第3話「見え隠れリアル」
栄が不思議の国にやってくる前──
「じゃあね!栄ちゃん!」
「うん!また明日ね……!」
栄は通学路で友達と手を振って別れた。放課後の夕暮れに照らされる道は人がまばらで、その中に混ざって家へ向かい歩き出す。
栄の家は学校から徒歩13分程度の場所だった。歩いていけば、周囲の人は減っていき、やがて誰もいない道を進むこととなった。それでも、そんなこといつも通りで栄は気にしていなかった。
一歩、一歩と家に歩いていく。その時だった。
背中に何かを押し付けられたような感覚。そこから、衝撃波のように痛みが全身を広がっていった。動けるわけなく、そのまま更に押し付けられ続け、身体中が痙攣し力が張ったかと思えば抜けてその場に倒れ伏す。押し当てられておらずともいまだに痛みが残り、熱く熱がこもっている。脳みそが通常に働かず、口からは涎と意味のない言葉だけが漏れた。
瞼が閉じさっていく。意識は朦朧としあっという間に消えて行ってしまった。
そうしてあの世界に辿り着いたのだ。
不思議の国。アリスと名乗る少女。個性豊かな住民たち。
目を覚ました時、栄はそれを夢だと認識した。
あり得るわけがない。あんなファンタジーな、本の中にしか出てこないような世界が現実にあるなんて。
しかし気がついてしまった。
自身の通う学校で最近飛び降り事件を起こした少女の名が、「アリス」であることを。
何か関係があるのでは。
栄は何か嫌な予感がし、うまく眠ることができなくやっていた。必死に考えないようにして、目を閉じて──どうにか眠ることができた。
▼視点:アリス
結局、倒れた栄が目覚めることはないままだった。
アリスは困った。どうするべきか、誰かに相談するべきか……。
そう悩んで部屋の中をうろうろとしていても、何も解決しない。アリスはひとまず座って、その場からポンとティーカップとティーポットを現す。イングリッシュブレックファストの茶葉から抽出した紅茶をティーカップへ注べば、素晴らしい朝を迎える香りが部屋を充満した。
角砂糖を二つ。そして少し冷まそうとした時。
「あ、れ……?」
栄の声がした。
「栄!?」
アリスは咄嗟に立ち上がり、栄の方へ走り寄った。栄は目覚たが唖然としていて、天井からアリスへと視線をやり言葉を黙らせる。
「……アリス、ちゃん?」
「ああ、そうだ!」
「……もしかして、ここは不思議の国……!?」
頷くと、栄は驚きに満ちた表情をした。
「もう戻ってこられないかと思った……!やっぱりこれ、普通の夢じゃないの……!」
「戻って……?いや、栄はずっとここで眠っていたが……」
「え、わたし……」
栄は少しオロ、と困惑し言いにくそうな顔をした。
「目が覚めて、現実に戻ったの!起きたら病院にいて」
「!?つまり……栄は生きていたってことか!?」
だとすれば、ここの住民は全員死んでいると決まったわけではないのだろうか。
「生きてた……し、それから夜眠ったら、ここに来れたの!だから夢を見る感覚で来てる……というか……」
説明に困り、頭を悩ませる。
「つまり、眠っている間は栄はここにいられる……?」
「そう、なのかも……?」
栄はアリスの顔を見て少し考えた後、躊躇っていた言葉を言うことを決心した。
「あ、あの!アリスちゃんって……その、学校から飛び降りたりした……?」
「…‥な、なんでそれを知って……?」
驚き、アリスは思わず目を丸くしてしまった。そんなこと、栄に言った覚えはない。
「やっぱり……、そう、なんだ。アリスちゃん!わたし、同じ中学校の生徒なんだよ。だからアリスちゃんが飛び降りたの知ってる……!」
「え……?」
