白うさぎ√第4話「冷めていく熱」
それから、三日が経った。
アリスは未だ安心しきれず、気を張り巡らせ全てを警戒する癖を抜くことができなかった。
白うさぎはというと、部屋に閉じ篭もるように過ごしていることが殆どだ。
誰と過ごしている姿も見ない。それは弟といる場面でさえ。
食事もアリスが部屋の前へ届けている。
アリスの声がして、やっと時々扉越しに会話を交わせるくらいだ。
「白うさぎ。朝食、置いておくぞ」
「よく飽きないね」
「できるだけ外出たくないだろうからな」
「お気遣いどうも」
「……なあ」
「散歩、行かないか」
「……はいと答えるわけある?」
「でも、たまには日光を浴びるのも心身ともに大事だ。日光でセロトニンという神経伝達物質が……」
「外は、いやだ」
「お前を狙ってる奴はいない。前に話した時から実際、何も起こっていないんだ。大丈夫」
しばらく扉の前に座り込む。
「……今日は天気がいいでしょ」
何を言うかと言えば彼は、反対に散歩をする動機になるようなことを言った。
確かに、空は快晴だった。ピンク色が混ざったような水色が広がっている。
「眩しいの、嫌いなんだよ」
「……だから、外には出たくないのか」
「出ない」
数十分が経ったが、彼が出てくる気配はない。アリスは諦めて別れを告げることとした。
「気が向いたらまた外に出ておいで。私は行くから」
返事はない。
最近は栄もこの世界に来ない。暇であることを平穏と言い換え、アリスは自室で小説を読むことにした。
小説を読み終える頃には真昼になっていた。だが、うとうとと微睡むアリスは食欲より睡眠欲を優先させる。
「すこしだけ……昼寝するか……」
布団に潜り、目を閉じる。
朝は快晴だった空に、黄緑色の雲が出てきはじめていた。
目覚めれば時刻は14時を指していた。
思っていたより寝てしまった。少しばかりの後悔と、自分も安心して眠れるようになったものだと感心がある。
遅めの昼食をとろう。だけど食べたいものは特に浮かばない。出現させるには真っ直ぐと必要とする気持ちがいる。
アリスは頭のリボンを付け直し、キッチンへ向かう。
そこで、立ち止まった。
キッチンの手前、ダイニングに、何かが点々と続いていた。
赤黒い体液。
それが血だと理解するのは容易かったが、その先のことを想像したくない。アリスは後退りたくなる気持ちを抑え、急いでキッチンの方へ走り出す。
血が続いている。
怪我?そうだったらいい。せめてそうだったら。
キッチンに踏み入る。
アリスは目を見開いて、その光景を見た。
「……あ、あ……!!」
「女王……!!!」
そこにハートの女王が突っ伏して倒れていた。
その後頭部が赤黒く染まり、毛先の赤色のメッシュと混ざり合った血は固まっている。
急いでしゃがみ込み、ハートの女王の身体に触れる。
「……は、……」
死人の、冷たさ。
体温など既にそこにはなく、伏せられた顔は見えない。
死んでいる。
死んでいる。受け入れ難い事実が、アリスの心臓を握り潰そうとする。
誰も死なせない。そう考えていたのに、どうして。
誰が。
どこからどう見ても、他殺だ。何かがこれをやった。
周りを見ても証拠はなく、血だけが広がっている。
アリスの靴にも血が付着した。だがそんなことはどうだってよかった。
もう一人の存在をもっと早く見つけられていたら、こんなことには。罪悪感がのしかかり、アリスの思考を踏み荒らす。息が荒くなる。
血が続いているのは、犯人の跡だ。
どこへ向かっている。
アリスは急いで白うさぎの部屋へ向かい、部屋を叩いて叫ぶ。
「白うさぎ!!!」
「部屋から出るな!!」
向こうから何か声が聞こえた気がする。彼は生きている。きっと殺したのは彼ではない。アリスは走ってキッチンへ戻り、血の跡を辿る。
走るたびに脇腹が痛む。
この国のどこかに、犯人がいる。
点々と、間隔をあけて血の跡。犯人も血を踏んだのだろう、靴の端のような跡。
花畑の方へ向かったそれは、土の中で掻き消えている。
「……誰が、誰がこんなこと」
花畑の近くにいるのは、眠りネズミだ。彼の家がある。まさか、彼が犯人か、それとも。
彼が狙われてる。
そう思った途端また冷や汗が滲む。家に向かって走り、眠りネズミのいる地下に繋がる穴へと落下する。落ちた先のクッションで受け身を取り、起き上がる。
「眠りネズミ!!」
状況を認識する前に大声を出して名前を呼ぶ。
それに返ってくる声はなく、代わりにあるのは広がる血だった。地下の暗い部屋を蛍光色を放つ花が光って照らしている。緑色の光を受ける赤色は眠りネズミの座る椅子の周りに散っていた。
肩を掴み、眠りネズミの状態を確認する。
ハートの女王と同じく頭部が穢され、後頭部を何度も殴られたような痕がある。赤く濁った金髪、頭蓋骨は形を変えていた。
その表情こそただ眠りについているようだったが、既に息はしていない。
立ち眩みに、アリスは壁にもたれかかる。
間に合わなかった。
殺されたのはおそらく直前でもない。自分が寝ていた頃には、もう。
まだ犯人が潜んでいる。この近くにいるかもしれない。
