第4話「イカレ住人」
この国の住人はみんなどこかおかしい。
関わらない方がいい。
白うさぎの忠告。それが、頭の中にやけに残っていた。
「……そんなの関わってみないとわからないだろう」
それでもアリスは一人の意見で足を止めるような人物ではなかったため、次なる住人に会いに行くべく歩き進んでいた。
立て看板の示す先へ向かっていけば、巨大なキノコの群れが見えた。カサの下を通れば、暖かい太陽の日差しが遮断される。進んだ先には一面の湖が広がり、泳ぐ魚が虹色の泡を表面へあいも変わらず吐き出していた。
そして湖のふちに腰掛けて魚釣りをしている人物がいた。
「青虫」
アリスが声をかけると、男性は気だるげに振り向いてくれた。年中無休の隈が日差しによって影と重なりより濃く見える。
「嬢ちゃんか。何しに来た」
彼はため息をつく。だがアリスが嫌いなのではなく、ただ単に話すのが面倒臭いのだろう。
「聞き込み調査中だ。情報収集」
「で、その番が俺に回ってきたわけだと。熱心だね嬢ちゃんは」
「理解が早くて助かる」
青虫は会うたび常に煙草をふかしていたが、アリスが来ると消してくれる人物だった。アリスのいる今、彼は手で煙草を吸うような動作だけをして架空の喫煙をした。
「この世界の話?それとも嬢ちゃん自身の話か?」
「私自身の話だ」
アリスは青虫へ歩いて近づく。隣に座ってもよさそうだとわかれば、横に腰掛ける。
「兎野アリス、という人物を知らないだろうか?現実での私の名前……らしいのだが」
「……ああ」
青虫はアリスではなく湖で跳ねる魚を、水浴びをする白鳥を見ながら答えた。
「知っているよ」
「知っているのか!?」
思わず驚いてしまった。平然と言われたものだから当然と言われればそうだ。
「どう知っているのか詳しく聞かせてほしい」
アリスは青虫をじっと見るが、青虫は目を合わせず四本目の腕で前髪を掻いた。
「ならまず確認だ。どこまで知ってんだ嬢ちゃん。あんたの学生生活のことは?」
「学生生活……私が不登校だった、ってことは栄から聞いた」
「ふん」
青虫は再び煙草をふかす仕草をして、眉間に皺を寄せる。
「そうだ。俺はそれを知っている」
「……何者なんだ?あんたは私と何の関係があるんだ……?」
「俺は、嬢ちゃんの元担任だよ」
アリスは驚きに少しだけ目を見開いた。まさか、そんな関係ある人物が近くにいると思わない。同時に大きな手がかりを掴めたのではないかと期待が高鳴った。
しかし、よく容姿を観察しても担任の存在と繋がることはなかった。何も思い出せない。
「驚いたか。まあ、言っていなかったからな」
「な、なんで今まで隠していたんだ……?」
「面倒臭いことに巻き込まれるのはごめんだったからだよ。それに想像してみな、何も知らないこの世界に来たばかりの子供にいきなり自分は元担任だとか言っても混乱させるだけだろ」
それはそうだ。アリスは少し納得した。
「じゃあ、慣れてきた今なら話してくれてもいいんじゃないか。知っていること」
「ああ」
青虫は胡座を組み直し、二本目の腕で釣竿を垂らしたまま話を始めた。
「あんたが不登校ってのはホントだ。俺が学校に勤めてた頃の話だ、三年になってからどうかは知らんがな。嬢ちゃんがここに来て驚いたものだよ、何があったのやら」
「あんたは一年生の時の担任なのか?」
「そう。入学当初のことも鮮明に覚えてるよ、やけにおとなしい子だったからな。何も喋らないから悪目立ちしていたよ」
「悪目立ち……」
アリスは、今の自分と現実の自分があまり結び付かなかった。大人しかったと言われても、今の自分はそうである気がしない。
「人を寄せ付けなくてな、俺も担任教師の責任程度には話しかけていたんだが……言葉を返してはくれなかった。何より……」
青虫は何かを言い淀んだ後、改めて口にした。
「家庭環境がよくわからなかったんだよ」
