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第1話「個性的なキャラクター」

 童話とは、人から人へ語り継がれる物語である。

 伝説をなぞらえたものもあれば、大人が子に伝えたい教訓にストーリー性を持たせたものもある。紙にインクで綴り読み聞かせ人から人へ共有され、それは時に偉大なる名作に姿を変えるだろう。


 不思議の国のアリス。これも例に漏れず名作であり、イギリスで生まれた児童文学でありながらその物語を愛する大人は数えきれない。


 この場で「アリス」と呼ばれた少女もその物語を知っていた。自身の記憶を全て忘れていても培った知識は取りこぼさずに済んでいたのが、不幸中の幸いである。自分と物語の中の主人公である『アリス』はそれはもう違う──そう思いながらも、菓子と蜜の香りが漂う確かな光景を目に焼き付けていた。


 アリス、アリス。声に呼応して意識が引き戻される。声の主であるチェシャ猫は屈んでアリスの顔を覗き込むと、重力に従って頭部が地に向かってズレて、突然の事にアリスは驚いた声を上げた。


「おっと、っと。俺の首が」

 チェシャ猫は平然とした顔で首から外れた頭を支え、マフラーで継ぎ目を包み隠す。上がった口角も声のトーンも変わる事なく、不思議現象を受け入れていた。

「く、首!」

「大丈夫だよアリス。これはいつものことだから。チェシャ猫だもの、人間の身体の仕組みに当てはめて考えちゃあいけないよ」

「そんなこと言われても」


 アリスは胸に手を当て自身の心臓がばくばくと音を立てているのを感じていた。しかし、止まったように感じた時がやっと動き出す。どれだけ理解に時間を必要としたか定かではなく、また確かめるすべもなかった。ただ、自身に置かれた状況と彼から先ほど言われた言葉を反芻していた。


 チェシャ猫曰く、この世界は昏睡状態の世界または死後の世界だというのだ。

 それはアリスとて例外ではなく、自身がそうであることを自覚していた。アリスはここに来るまでの記憶が無く、しかし覚えているのは自分が飛び降りて死んだという結果のみ。そこに至る過程が大事だというのに! 結末があるせいで彼のいうことを否定はできなかった。


チェシャ猫も、先程顔を合わせた白い兎の青年も若くして死へ結果が繋がった人物なのだ。そう思うと自分だけが慌てふためくことに申し訳がなくなるような気持ちを覚えたが、そんなことを知ってか知らずかチェシャ猫は彼女を主役とした。


「アリス。落ち着いた?」

「……いいや、まだ。だが、いつまでも立ち止まっているわけには……」

「そう?なら、向かいたい場所があるよ。さっきの白い兎くんが言っていたとおり城にキミを連れて行きたいんだ。それもアリスがこの世界を受け入れるなら、だけどね」

「どういうことだ……?」

「この世界を見ず、眠りたいだけならば目を閉じていてもいいんだよ。俺はそれも肯定するってこと」


 チェシャ猫は袖の余った手をアリスの目の前へやると、瞼に覆い被せようとした。だがアリスは腕を掴み、それを止める。


「いいや、その必要はない」

「どうして?」

「私はもっと今の状況を、世界を理解したいんだ」

 チェシャ猫はにやりと笑った。

「そういうと思っていたよ。ならば、背負ってでも行こう」

 城へ続く道を2人は歩き始めた。


 赤と白で彩られた西風の城は近づくたびに存在感が増す。これが現実であれば外観デザインには間違いなく一流の職人が携わっているだろう。いつしか道の周りは低木が囲んでおり、咲いている薔薇はペンキの塗られていない白薔薇ばかり。橋を渡り、階段をのぼれば中へ繋がる扉が見える。


 辿り着いた先は王の間だった。シャンデリアはダイヤモンドが散りばめられたように輝いて、レッドカーペットには薔薇の刺繍がされている。見惚れるようなその空間には、誰もいない。チェシャ猫はキョロキョロと辺りを見渡し声をかける。


「おーい来客だよー。ホントだってー。主人公をお迎えしてよー」

 反応はなく、子供2人には有り余る広い空間に声が放り投げられただけだった。

「ふぅん。いないね。いると思ったんだけどなぁ。もうちょっと探そうっか」

「わかった」


 アリスが頷いた時だ。背後でいくつかの物を落としたような音がした。

 急いで振り向けば、そこには背の高い1人の青年がいた。彼はアリスを見て果実のような赤とピンクの混ざった目を見開き、腕に抱えていたであろう何冊かの本を床に手放していた。派手な赤いメッシュが入った黒髪は今時の流行をゆく若者の象徴のようだったが、本人はそんな印象を与える人物でなかった。


「あ、りす……?」

 やっとのことで絞りだしたような声は上擦って可哀想なほどに震えていた。その身長からどうすればそんな弱気な態度を感じさせるのだろう。しかし服装が弱者のそれというわけではなく紅のマントを羽織った姿は王様のものだった。