何度も味わった、命を狙われる恐怖が脳裏をよぎる。だがそれ以上に、2人の命が失われたことへ焦燥を募らせていた。
梯子を上がり、家から出て、周囲を見渡す。
誰もいない。でも隠れてるだけかもしれない。
前後左右、どこにも気を抜けない。
土に血が混ざっている跡を辿ると、一際荒れた場所があった。
森の中、草むら。そこで争ったような跡があり。
「……」
その先が、燃えていた。
森が燃えている。まだ発火してから間もないのか燃え広がってはいない、だが止められもしないような大きさになった炎。
その中に人影がある。既に倒れている人の形。大の大人。男性のシルエット。
火。
煙草。
そうキーワードを紐付けて、そこにある焼死体を理解する。青虫だ。
殺されて、落ちた煙草が放置されたせいで引火した。
あまりに凄惨で、目を背けたくなる。忙しなく脳内でいろんな音がして、喧騒の中にいる心地になる。
「おい」
声がした。
犯人かと、アリスが咄嗟に振り返った。しかしそこにいたのは。
「……な、にそれ」
白うさぎだった。
「……なんでいるんだ、おい、出てくるなって……」
「出てくるなって言われたら、何かあったって、逆にあそこにいるのが嫌になって……血を辿ったら……な、なんなの。なんでこんな人が死んでんだよぉ……」
「それは」
「お前、封筒のこと言ったのか!!?」
「言ってない!!」
「じゃアなんでこんなことになってんだよ!!!」
「もう一人のやつがやったんだ、そうに違いない、だって私は誰にも言わなかったんだ!!三月うさぎにさえ!!」
「信じられるか!!」
怒声をあげる白うさぎの顔が炎の光で明るみになる。怯えの滲んだ憎悪がこちらを向き、その手にはまたナイフを握りしめている。
「本当だ。信じてくれ。私は本当にっ……!」
「うるさいうるさいうるさい!!裏切っ、うらぎった、んだろうが!!」
その時、木の陰から何かが出てくるのが見えた。
「危ない!!!」
アリスが叫べば、白うさぎは反射的に身体を避けさせる。瞬間、白うさぎが今いた場所に何かが振りかぶられた。
バールのような、鈍器を手に、その人は立っていた。
変わり果てた様子に、一瞬、脳が理解を拒む。
だが大きく容姿が変わったわけでもない。
「帽子屋……!!」
そこにいたのは帽子屋だった。彼は片手に血がこびりついたバールを携え、服は返り血に塗れ、殺人犯であることを隠す様子もなくこちらへ殺気を向けていた。
「だめじゃないっスか避けたら……せっかく油断してたのに……」
「お前がやったのか!?女王のことも、眠りネズミのことも、青虫のことも……!!」
「そうっスよ!俺がやりました!!ここまで上手く行ってたのにここで二人相手にするのはイヤっスねぇ……」
鼻につくほどの長い前髪で、その顔は殆ど見えない。ただ狂乱的な殺意だけを伝えられる。アリスは身体を引き、白うさぎも同じように距離を取った。
「なんでこんなことするんだ!!お前が……封筒のことを!?」
「封筒、封筒、ああ!帰る手段の話っスか!」
「やっぱりお前が……」
「それならもうみんな知ってるじゃないですか」
「は?」
「あんたたちがどうかは知らないスけど。少なくとも女王サマも青虫さんも、猫さんも、もちろん三月チャンも!知ってるっスよとっくに。ああ、眠りネズミさんは知らなかったんですかね?襲った時もすっかり寝てましたが」
「……ど、どこで、そんなこと知って」
「みんないるのに、あんたが夕食に来なかった時ッスよー。あの時にわかりました」
バールを握りながら、彼は笑いを交えて語る。
「チェシャ猫さんが突然言い出したんスよ。この世界は二人になったら帰れるって!それ以外にはないってね」
「あいつが……!?」
「そ!信じられない話ッスよ?冗談みたいじゃないっスか、女王サマとかは信じてなかったですけど……」
「そうだ、チェシャ猫の言うことなんて信じる必要……!」
「でも本気にする人がいたんスよ!!」
前髪から覗く、見開かれた狂気は、影で殆ど隠れている。
「だって、三月チャンは信じたんです」
…………………………………………………………
二人っきりの、帽子屋の自室。
三月うさぎは帽子を脱ぎ、帽子屋の手のひらを自身の頭に乗せ撫でさせる。
「さっきの話、ホントのことだって思う人がいると思う」
「……でも、チェシャ猫の言ってることなんて……」
「少なくともオレは本当だと思う」
「……だとしたら、どうするんスか」
「怖いんだ。本当だって信じる人がいるってことは……きっと、生き残る為に、他の人を加害しようとする。オレは弱いから、すぐに狙われる……」
三月うさぎは帽子屋の胸に頭を寄せ、目を伏せる。
くっきりとした並行二重。兄ほど目立つわけではなくともよく見れば意識させられるような長い睫毛。
「オレ、殺されちゃうんじゃないかな」
「そんな……そんなわけない、ッスよ」
「怖い。でも、もしかしたらそれで……いいのかなって」
「……なに、言ってるんスか」