「家庭環境が……?」
それは初耳だった。そういえば、自分の家族はどのような人物で今どうしているのだろう。昏睡に陥っていることを心配されているのだろうか。
「俺もなんせ担任した生徒が多すぎる、嬢ちゃんひとりのことを詳しく覚えているわけじゃないんだが……その印象はあるんだ。なにか一癖抱えてそうだったな」
「へえ……」
「あと栄のお嬢さん、あの子も印象にある。二年の時に転校してきた、外国人とのハーフの子。金髪が地毛っていうからまあ珍しかった」
これも初めて聞いた話だった。栄は二年生の時に転校してきたのだとしたら、二年生から完全に不登校となった兎野アリスのことを知らないのも無理はない。
「なんでこの世界に来ちまったんだろうな、あんたら。いたたまれないよ」
「……そういうあんたはどうして、ここに」
「誰かに襲われた。その痛みで気絶して目覚めたらこんな姿になってんだもんよ、笑える」
そういう青虫の口角はぴくりとも笑っていなかった。
「……栄も襲われて気を失ってここに来たんだ。やっぱり、誰かしら犯人と呼ぶべき人間がいるのかもしれない」
「あのお嬢さんも?物騒なことだなそりゃ」
「犯人が誰か心当たりはないか?」
「それは……はあ、悪いが特に無いな。てっきり俺はどこかで恨みを買ったんだと思ってたけど、そうじゃないなら誰かわかんねえよ」
犯人に関して手がかりは得られなさそうだ。彼が嘘を言っている様子もアリスには感じられなかった。
「そういえば、いつのまに栄と会っていたのか。てっきり会っていないものかと思ったが」
「あー……」
青虫は少しだけ空を見上げる。釣竿の先に反応があったが、そんなこと二人とも気がつかないぐらい話し込んでいた。
「ネズミの奴に会いに行った時、教えてもらったんだよ。だから一方的に知ってるだけだ」
「眠りネズミ?」
眠りネズミも青虫もコミュニケーションを好むタイプだとはアリスは考えていなかったため、その二人がつながっていることは意外だった。これは大人同士、といったところか。
「時々会いに行く、というよりは生存確認してんだよ。アイツ放っておいたら眠りすぎて目覚めなくなりそうだろ、実際前に会いに行った時4日ぶりに起きたことあったからな」
「4日もか」
尋常ではない睡眠量だ。明らかに普通ではないが、この国の住人だからこそ為せる技か。それでも青虫など周囲には心配されるに違いないとアリスは思った。
「前回会った時は、……あー……言っていいのかこれは?ネズミ、いつもより元気がなさそうでな。放っておいて欲しいだそうだ」
「元気が……?元から気だるげな人だと思っていたが、いつもよりだるそうとかではなく?」
「だるそう、よりは……他の違和感があったな。なんだ、嬢ちゃんも今は会いに行かないほうがいいかもしれねえな。そもそも部屋を開けてくれなさそうだ」
会いに行って眠りネズミにも自分のことを聞いてみたいと思っていたが、どうやらタイミングが悪いらしい。
「わかった。眠りネズミに聞き込みをするのは後に回す」
「そうしな」
ふと気がつき、青虫は釣竿を引く。釣り針に餌が無く、既に食べられていたことを知る。ため息。
「ああ、くそ。食いついてんじゃねえか……」
青虫はおもむろに自身の服の一部を引っ張った。それはスライムのように千切れ、やがてぴくりと動き出す。それは粘土で出来た芋虫のようだった。それを新たな餌として釣り針に取り付けると、再び湖に落とす。
「話に夢中になってしまったな、時間取らせた」
アリスはゆっくりと立ち上がる。
「もういいのか、聞き込み調査は」
「充分聞けた、ありがとう。また聞きたいことがあれば聞きに来る」
「気が向いたら答えてやるよ。さっさと行きな」
青虫は改めて釣りに意識を向ける、その前にアリスに言った。
「がんばるなら適度にな」
「ああ」