アリスは、まさか現実の自分を知っている可能性がある人物に巡り会えるとは思っていなかったため大きく驚いた。そして、目の前にいる希望の光を失ってはいけないと焦燥する気持ちを覚えた。
「栄、私の…‥こと、知らないか?現実の……私のこと。記憶喪失なんだ!何も覚えていないんだ……私のこと知っているなら全部教えて欲しい……!」
やっと自分のことが何かわかるかもしれない。必死に縋り付く思いでアリスは頼みかける。栄は気迫に身体を引いて答えた。
「ごめんね……その、仲良くはなくて、詳しく知らないんだアリスちゃんのこと。アリスちゃんって不登校だったから会えなくって。それと、飛び降りた……けど、どうにか命だけは助かって昏睡状態なんだって。それまで知ってる」
「昏睡……」
昏睡状態、それだけでも知れたのは大きな収穫だった。自分はまだ死んでいなかったのだとアリスは安堵する。
「私……不登校だったのか」
「うん。学校でアリスちゃんに似てる人、一度も見たことないもん……」
知らない自身の情報が増えたこと、思わぬ収穫に心臓が高鳴る。しかしそれらを聞いたとしても、アリスはまるで自分のことだとは思えなかった。記憶を取り戻すキッカケにはならず、ただただ聞いた事実を脳に記憶するだけだった。
「すまない、正直どれも私のことだとは思えないんだが……それでも、思い出すための大きな一歩を得られた気がする。ありがとう」
「ううん!いいの、わたしが教えられることなんて少ないけれど……」
実際のところ、栄が来るまでなんの情報も得られなかったアリスにとっては大きな前進だった。栄に協力してもらうことができればなぜ自分が飛び降りるに至ったのかを、知ることができるのではないか。
この世界に来てから最大の壁が取り払われたような、アリスは夜明けの太陽を栄に見出した。
「栄」
「な、なに?どうしたの?」
アリスは栄に向き合って、言った。
「私に協力してほしい。眠っている間、この世界に来てくれるというなら……起きている間、私やこの世界に関することを調べて欲しいんだ」
栄は大きな目を更に大きくして、布団の布を無意識に握りしめた。そして、悩む間もなく答えた。
「……アリスちゃん、わたしにできることがあるなら……協力させて!」
あまりにも即答だったため、アリスは頼んだ側であるというのに少し怯んでしまった。
「え……本当にいいのか?随分と簡単に了承するんだな……」
「わたし、放っておけないよ!夢が夢じゃなくて、この世界のみんなも本当にいる人なんだとしたら……みんな昏睡してるんだとしたら、元に戻れなくてみんな困ってるはず。だったらわたしにできること全部させて欲しいの」
栄は青く透き通るような瞳を真っ直ぐとアリスに向けている。アリスはその瞳に、嘘をついている様子をまるで感じられなかった。純粋無垢に今言った通りのことを望んでいるものだから、口角が無意識に綻んでしまった。
「……お人よしなんだな」
「あ!アリスちゃんちょっと笑った!?ちょっと!」
アリスは栄の手に自身の手を重ね、握る。栄の手は女性的に細く白いが、アリスの手の方が小さかった。
「初めて会った時、お前が本当の『アリス』なんじゃないかと思ったんだ。けど、今はそんなこと関係ないな……二人の主人公、そういうことにしよう」
「主人公なんてわたしに務まるかな?」
「重要人物に違いない。この世界のことは私が調べて……現実のことは栄に調べてもらう形でどうだ」
「わかった!」
赤と黒のアリス。そして、青と白に金髪の少女。
そうして二人の主人公が生まれた。
「これからよろしく、栄」
「うん!がんばろうね、アリスちゃん!」
紅茶はすっかり冷め切ってしまったが、手のひらはとても暖かかった。
......