「オレなんて生きててもどうしようもないし、生きていたくもない。ずっと悲しい気持ちのまま、未来のことなんて考えられない……それなら、殺されて、生きたい人が生きてくれる方がいいよ。オレ、帰る場所なんて……ないから」
「!」
「家族だって、帽子屋と違ってオレを待ってない。でも帽子屋は……生きてほしいな。弟くんもいるんだし」
「そんなこと言わないで!!」
「帽子屋……」
三月うさぎは首を横に振り、彼を見上げた。
「いや、二人きりだもんね。本名でいっか」
「……けいチャン」
「悠真……」
「殺されていいなんて思わないで!!俺は嫌だ、そんなことはさせない……」
「……そうだね、オレ……悠真とだったら、生きたかったなぁって気持ちがあるんだ」
「えっ……」
「でもここから出る方法がわかって、絶望のほうが勝っちゃうなぁ。出られたら、本当はよかったのに」
帽子屋は拳を強く握りしめた後、三月うさぎの両肩を掴む。
「だったら俺と出よう、けいチャン!!俺、色々考えるし……頑張るから!!」
「本当?」
「嘘じゃない……」
「じゃあ、悠真」
「オレ以外みんな殺して、オレのこと現実まで連れ出してくれる?」
試すような口ぶり。だけど、帽子屋には選択肢が一つしかなかった。
これだけが彼を自分のものにする方法だった。
……
それでも、頭では理解していても。
倫理観や、こんな時でさえ普通という枠からはみ出したくないような気持ちが邪魔をしていた。
人を殺すなんてことは、生涯自分には縁のない話だろうと思っていたもので、すっかり普通の人間に育ってしまった。人を殺す想像なんてことも頻繁にしているわけでもなく、ましてや勿論経験などないので、帽子屋は踏み出せずにいた。
三月うさぎが、夢矢佳斗が頼れる人は自分しかいない。
その願望を、確固たる現実にするためには行動に移すしかない。
だが、実際のところこの話を持ちかけられてから三日が経過しようとしていた。
あれから、毎晩三月うさぎが帽子屋の部屋へやってきては眠る。
──親友ではない、別の感情で見ている帽子屋の心情としてはやっていられないが、彼の安心の為に、親友としてそばにいてあげることが意気地なしの自分にでもできることだと言い聞かせていた。
だが、その日、三月うさぎは深夜になってもやってこなかった。
彼が夜更かしをすることはよくあるが、それにしても一言ほしい。
ふと、封筒の話を思い出す。
もしや、と嫌な予感を湧き上がらせた帽子屋が急いで三月うさぎの部屋へと向かった。
「けいチャン!!中にいるの!?」
扉を叩く。耳をすませば、中からくぐもった苦しげな声が聞こえた。
基本、彼は扉に鍵をかけない。それを幸いなこととして扉を勢いよく開けば、布団から崩れるように倒れ床に這いつくばっている三月うさぎがいた。
帽子屋が声をあげて彼の元へ駆け寄り、その身体を抱き起こすと口元は血で汚れていた。血の混ざった吐瀉物が付近にあり、手元も血が付着している。
かひゅ、と小さく息をする三月うさぎの瞼は閉じかけていたが、帽子屋を見て苦しそうに声を漏らした。
「……ぁ、悠真……きて、くれたんだ……」
「けいチャン!!しっかりして!!なん、なんで、なにがあって、こんな!!」
「……毒、仕込まれ……てた、んだとおもう……」
げほ、と大きく咳をする。
「手ぇ、しびれて、くすり……とれないの……悠真、たすけて……」
「薬!?薬、あ、あ、っはいっ……」
三月うさぎを床に再び寝かせ、彼の持つ薬を見つける。彼は大抵の薬は持っている。解毒薬もあるはずだ。
「どれ!??」
「……」
ぐったりとして、言葉が返ってこない。
願えばある程度のものは現れるといわれる不思議の国だが、その能力が帽子屋には殆どあってないようなものだった。不完全であったり、時間がかかったりする。人によって現すまでが早かったりより良いものだったりする物の分野がある。それが、三月うさぎの場合は薬だ。
……なら。彼自身が願えばいいのに。
少しだけよぎった思考を振り払う。
「ごめん、ちょっとだけ、耐えて……」
必死に、願う。毒を無くしてしまうような薬をイメージして、それ以外の要らない想像をシャットアウトした。
それから何分が経ったかもわからない。しばらくして、手元にトランプが生まれ、それが赤い錠剤へと姿形を変えた。
「で、できた、けいチャン!これ飲んで……」
既に三月うさぎは目を閉じ、かろうじて呼吸をしているだけだった。意識が朦朧としているのか、帽子屋の言葉に耳がピクピクと反応するだけ。
帽子屋が錠剤を指先で掴み、三月うさぎの喉奥へと無理やりに入れる。生理的な反応で飲み込んでくれた彼へほっと息をつき、ベッドの上へと身体を転がせる。
少しして、三月うさぎが目を開く。
「……悠真」
「けいチャン、大丈夫ッスか……」
「……苦しかった」
三月うさぎは縮こまるように身体を丸くし、自身の身体を抱きしめ、恐怖した。
「誰かが、オレの薬にこんなものを紛れさせたんだ……オレを殺すために……ほら、やっぱり、オレが狙われるんだ……」
「……それは……」
「悠真も、わかったでしょ?」
もし、自分がもっと行動を早く起こしていれば彼がこんな思いをすることはなかった。