手を振ることもなく、静かに二人は解散した。
この世界の住人たちがおかしいなんて、そんなことはない。
それは三月うさぎだけだろう。眠りネズミは怪しいが、青虫だってあんなに常識があった。チェシャ猫は変ではあるが。
昼ごはんを取るには少し遅い、時計の針は13時40分。
アリスは昼食をどうするかと考えていた。願えばこの場に出すことも可能だ。
しかし、他の誰かに会える可能性も高いであろう、女王の城で昼食を食べることにした。アリスは城のダイニングテーブルに行き着くと、そこにはハートの女王が俯き座っていた。
「女王!」
咄嗟にアリスが声をかけると、彼はすぐに顔を上げ嬉しそうな笑みを浮かべてガタンと立ち上がる。
「アリス!昼ごはんたべにきたの?」
「そう、そうなんですね。やっぱり!」
アリスは、なぜハートの女王がここで座っていたのかということに対しまるで待っていたようだと感じた。
「昼ごはん他のところで食べてくるかなって思ったんですけど、でもここに来てくれた時一人だったら寂しいだろうし、だから待ってたんです!」
「来るかもわからないのにわざわざ待っていてくれたのか……」
「はい!あ、ええと、ご飯作ってきます!すぐ作ります!すみません!」
「お前が作るのか?」
「だとしたら、横で見ていたい。料理できるのか?」
「え!?いいいですけど……!緊張する……」
二人でキッチンへと向かう。そこに慌ただしいトランプ兵の姿はなく、広々としたキッチンのなかは二人きりだった。
ハートの女王はマントを脱ぎエプロンを身につけると、迷うことなく冷蔵庫を開けて卵を4つほど、ミルクにバター、ケチャップを取り出す。
「何を作るつもりなんだ?」
「オムライスです!アリスきっと気にいると思います」
「オムライスか……」
聞き覚えはあった。見た覚えもある、あの卵に包まれた……。
素早く野菜を切り刻むと、熱したフライパンでバターと共に焼いていく。飴色の玉ねぎからするいい香りがアリスの心を浮き足たたせた。焼いたケチャップを米にまとわせて、軽く炒めた後皿に盛った。量はアリスに合わせて少し多めだ。
すぐさま卵を焼き始め、ふわふわのオムレツ部分をライスに乗せケチャップを回しかければ、これで完成。
「待たせてごめんなさい!できました!」
「お、おお……」
アリスは、ハートの女王の料理上手という一面に終始驚いていた。手伝う間も無く作り終えてしまったので、アリスは横に立って見ていただけだ。
ハートの女王はオムライスをダイニングテーブルへと手慣れた様子で持って行き、アリスの座る椅子を引く。
「どうぞ!座って……!」
「じゃあ……」
アリスが大人しく座ると、前に置かれたオムライスから改めて食欲をそそる美味しそうな香りがして、そわそわと浮き足立ちそうになる。
「食べていいのか?」
「うん!美味しかったらいいんですけど……」
「ありがとう、女王」
いただきます。銀のスプーンで口に運ぶ手は忙しなく、この量でも軽く食べられてしまう。
ハートの女王ははじめ不安そうな表情を浮かべていたが、今ではにこにこと嬉しそうな顔をしてアリスのことを眺めていた。
「女王、料理上手なんだな」
「自炊は得意なんです……こんな僕でもできることというか、まあ、多少……とくにオムライスは練習していたので」
「凄いな。色々手慣れている」
「飲食店でバイトしているので……運ぶのとかもすこしだけなら」
照れくさそうに声が小さくなってしまう。ハートの女王は自分の能力を過小評価している、というよりは褒められ慣れていないのではないか。
「私はできるできないの記憶もないから、わからないが……女王のように上手くできる気はしないな。お前はもっと自信持っていいんじゃないか」
「いえ、僕なんて……僕よりできる方は沢山いらっしゃいますし、何も出来ないようなものなんです」
