プロローグ「イン・ヘブン」
生憎、その日の空は快晴だった。
大して風も強くなく、かといって湿度や気温に文句があるわけでもない。だが天気など今の少女には関係のない話だった。
学校の屋上階は普段は立ち入り禁止なのだが、少女は鍵を盗みここに辿り着いてしまっている。そして、少女は端、屋上を取り囲むフェンスを越えた先に立っていた。
手足が細く小さいために制服はあまり似合っているとは言い難い、「着させられている」ような印象を受けることを自身も自覚していた。ハリのある黒髪は肩につかない程度の短さで、今が暴風であれば少々顔にかかっていただろう。
しかし風は少女の背中を押すことも、止めることもしなかった。
少女は幾度か口呼吸をして、町を見渡した後、唇を閉ざし前を見据えた。
──そうして少女は、飛び降りたのである。
▼
視界はぼやけ、脳の芯がじくじくと痛みを感じさせている。目覚めたばかりの身体は言うことを聞かず、ゆっくりと瞼を開く。
それは1人の少女だ。彼女は腹筋で起き上がることができず、曲げた肘の力でどうにか身体を起こした。
まず異常を感じたのは周囲の状況。そこは緑に覆われた狭いドーム状の空間で、壁には品種のわからないツタが生い茂っている。少女はまるで新鮮なサラダに寝かされていたかのようで、天井を見れば、大きな穴が空いていて先が見えないほど上まで遠く続いている。
「ここは……どこだ……?」
少女は困惑した。自分が何故こんなところにいるのか見当もつかないからだ。
ズキリと痛む頭。ここに至るまでのことを思い出そうとすれば、自身の身体が浮遊して地面へと落下するまでの感覚が身震いさせた。そう、自分は──飛び降りたのだ。そこまでを思い出すと、誰もいないのに視線が魚のように泳いだ。
何故自分は生きているのだろうか?偶然生き延びた、と考えたところでどうしてこんなところにいるのかわからない。いるならば本来は病院のはずだからだ。しかしどう見たところでここは病室とは程遠い、絵本の中のような場所。
実際、目の前には絵本や現実であれば遊園地に設置されているものだとしか考え難いような、木で出来た丸っこいメルヘンな扉がある。
そして少女は重大な欠陥に気がついた。
少女は「何故自分が飛び降りたのか」全く心当たりがなかったのだ。
それどころか、今までの自分の人生がまるでなかったかのようにされていた。何一つとして思い出すことができないことに、記憶喪失という単語が脳裏をよぎる。まさかとは思ったが、頭を抱えて必死に考えてみれど自分が飛び降りた事実以外どれもこれも記憶からすっぽ抜けていた。
とにかく、記憶が混乱しているんだ。このような場所に連れてこられたことも何か関係しているのか。少女は状況を確かめるため、扉の外に出ることを決意した。
最大限に警戒して扉の先を見れば、チェス盤のような柄の廊下が続いていた。誰もいる様子がないとわかった少女は屈み扉を潜る。
壁には中世のゴシック調のデザインが続いていた。
少女は先に進むが、見渡しても誰の気配もない。廊下がどこまで続いているかもわからない。
「どこまで行くんだ、これは」
「誰か、誰かいないのか」
少女は呼びかけながら進むことにした。すると、すこし向かった先に可愛らしいテーブルがあることに気がついた。
そこにはいくつかの皿とカトラリーやお菓子、が置いてあった。少女がクッキーを見れば「Eat me」と書いてあるものだから、消えていないひとつの記憶を思い出した。
「これは不思議の国の……」
隣には「Drink me」と書かれた体の小さくなる小瓶もある。
好きな物語に出てくるアイテムの一つのようだと思った。原作は食べれば身体が大きくなるものだ。
試しに、少女はお菓子を口にした。少しずつ、丁寧にネズミのように齧っていけば大きさを調整できると思った。しかし狙いは外れ、一口で随分と大きくなってしまった。
この状態で大粒の涙でも流せれば、その流れに乗って楽に進めるだろう。だが少女は涙ぐむことさえできなかった。悲しい出来事を思い出そうとしても、何も記憶にないからだ。首が痛くなったまま思考を続け、額にシワがよっている。
その時、よくないことを思いついてしまった。
少女は試してみるだけだと心で言い聞かせながら、今では小さなカトラリーのナイフを手にした。その刃先を、手首に添わせる。