「アリス以外のああいう子が来るのは誤算なんだよね」
そう語るのはチェシャ猫だ。少年は悪びれることなく淡々と、日常を口にするようにアリスにそう言った。
「……どういうことだ」
アリスは栄が再び眠りにつくのを見届けてから、不思議の国に異変がないか見て回るため城の廊下へ出たところだった。鼻につくガムの香りが漂ったかと思えば、紫の煙を立てて彼が現れたのだ。チェシャ猫はアリスの横を浮遊し、空中で寝転がる。
「だってさ、変に物語が進展しちゃうじゃん。協力して解き明かすんでしょ?この世界のこと自分のこと」
「き……聞いてたのか!盗み聞きは感心しないんだが……」
「怒んないでよ、ほらチェシャ猫ってどこにでも現れるものだしオレがそうでもおかしくないのさ」
「訳のわからないことを……」
盗み聞きを正当化しようとしているのか、そうではないのか。
「そもそも、進展することの何が悪いんだ。チェシャ猫にとっては都合が悪いのか?」
「んー、オレはアリスの行く末を見守りたいだけだけどさ。あの子の登場で想定されてない道をいかれる気がするんだよ」
チェシャ猫の言うこと、狙いがわからずアリスは困惑するばかりだったが、同時に彼の翻弄するような態度に仄かに怒りを覚えていた。
「アリスが元の世界に戻ったりしちゃったらさ、寂しいじゃん?オレさーアリスにはこの世界でオレとずっと暮らしてて欲しいんだよー?」
「……それは本心か?」
アリスは疑心を抱く。視線が、笑みが、どうも信用ならない。嘘をつかれているような、誤魔化されているような、上部だけで繕われている気がしてやまない。
「嘘じゃないさ!そもそもここは天国のような場所なんだ、なんだって叶う。わざわざ苦しい現実に戻って苦労してほしくないんだよ〜」
「現実が苦しい?そんなの、思い出してみないとわからないだろ。私の苦しみを決めつけるんじゃない」
チェシャ猫はニヤニヤと浮かべていた笑みを、突然失くす。猫のような瞳孔が開いた知らない表情は相手に恐怖心を植え付けかねない。彼は尻尾を揺らしながら言う。
「でもさ、飛び降りて死にかけるような子が何もないわけなくない?」
「……それは」
痛いところを突かれた。それは否定しようのない事実であり、希望的な推測を拒否する材料だった。仮に自殺ではなく他殺だったとしても、殺されるような理由がある人間。自殺であればそこに良い理由があるとは思えない。
チェシャ猫は笑顔を取り戻すと、冗談めかす笑い声を上げた。
「嘘だって!そうとは限らないよね〜!」
「お前は何がしたいんだ……人をからかうだけからかって、結局何が言いたい」
「ん?結局のところ?まあアリスたちにはめちゃくちゃ頑張ってほしいってとこかな!」
「……嘘だな」
チェシャ猫は煙となってその場から消えた。
▼視点:栄
──鳥の声がする。
目を開ければそこには日常風景が広がっていた。朝の日差しが眩しく、寝巻きは少し乱れている。起き上がり洗面所に向かって、はねた髪をくしで整える。顔を冷水で洗って体感温度を下げたところで心の熱は冷めることがなかった。
あれは、夢ではない。
母の用意してくれた目玉焼きとトーストを食べ終われば、時間に余裕をもって学校へと向かい始める。いつも通り通学路で友達と出会せば、自然と挨拶が交わされた。
「栄ちゃんおはよー!」
「お……おはよう!」
全ていつも通り。そのはずだったが、栄のあげた声は上擦ってしまった。はたから見れば歩き方もぎこちなくどこか挙動不審だったのだが、栄にその自覚はない。
「んー?なんかテンション違くない?なんかあった?」
「な、ななな何もないよ!!」
「絶対なんかあったって!!」
言えるわけがない。寝ている間に別の世界で出会った新しい友達に協力するため、今日からアリスのことを調べなくてはいけない……そんなことは。
栄は急ぎ足に学校へ歩き始めた。
一日分の授業を終わらせ、部活動の前に職員室へと向かう。訪問すればクラスの担当教師が栄の前に現れた。
「あの、先生。少しお時間いいですか?」
「ええ構いませんよ。どうしました?」
「今……その、入院してる三年生のアリスさんって、どんな子だったのか教えていただくことできますか?」