やはり過小評価している。アリスはそう結論出す。
それから黙々とアリスが食べているのを眺めていたハートの女王は静かに声をかけた。
「今のアリスは、オムライス好き?」
「……ふむ、かなり好きだと思う。料理の中でもすごく気に入った。特にふわっとした卵が美味しい」
「ふふ、よかった」
彼は優しく目を細め、アリスが食べ終わるのを待った。
しばらくすれば皿の上は綺麗に無くなって、全てアリスの胃袋に収まっていた。
「ごちそうさま。用意してくれてありがとう、女王」
「いえ、食べてもらえてよかったなって……」
食べ終えたところで、そろそろ彼に聞かなければいけないことがあるんだった。
「今聞き込み調査をしているんだが、女王にも答えて欲しいことがある」
「は、はい。なんでも聞いてください!」
「女王は、兎野アリスという人物を知ってるか?」
ハートの女王はきょとんと少し目を丸くして、質問の意図を探っていた。ああ、自分自身のことについて思い出そうとしているのかと即座に納得すれば、こう答えた。
「知ってますよ?」
「……え?知っているのか?」
あまりにも当然のことのように言うものだから、アリスは拍子抜けしてしまった。
「知ってます。アリス、自分のこと思い出したいんだ。だから聞いてるんですよね?じゃあ知ってることなんでも答えるよ」
「いや、知っている……のも驚きだが、そうか……。女王は私の何を知っているんだ?」
「歩きながら話しましょう。こっち来てください!」
ハートの女王はどこかに向かって歩き出す。アリスは困惑しながらもそれについて行くことにした。
廊下を歩いて行くと、突き当たりに一層豪華な扉があった。
「ここ、僕の部屋なんです」
ハートの女王は鍵を開ける。
「アリス、僕はアリスのこと何だって知ってます」
「何だって知っている?」
「そう、全てです」
ハートの女王は扉を開け、明かりのついていない暗い部屋の中へと入って行く。
アリスはどうしてか、今まで彼に感じたことのない感情を覚えていた。これは恐怖だろうか?警戒と恐怖の板挟みになろうとも、今彼から離れてはいけない気がした。ここで話を止めれば自分のことを知る機会が遠のいてしまう。
アリスは恐る恐る目の前の部屋へゆっくりと踏み込んだ。
知らなければ。そう強迫観念に似た何かに背中を押されていく。
暗い。目を凝らして部屋の中を見る。
壁にいくつか、否多くの小さな紙が貼られ並べられている。これはなんだ?
「……あ」
アリスの脳は、思わずそれを受け入れることを拒否した。
それらは写真だった。写っているのは、全てアリスだった。
認識した途端、まるで蛾の群れを見てしまったように脊髄が震え背中がぞっと這う感覚がした。
暗くて影になったハートの女王の表情は上手く見えない。彼は口を開く。
「アリスのことたくさん知ってます。学校名も、不登校だってことも。今の在籍クラスは3-2組。147センチ35キロ平熱は36.3度。風邪をひきやすくてアルコール消毒は欠かせない。甘い洋菓子が大好きで、ご飯だと卵がふわふわのオムライスが好き。部屋は夜でも暗くって外に出る時は目立たないようにしてる。髪質は直毛で本当はロングにも憧れてる」
「……は……?」
「アリス、自分のことが知りたいんだろうなって思ってたので、教えるときにちゃんと言えるようまとめていたんですよ。咄嗟に言うと言葉が詰まっちゃうので……」
何を言っているんだ。
「強く願ったらアリスの写真も出すことができて、貼っちゃってます。ふふ、ここにくる前のアリスの姿もありますよ?」
「なあ、さっきから急に何を言っているんだ……?お前は、女王は私のなんなんだ……!?」
「僕?僕は……」
彼は影の中で、表情を変える。その顔は赤く、伏せ目がちの目元は微笑んだ口角で上げられている。額には汗が噴き、口元は徐々に歪んだ笑みへと変わって行った。