「……誰だ?」

 彼は動揺しながらも手を口元に当て、ヒールのある靴でコツコツと固い音を立ててアリスの元へ寄った。彼は信じられないものを見るように屈んでアリスの顔を見る。アリスもまた彼を近くで見れば、その瞳は潤んでおり微かに震えていることに気がついた。


「……!?お前、泣いているのか」

「えっ!ち、ちが!違うんです!」


 青年は慌てて立ち上がり身体を引く。アリスは目元を拭おうと咄嗟に腕を伸ばしたが、既に届かなかった。身長差のあまり、今伸ばしても届かせるのは難しいだろう。


「ご、ごめんなさ……すぐに泣いてしまう体質、なんです。気にしないで!その、泣かせたとかじゃ……なくてですね……」

 ぱくぱくと口を動かし、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「ぁ……僕、は。僕は……ハートの女王。不思議の国にようこそ……?アリス……」

 彼は威厳もなくぺこ、と頭を下げた。


「女王?……女王?」

「あっ!!ええと、男です!見た目通りの!なんですけど、その、この世界ではなぜか女王ってことで扱われていて……」

 混乱し考察する前に真相を説明してくれるところはいいところだ、とアリスは内心で褒めた。幸い彼のような態度が嫌いというわけではなかったので、アリスは構わずハートの女王の目をまっすぐと見た。彼はすぐに逸らしてしまったのだが。


「あの、来てくれてありがとう……。もっと早く、お迎えに来た方がよかったんですけど……声が聞こえて来たって感じなので……」

「いや、いい。会ってくれてありがとう。……で、お前がこの国の王様……なのか?」

「はい。そうです……一応は……」

「そうか。チェシャ猫や白うさぎが会った方がいいと……なあチェシャ猫」

「え? ああ!」

 突然呼ばれたチェシャ猫は尻尾を揺らし応えた。


「まあアリスは来たばかりだし、状況を理解したいっていうなら全てを統べる女王様には会っておいた方がいいでしょ?あともう一個理由はあったんだけどさ……」

「理由?」

「忘れちゃった。アリスと同じ!」

 それを聞いたハートの女王は慌ててアリスの顔を見た。そうして再び視線が合うと、女王は自ら質問を投げかける。

「アリスと同じって……何か忘れちゃったことがあるんですか!?」

「え? 何かっていうか」

「この子記憶喪失だよ〜」

「記憶喪失!?」

「次々とすまない。ええと……だな」

「あ、死んだ記憶はあるみたい」

「え!?」


 順を追って話すということがチェシャ猫の概念にはないのだろうか。アリスはそう疑った。同時に頭を抱えそうになったが、そんな状況は女王も同じらしい。アリスは彼に説明すべく脳内で順序を立て、口に出す。


「飛び降りて死んだはずなんだが……気がついたらこの世界にいて、そこをチェシャ猫に案内してもらっている。何故死んだのかはわからないんだ」

「……そ、そうですか。わあ……」

 驚いたような、困ったような顔を見せる。


「不思議の国のアリス、は知っていますか……? わからなければ図書室から持って来ますけど……」

「ああ、それは知っている。この世界とよく似ている……」

「そうです、その童話です。ここは童話の世界のようなんですけど、細かなことは違うんです。例えば僕は男だし、白うさぎは獣ではなく人のような形をしています……」

「何より、ここにいるのはみんな死んでいるっていうんだろう。……確認なんだが、女王様も?」

「女王様なんてかしこまった呼び名じゃなくていいですよ! ただ……その、はい。僕も例外ではありません……」

「……そうか。つらいことを聞いていたらすまない」

「いえ!いいんです!情報共有は大事ですから」


 手をぱたぱたとさせ否定する。ハートの女王も死んでいる、ということを踏まえてアリスは彼を観察したが頬の色は高揚したように赤くなっている。彼は黒く芯の通ったもみあげの髪束を指先でいじり、視線を下げる。


「あの、今からお辛いことを僕の方からも聞いてしまうかもしれない……んですけど、大丈夫ですか……?すみません」

「ああ、大丈夫だ。なんだ」

「アリスは自殺、なんですか?」

「……そうだが……そうだと思う、が」

そう……ですか。彼は小さく応えるが、少し考えた後にこう口に出した。

「あの、他殺、の可能性は?」

「……!?他殺……、考えていなかった。が、おそらくは自分で……。いや、確かじゃない。そこも記憶がないから……。そう聞くと言うことは、まさかお前……」


 ハートの女王は言いづらそうに口を閉ざし、瞳を右上へやる。顔色は先程と比べて随分と悪くなり、青ざめているような気さえする。やがて彼は目をほんの少しだけ伏せて、自身の思考を伝えることにした。

「僕、他殺なんです。死んだのは同じなんですけど……」

「たさ、つ……」


 つまり、ここにいるもの同士とはいえど同じ死因ではない。チェシャ猫の方を見ると彼は笑いながらふいと天井を見上げた。


「殺されたんです!僕は……。間違いなく、だってそんなつもりはなかったんです。なんですけど、はい……。実際に今生きているのか死んでいるのかはわかりませんっけど……!」

 少し興奮したように声のボリュームが上下する。焦りが伝わり、アリスは落ち着かせようと手を取る。実際ハートの女王の首筋には冷や汗が伝っているのをアリスは見ていなかったのだが。