「悠真……悠真は本気でオレを助けようとしてくれないんだって……オレ悲しかったんだよ?このまま死んじゃったら悠真のせいになるんだぁって思いながら倒れてて……結果的に助けてくれたけど、オレがこの先……殺されちゃったらどうするの?」
「……」
「オレには悠真しかいないのに、悠真はオレだけにしてくれないの?」
そうだ、自分しかいないのに。何故自分は彼以外の何かを大事にしているのだろう。
彼は袖をまくる。
腕に刻まれた無数の傷。その上に、新しいものが上書きされるように増えている。
まだ処理もされていない傷が、痛々しく、いつもよりも深く存在していた。
「これね、さっきやったんだ。悲しくなっちゃって」
「……ゴメン」
「別に悠真のせいとか言ってなくない?でもさ、最近兄さんも顔合わせてくれないし……見捨てられちゃったのかもなぁって」
「……」
「ねえ、悠真」
三月うさぎは帽子屋の手を握る。
そして瞳を細め、微笑んだ。
「タイムリミット。明日夜までね」
「え?」
「それまでに誰も死んでなかったら、オレが死ぬから」
…………………………………………………………
帽子屋が去った後、三月うさぎは平然と起き上がった。
証拠のために無理やり吐いた吐瀉物を片付け、利用する血を出すために深く切った腕の処置をする。血糊も願えば出せたかもしれないが、念の為本物を使った。
この痛みは望んだものではない。帽子屋があまりに動かなかったから、キッカケとして作ったにすぎない。
アリスは力にならなそうだった。帽子屋がいなければアリスへもう少しアプローチをかけたものの、こうなってしまえば不要だと判断した。
白うさぎなら大丈夫だろう。自分の兄は簡単に殺されるような人物ではない。だから最後に残ったところで、兄に声をかけよう。
一緒に逃げよう、と一言。
それだけで、兄は動いてくれる。間違いない。
自分と生きたい人間が複数いるなら、争ってもらおう。バトルロワイヤルでもして、誰かが勝った頃には生きて帰れるだろう。
そんなことを思いながら三月うさぎは一人布団に潜り込んだ。
…………………………………………………………
「三月チャンに言われたんです!!三月チャンが俺だけを必要としてくれて!!俺を選んでくれた!!二人になれば帰れるんです、その二人に、俺を……!だからやるしかなかったんです、俺変なこと言ってます?違うっスよ、正しいです、俺なりの……ちゃんとしたやり方なんです……」
叫んだかと思えばブツブツと喋り、声のトーンは上がったり急降下を繰り返す。
帽子屋がこんなに、三月うさぎのことを想っているとは思わなかった。予想外に彼は感情を螺旋状にぐるぐると拗らせている。
「三月チャンには俺しかいないんです。だから俺がやってあげないと、可哀想じゃないですか?ほぉら間違ってない!!」
「落ち着け……!!間違ってる!間違ってるこんなことは!人を殺しているんだぞ!?」
「うるさい!!女が俺達に割り込んでこないでくれますか!?三月チャンのことなにも分かってないくせに!!」
帽子屋はバールをこちらへ向ける。
「三月チャンのためならなんでもします。もう決めたんスよ」
バールの先を、白うさぎへ向ける。
「まずはテメエからッスよ」
「なんで俺……!?」
「邪魔なんスよねえ!三月チャンに絶対いらないものなんで!!前から嫌いだったんス!!」
「はあ!?」
「そもそもなんでこの世界に来てからそんなずっと綺麗なフリしてるんスか!!三月チャンがいるから?優しい顔して!本性は知ってんですよ!!」
「俺は佐々樹悠真!一応クラスメイトっスよ!?目立たないからあんたにとっちゃモブで、覚えてないかもしれませんけど!!弟の親友でもあるんですけどッ!!」
「……あ」
「散々ひどいいじめをしてるのも全部知ってんですよ!!三月チャンがいない場所であんな顔してるの!」
「やめ……」
「被害者の女王サマも可哀想ですよね!あれ、態度違いますけど九楽さんでしょ!?よく平然と接してたっスよねほんと、まあだから最初に狙ったんスけど……」
アリスは二人の顔を交互に見、状況を理解しようと必死になる。
「あんたこそ他の人間を蹴落とすやつだ!三月チャンを殺すかもしれない!外に出てきたからには死んでください!」
バールを振り下ろす。瞬発的に白うさぎが武器を現し、剣で受け止める。しかしそれがバールの衝撃で折れた。
「ッあ……!」
腕を殴られ、緩和された力とはいえ白うさぎが痛みに悶える。
「やめろ!!!」
アリスが力強く地面を蹴り、自分の身体ごと、全体重を使って帽子屋にタックルをする。バランスが崩れ片膝をつく彼と、そのまま地面に転がり落ちるアリス。
アリスは横になったままスタンガンを現し、帽子屋に押し当てた。
電流を食らった帽子屋が声をあげ縮こまる。
「こ、殺すっ……!!」
「殺すな!止まれ!白うさぎ!!逃げるぞ!!」
ナイフを構えようとする白うさぎの手を取り、アリスは駆け出す。
森の中を走る。いずれ燃え広がる、森はダメだ。どこかに逃げないと。隠れる。どこに?
