第2話「アリスとは」
ここは不思議の国で、自分はアリスだ。そう思っていた。
しかし今目の前には『不思議の国のアリス』に登場する人物、「アリス」のような姿の少女がいる。
だとすれば自分は一体何者なのだろうか?
戸惑っていると、隣にいたチェシャ猫が手を振り掲げる。手のひらにスペードのトランプが現れたかと思えばそれはEat meというラベルのついた緑の瓶へと変身した。それを掴み、目の前の少女へと握りしめた手を伸ばす。
目の前の少女は非常に巨大な姿となっており、このまま歩いたりでもしたら国は荒らされてしまうし自分たちも潰されてしまうだろう。しかし彼女は明らかに怯え座ったままで、突然立ち上がるなどする様子はなかった。
少女は差し出された瓶を大きな手で慎重に受け取ると、それを瓶ごと食べてしまいそうになりながら飲み干した。
すると身体がみるみるうちに小さく変わっていき、自分達と同じ、具体的にはアリスと同じぐらいの身長へと変わった。
「な、なんで!?本当に『アリス』みたいに小さくなった……?なんで?!あ、あの、ここはどこなんですか……!?」
少女は困惑の色を隠しておらず、顔色も本来のものより更に白くなっている。
「まずは落ち着いてくれ。私たちはお前と話がしたいんだ」
アリスが落ち着くように促すと、少女は俯きながらもどうにか息を整える。視線の先も左右に行ったり来たりしていて忙しなかったが、段々と冷静さを取り戻したようでしばらくして彼女は顔を上げた。
「……ッごめんなさい、うまく状況が受け入れられなく……て……」
「気持ちはわかる。私も数日前まで同じ境遇だったからな」
「え、あなたも……!?」
少女は驚き、口元を手で触る。見たところ、素直な反応をする子なのだろう。
「お前も、目が覚めたらこの世界にいた。長い廊下を進んで、扉にたどり着いて今に至るんだろう」
彼女が巨大化していたところから推測するに、道中にあった『Eat me』と書かれたお菓子を口にしたのだろう。そしてそのまま這いつくばってかここまでたどり着いたのか。
「そうなんです、扉を開けようとしたら壊しちゃって……その、ここの備品?だとしたらごめんなさい!」
「いや、多分そういうのではないから気にしなくて良いと思うが……」
どうやら常識はしっかりしている子のようだ。姿勢が良く、立ち姿も礼儀正しく可愛らしい。
「私は……アリス。私の名前はアリスだ。そのはずで……、お前は?」
「わたしの名前は、さかえ、栄です!小桜 栄……!」
「……栄?」
アリスは疑問に思う。彼女の言葉が引っかかった。これまで出会ってきたこの国の住民は皆自身の名前を原作のキャラクターになぞらえて名乗っていた。チェシャ猫も、ハートの女王も、みんな。
しかし彼女は違う?見るからに彼女の容姿は物語に出てくる『アリス』のものであった。しかし、アリスを名乗っているのは……。段々と混乱してきて、頭を抱えてしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。気にするな。それよりこの国がどういう場所なのかわかっていない……んだろう?その説明の方が先じゃないか」
「明らかに不思議の国的なやつですよね!?これ……!えっと、これって、全部夢……?なんじゃないんですか……?」
この国の住民は皆、昏睡状態または死亡してここに訪れた者たちだ。つまり彼女も例に漏れず、そういうことなのだろうと思えばアリスはどう伝えるべきか困ってしまった。
「……もしかしてだが、ここにくる前……何かに殺されそうになったり、自分で命を絶っていたり……しないか?」
「え!?してませんよそんなこと!あ、でも……その、心当たりといえば……」
少し言いにくそうにして彼女は小さく言った。
「学校から帰る時、歩いていたら……後ろから急に誰かが来て、……それ、から、……身体が痛くて、痺れて…‥気を失って、そうしたらここにいたんです」