「落ち着いてくれ。わかった、わかったから。一旦息を……」

「!すみ、すみません!! ごめんなさい!! 過ぎたことを……! 僕のことなんか話しても仕方ないのにっ」

「いや助かる。その情報は自分の状況にも繋がることだから……」


 アリスは一度脳内を整理した。新たにわかったことは、彼は他殺。自分は自殺……だと思っていること。

 ハートの女王は息が上手く吸えず、呼吸に苦労していた。アリスは過呼吸だと判断し、呼吸法を1から教えた。彼は意識して息を吸って、吸って、やっと吐く。荒い間違った呼吸が正しいものになるまでに時間をかける。溺れるような感覚を取り払えば、青ざめた女王は正気を取り戻すと同時に罪悪感に押しつぶされそうになっていた。一方アリスは、ハートの女王の耳に大量のピアスが開いていることに少し驚いていた。


「すみません……。迷惑、おかけしました」

「そんなことは気にするな。ええと……座って休んだ方がいい」

 アリスが玉座を指さすが、首を横に振る。

「あの! それより、僕のことよりアリスのことです。状況は一刻も早く把握できた方がいいですし、他の人にも会ったほうがいい……と思います。僕はアリスのこと、わかりましたし……」

「それは……そうだな、確かにある」


 そう言うとチェシャ猫がえー、だの声を上げる。宙をごろんと寝転がって眉をひそめた。


「会うって、誰に?参考になると思う?女王様」

「えっ……な、なる……と、おもいます……けど……」

 女王の声はみるみるうちに小さくなっていき、果てには消えてしまった。

「ま、試してみるのは手だよね!俺もそう思ってるよ、実はね」

 チェシャ猫はアリスの手を取る。

「アリス。あの、僕……アリスのことちゃんと考えておきますから、何かお役に立つことが……あるように」

「ありがとう、女王様。……いや、女王様じゃ嫌なんだったか」

 アリスはチェシャ猫に握られた手を握り返しつつも、ハートの女王と交えた視線を外さなかった。

「様を外して女王、ハートとか?」

「はい……!アリス!」

 青年は手を振り、アリスは振り返す。王の間を出れば、静かな廊下が広がっている。

「なあ、次は誰の元に行くんだ」

「んー?んー……会えた子かな。居場所がわかってる人はいるんだけど」

「どんな奴だ」

「秘密」


 木製の看板と手の温もりに導かれるまま進んだ先、草原を歩く。道なりに一つ大きなテーブルが置かれていた。

 非常に縦長で白いテーブルクロスの上にはオレンジの太陽が宿る燭台、数々の皿には色とりどりのケーキやお菓子が乗せられている。

 そして視界に映るのは2人の青年がいるところだった。


 1人は前にも出会った、白うさぎだ。相変わらずミステリアスな風貌で、優しく語りかける声はもう1人にかき消されている。

 もう片方は、茶髪の青年だった。背格好は白うさぎに似ていたが、声の大きさや態度はまるで違った。彼は席に座ることなく大きく腕を動かしながら演じるようにその場で踊り喋り狂っている。兎耳が忙しなく揺れる。

 白うさぎがこちらに気が付けば、茶髪の青年に、そしてアリスらに声をかけた。

「ほら、三月。お客様だよ」


 三月、そう呼ばれた青年はぴたりと動きを止め振り返る。一度強い風に吹かれたあと、我に返ったようにすぐにアリスのもとに駆け寄った。そのスピードはどこから出たのだろうか。彼はアリスの目の前で急ブレーキをして、顔をじっと見た。


「うわー!!誰!?はじめまして!」

「は……はじめまして」


 アリスは流石に少し身体を引かせた。その分近づくものだから、チェシャ猫の尻尾が間に入る。


「ん?んん……誰?どういうキャラクターかぜんぜんわかんない!フリフリだね!かわいい!」

 顔を左右に動かしアリスを観察する。こら、と静止する声がテーブル席の方から聞こえたがそんなことお構いなし。


「私はアリス。さっきここに来たばかりだ」

「アリス!!ああ、だからリボンとかついてるんだ、かわいいね!」

「ありがとう……?」

 やっと白うさぎが追いつけば、肩を掴み自身の方へ引き寄せる。


「三月。女の子相手にじろじろ見ちゃ失礼だよ」

「あ!ごめんね!!」

 彼は姿勢を良くして胸元に手を当て、大袈裟にカーテンコールのようなお辞儀をした。


「オレは三月うさぎ!三月うさぎだよ!気が狂っているお茶会の兎!」


 自分でそう元気よく宣言した彼の顔は、白うさぎによく似ていた。白うさぎほどでは無いがよく見れば整っているように感じた。しかし、見開かれた目は瞳孔が開いている。程よく筋肉のついた身体が隙間の空いたデザインの服から見えるが、アリスにとってそれは大した問題ではない。