血管の通っているところへずぷりと埋めれば、小さなかすり傷程度のものができた。それを広げていけば、血が床に垂れていく。床に広がり、流れていく。
まだ足りない。太い血管を断ち、生温いものを溢れさせる。
しばらくして、未だ戸惑っている少女は小瓶を指先でつまみ、それを飲み干した。身体は徐々に小さくなり、その過程で溺れてしまわないように既にゆっくりと流されているテーブルにしがみついた。
小さなテーブルは血に流され、舟のようになっていた。少女はそれに乗りながら、バランスを崩してしまわないように身体を硬直させている。
それが数分、数十分とした後、流れがそこらで止まった。テーブルも止まり、それから降りる前にお菓子の粉程度を口にした。すると身体は元の大きさに戻り、少女は少し安堵する。
舟ことテーブルから降りて地に足をつければ、その頃には身体も少し休めているようだった。まだ歩ける。少女が先に進もうとした時、ふわっと匂いがした。
それは香ばしい獣のような香りで、それでいてチェリーパイのように甘く、とにかく、具体的に説明するのが難しいのだ。少女は何とも例えられなかった。
空中から一回転して、人型の紫煙の塊が目の前に着地する。塊は徐々に形を形成し、人の皮膚、細い手足、現実離れした奇抜な紫の髪の色の少年が現れる。
少年は歳も近く見え、猫のような形の鋭く大きな瞳は綺麗なオッドアイだった。それどころか、頭には猫の耳が生えている。そう、耳が生えているのだ。少女は動揺を隠せず、ついそれを観察してしまった。
少年は妖しく微笑んで、巻いているマフラーをくいと上げて言う。
「ようこそアリス。不思議の国へ」
「アリス?」
不思議の国、というワードに関しては今まで見てきたものからして大して驚く例えではなかったが、少女はアリスという単語に驚いた。確かに、先程は物語の主人公……アリスになったような気分でもあった。しかし自分はアリスではない。
「アリス?キミのことだよ」
少年は全て見透かしたかのように追い討ちをかけた。
「私のこと?」
「だってキミの名前は?」
そう言われて、少女はやっと気がついた。その違和感に目覚めてから今まで、気がついていなかった。少女は自身の名前は覚えていたのだ。
「……私は、アリスだ。それが私の名前……」
アリスは違和感を覚えていなかったのだが、服装も不思議の国の住人に相応しいものになっていた。頭と胸元には赤いリボン、白のエプロンドレスに赤と黒を基調としたワンピース。パニエの入ったスカートは動くたびふわふわと揺れる。
「アリス、様子がおかしいよ?大丈夫?」
少年は距離を近くして顔を見た。猫に似た瞳は見ているだけで逸らしたくなる。この少年は一体何者なのだろうかと疑問に思うが、アリスはそれより先に自分のことを説明しなければいけなかった。
「私は、目覚めたらここにいて……どうしてこんなところにいるのかわからないんだ、何も思い出せなくて」
「……え?何も思い出せない?」
「記憶がないんだ」
アリスがそう言うと、少年は眼を丸くした。少し身体を引いて、猫の耳がピクピクと動く。彼は少し困ったように続けて質問をした。
「ええとつまり、記憶喪失ってことかい?」
「そうなる」
「はあ」
少年は考え込み、うーんと唸ったあと再び笑顔で接した。手を握り、顔を近づける。距離感が近くはないだろうかとアリスは思ったが、彼女にとってそれは拒否するほどのことではなかった。
「それは大変だね、一層俺がちゃんと案内してあげなくちゃいけない」
「案内?」
「そう、俺は案内人。キミを導く者」
少年はふさふさの尻尾を揺らし、三日月のように口角を上げると強く手を握った。
「俺の名前はチェシャ猫。不思議の国の住人さ」
チェシャ猫と名乗った少年はアリスの手を引き、踊るようにくるりと回る。それにつられ、2人の音のない舞踏会が開催された。この少年は社交ダンスに長けているのかもしれない。
「改めましてよろしくね?アリス」
「よろしく……? いや、踊りを止めないか」
そう言われるとチェシャ猫は笑って彼女を解放した。すると彼は不思議なことに空中にふわりと浮いた。
「じゃあ行こうか、この先に! みんな新しい住民を待っている。アリスを待っているんだ、主役のご登場だから」