教師は予想しなかった質問に少し困って、うーんと頭を悩ませる。
「兎野さん…‥ですか?」
栄はアリスの苗字が兎野であることを改めて思い出せば、下の名前と合わさって可愛らしい名前だと微笑ましい気持ちになった。
「そうですね……個人情報は言えないけれど、ずっと登校していないから先生もあまり会ったことなくて……担当させてもらったこともないし……」
「ええと……どれぐらい登校してないのかって聞けますか?」
「確かもう2年……ほとんど三年かしら。入学最初は来てたかな。当時担当してた先生も異動しちゃったからねえ」
「その時のクラスは?」
「1-3……だったと思います」
これ以上教師から聞けることはない気がして、栄は頭を深々と下げてその場から去ることにした。
「ありがとうございます先生!では部活に行ってきます!」
「いいんですよ、気をつけてね」
吹奏楽部の部活動が終わり、栄は1人の生徒を呼び止めていた。
その生徒は栄の友達であり、1年生の時は3組にいたと聞いていた。実際、聞いて再確認すればそう答えてくれた。
「兎野さんねーあんまり印象ないけど。人と話さないし……」
「そ、そうなの?」
少し意外だった。不思議の国では住人に囲まれているアリスばかり見ていたが、それは一面に過ぎなかったのかもしれない。
「飛び降りたって騒ぎあったけど、それもよくわかんないし……。だって本当に少ししか学校来てなかったしさ、在学してるだけっていうか。家すぐ近くだからプリント届けに行ったことはあるけど」
「本当!?」
栄は思わず声を大きくしてしまって、はっと口元を抑えた。
「本当だよ、てかあの子の家なんか変なんだよね……」
「…‥変?」
友人は栄の袖を引っ張り、教室の隅まで2人でやってきた。友人は声を小さく潜め、自分の知っていることを話しだす。
「なんかここ数ヶ月ずっと同じ人が家の前で挙動不審にしててさ……家族かな?って思ったけど、電気もついてない家の近くでうろうろしてるのはおかしいじゃん」
「そ、それは確かに変かも……」
想像するとゾッとする光景だ。連日それなら通報されても文句は言えないだろう。
「だから鍵も持たされず追い出されてんのか泥棒かって話よねー。そもそも家の近くで兎野さん見ることなかったし、引きこもってるにしては家に人の気配ないのもなーって」
次から次へと不審な情報が出て、栄は眉を下げた。情報が増えるのは嬉しいことなのだが、こうも内容が不思議だと困る。
「多分他の生徒に聞いても兎野さんに詳しい人っていないんじゃないのかな。一応聞いてみようか?」
「聞いてくれるの?ありがとう!じゃあ……お願い!」
栄は満面の笑みで答えた。
しかしどうも引っかかる。栄は、自身が倒れて病院に運ばれた時のことを思い出していた。あの時、意識を失う前確かに誰かの影を見た。自分はおそらく何者かに襲われたのだ。
アリスだって飛び降りたのではなく誰かの手によって突き落とされた可能性、それに不審人物のせいで精神的に追い詰められてしまった可能性がある。だとすればアリスの家の近くにいた人物を怪しむ必要があるのではないだろうかと思い至った。
「あのさ、さっきの……家の前でうろうろしてた人?ってどんな見た目だったか覚えてる……?」
「まさに不審者って感じでパーカーをかぶってたし覚えてないかも」
「そっか……ありがとう、教えてくれて!」
友達の住所は年賀状を送る時に知っていた。ならば、今後その近くに「兎野」という苗字のお宅がないか調べても良さそうだ。
栄は礼を言って、一度帰宅することにした。家に帰ればどっと疲れが押し寄せたが、まだ休むわけにはいかず課題を済ませテストに向けての勉強時間を設ける。栄は受験を控える学生でもあった。学生の本分は忘れてはいけないが、しかしアリスたちも放ってはおけない。幸い眠っている間を有効活用できるなら、時間には余裕がある。今日からは両立して頑張ろう。そう思って栄は眠りについた。
栄が次に目を覚ました場所は不思議の国だった。
栄がこの世界で意識を取り戻す際、この世界では必ず朝の時間帯だった。星が浮かんでいるであろう夜も見てみたいのに。