「紹介するよ。三月うさぎはね、僕の双子の弟なんだ。そっくりだと思ったでしょ」

「まあ……確かに似ている。印象は違うが」

「あはは、よく言われる」


 笑い慣れた白うさぎの睫毛は一本一本が透き通るように白く美しい。対して三月うさぎの髪は荒れ果て、ツヤがなくはねた枝毛が目立つ。


「ねえアリスはなんで来たの!?どこまで聞いてる!?」

「この世界がその……死後かもしれないってことは。ただ私、記憶がないんだ。だから死んだ理由とかまでは説明できなくて……」

「へー!記憶喪失!?面白いね!いいなーそれ!」


 再び静止する声がした。白うさぎが肩を掴み引っ張り上げる光景は二度目だった。


「人の不幸を羨むものじゃないよ、三月」

「不幸……と言えばそうなのか……?ふむ……」

「オレはねー自分でやった!薬ヤって死んだ!あっはは!」

自殺、というのは自分と同じだとアリスは思った。しかし対話は難しそうで、物理的接触を図るのはやめにした。


「私も……自殺なんだ。そこまではわかっている……」

「そうなんだ」兎2人の声が重なる。

白うさぎはテーブルへと向かって、アリスたちに背を向け案内をするように手招いた。


「まあアリスも来たばかりなんだからさ、座って話そう。お茶を淹れるよ、アリスは紅茶とかお菓子とか好き?」

「……わからない。そこの記憶はないな」

「じゃあ用意してあげよう」

 茶葉から抽出された紅茶には花びらが浮かび、かぐわしい香りを空気に溶けさせる。白うさぎは人数分用意し終わると自分の分をティーカップに注ぐ。

 アリスは一口飲むと苦味に顔をしかめた。


「ん、アリス。砂糖いる?俺のオススメは角砂糖3つ」

「多くないかそれは……?」

 疑いつつも、チェシャ猫の言う通り角砂糖を一つずつ入れ試し飲みすると3つで丁度いいことに気がつく。少し不服な気持ちになりつつも、美味しさに心が微かに癒されるのを感じた。紅茶が随分と好きなようだと自分の好みを知る。

 手に取ったクッキーはバターがたっぷり含まれていて、表面のざらざらとした砂糖の感触が舌を撫でた。アリスは次第に夢中になり、子供っぽくクッキーを次々に口へ放り込んだ。

 誕生日席に座る白うさぎは微笑んで問いかける。


「美味しい?」

「美味しい……」

「よかった」


 しばらく食事を楽しめば、あっという間にティーカップは空になって、それにまた注ぐことを幾度か繰り返していた。満足した頃、さらに乗っていた艶やかなイチゴタルトも姿を消していた。


「それで、2人が知っていることはこれ以上ないのか?」

「アリス、冷静を気取っても食いしん坊は隠せてないよ」


 チェシャ猫はアリスの食べっぷりを隣で見ていたせいか、自分の分はちっとも減っていない。誕生日席に座る白うさぎは騒がしい三月うさぎの代わりに答えた。

「他殺の可能性とか、そう言うのについては全くわからないなぁ。僕から出せる情報は少ないみたい。他の人にも聞いて回った方がいいかもね、誰がどう知っているかわからないけれど」

「そうか……」

「この国の住人はね、案外この環境に疑問を持ったりしていないんだよ。興味がないのか、あっても口の奥にしまい込んでいる。だから情報も回らない」


 白うさぎは音を立てず無糖の紅茶を飲み干した。

「自分たちは死んでいるんだろう、気にならないのか……?」

 三月うさぎが大きく声を上げる。

「ああ!わかった!あの人のもとに行こうよ!すぐ近くだよ、いってらっしゃい!」

「あの人?」


 ああ、あの人。という顔をアリス以外の2人はしていた。頷いて同意見。


「情報管理はお手のもの!頼りにならない鼠がいるんだよ!そう、ティーポットのなかに……」

 三月うさぎが狭いティーポットの蓋を開け覗き込む。あれ、と首を傾げる。いるはずなのに、どこにもいない。白うさぎが片割れに捕捉した。


「その中にはいないよ。ティーポットのような建物にいるんだけれどね。アリス、案内するよ。白うさぎとしてね」


 白うさぎが立ち上がったのにアリスは着いていくことにした。草原から外れた森の中、いくつかの木を抜けて歩いたすぐ近くにそれはあった。

 イースターエッグがティーポットになったような色と形。ちょっとした小屋のサイズあるそれは、陶器で出来ている。成人サイズの扉には『ねずみ』と書いている。

「あれだよ。いってらっしゃい、あの中にあの人はいるし……起きていれば相手してくれるはずさ。寝ていたら起きるまで待たないといけないけど」

「……確かめた方が早いな。行ってくる」

 アリスは意を決して白うさぎ達を置いて1人、扉を何度か叩く。反応がないのを見て開けた瞬間、浮遊感が襲った。


「あ!ちょっと待って」

「は!?」


 このことを言い損ねたのだろうか。浮遊感はアリスにとって好ましくない体験だった。アリスは暗い穴を落ちていく。

 少し落ちた先、ふわふわのクッションが身体を受け止める。痛くは無いが、不快感が脳を這いずる。見渡せばそこは暗い洞窟のような空間で、エメラルドグリーンに発光する蛍が飛んでいる。淡く光る、アリスの身体ほどある巨大な花がいくつも咲いていた。その中央のおしべに付着する雫が鏡のようにアリスをうつしだす。