「……そうか、教えてくれてありがとう」
死んでしまったかもしれない世界だ、と教えるのは彼女の死が曖昧な今は酷だと思う。アリスは口を閉ざすことにした。
背後で気配を隠していたハートの女王が小さな声であの、と声をかけてくる。
「僕、国のみんなに教えてきますっ……栄さんのことはお二人に一度お任せします!」
そう言うと彼は足早に背を向けて他の住民の元へ向かった。
アリスとチェシャ猫、それに栄と名乗った少女は広場の噴水に腰掛けた。
栄も落ち着いたようで、ちょこんと足をそろえて座っている。その姿からは年相応の緊張が感じられた。
「あの、その……あなたは猫?本物の猫ちゃんの耳が生えてますけど……」
栄がチェシャ猫に問えば、彼はその場でくるりと回った。
「そうだよ、俺はチェシャ猫。さっきビビってたのはハートの女王」
栄は一つ一つを理解しようとしているが、上手くいかず目がぐるぐるとしていた。不思議の国、ただなぜそこに自分がいるのかわからない.そもそもこの世界が夢か本物かさえ怪しい。それは、アリスも思っていることだった。
「栄、と呼んでいいか。お前も気を抜いて私のことを好きに呼んでくれていい、見た感じ同い年ぐらいだろう」
「同い年……あっ、そっか、わたしは中学三年生だけど、ええと……」
そういえば、アリスはこの世界に来て自身の年齢に疑問を抱いたことはなかったが、思い出してみればその記憶はあるようだった。他のみんなはいくつなのだろうと思いながらも、アリスは自身の学年を口にする。
「私も、中学三年生だ。同学年だな、栄」
「!うん!よろしくね、アリスちゃん!」
栄、と呼ばれた少女は照れくさそうに微笑んだ。この国に来て初めて笑った彼女は、少し緊張がほぐれたように見えた。
「ちょっと、俺は〜?俺もそのくらいだよ、呼んでくれないの?」
「あっえっと……チェシャ猫くん!」
そう呼ばれるとどこか満足げに口角を上げ、にししと笑う。
「お腹、減ってないか。クッキーならあるんだが……」
「クッキー、もらっていいの?」
「ああ」
アリスは手を振り、その手のひらにトランプを出現させる。トランプを握れば、そこにはチョコチップクッキーが収まっていた。
「どうぞ。この国では欲しいと願ったものが手に入るんだ」
「え!?えっえ、す、すっごい……!?どうなってるの…?!」
彼女は困惑しながらも受け取るとありがとう、と口にする。そしてクッキーを齧れば、バターの芳醇な香りと味わいに思わず目を見開き口元を抑えた。美味しさに頬が緩んでいる。
「おいしい……!」
「だろう、この世界のクッキーは絶品なんだ」
どうしてかアリスはドヤ顔で言った。
そうしばらくして時計の針が進んだ頃、数人の足音がやってくる。
真っ先に辿り着いたのは三月うさぎ。相変わらず足が速く、他を置いて行っている。三月うさぎは栄の前までたどり着くと、またしても距離感を考えないスキンシップをお見舞いしようとしたため、アリスが間に入った。
「キミが栄ちゃん!?アリスより『アリス』みたい! !」
「三月うさぎ、落ち着け。怖がるだろ」
アリスが抑え距離を離しつつ後ろを振り返れば、栄は少し怯え緊張した態度に戻っていた。
次にかなり遅れて辿り着いたのは白うさぎ。
「へえ、彼女が……。ここに来て新しい住民?」
彼は三月うさぎを追いかけ息切れしていたが、冷静で、栄のことを上から下まで一度流し見した後距離を離した。
最後に辿り着いたのはハートの女王。白うさぎのすぐ後ろを走って、息切れもせずやってきた。追い越そうと思えばいつでも追い越せただろう。
「会いたいっておっしゃったので、案内してしまいました……!!すみません……!」
相変わらず謝り続ける彼は誰といても腰が低い。
しかし、そのほかは誰もいなかった。
「青虫は?」
「その……興味がなさげで……」
「帽子屋は?」
「寝てました……」
「眠りネズミは?」.