内側から鍵がかけられるところ。
自分でもイカれた判断だと思った。しかしアリスは、白うさぎを連れて眠りネズミの家へ向かう。
ティーポットの形をした建物の中に入り、鍵を閉める。穴の中を落ちて洞窟へと逃げ込む。
勿論遺体はそのままだ。暗さで殆ど見えないのが幸いといったところだ。
白うさぎは息を整え、えずきを漏らす。
「やっぱり……俺のこと狙ってきた……あいつ、全員殺す気だろ……!!」
「……」
流石のアリスも、否定の言葉が出てこない。
それからもう、白うさぎは塞ぎ込んでしまった。
目の前の光景も、なにも見たくないというように顔を伏せ壁にもたれかかるように座り込む。
アリスは、自分の今までの行いに間違いがあったのかと、他に道はなかったのかと、後悔に苛まれながら同じように座っていた。
無言の時間。時を刻む音さえもなく、遺体と3人きり。
どれぐらい時間が経ったか定かではなく、食欲も湧かない。一時間も経っていないような、何日も経ったような二つの錯覚が意識を揺らす。
アリスは時々クッキーやパンを現し口にしていた。だが、白うさぎはといえばなにも食べていない。
「……何か食べたらどうだ」
久々に発した言葉に、白うさぎの掠れた声が返ってくる。
「いらねえよ」
「……そうか」
「食べる気に、なれない」
白うさぎが心身ともに弱っていることは明らかだ。だが力になりたいと思う心をおいて、随分と自分は無力だと思わせられる。
また、無言。
「……私、外の様子見てくるよ」
「はあ?」
「状況、変わってるかもしれないし……」
「……まて、俺も行く」
「お前が?」
「お前一人でどうにかなるわけねえだろ」
アリスが梯子を登れば、彼もついてくる。……本当に来るのか、と内心思いながらも何も言わない。
扉を恐る恐る開ければ、そこは。
「……」
鎮火した、荒れ果てた……燃え尽きた、そんな言葉が合う森だった場所が広がっていた。
不思議の国に不釣り合いな焦げた地面にメルヘンチックな空。蝶などは生命はおらず、見晴らしが良くなっている。
現にこの家も、外壁は完全に燃えてしまっていた。
花畑があった場所に向かう。ここも尽きた後だ。
誰もいない。
そう思った時、甘い匂いがする。
「……!!」
咄嗟にアリスが身構えればそれを見た白うさぎも臨戦体制をとる。
ザクロでも割ったかのような果実の匂い、鼻腔に嫌にこびりつくジャムの匂い。そこに煙が溢れて、人の形をとる。
チェシャ猫だ。
「こんなところにいたんだ。久しぶり、アリス。また顔が見れて嬉しいよ」
「何のつもりでッ……!!」
帽子屋が言っていたことが本当だと仮定すると、封筒を先に読んでいたのは。チェシャ猫ということになる。
「みんな殺し合うようになっちゃってさあ。オレはずっと隠れてたわけだけど、ちゃんと見てたんだよ?でもしばらくこう着状態だったじゃん。だから出てきてくれて助かったよ〜物語に進展は必要」
「殺し合うようになった?誰のせいだと思ってる?お前が……条件を言ったからだろう!」
「そうだよ……キミのせいで……」
「あは、二人とも怒ってる。でも帰る方法なんてちゃんと隠さないで言わないとダメだって!みーんなに必要な情報なんだから」
チェシャ猫は息を深く吸い込むと、初めて聞くような腹の底からの大きな声を出した。
「アリスと白うさぎいたぞー!!!」
「「!?」」
報告。
「三月うさぎは身体能力が異常に高いからね、耳も良いよ?今ので多少遠くにいたとして聞こえたはず。帽子屋もここら辺にいたし」
「チェシャ猫……!!」
「ほら、もう一回鬼ごっこしなよ。隠れてる間つまんなかったから頑張って?」
手を伸ばし、身体を掴もうとする。だが煙となって消え、輪郭さえもなくなった。
「アイツ……!!」
「マジでありえない……」
隠れるといっても、もう木々はない。物影がない。また、帰るしかない。
「……迎え討とう!!」
「ハァ!?何言ってんの!?」
「一回捕えよう……そうだ、一回無力化すれば……!話の余地が……!!」
「ないだろ、どう考えても!!いつまで偽善思考なんだ!」
「じゃあお前は帰ってろ!」
「お前一人で戦えるわけないだろ!」
「私に負けたくせに!!」
「ふざけるなよ!」
言い争いをしてるうちに、銃声がする。
当たらなかったが、撃たれたと瞬時に理解する。音のした方を見れば帽子屋一人が立っていた。
「やっと出てきた……!!いつまで隠れてるんスか苦労しましたよ……!!ガチで……!!」