 否、そこにある姿はアリスだけではなかった。

 鏡にうつる1人の男性。アリスの目の前にいる男性。

「はじめましてぇ、アリス」

 金髪の眼鏡をかけた鼠耳の男性、眠りネズミは瞼を擦りながらも彼女を迎えたのだった。


暗い洞窟、光る花の輝きが金色の髪を透かす。反射する眼鏡レンズの向こうには橙色の瞳をおっとりとした垂れ目気味の瞼が被さっていた。

 歳の頃は二十代後半、もしくは三十代だろうか。背は猫背で本来より低く見え、衣服は桃色に水玉模様の子供っぽい寝巻きだった。

 鼠耳の男性はにこにこと幼く笑って言った。


「ようこそアリス〜! 待ってたよぉ〜」

「は、はあ……はじめましてだが、私のことを知っているのか?」

「うん! ほら見てぇ」

 腕ごと差し示した先には巨大なおしべ、それに浮かぶ雫があった。雫は鏡の役割を果たしていたが、瞬く間に映す光景を変える。そこにはアリスが目覚めたあの空間が映されていた。


「これはね、いわゆる監視カメラ!みたいな役割だよぉ〜プライバシーがあるから、主に誰かが目覚めてやって来るまでの空間を映すためのものだけどねぇ〜」

「じゃあ私が起きたところを見ていたってことか……?」

「そうだよぉ、ごめんね〜」

「なら話が早いんじゃないか。チェシャ猫との会話は聞いていたか?もしも聞いていたとしたら、私が記憶喪失なのも……」

「うん!ばっちり把握済み〜」


 男性は袖の中でジェスチャーをしながらも、笑顔で答えた。アリスのことに動揺していないところを見る限り本当だろう。だがアリスはどこか信用のおけない男だと思った。


「ぼくはね、眠りネズミだよぉ。こう見えても子供なんだあ、見た目は大人だけど〜」

 太い眉を下げてへらりと笑う。

「なら、眠りネズミ。あんたはこの世界の色んなことを知っているのか?監視カメラもあるぐらいなんだから……」

「んー、ここは死後の世界だよ!以上〜」


 口を揃えて言うのはこれだ。共通で知っている、この世界の最大の情報はこれなのかもしれない。アリスはそう思ったが、どうも目の前の男を信じきれなかった。


「昏睡している可能性だってあるんだろう、眠りネズミはここを死後の世界だと断定しているような言い方だな……」

「だって、昏睡状態なんていうのはみんなの希望的観測だよ?本当はみんなこの世界に来て、真実を確かめる術を知らないもん!だからぼくは死後の世界だとおもってるよ〜」

「死後の世界だとしたら、もう……」

 疑問はたくさんあれど、はじめに出て来る言葉はこれだった。

「現実には戻れないのか?」

 眠りネズミは眠たげな声を喉から鳴らし、答えた。

「うん。戻れないと思うよぉ」

「……そう」


「なら、せめて私は何故自分が死んでしまったのかを明らかにしたい。無意味でも、それで後悔しようと」

「……ええ?なんで?」

 心底わからないといった様子で眠りネズミは身体ごと首を傾けた。そして忠告の如く説得を試みた。

「でも、死んでいたらそこで終わりだよ?わからないよなにも、死んだ理由なんて確証が得られることじゃ無いんだし……」

「何かをきっかけに記憶を思い出すかもしれない。それに賭ければ、可能性はある」

「え〜忘れた方がいいことだって思い出しちゃうかもしれないし、やめておいた方がいいのに」

「随分と後ろ向きだな、眠りネズミは」


 眠りネズミはその言葉を受けて、顔を伏せた。余った袖で顔を隠して身体を揺らす。どう言う感情の表れか。


「実際できないと思うけどなぁ。でも頑張りたいなら応援するよぉ、がんばれ〜」

「思っていないだろう……」

 花の雫は濁り、何も映さなくなる。眠りネズミの足元にトランプが散り、それが瞬く間に回転椅子へと変わった。見るからにふかふかのそれに座り込むと、眠りネズミは足を浮かせ子供のように回転する。