「人と会う気分じゃない……って言っていました。少し放っておいてあげたほうがいいかもしれません」
「そうか、ありがとう」
急に訪れた人々に栄は困惑しつつも、彼らに向けて立ち上がった。
「こんにちは!わたし栄って言います!怪しいものではないんです!」
栄が深くお辞儀をすれば彼女に向けて、次は三人が自己紹介をした。
「オレ、三月うさぎ!狂ったうさぎ!」
「僕は白うさぎ。よろしくね」
「ええと……僕は、ハートの女王……です、男ですが女王です……すみません……」
アリスはすかさず言った。
「栄はどうやら何か、歩いているときに何かをされて……ここにきたらしい。で、各自思っていることはあると思うが一度黙って欲しい。まだ混乱しているから、この世界の話をするのは後がいいと思うんだ」
その場にいた三人は頷いたりあー、だの言ったりしつつも口を閉じてくれた。アリスは三人が素直に従ってくれたことに内心ホッとしていた。
三月うさぎが手を叩きながら、はっきりとした声を発する。
「じゃあじゃあ!お茶会にしよう!栄ちゃんを混ぜて!みんなで!女王さまも一緒!」
「ええ!?」
栄が驚く隙もなく、三月うさぎは跳ねるようにお茶会の場へと歩き始めていた。それに続き、他のみんなもついていく。チェシャ猫は振り向き笑顔でアリスと栄へ聞いた。
「行かないの?」
「行こう、栄。まずはこの世界のことを知るには彼らに関わった方がいい」
「えっ?えっ……わ、わかった!」
そうしてアリスたちは草原に足を踏み入れた。蝶が舞い、あちらこちらで咲き誇る花が昨日とは違う色でアリスたちを出迎える。花吹雪の先には、いつものテーブルが待っている。
各自が自由な席に座れば、自然と栄の隣はアリスになっていた。
目の前には白いシルクのシーツがあるだけで、何も乗っていない。三月うさぎは楽しそうに、大袈裟に手を組んで祈るようなポーズをした。そして弾くように突然ぱっと腕を広げた。その先に、いくつものトランプが現れる。
それはひとつ、ふたつと姿を変えた。チーズタルトに、ベリーソースをアクセントにしたチョコレートケーキ。贅沢なフルーツロールケーキに、籠一杯のクッキーたち。お菓子の香りが広がり、食欲をそそられる。
白うさぎが指を弾き音を鳴らすと、トランプが現れた。次にそれは、ティーポットとティーカップ一式、それに茶葉へと変身した。
「さ、お茶会をはじめましょう!!」
「はじめようか」
栄は目を丸くして驚いている。アリスは目の前の素晴らしい光景に我慢を強いられていた。
「もう食べていいか?」
いいよ、と言われてすぐにチョコケーキへ手を伸ばした。口にすればこれも絶品。注がれた紅茶にはすでに角砂糖が二つ。アリスは周囲の会話を聞きながら食事を楽しむこととした。
チェシャ猫がみんなに話しかける。
「栄ちゃんは中学三年生なんだって、君たちそういえばアリスに年齢とかいってないじゃんね?」
アリスは言われて確かに、彼らの年齢を知らないことに気がついた。高校生ぐらいに見えていたためわざわざ聞こうと思わなかったのだ。
「三月と僕は17歳。双子だから誕生日も一緒」
白うさぎに続いてハートの女王がおずおずと小さく言った。
「僕は17歳です……高校二年生の」
意外性は無い。とはいえ、歳上扱いを今更するつもりもアリスにはなかった。周囲の会話を耳にしつつ、フルーツロールに挟まれた艶やかなキウイとクリームを口に運ぶ。
栄はミルクと砂糖を紅茶に入れ、美味しそうに飲んでいる。その他の住民たちも各々楽しみ始めていた。
▼視点:眠りネズミ
眠りネズミは、薄暗い洞窟で監視花に映る光景を見つめていた。座っているクッションは望んだ通り高品質で寝心地良さそうな柔らかいものであるというのに、心はまるで休まる気がしなかった。
視線の先には、アリスたちが映っている。お茶会として談話を交わし、食事を楽しみ、笑い合っている微笑ましい光景
。 そこにはアリスとチェシャ猫。双子の兄の白うさぎと弟の三月うさぎ。珍しくハートの女王。そして、先程この世界に現れたばかりの少女、栄がいた。
チェシャ猫はこちらの視線に気がついているのか、ふとした瞬間にカメラの方を見る。すぐに興味なさげに会話に戻ったが、ポーカーフェイスのせいで何を考えているのかまるで掴めない。
眠りネズミは長い袖を折り、顔を覆い隠す。ため息というには苦しげな空気が口から漏れる。
最悪だ。少なくとも眠りネズミにとってはそうだ。
アリス、どうか間違っても真相を明らかにしようだとかそんなことは言わないでおくれ。都合が悪いことこの上ない。たとえ手掛かりになるような進展があったとしても、目を背けておくれ!