彼はバールに持ち替え、こちらへ走ってこようとする。
「あ、キミが先に来たんだね」
チェシャ猫の声がした。
甘い香りは確かにまだ残っていた。煙が再び現れ、少年が姿を現す。
「チェシャ猫!!あんたもいたんスね!!そっちも探しててッ」
「あー今その話じゃないんだ。一個面白い話をしてあげようかなと思ってー、でも三月うさぎもいるほうが面白かったな」
「はあ……?」
「三月うさぎに言われてやってるって感じでしょ。本人は一緒に来てくれなかったんだ。好きに使われて可哀想に」
「三月チャンを悪く言うな!」
チェシャ猫は懐からボイスレコーダーのようなものを取り出す。
「じゃじゃーん。録音記録」
「……?」
「コレ聞いてから二人を殺すか判断しなよ」
ボタンを押す。そこから流れたのは。
「……私の声?」
三月うさぎとアリスの声だった。
それは白うさぎと戦った日の夜、弱り果てた三月うさぎがアリスへ頼り……帰りたいと願った日の会話だった。
『おねがい、アリス。帰る方法がわかったときは……オレの事、手伝って?』
思えばこの言葉を言われたときには、彼は、もう帰る方法など知っていたのだ。
それでいて、アリスにあのような頼り方をした。
「これ、帽子屋。どう思う?三月うさぎが声をかけてるのお前だけじゃなかったらしいよー」
帽子屋は、立ち止まり、唖然としている。
アリスは、あのとき自分は利用されかけていたのだと気づき憤りを覚えていた。
「でも、三月チャンが、俺に!みんなのこと殺してって」
「アリスが話を受けてたら同じこと言ってたでしょ」
帽子屋はバールを再び握る。
「……それがなんすか、騙されませんよ、三月チャンには俺しかいないんです、絶対に……」
チェシャ猫はくすくすと笑い、言葉を続けた。
「ねえ、二人で帰って、それで三月うさぎを自分のものにできたと思えるのかい?」
「はい?」
「帰った先でまた、誰かに頼るかもよ。誰かを愛するかもよ。彼女とかできるかも」
「……」
「利用されるだけの関係は、脆いぜ?いいの?もっと他の方法がいいんじゃない?……ねえ、一度、もう少し頭使って考えてみな」
チェシャ猫は帽子屋に近づくと耳元へ口を近づけ、何かを囁く。何を言ったのかは聞こえなかったが、良い予感はしなかった。
「おい、何を……」
「……少し、考えるッス」
帽子屋はアリス達に背を向け、逃げ出す。
「……助かったのか?」
「くく。アリスもよかったね、話に乗らなくて」
白うさぎはため息をつき、頭を抑える。
「三月はああいう奴だよ……」
「そうなのか?」
「他者を利用するのが上手いから……」
いつの間にかチェシャ猫の姿は無くなっていた。
白うさぎは行き先のなくなったナイフを握るだけ握ったまま、ふらふらと帰ろうとした。
アリスもそれについて歩く。何か言う気にはなれない。
二人で夕方に差し掛かる陽に照らされながら、眠りネズミの家の前へやってくる。
洞窟の中に入れば、白うさぎは再び塞ぎ込むように座り込む。
だが、ふと、顔を上げた。
「……どうした?」
「白うさぎ」
「なあ」
その顔には、不安と困惑が浮かんでいた。
「俺、行ってくる」
「え」
「いやな、予感がするんだ」
「……」
「佳斗……に、なにか、起きてる気が、する」
彼が、アリスを退けて家の外へと飛び出す。突っ走る。帽子屋が逃げていった方向へ、その先がわからなくても勘で駆けていく。
「白うさぎ!?」
アリスは突然のことに反応が遅れたが、彼の背中を追いかけた。
花を踏む心配なんてない。道なんかない。階段を跳ぶように駆け上がり、肺が苦しくもなった。
しばらく走る。
「佳斗!!!どこ!!」
場所がバレることも厭わず白うさぎが声を上げる。
「……!声、聞こえた!こっち……!!」
彼が走る方向は、噴水広場だった。
その中央、噴水付近に、人が倒れている。
三月うさぎだ。
周りには誰もいない。彼だけが一人倒れ、真っ赤な体液を溢していた。走って来たであろう方角から血が続き、彼のいる場所に血溜まりが広がっていた。
白うさぎは急いでその場に近づき、しゃがみ込む。
「佳斗!!」
「に、にいさん、助けて、助けてッ……!!帽子屋に、裏切られて……っ!」
掴まれたのか衣服は乱れ、見れば背中に大きな傷を負い、肩口を刺されている。二つの傷から今も血が垂れては、彼がごぷごぷと口から音を立てていた。
おそらく、身体能力の高さでここまで走り逃げてこれただけだ。本来ならすでに死んでいてもおかしくない。