「帰る時はハシゴを使うといいよ〜次からは来る時もね〜」

 そう言うと眠りネズミはいつの間にか目の前に浮いた雲の塊に顔を埋める。

「眠りネズミ?」

 反応はない。近づいて聞こえるのは寝息だけだ。こんな一瞬で寝てしまったのか、無視を決め込まれているのか。アリスはため息混じりにハシゴを登って行った。



「おかえりアリス」

チェシャ猫がふわりとアリスのそばへ滑り込む。目の前のお茶会には、戻ってきたアリスを見守る白うさぎとその隣で大声でおかえりを言う三月うさぎがいた。

 三月うさぎは席から立ちあがる。


「アリス!どうだった!?あの人、変だったでしょ!」

「変とか言わないの、三月」

「ああ……まあ、変わった人だったな……?」


 不思議な人ではあった。精神年齢と見た目が反している、という印象に落ち着いた眠りネズミの存在は、あまり頼りにできない分類となってしまった。

 「ねえ、何かわかったことあったの?」


 白うさぎが問う。わかったことは増えていない。だが、決めたことがアリスにはあった。


「無い。けれどすることは決めた。私は何故死んだのか、自分の過去を追いかける」

 うさぎ達は驚いたようにして、白うさぎはへぇと声を漏らした。

「なんで!?過去なんて絶対いらないのにー!」

「私はいると思うからだ。わからないというのは、気に食わない」

 チェシャ猫は「そういう気質だってことね」と高い口笛を鳴らす。


「だから、私はとりあえずこの国に住む住民全員に会ってみる。そこから色々考えることとする。白うさぎ、お菓子と紅茶をありがとう。またお茶会の機会があれば」

「うん、是非」

 アリスはお茶会に別れを告げ、チェシャ猫の手を引いた。

「なあ、ほかに誰がいる?連れて行ってくれよ、チェシャ猫」

「仰せのままに、俺たちのアリス」

 チェシャ猫は引かれた手を追い抜いて、アリスを引っ張って行った。



 背を越えるカサをもつキノコの群れを抜いて雑草を踏み歩く。近くにある大きな湖の水面は蝶を反射していて、澄んだ水を積み木で造られたアヒルが泳いでいた。いくつかのキノコに出会い続けて、その先に彼はいた。

 無精髭を生やした、これも成人男性。彼とアリスはしばらく黙ってお互いを見ていたが、彼はふかしていたタバコを消して沈黙を破った。

「アンタ、見ない顔だな」

「私はアリスという。数時間前に来たばかりの新参者だ」

「ハッ、新参と自己紹介ができるならいい奴だな」

 目つきは悪いが、会話は成り立ちそうだ。彼はタバコを吸って虚空を見つめている関わってはいけなそうな人間だったのだが、見た目で人を判断するものでは無い。

 芋虫に似た、太いボーダー柄のフードをかぶっている。何より特徴的だったのは6本の腕だ。腕が多い人間というのは初めて見るものだったから、アリスは黙って観察してしまっていた。

「おれは青虫。原作ならいもむしだけど、青いからこう呼ばれている。アンタも好きに呼べ」

「なら、青虫で。私も好きに呼んでくれていい」

「じゃあ、嬢ちゃん。アリスと呼ぶのはなんだか気が引けるんでな」

「嬢ちゃん!?」

 予想外のことに少し驚いた。が、アリスは気を取り直してこれまでの経緯を全て説明した。案外芋虫は落ち着いて聞いていて、時々相槌のように頷くばかりだった。

「で、記憶喪失だけどそれを思い出したいと」

「そうだ」

「手伝ってやってくださいよ青虫さーん」

 チェシャ猫がニシシと笑う。

「粗方理解した。が、協力できるとは言わねえ。面倒だし、何より実際協力できることが少なすぎる」

 説得が通じる相手であることは確かだが、協力を得られるかは別の話だ。そもそも、情報がこれ以上得られるという期待はアリスにもさほどなかった。

 「でもまだガキンチョだろ。中学生ぐらいの。だったら放っておくのは大人としてあるべき姿では無い、困っていたら助けてやるよ」

 再びタバコを取り出すと、しっしと手をやった。


 次に訪れたのは、再び女王の城だった。

 時刻は変わり、いつの間にか空は紫とオレンジに色を染めていた。先程はハートの女王以外の人間がいる気配は無かったが、今ではいる人間はいた。

 それは、城に用意された部屋だった。チェシャ猫に聞いたところ、女王の城では一部住民を受け入れ家として提供しているらしい。それは食事や湯船、安全な個室に至るまで。

 この時間であれば食事を取るためにも城に帰ってきているだろう、そう読んで2人は訪れたのだ。そしてその予想通り狙いの人物は帰宅した。


「え?……ど、どなたです?」

 トップハットを被った青年。焦げた茶色の前髪は長すぎて目元が見えない。


「あの〜……はじめましてなんスけど〜…」

「申し遅れた、私はアリスだ」

「あ!アリスさん!三月チャンが言っていた!」

 三月チャンというのは三月うさぎのことだろうか、と片隅で考えた。だとすればこの2人は仲がいいのかもしれない。


「俺は帽子屋っていいま〜ッス……まあ、その、普通の人間なんで、あんまお気になさらず〜」

 ぺこぺこと軽く会釈して来るのに、アリスも一度の礼で返す。よく見ればそばかすが多く目立つ顔で、笑顔のついでにわかったことは口の中がかき氷を食べた時のように青いこと。


「あ!ええーとそろご飯の時間なんで!また!」

 と足早に去ってしまった。あまり人とのコミュニケーションに慣れていないのかもしれない。


「女の子慣れしてないんじゃ無いかな」

 チェシャ猫はズバリと言った。


 ステンドグラスから見る空は、暗い青で創られた水彩画のようになっていた。


「夕食、一緒に食べませんか?」

 そう誘ってきたのはハートの女王だった。下を見ながらも緊張したように言う姿は前見た時と変わっていない。

 承諾したアリスは、チェシャ猫とともに案内されダイニングルームへと足を運んだ。そこには三月うさぎ、白うさぎもいて、さっき出会ったばかりの帽子屋もいる。皆着席して各自食事をとり談話を楽しんでいた。