少し残念に思いながらベッドから立ち上がる。既に着ている青のエプロンドレスを全身鏡の前で整えて、現実よりも倍以上伸びた三つ編みに乱れがないかを確認する。どこかの童話のプリンセスを連想させる髪型は、見るたびに、まだ幼さを残した心が踊る。
頭のリボンに折れがないかを確認していたタイミングで扉からノック音がする。そちらを振り向けば、扉の向こうからアリスの声がした。昨日と同じ時間だからちょうどよく訪れてくれたのだろう。
「アリスだ。起きてるか?」
「アリスちゃん!起きてるよ……!今鍵開けるね!」
栄はすぐに鍵を捻り、ドアを開けた。目の前にいた人物は相変わらず愛想のない表情を浮かべいて、かといってそれを変える気もなさそうだ。
「おはよう……でいいのか?」
「う、うん……おはよう?」
現実的には、栄は眠っている最中だ。夢をみるようにここにいるのだとしたら、挨拶は何とかわすのが正解なのか。教えてくれる人物はいない。
アリスは部屋の中に入りベルベットでできた真紅のカーペットを踏んで歩く。奥にあった装飾が彫られた白の木材の椅子に腰掛けると、栄と視線を交わす。窓の外、晴れた空を手紙の群れが飛んでいくのが視界の隅に見えたが、今更突っ込んでいいものか。
「朝食は食べていくか?」
「じゃあいただいていきたい……かも!」
そう答えると、アリスの座る椅子の前にあったテーブルにどこからともなくクロスが敷かれる。名前の知らない花の模様が描かれた白い皿が現れ、三角に切られたサンドイッチが並んでいく。マヨネーズたっぷりたまごサンド、野菜たっぷり、ハムサンドにオレンジサンド。なみなみ注がれたのは今日は紅茶じゃなくて牛乳。サラダが添えられれば朝食の完成。
対する席に栄が座れば、いただきますの言葉を使ってアリスがサンドイッチを手に取った。口に頬張るが、噛みちぎれなかったレタスがソースを纏わせてずるりと抜ける。サンドイッチ、バランスの崩壊。アリスの口内はあっというまにレタスばかりになってしまった。アリスは少し眉間をぴくりと動かすものの、黙って咀嚼した。
「アリスちゃん、小動物みたいだよね」
「ん?そうだろうか」
小動物、だけど食べている姿はリスなどといった少しずつ齧る動物よりも餌に勢いよく喰らいつく……総合的に見て、黒猫だろうか。動物が好きな栄にとっては褒め言葉である。
「うん、かわいい!」
アリスは黙って飲み込んだ。すぐに手のひらから消えてしまったサンドイッチの代わりを探すため手を皿に伸ばし、肯定も否定もせずタマゴサンドを手に取った。
栄もタマゴサンドを口にする。
「げ」
一口目。アリスがあからさまに嫌そうな顔をした。
「どうしたの?」
「これ、マスタード入ってる……」
どうやらその手の隠し味は苦手らしい。アリスは眉間にシワを寄せたまま数秒悩み、手に取ってしまったものは仕方ないと食べ尽くすことを決意したところを見て栄は声をかける。
「苦手だったら、それわたし食べるよ!私の分のハムサンドあげる!」
「いいのか?いいなら甘えさせてもらうが……」
「いいよ!」
「……ありがとう」
アリスのタマゴサンドを貰い、自分の分のハムサンドを手渡した。眉間のシワはすっかり解け、ハムサンドを夢中で食べ始める。それを見て栄は満足げにタマゴサンドを頬張り始めた。
しばらくして、上に乗っているものがなくなり皿の模様が全て明らかになった頃。栄は満を辞して声をかけた。
「あの、わたしが今日調べてきたことなんだけど……少しだけわかったことあったから共有させてほしいの!」
「早速調査してきてくれたのか?」
栄はアリスのために調べてきた、彼女自身のことを詳細に伝えることにした。
アリスは「兎野アリス」という名前であること。
中学の殆どが不登校で、入学時に少しだけ通っていたこと。当時担当してた先生も異動してしまっていること。
人とはあまり話さなかったこと。
アリスの家の前に不審者がいたこと。
それらを聞いたアリスは目を伏せて考え込んだ。栄も自分が持ってきた情報とはいえ、まとめて出すと中々謎が多いと改めて感じさせられた。
「一番気になるのは……不審者の件、だな。栄も誰かに襲われたのだとしたら、町中警戒がいるんじゃないのか」
「同一犯の可能性もあるよね……?」
アリスは首を捻る。栄は顔を俯かせ、自身の住む町の安全性に不安を抱きつつあることに怯えていた。