絶句する白うさぎに縋るように、三月うさぎが喋り続ける。
「兄さん、助けてよ、痛い、痛いの!!なんとかして!お願い!」
「やめて、喋らないで!傷が……!!」
「オレ、オレ、本当は、兄さんとふたりで生きて帰ろうと思ってて……!!一緒に帰ろうっておもっだ、のに!!」
「……」
誰にでも言っていること。だけど、兄に対しての言葉は本物なのか。本人以外確かめられる人間は誰もいなかった。
「いたい、死ぬっ……たすけてよお!!本気で、痛くてッ……!!」
「わかってる、どうにかするから黙ってよ!!」
追いついたアリスもすぐさましゃがみ込んだ。
「白うさぎ!!時計、あれでどうにか……」
「……」
「おい!!」
「できない」
白うさぎは先ほどまでの叫ぶような声が嘘のように口にした。
「できないんだよ。あの時計は」
「1分だけしか、戻せない……」
もっと前に戻せばいいのに、直前の時間にばかり戻していることからアリスにも予想はついていた。だからこそ噴水広場での策略にも組み込んでその可能性に賭けていた。
だが、今ではそれが勘違いであれば良かったとさえ思う。
「無理なんだ……何度も連続して使うこともできない……」
「……そんな」
「でも、手当すればもしかしたら!」
「白うさぎ」
自分たちに、これをどうにかするほどの技術も知識もない。
願えど、なんでも治してくれる薬なんてものが現れることはないと、一度切りかかられたアリスは前から知っていた。
「……無茶だ」
三月うさぎが一際大きく血を吐く。
身体の崩壊していく音。叫びも助けを求める声も薄れていく。やがて途切れ途切れにしか喋れなくなっていった。
「た、すけて」
無言。誰もが、次の言葉を探し損なう。
目の前に倒れる彼の体温が下がりきって、血が随分と温かく感じる。鼓動が止んでいく。
「いた、い、いたい……」
三月うさぎは、最後の力を振り絞り白うさぎに手を伸ばす。腕を掴み、引き寄せ、可愛げなど失った声で人生最後の言葉を吐き連ねた。
「……にいさん」
「せめて、兄さんも死んでよ……」
白うさぎの呼吸が止まる。とっくに浅く小刻みになっていた息が、吸い方がわからなくなる。
それを最後に、三月うさぎの手から力が抜け、腕が地面にぼちゃりと落ちる。
「……ぁっ……」
酸素を取り込めないまま、喉の奥から声が出た。
彼が懐中時計を取り出し、鳴らす。
カチ。
そうすれば、せめて生き返すくらいはできるから。
巻きもどればもう一度話せるから。
カチ。
三月うさぎが動かない。
見開かれた、焦点の合わない瞳がこちらを見ている気がする。
カチリ。
生き返らない。
カチ、カチ、と何度も鳴らす。
「白うさぎ」
アリスが声をかけても、白うさぎはただ、血に染まった地面を見つめ懐中時計を指で押し続けていた。
カチ、カチ。カチ、カチカチ。
狂った秒針のような音。無意味な音。
「……アハッ」
笑い始めたのは、白うさぎの方だった。
「あ!!わかった!!」
「白うさぎっ……」
「コレさあ、ちゃんと願ってないと発動しないんだよ!やるぞーって思ってないと動かないんだよ!!」
良いことがあった後の子供のように笑いながら歪に彼は声をあげる。
「俺、コイツにずぅっと……死んでほしいって思ってた!!だから、時計、動かないんだ!死んでもいいやつだから!嫌いだから!」
「おい、落ち着」
「死んでくれてよかった!あはは!やっとこの愚弟から解放されるんだッ……!!もう俺はナニもしなくていいんだ!!」
アリスが彼の背中をさする。身体に触れても拒否も何も反応しないくらいに、目の前の惨状へ脳のリソースが割かれていた。
そんな時だというのに、足音がした。
軽やかで踊るような音ではなく、重く踏みしめるような音。アリスはそれが帽子屋だと確信する。
「ッ満月!!逃げるぞ!!」
アリスは強引に白うさぎの腕を取り、走り出す。白うさぎも力無くそれに引っ張られ、もつれるような足をどうにか動かして走る。
城の方へ、逃げる。門をくぐり、大広間を抜け階段を登り、廊下に出る。
「お前の部屋!!鍵開けろ!!」
白うさぎは言われるがままに自身の部屋の鍵を開ける。その瞬間何の躊躇いもなく、アリスは扉を開きそこに白うさぎを投げ込むように押し込む。
「邪魔するぞ!!」
それから自分も入る。ガチャンと大きな音を出すほどに勢いよく内側から鍵をかけた。
白うさぎはベッドに横になると壁に顔を向ける。
「……っ、大丈夫か……?」
当然のように無視をされる。