「あ!!アリスー!!こんばんはー!」

 もごもごと口に含んだものを一気に飲み込み三月うさぎは手を振った。それをきっかけに皆がアリスの存在に気がつく。空席はいくつかあったにも関わらず、チェシャ猫は誕生日席の椅子を引いてアリスを座らせた。

「じゃ、じゃあっあのっ皆さんっ僕追加のご飯持ってきますので……」

「女王が?一応国王なんじゃ……私も手伝うよ」

「い!いえアリスにそそそそんなことをさせるわけにはッ!」


 アリスがついて行くとヒィ〜と小さく悲鳴を上げながらも、キッチンの方へと向かった。キッチンには肉の焼けるいい匂いと香辛料の香り、フライパンで油が踊る音に刻んだ野菜と肉を小麦粉を練ったもので包む光景。キッチンというよりは、レストランの厨房。


「ここで作ってるのか」

「はい!普段の僕のお昼ご飯とか、お茶会のお菓子とかは違うんですけどね……」

「え?誰が作ってるんだ?」

「えっ?あの……ポンって。あれ、聞いてませんか?」

 聞いていない。

「あの、後でお時間ください!説明します!」

 そしてコーンスープを自らの手で注ぐと、手慣れたように皿を器用にいくつか持ってダイニングへと戻って行った。

 そして、アリスの前に料理が並べられる。

 どれも美味しそうで、アリスは手を合わせた。

「いただきます」

 口にすればどれも絶品で、賑やかな談笑の内容はまるで届かなくなってしまった。自分の世界に浸り、ただただ感動する。


 それをいつからか見ていたハートの女王と目が合うと彼はハッとしたように顔を背けた。

 そうして夕食会が終わり、終わった後も少し談笑していた。そして白うさぎが「僕はもう戻るね」と席を立ったことをきっかけに、三月うさぎが。それにつられて帽子屋が戻って行くこととなった。

 アリスの目の前の皿は空になり、チェシャ猫も立ちあがろうとする。


「アリス、行く?」

「…………り」

「え?」

「おかわり、あるだろうか……?」


 アリスがひとしきり満足した後、ハートの女王が言っていた通り彼について行くことにした。チェシャ猫も一緒だ。


「あの、説明したいことなんですけど……」

「ああ」

「能力、について知っています?」

「知らない」


 チェシャ猫を2人して見るが、忘れていたよというような顔だった。


「共通して……ここの住民は、『欲しいと思ったものをその場に現す』ことができるんです。例えば、お茶会のお菓子や茶葉や茶器といったものは全てその場に必要だからと願って出現させたものなんです。」