「とにかく、家の前に張り付いてた不審者は……私、もしくは私の家族について知っているには違いないと思うが、接触を図るのは危険だな」
その通り、やめておいた方がいい。そうは理性が言っていても、栄のお人よしな性分はその手があったかと新たな手段を獲得してしまった。
「なあ、私は学校で執着を買うような人間だったのか?不審者っていうのが、そういう私の言動の自業自得によるものの可能性が……」
「そこまではまだわからないんだけど、うーん……表立っては人と関わってなさそうなの。特別な仲の人、はいたかもしれないけど……」
でも少なくとも、栄の友人から嫌われている様子はなかった。敵を作るような人格だったなら、友人も話すことを少しは躊躇ったかもしれない。栄にとってのアリスは今ここにいる彼女だ、彼女を見る限り現実でも栄の想像する不良、横暴!……そんな生徒ではないだろう。
「情報提供助かった、ありがとう。不審者……か。栄も気をつけろよ、とくに夜道とか」
「うん!ありがとうアリスちゃん。また何か分かったら教えるね」
そう話を終わらせると、アリスは次は自分が手がかりを探す番だと部屋の外へ出た。栄も彼女についていくことにする。
明日はアリスの家を探そう。それを言ったら、危ないと止められてしまう気がするので栄は自身の予定を言わないでおいた。
▼視点:アリス
栄から聞いたことを踏まえ、不思議の国を調査する。それが今日のアリスの目的だ。
「兎野アリス」それが自分の名前なのだと、アリスにはピンと来なかったが記憶喪失では無理もない。不思議の国の住人たちに1人ずつ聞いていけば、1人くらい知っている人間もいるかもしれない。可能性は希薄だが。
まずは城に住んでいるであろう住人から。
次に帽子屋が広間でくつろいでいるところを見かけ、アリスが声をかけると大きく肩を揺らし濁点のついた汚い声を上げた。驚かせてしまったようだ。
「アリスさんじゃんどうしたんスか」
「聞いてまわっていることがある。兎野アリスって人物を現実で知らないか?」
ポクポクと頭を巡らせ、記憶を探し当てようとするが、失敗。申し訳なさそうに帽子屋は言葉を返す。
「すみません、マジで知らないっスね……」
「そうか。聞いて悪かった、じゃあ三月うさぎの今いるところを知らないか?仲良さげだが」
「三月チャンならお兄ちゃんと一緒にいつものお茶会行ってるッスね。走り回ってなければ」
「ありがとう、じゃあ。女王に会ったらアリスと話があるって伝えておいてくれ」
終始頭上にハテナを浮かべた帽子屋を置いて、2人歩き出す。向かう先はお茶会の場所。
迎えた花畑は昨日とは違う一面青色で、ネモフィラの花が咲き誇っている。空をゆっくりと煙のような雲が流れていくのどかな光景。蝶がアリスたちのことなどお構いなしに飛んでいる。
ただ、異常だったのは一つだけ。
聞こえたのは、男性が極限まで高く上げたような不協和音の絶叫。漫画の吹き出しであれば、その鋭利さに身体中グサグサと刺さって傷がつく。
声のした方を見据えれば、そこには横に転がったテーブル。食器は割れて、マフィンは土に汚れ、見るも無惨だった。
声を上げる主は、三月うさぎだった。
地面に尻餅をつきながら暴れ騒ぐのを兄である白うさぎが必死で抑えつけているが、何と言っているのかは全て掻き消されて聞こえない。
「三月!?」
アリスが咄嗟に駆け寄れば、後ろにいた白うさぎはハッと顔を上げる。疲れ果てた表情をしていたが、困ったように目を細め笑って、すぐに三月うさぎの方を向いた。
「あ……アリス……ねえ、ほらアリスが来たよ、来ちゃったから、終わりにしようよ佳斗……ちゃんとして……」
佳斗、もしかしたらそれが現実での名前なのだろうか。
「……あ、ありす」
三月うさぎが動きを止めれば、ひどく発汗しているのがみえた。視線の先は一瞬アリスへと向けられたがすぐに虚無へ放りさられ、花畑の花を草をぶちぶちぶちぶちと力任せにちぎり続ける。地面に顔を埋め、土の中で叫んでいる。
「三月うさぎ!しっかりしろ!おい、何があったんだ!?」
白うさぎの方に問えばゆっくりと答える。
「ああ、いつものだよ。発作かな。」