「主役って、私は大した者じゃないんだが」
「そんなこと言わずにさ。俺は待ってたよ?」
チェシャ猫は気にすることなく、浮いたまま先へ進む。それに従ってアリスも後ろを歩く。警戒していないといえば嘘になるが、この訳の分からない状況を確かめるには人手が必要だった。
「つまり、キミは何をしにここに来たのかさえ覚えていないと言うわけだ」
現在、アリスはチェシャ猫に背負われながら会話を交わしていた。何故そんなことになったのかと経緯を辿れば、彼だけが浮遊してアリスだけが疲れたまま地についているという状況が不公平だったからだ。アリスが立ち止まったところ、チェシャ猫がおんぶをするという提案に至った。本来なら小柄な彼も押し潰されそうなところだが、アリスはそれよりも軽かった。
「覚えていない。ただ、飛び降りた……ということだけ記憶にあるんだ」
「へえ、自殺ってこと?」
「そうなるみたいだ」
チェシャ猫の表情は見えないが、流石に笑ってはいないだろう。もしくは他人事のように笑っているのだろうか。だとすれば、軽薄な奴だと思う。それに対しアリスは嘘をついておらず、全て正直に話しているところだ。
「その理由も覚えていないんだもんね。それは困ったところじゃん」
思わず無言になる。答え方がわからない。そのまま互いに何も言わない空気感が続いたすこしあと、チェシャ猫が小さく声を上げて前方へ指を指した。
「ほら、もう着くよ」
見れば先には扉があった。それは初めに見た扉とは違う、重厚な扉だった。煌びやかな装飾が施された扉は非常に大きく、赤いペンキで塗られた錠と鎖で封じられていた。
しかし扉は閉ざされている。この先に何があるのか、それ以前の問題だった。
「アリス、錠に触れるんだ。この国の住人は初めに訪れた時、みんな自身が鍵となる扉に触れる。そうして開けた時、本当の住人として迎え入れられるんだ」
「みんな……?チェシャ猫もそうだったのか?」
「そうだよ。でもこの扉は俺じゃ開けられない。アリスが開けるんだ」
チェシャ猫はアリスを降ろす。アリスは恐る恐る手を前へ伸ばし、その錠に指先を触れさせる。すると鎖が赤く輝き、扉はひとりでに重い音を立てて開きはじめ、その先の光景をアリスへ見せた。
その世界は、不思議の国だった。
薄い水色とピンクのグラデーションの空に、風船が飛んでいく。鮮やかな色とりどりの花が各所に散り、植え込みには丸いキノコが生えている。ランタンのような街頭にはハートのチェーン、赤煉瓦の地面の間に白く小さな花が咲いていた。そして近くに、巨大で日常離れした城が建っている。
アリスの目の前を青の蝶が通り過ぎる。それを視線でさえ追いかけることはなく、アリスはただただ驚愕していた。同時に足は自然と前へ踏み出しており、一帯をぐるりと見渡した。
「ここが俺たちの暮らす世界だよ」
「そしてアリスが今日から過ごす国」
チェシャ猫は笑いながら、言葉が詰まって何も言えないアリスにゆっくりと向き合った。
「ここが……不思議の国……」
驚きとは、知らない場所へ連れてこられた恐怖だけではなかった。非現実的な空間へのわくわくとした感情、微かにそれを感じていた。
「ところでアリス、そこに噴水があるでしょう。こっちにおいでよ」
チェシャ猫が歩いた先には噴水があった。その縁に彼は座り、石で出来た隣を叩く。促されるままアリスは隣へ座った。チェシャ猫はアリスの手を握ると、そのまま噴水の中へやった。
「!?何を……!?」
噴水から溢れる水は白く、ラメの粒子が入っているようにキラキラと光を反射しているようだったが、よくよく見ればそんなことはないただの水と同じだった。冷たさに思わず身を固めてしまう。
「怪我、してるでしょ?さっきから気づいてたんだけどさ。手当しないと」
「手当……?」
「そ、まずは流水で洗い流さないと。ここの噴水は使っても大丈夫なやつだから」
そういえば、と気がつく。先程ナイフで切った傷があったのだ。チェシャ猫はしばらくその傷を冷やし流した後、手を空に掲げる。すると手のひらにスペードのトランプが現れ、それがしゅるりと包帯へ形を変える。チェシャ猫は迷うことなくそれをアリスの手首へ慣れた様子で巻きつけた。
「はい。こっちのほうが可愛いから、オマケ」