 思い返せば、とアリスは手首を見る。手首の手当てをする時、チェシャ猫はどこからか包帯を現した。それにこの手首の袖飾りも、チェシャ猫がぽんと現したものだった。


「実際にこの場でもできる……と、思います」

 そう言うとハートの女王はぶんと腕を横にきると、手のひらにトランプがひらりと現れ、それが薔薇の小さな花束になった。


「こういうこと……です」

 そしてその花束を、アリスに手渡した。

「あの、アリスに用意したお部屋……花瓶があるので、そこに是非……あの、目障りでしたらやめてくれても……」

「ありがたく飾らせてもらうよ。ありがとう」

 感謝を述べると彼はぱあと顔を明るくした。そしてにこりと嬉しそうに笑う。

「で、では、良き夜をお過ごしください!」

「ああ、おやすみ」


 個室前、チェシャ猫とアリスは顔を合わせていた。

「私は私の記憶を取り戻したい。なぜ自分が死んだのかを知りたい。それにお前は──」

「キミがそう思うなら、俺は肯定するよ」

「なら協力してくれるか?」

「協力、になるのかな。キミがしたいと思ったことを俺はしたいだけだよ。でも見守りはする」

「放任主義だなお前は……わかった、見守るだけでもいい。付き合ってくれるか」

「仰せのままにね、アリス」


 個室の布団で、やっと1人になった。花瓶に薔薇を飾り、高級品質なベッドに埋まれば布団に包まれ夢見心地だった。今日はどうしようもなく疲れた。

 時計は4時を示しているのに、外は真っ暗闇だった。時計がおかしいのか、この世界の時間が狂っているのだろうか。

 アリスは考えることは明日に回した。これ以上睡魔に抗うことはできず……眠りについた。


 そうして起きて、国中を見て回って、何かキッカケが起きないかと繰り返しながら三度目の夕食。数日をこの不思議な国で過ごしてきたが、随分と慣れてきた。

 指先にトランプをつまみ、それをクッキーへと変化させ口に含んだ。やはり脂質と糖質はハズレがない。

 国の住人には全員会ったが、自身らの置かれている環境について詳しく知っている者はいなかった。それか、知っていて口を閉ざしているのだろう。


 記憶を思い出すキッカケも掴めない。ショックを受けるようなこともなく、アリスは早々に詰んでしまったのだ。

 自分の死んだ理由を明らかにすると意気込んでおきながら、眠りネズミの言っていた通りそもそも難しい話だったのだ。

 頭を悩ませるアリス。4度目の朝が来て時計の針が少し進んだ頃、ハートの女王から声をかけられた。


「あの、アリス。よければ紅茶でも飲みませんか?」


 ハートの女王は、初めて会った時と比べていくらかは緊張が解けていた。この数日間で、アリスと今では友達のように会話を交わしている。

「女王か。お前とお茶会……をするのは初めてだな。うん、飲もう」

「!ありがとう……」

 ハートの女王が用意した客室には、4人で座れる石造りのテーブルがあった。ハートの女王は紅茶を淹れると、アリスに差し出した。


「確か、角砂糖は3つでミルクは無しでしたよね」


 彼に教えていただろうか?もしかしたら白うさぎたちの誰かが伝えてくれたのかもしれない、と思いつつも当てられたことにほんの少し驚く。

 アリスを見ていた女王は口元を緩め、目を細めた。記憶を思い出すきっかけになるかもしれない、という建前の談笑をぎこちなくすればくすくすと笑った。

 ふと、アリスは窓の外を見る。何故か違和感を感じたが、その正体はわからなかった。

「……?なあ、外が何かいつもと違わないか?」

「え?外……?」

 ハートの女王もつられて見る。じっと観察して思考を回す。何かに気づいたように彼はぽつりと小さく言った。

「蝶たちが……騒がしい……?」

 聞いて注目すれば、薔薇の低木に群れる蝶がいつもより暴れているように感じた。風は強く、天候に変化が起こるのはアリスが不思議の国に来てから初めてのことだった。

 その時、花束を直接嗅いだような香りがその場に広がる。宙に紫の煙が出て、塊となり、人型を形成した。この現象をアリスは知っている、チェシャ猫の登場だ。

 チェシャ猫は宙から現れ床に足をつけると、アリスと視線を合わせて告げた。


「大変だアリス。"誰か"がこの国に現れた」


 情報の主は眠りネズミだった。

 寝ぼけ眼で監視花を見た時、そこに1人の女の子が映っていたというのだ。チェシャ猫はそれに迎えに行こうといたが、アリスを連れて行かなければいけない気がして先にアリスの元へやって来たと。

 アリス達が向かった先は噴水のある広場、そこには今までになかった水色の扉が現れている。

 急いで来たせいで少し脇腹が痛い。

 広場の時計が針を進めると、国全体に連絡を済ませたハートの女王が遅れてやってくる。チェシャ猫とアリスと、3人で新たな住人の予感に空気が張り詰める。


「チェシャ猫、迎えに行った方がいいんじゃないか……私の時みたいに」

 チェシャ猫は首を横に振り、すんなりと提案を拒否した。

「いや、今回はやめておくよ。アリスが特別だったんだ」

 その時、扉に亀裂が走る。何事かとそちらを見れば音を立て扉が壊れていき、埃が舞い上がった。『扉』から現れたのは巨大で女性的な手だった。それは腕に繋がり、煙の中から段々と姿を見せる。ひぃと横で声を上げるハートの女王を放ってアリスはそれを見た。

 そこにいたのは、少女。だが体を折り畳んでいても体長20mはありそうだった。金髪の足元まで伸びる三つ編みに、生き生きとした宝石のような碧の目。頭のリボンは折れて曲がっているが、水色のスカートには白いエプロンドレスが映えていて、まるでどこかの童話の主人公のようだった。

 そう、アリスは一目見て思った。その場にいる誰もがそれを連想した。

 不思議の国のアリス、その主人公のようであると。


 チェシャ猫が顔を出し、口にする。

「あの子、主人公の『アリス』のような風貌だけれど」


 アリスは、へたり込み困惑の色を見せる少女に自然と言葉を投げかけていた。

「お前は……アリスか?」


 少女はああ、うう、だの小さく呻く声を漏らし周囲を見渡す。視界に入る全てが異常なものだから混乱は止まることなく、それでも震えた声で答えた。

「ちがう!あなたたちは……誰……?」

「落ち着いてくれ、私は……」

 その先の言葉が喉に詰まる。引っかかって取れず、吐くに吐けない病人のように何も出てこないのに口だけを開けたままでいた。

 後ろにいるチェシャ猫が言う。

「この世界の住人は、不思議の国の住人。原作に沿ったキャラクター」

 その顔は見ることができない。

「彼女、主人公の『アリス』そっくり。じゃあアリス……キミって誰?って話だよね」

 その場に、アリスとされる少女は2人いた。

 黒髪の、深紅のアリス。そして金髪の、碧と空色の『アリス』。

 アリスは、尚更自分の存在が不確かなものと変化するのを身に感じていた。この世界に来て唯一与えられたアイデンティティの喪失を目の当たりにして、自身の名前を口にすることを躊躇うばかりだった。

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