「発作?」
「テーブルのひっくり返っちゃったところにさ……粉状の薬っぽいものあるから見つけて取ってくれるかな」
「わ、かった……」
アリスはすぐにテーブルの方へ走り、それを探し出した。ガラスが散っていて、それらしきものを取るときに指先を切ってしまう。粉末状の白い薬は、ごく一般的なものに見えてこの不思議の国には相応しくなかった。それを白うさぎにすぐに渡す。
白うさぎは土に汚れたままの三月うさぎの前に座ると、白い粉を目の前にぶら下げた。それを見て三月うさぎは兄から袋を奪い取った。
「飲んで」
白うさぎがそう言えば、喉奥にさらさらとした粉を送り込んでいく。水もなく飲み込めばジャリジャリとした感触が口内に残るが、苦味などはなくそれを必死に舌と涎で己へ取り込んだ。
「くすり、くすり、くすり……」
ぶつぶつと言い続ける三月うさぎは、先程よりは静かだが自分の体を抱きしめたまま微動だにしない。
「白うさぎ、どうしてこうなったんだ?」
「わからないよ。僕にもわからないんだ、この子がこうなる理由は」
「……そうなのか」
「ほんと、恥ずかしいことだよね」
彼は誰に対してその言葉を言ったのだろう。白うさぎは立ち上がり、アリスたちに背を向けてテーブルを元に戻そうとしはじめた。
「アリスの方こそ、何か用があってきたんじゃないの。お茶会はできないんだけどね」
「それどころじゃないんじゃないか」
「もう放ってても大丈夫だよ」
そうは思えないとアリスは三月うさぎを心配したが、聞きたいことがあるのは事実だ。
それでも、今聞きたいことは。
「……何かの病気なのか?三月うさぎは」
「……どうしてそう思うの?」
「明らかに様子がおかしかっただろう。あの振る舞いは、その……」
「気が違っているって言いたいんでしょ」
白うさぎはいつもと同じように薄く笑みを浮かべたまま、お茶会で世間話をするように言った。
「三月うさぎはね、狂っているんだよ。自認もあるようだけどね。それって原作通りじゃない?」
本人の前で言うのはどうなのだろうか。アリスはそうは思ったが、三月うさぎ本人の様子を伺ってみれば彼は呆然としていて話が聞こえているのかも怪しかった。
「いつもこうなのか。またああなったとき取ってあげるべき対処などがあるのなら、教えて欲しい……」
「……強いて言うなら、時間が過ぎておさまるのを待つだけかな。薬を飲んでいてもこうなることがあるから、飲ませればいいってものでもないし」
白うさぎは兄弟という長年の時間をもって、悟って諦めているのだろう。
そうアリスは察してしまった。
「それで、聞きたいことは?他にあるでしょう」
「……そうだな。ここで長時間お前を拘束しているわけにもいかなそうだ。単刀直入に聞くが、兎野アリスという人物を現実で聞いたことがないか」
「本当に、現実の自分のことを明かす気?」
「ああ、そうだ」
「ふーんそうなんだ……。でもごめんね、知らないんだ」
「……そうか。テーブルが大変なことになっているが……何か手伝おうか」
そう言ったところで、後ろにいたまま光景を見て硬直していた栄が走ってボリュームを間違えながらも声をかけた。
「私っ手伝います!お片付けとか色々!だからアリスちゃんは先に行ってて!」
「本当に任せて大丈夫か?」
「うん!」
お人よしな栄とはいえ、咄嗟に動ける状況ではなかったのだろう。
白うさぎも頷いて言った。
「お手伝いありがとう。助かるよ!でも手伝ってくれるなら君たち二人じゃなくて、一人で大丈夫だよ」
「じゃあ、……任せていくが、皿で指を切ったりしないようにな」
栄はすぐさまテーブル周りの惨状を片付け始める。それに白うさぎはついて歩こうとしたが一度足を止め、アリスの方へ振り返る。
「アリス。警告してあげるけど、この世界の住民はだいたいどこかおかしいよ。自分が大変な目に遭うだけだし、あまり深入りしない方がいいと思うんだ」
「それは、どういうことだ」
「……僕たち兄弟のことは放っておいてほしいってこと」
細めた瞳にはどのような世界が映っているのか。彼の人生に、どのような苦労があったのだろうか。
「……そうか」
心の壁を隔たれた。それを飛び越えることは今のアリスにできなかった。