そう言うとチェシャ猫は手首にポンと触れる。その瞬間、光が集まりリボンのついた袖留めと変化した。原理はわからないが、不思議の国なのだ。まるでアニメの変身シーンのようだと薄ら考えている間に全てが終わって、彼は満足げにした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「そういえば、鍵がかかった扉の一本道でチェシャ猫はどうやって私に会いに来たんだ?」
ふと、疑問に思っていたことを聞いてみた。
「そりゃチェシャ猫だもの。どこにでも現れるからさ。どこにでも行き放題なんだよ」
平然と語る。やはり、この国は何でもありなのかもしれない。そう頭を悩ましていると、向こうから人影が歩いてくるのが見えた。
「ああ、どこに行ったの?もうそろそろお茶会の時間だというのに」
兎に似た耳を生やした白髪の美青年が時計を片手に頭を抱えている。緑を基調とした落ち着いたカラーの服装に反し、彼自身は焦っているように見えた。チェシャ猫は喉を鳴らすと、にこやかにそれへ挨拶する。
「やあやあ白うさぎ!今日も時間に追われているのかい?大変なことだね」
「チェシャ猫!三月うさぎを見なかった?あいつを早く見つけて連れて行かないと、遅れちゃう……」
白うさぎと呼ばれた青年はチラリとアリスを見ると、目を大きくした。白い睫毛にぱっちりとした金眼、男性アイドルには詳しくないが彼は整った顔の類に違いない。アリスはそんなことを思わされる。彼は首を右に傾げた。
チェシャ猫はすかさず紹介をする。
「アリスさ。不思議の国の主役と言っても過言じゃない。歓迎してあげようよ」
「アリス……」
白うさぎは下から上まで視線をやり、その先が顔で止まると柔らかい微笑みを見せた。
「はじめまして、僕は白うさぎ。原作なら、アリスを導くのは僕の役目だったのだろうけどチェシャ猫に任せっきりになってしまったね。これからよろしく、アリス」
彼は握手のため手を差し伸べる。白手袋から見える肌は色白で、若い青年らしい大きさだと感じた。アリスがそれをとれば、今後の関わりが確定される。
「三月うさぎなら見ていないぜ。他の場所を探したら?」
「そっか、ありがとう。君達はどこにいくの?」
「アリスは来たばかりだからね、国の王様に挨拶を」
「ああそう」
白うさぎはアリスへ笑いかけると、城のほうを指差す。
「女王サマはあちらにいるはずだよ。人見知りだけど、優しい人だから不安に思わないでね」
それじゃあ、と言うと白うさぎは先程より早足でどこかへ目的の人物を探しに行ってしまった。ぴょんぴょんと跳ねることはなく、姿勢の良い歩き方に感心するばかりだ。人当たりのいい青年だったなんて印象を脳に記憶させていく。
「白うさぎも優しくしてくれそうでしょ」
「まあ……」
「彼も死んでるんだよね」
──は?
「死んで……?」
突然、平然と告げるものだから間違いなのではないかと。しかし、当の本人に言い間違えを訂正する様子はなく白うさぎが去っていくのを目で追っていくばかりだった。人の死ということをそんな簡単に口にしていいものか。
死んでいるというのは嘘だ。なぜなら、握手する時に握った手は手袋越しでも微かに暖かかったからだ。話し、動いている。死人と呼ばれる状態の条件に何一つとして当てはまっていない。だが、確かにアリス自身も死んだ記憶があるのだ。それなのにこうして血を流すことも、動くこともできている。それが事実であるからこそ信憑性があり、嘘だと断定ができないまま口を覆った。
「アリスも自殺してここに来たんでしょう?」
「あ……ああ」
「ここの住人はね、みんな死んでいるんだ。正しく言えば、死ぬような目にあった。生きているけれど現実で目覚めてはいないって程度の子も多い」
「ちょ、ちょっと待て。現実?」
ここが現実でないことは薄ら気がついていた。とは言え、そんな怒涛に言われると困惑してしまう。
「つまり、ここは昏睡状態の世界」
「もしくは、死んだ後の世界」
チェシャ猫は淡々と語る。そこに嘘の一つも感じられないのに、非現実のありえない現象はいつもであれば嘘だと判断する内容だった。それにアリスは巻き込まれている。足がフラフラと倒れそうになるのを堪えて、呆然とそれを聞いていた。
「改めてようこそアリス。不思議の天国へ」
そう、これが全ての始まりだった。