ハートの女王は照れながら言う。
「アリスは、僕の初恋なんです」
「……え?」
「恋、そうです。恋。それも初恋なんです。ああ!僕は、アリスが大好きってこと……!」
熱烈な告白。この状況でなければ青春らしいものであったと思うのに、どうしてこんなに脳は警告をあげるのか。
「大好きなんです、あなたのためならなんだってしてあげたいし、こうして話してるだけで幸せで満たされるんです!身体つきも以前より健康的になりましたよね?今でも平均よりは全然細いと思いますけど……そう、この世界でのアリスも大好きです。勿論昔のアリスのことも大好きです。アリスがどんな形になっても好きなんですから!」
そう早口で語る彼は、目を見開き恍惚とした赤い色を頬に浮かべていた。
ならば、食の好みを把握されていたのも、紅茶に入れる砂糖の数も。
「全部知ってました。アリスの願うことなら」
「なあ、そんなこと、やっちゃダメなんじゃないのか……!?」
「ダメ?どうして?人を好きになることにダメなことなんてないです」
ハートの女王は一歩、一歩とアリスに近づいた。アリスは硬直しその場から動けず、近づくたび身長差を感じてゆく。すっかり上から見下ろされる頃には、すでに逃げられない距離にいた。
「アリス、初めて見る顔。どうしたんですか?顔色が悪いですよ……」
アリスは後ずさることもできなかった。心配そうに覗かれたところで見せられるのは動揺し青ざめた顔でしかない。
まさか、と思った。
もしやハートの女王が、自身を追っている不審者……否、ストーカーなのではないか。
「ふふ、初めて告白しちゃいました。元の世界ではできてなかったんです、この世界だと勇気が湧いて。ねえアリス付き合うとか付き合ってくれないとかそんなのいいんです、ただ僕はアリスのことが好きって言いたいだけなんです」
「一方的すぎるだろう!なあ、お前は……」
ふと、この愛情を否定するような真似をしたらどうなってしまうのかとアリスは口を閉ざした。ストーカー、そう指摘するのは簡単だ。この純粋な愛情が恐ろしい。でも自己肯定感が底まで低い彼の好きなものをこれ以上否定して良いのだろうか。
「アリス。アリスが元の世界に帰りたいなら僕も絶対お手伝いします。アリスのためなら何だってできるんです!僕の世界の中心はアリスだから、この国ごとアリスのために使えます!」
彼の気持ちも彼が言うこともきっと本気だ。刺激すれば何をするかわからない。言葉一つ間違えば大問題に発展するだろうと想像できても、こんな目に遭うのは記憶にある限り初めてだ。アリスは未経験の危機に考えを巡らせる。
「その、気持ちは有難いんだがそこまでする必要はない……一旦落ち着いてくれないか?話をしよう!」
「話なら今してるじゃないですか?」
ハートの女王は綻ぶ口元を右手で抑えたが、手が異変を感じ取ったように鼻へと位置を変える。見れば血が垂れていた。
「あ、あれ?鼻血……?ごめんなさい、見苦しいものを……」
「大丈夫か?!なあ、やっぱり落ち着いた方がいいと思うんだ……!」
興奮の表れなのだろう。身体に支障がある程に感情が昂っている。
「落ち着く、ってどうやるんでしたっけ?告白の場面でそんなことできましたっけ」
「まずちゃんと呼吸をしてくれ。慌てなくても逃げないから!」
「アリス、僕はこれぐらい本気ってことなんです!」
ハートの女王は血に汚れた白手袋をはめた手を広げ、ぱっと笑う。彼から感じる嘘を感じない笑みは、出会ってから感じたものと同じだった。しかしこれは悪意がないとはいえ、口にしたら死ぬ毒と同じだ。
「だからだから、全部言えますよ。携帯のパスワードもわかるし、兎野アリスのおぼつかない足元も大好きなんです!アリスは僕のことも忘れちゃったみたいですけど、僕は忘れてませんからね」
「すまない覚えていない……私がお前をそうさせたのか……?」