そんな願いを込めて、眠りネズミはひとり手を組んだ。
▼視点:アリス
親睦を深める暫しのお茶会を楽しんで、白うさぎの持つ懐中時計が正しく針を進めた頃。雑談に雑談を重ねていたが、重要な進展は何も無かった。
そうしてピンクの空が暮れて、深い青色に変わっていく。双子をはじめに、アリスたちは解散することとなった。双子や女王はどのみち夜ご飯の時に出会うだろう。チェシャ猫はどこかに消えてしまったし、栄のことは城まで案内する必要がある。行き場のない栄はアリスと同じように城の一室を自室として使わせてもらうことになるだろう。
「なあ、栄。混乱を招かないため黙っていたんだが、そろそろ話しておかなくちゃいけないことがある。落ち着いて聞いて欲しいんだ」
「え……?うん、わかった……何の話?」
アリスが真剣な顔をして目を合わせれば、栄は身を固くして聞く体制をとった。
「この世界の住人はな、……現実では死んでいるかもしれないんだ。昏睡状態、というのが希望なんだが……」
「……え」
「……ショックを受けるだろうから、いつ言おうか迷っていたんだ」
栄は目を開き、眉が歪む。驚きだけではない強い感情。みんなはもちろん、自分自身も例外ではないということを察したのだろう。
「あ、りえない……よ、それは、だってわたしは死んだりしてない……!みんな、みんな死んじゃってる、なんて」
「何者かに襲われたんだろう……?だから……」
アリスは数秒、目を逸らしてしまった。どんな顔をすればいいか迷っていたのだ。しかし、そんな暇はなかったのだと再び向き合おうとした時に知る。
目の前の栄が突然、立っているのがやっとなほどふらふらとおぼつかない足元になっていた。ショックのせいかとアリスは疑ったが、わからない。咄嗟に身体を掴み支えると同時に、栄の身体から力が抜けその場に崩れ落ちた。アリスも支えきれず膝から崩れ、膝が地面に擦れたせいで血が滲む。
「いたっ……さ、栄!!しっかりしろ!大丈夫か!?」
返事はなかった。
完全に意識がないことを確認し、栄を運ぼうとする。しかしアリスでは力が足りず、咄嗟に手を掲げその場に『Drink me』と書かれた瓶を出現させる。蓋を取り、栄の唇にふちをつけゆっくりと飲ませた。
身体は少しずつ小さくなり、アリスでも運べるサイズになった頃腕に抱えて城の方へ走り出した。
城の一室を借り、ベッドに寝かせる。
医学に詳しい人間は誰もいなかった。ただ、無事であることを願うしかなかった。アリスは夜に出されたオリーブオイルの効いたパスタとカルパッチョを食べ終えると、自室に戻って眠ることとした。
朝、起きても栄が目覚める様子はなかった。アリスは新たな進展と異常に、不安と期待を抱きつつ彼女の目覚めを待つことにした。
▼ 栄視点
知らない部屋。白い天井に、カーテンに囲まれた自分。横を見れば点滴が自分につながっていた。
ここは病院なのだろう。手に握らされていたナースコールに力を込める。
「あれ……?わ、わたし……」
さっきまで不思議の国にいたはずだ。アリスという子と友達になって……それで、自分は死んでいるかもしれなかった。しかし開いたカーテンから見える外の景色は空色が眩しくて、ここが現実であると実感させられた。
やってきた看護師たち曰く、自分は何もない通路で倒れて意識を失っていたらしい。事故に遭ったような形跡はなく、目撃者の通行人が起こしても起きなかったため救急車を呼んだとのことだった。
呆然と空を眺めていれば、大好きな母と父が急いで来てくれた。
「大丈夫!?栄!よかった……!」
母が強く抱きしめれば、栄は小さく抱き返す。そうして自分に起きたことの実感がやっと追いついてきた。
「……夢だったんだ」
そうだ、あれは夢だったのだ。
全部夢だった。
夢だとしても楽しかったな。満更でもなかった栄は、いい夢から覚めた後の心地を噛み締めていた。
問題が見られず退院が許された栄はすぐに帰宅することができた。すっかり日常に戻ってしまった栄は母に大袈裟に心配されながらも、いつも通りの自室へ足を踏み入れる。
外は暗く、曇っていて星は見えない。関東の中でも都会の部類に住んでいる栄は、家で星が見れることなんて少なかったものだから、不思議の国が夜であれば星が見られたのだろうかなんて夢の中の世界に想いを馳せた。栄は昔両親が旅行に連れて行ってくれた時に見た幾つかの星に心を奪われてから、星が大好きだったのだ。
今日も同じ夢を見れたらいいな、と少しの期待をして今日は布団に転がることに決めた。
「そういえば、学校にいけるの久々だなぁ……」
栄の通う中学校は、最近ある騒ぎがあった。その影響で数日休校となっていたのだが、今日やっと再開したのだ。
それなのに早速、救急車に運ばれるほどの事態が自分の身に起きるとは思わなかった。しかしそれももう過ぎた非日常。明日の準備を終わらせ、軽く部屋の掃除をし、栄は水色の柔らかな布団に潜り込む。
目を閉じていると、頭の中で思考がぐるぐると回り始める。今日のこと、昨日のことを思い出して……ふと、違和感を抱く。
その違和感は通う中学校のこの間の騒ぎだ。あの事件だ。栄はそれに気がついた瞬間、思わず目を開き身体が硬直するような感覚を覚えた。
その事件は、三年生の生徒が屋上から飛び降りたという内容。
そしてその生徒の名前は──
「兎野アリス……」
兎野アリス。それが、飛び降りた少女の名前だった。