部屋の中なのに息を潜めるようで、声が自然と小さくなる。
心臓だけが煩い。
呼吸をする微かな音さえも静かな部屋の中でよく聞こえる。
……いや、白うさぎの息が荒い。走った後とはいえども苦しげで乱れている。
アリスが急いで白うさぎの肩を掴み、自身の方を向かせる。
陽を浴びていないような白い肌が、今は赤みを滲ませている。掴んだ身体は震えていて、アリスが額に手を当てると平常時とは違う熱が伝わった。
高熱を出している。
おそらく、心因性の発熱だ。確認すれば心拍数も増加していて、明らかな体調への影響が出ている。
「大丈夫……じゃない!!白うさぎ!しっかりしろ!」
「……」
白うさぎには喋る気力もなかった。無視していたのではなく、その力さえ失っていたのだ。
意識は朦朧としている。
「今、冷やすものを出す。食べるものも……」
「……いらない」
「要らなくないだろ!」
「世話、されるの嫌い……だから……」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
白うさぎはアリスの手を払い、再び壁に頭を埋めるようにして布団の中で蹲る。
彼は、アリスの施しを受けるつもりがなかった。そんなこと、アリスにも痛いほど伝わっている。甘えるのが下手なんてものじゃなくて、他人に弱みを見せることも、貸しを作るのも、近づけるのも。
全部嫌なのだ。
それでも、彼の為に何かしたい。
焦燥感が募る。無力感に気が狂いそうになる。
どうしてこんなことになってしまった。
そもそも、誰のことも死なせるつもりがなかった。守りたかった。こんなことは望んでなかった。
どこで狂った。
何故、いくつもの死体ができあがってしまった。
もうやり直せない。
アリスは自身の顔を抑え、項垂れ、その場に座り込んだ。
強いて言うなら、自分ではない誰かのせいにするなら。
チェシャ猫。彼が、何もしなければ。
こんなことにならなかった。
チェシャ猫、彼がここを突き止めるのもいつになるか。否、もうすでにバレているかもしれない。
底のない暗闇へ身を投じたような、果てのない絶望と、迫る壁に追い込まれるような焦りが脳内を巡り続ける。
何か。何か。何かしないと。
アリスは願う。その手に、林檎と果物用の小さなナイフを現した。
不器用ながらに林檎へ刃をくぐらせる。力任せに切れば、ごとんと音が鳴る。アリスは料理下手だ、白うさぎのようにはできない。
でも、六等分に切ってみせる。
それ以上のことはできない。皮を可愛らしく切ったりなんてこと、料理下手のアリスには不可能だ。
だがそれを皿に乗せ、白うさぎへ差し出す。
「りんご、食べろ」
「……」
「頼む。毒も、何も塗ってないから。何か食べてくれ。私に……頼ってくれ……」
数秒間の沈黙。
その後に、動き出したのは白うさぎだった。
りんごの一切れを取り、端の方から小さく口にした。
りんごの噛まれるくしゃりとした音が、今のアリスには、希望にさえ思えた。
「……もう、いい」
白うさぎはそれだけ言うと、再びそっぽを向く。
残った5切れの林檎を見つめ、アリスは再び座る。果物用のナイフをポケットにしまい、林檎の皿を自身の膝の上へ乗せた。
「……よかった」
アリスは残りの林檎に手をつけ、自身の口へ運んだ。
それから、2時間が経った。
白うさぎの部屋の中にある時計の針は7時を指し、その間ずっと二人は黙っていた。
その無言の空間を、一つの声が変えた。
「……兎野」
白うさぎの声。
「!!どうした……?」
白うさぎは弱った声で、ぼそぼそと、話した。
「……薬、とってきて……欲しい……」
「薬……?」
「……佳斗の……持ってる、薬瓶……」
彼が言いたいのは、つまり、三月うさぎの遺体から薬を持ってきて欲しいということ。
確かに彼の持っている薬なら、白うさぎの状態も治せるかもしれない。
外に出ることは危険を伴う。
それでも。
はじめて、白うさぎがアリスを頼ってくれた瞬間だった。
それ以上彼は何も言わなかった。だけど、アリスの決断はあまりに簡単で、覚悟などすぐに決まった。
「……わかった。すぐに取ってくる」
アリスは立ち上がり、扉へ手をかける。
「絶対、絶対戻ってくる。すぐに帰ってくるから……だからそれまで、耐えてくれ」
鍵を開け、扉を開ける。
足音を立てないように、それでいて急ぐように、誰にも見られないように、足を進める。
走り出したくなる気持ちを抑えて早歩きで城を出た。