「いえ、いえ、アリスは悪くないです、僕がおかしくなっちゃったんです、でも恋しちゃったんですから間違ってませんよね?」
どうするべきだ。アリスは考えを巡らせる。
この場を切り抜ける方法?拒絶したいわけじゃない。ただ自己肯定感が底の底にある彼の思考回路では何を言ってもネガティブに捉えられる可能性がある。
だが良い答えを出してしまえば、よからぬ勘違いを引き起こすかもしれない。
アリスの額を冷や汗が伝う。暗い部屋の中、視界が黒く濁っていくような気がした。
その時、香水の混ざったような鼻につく香りが漂った。それはすぐに熱されたどろどろのキャンディのような匂いに変わる。
「そんなアプローチは聞くに耐えないなぁ」
紫の煙が人の形を成し、輪郭を作り上げていく。声の主はそれだった。纏った煙の内側から不敵な笑みを浮かべた少年が現れる。
「チェシャ猫!?」
「え……なんでいるんですか……?」
少年は驚くアリスとハートの女王に構わず、頭の後ろで手を組んだ。猫のような尻尾は小刻みに震えているが、それがどのような感情を表すのか動物に長けていない2人には理解できなかった。
「だから、俺はいつどこにでも現れるのさ。勿論女王サマのお部屋だってね。アリスの身に危険が迫った時は俺の出番ってわけ」
「危険って……僕は何もしていませんよ?」
「随分と鬼気迫る顔だったけど?鏡でも見て練習してから告白すればよかったのに。出しゃばると嫌われちゃうよ?」
ハートの女王は自身の頬をぺたりと触る。その表情は興奮に満ちたものから、段々と困惑と羞恥へと変わっていった。
「え?あ、あの、僕、とんでもなく失礼なことをしてしまいましたか?話すに値しないゴミ以下の分際で、アリスに愛なんて伝えてしまったのがいけなかったんです、よね、ごめんなさい」
「女王、落ち着いてくれ!そうは誰も言っていない。チェシャ猫も言葉を選んで喋ってくれ頼むから!」
「女王サマ、違うよ?アリスの言ってる通りだよ。俺が言いたいのはさ〜告白には薔薇の花束ぐらい用意したほうが好印象ってこと。今回は失敗ってことで諦めてよ!」
ハートの女王が顔を覆い隠した隙に、チェシャ猫はアリスの腕を引いた。扉を開け、外へと足早に歩き出す。女王は追いかけることなどしなかった。
アリスは引かれるがままに歩くが、胸の中に渦巻く熱烈な愛の前に何も言えなかった自分への無力感。危機的状況から脱した安心感。そして自身が最大限気をつけていた、女王の自尊心を傷つけないための言葉選びを意に介さず直接ぶつけたチェシャ猫への憤り。それらがぐちゃぐちゃに混ざって納得がいかずにいた。
「止めるだけならあんな言い方しなくてよかっただろ」
「でもアリスを助けたい一心だったから?」
「助けたいって……」
「まるで女王サマが悪者扱いされてるみたいだって?だって悪者と同じだろ、あんなふうに迫られちゃ」
心を読まれたかのようだった。
「キミにとってはストーカーって悪者?怖かった?」
「悪かどうかは今の私に判断できることじゃない。どうしてそんなことを聞くんだ」
「ええ?だって、それによってアリスから俺への好感度も変わっちゃうじゃん」
その言葉にクエスチョンを返そうとしたが、喉から続きが出る前に意味を理解してしまった。
もしかして。
「お前、も何かしてるのか……?」
「だから言ってるじゃん。どこでもいつでも現れる、アリスの危険があればすぐに出てくるって〜」
くすくすと笑い、チェシャ猫は余った袖をアリスの口元へ寄せる。
「それってよっぽどストーキングしてないとできないことじゃない?」
眩暈がする。
冗談じゃない。
「俺も女王サマも、アリスのこと大好きなのさ」
この国の住人はみんなどこかおかしい。
関わらない方がいい。
白うさぎの忠告。忘れかけていたその言葉がぐわりと脳内にこだましていた。




