない」
栄の真っ直ぐな態度は、アリスにどうこうできるものではないらしくこちらの話が届いているのかも怪しかった。
「……そうは言っても私は心配だ。これからは自分の身に危険を感じたらすぐにでもここに来るのをやめてくれ」
「うん!わかった、危ないと思ったらやめるよ。それまではいいよね?」
胃がキリキリと音を立てそうだ。そんなことはないのだが。
「私達のために動いてくれるのをこれ以上怒るわけにもな……」
「わたしがいない間、わかったこととかあった……?」
「それが……今私はみんなが不思議の国にいる理由について探ろうと思っている。女王が言っていたんだ、私といる時に突き落とされて……って。他の奴にもここに来るまで何があったのか聞けば、私たちに関わる重要人物を特定できるかもしれない」
そう、栄が襲われたという不審者のことも。
「栄に仕掛けた人物は間違いなく私に関係があるんだろう。もしかしたら、ハートの女王を突き落とした人物とも同一犯かもしれない……」
「女王さま……」
「そもそも女王が不審者なんじゃないかと疑ったりもしたんだが、あいつにそんなことできないと思うんだよな……」
栄は考え込み、顔横の髪を指で触りながら答える。
「不審者なんだけど、顔は見えなくて……背が高い男の人だった」
「……背の高い男」
先程まで一緒にいた男のことをアリスは思い浮かべずにいられなかった。自分を見下ろす、三十センチ近くある身長差。けれどあの弱気な態度を見せる彼が不審者だとは到底思えない。
まさか彼が自分に執着心を持つストーカーである、とそれだけで疑うに充分な要素を持っているだなんて。栄に言ったならばどのような反応が返ってくるだろうか。彼のプライバシーと栄の身の危険を天秤にかけ、その場で悩み尽くしてしまった。
「栄、不審者にはくれぐれも気をつけてくれよ……」
「ごめんね心配かけさせちゃって、大丈夫だよ!それに、一つわかったんだけど……寝る時にわたしがこの世界に来たい!って願った時にだけ来れるみたいなの。だからこれから手がかりがない日とかは来ないこともあるかもって……」
「来ないで済むならその方が安全なんじゃないか?それなら必要なときだけでいい」
「うん。わたしも危なくないようにする。でもアリスちゃんたちのこと放っておくなんてわけないから!」
一体どのように育てばこの善性の人間になるのだろうか。
なあ、栄はどうしてそこまで私にしてくれるんだ。そうアリスは問いかけたかったが、栄に協力を頼んだのは自分だ。その善意の奥に何があるのかを聞いたところで、どうなるというのだろう。
「……久々にふたりでお茶会でもするか。どうだ」
「賛成!スコーンが食べたい!」
「私はチョコレートタルトが食べたいな」
それから二人でお茶会をして、情報交換などなくただただ友達らしく談笑した。声を上げて楽しそうに笑う素直な栄と、会話の合間にあらゆるお菓子を食べ尽くしていくアリス。
日が暮れて、栄はうとうととするようになった。現実での目覚めが近づいている合図だ。
あっという間に意識は朦朧とし、栄の瞼が閉じる。椅子から落ちそうになるのを勢いよく支えに行き、『drink me』と書かれた瓶をその場に現れさせる。栄に飲ませれば、身体が小さくなり運べるようになる。
アリスは栄を手のひらに抱え、仮の栄の部屋に行き布団へ寝かせた。
その寝顔を見ながらアリスは考えていた。
何故栄はここまで自分たちに身を尽くしてくれるのだろう。どうしてそういう人間性になったのだろう。
ハートの女王はどのような人生を送ってああなったのだろう。自己評価があまりに低すぎる。
白うさぎは何を隠しているのだろう。何故あのように心の距離を置くのだろう。
三月うさぎはどこで狂ってしまったのだろう。あのように振る舞う理由は何なのだろうか。
眠りネズミは一体何者なのか。何故いつも寝てばかりなのか。
チェシャ猫は何故自分に強く絡むのか。何を考えているのか。
知らないことばかりだ。
「ならば知るしかない」
不思議の国に来てから半月。アリスはもう慣れた布団で眠りについた。




