白うさぎ√最終話「やり直す」
鍵を開け、扉を開ける。
アリスは足音を立てないように、それでいて急ぐように、誰にも見られないように、足を進める。
走り出したくなる気持ちを抑えて早歩きで城を出た。
空は既に夜となり、アリスの髪色のように黒い夜空だけが広がっている。唯一の光源となる月が白く輝き、この地獄を見守っていた。
光る青い蝶が数匹、飛んでいる。
噴水広場へ迷うことなく進んでいく。周囲を細かく確認して気配に敏感になりながら。
誰もいない。好都合だ!そのまま誰とも会わずに、ただ、薬を取りたい。それだけだった。
噴水広場へ続く煉瓦の道を辿る。遠くに見える噴水は今でも水を噴き出し続けていた。
そうして、たどり着いた。
三月うさぎの遺体が今も、転がっている。
衣服の乱れた身体には死後も暴力を受けた痕がある。犯人などわかり切っているようなものだが、吐き気を催しそうになる。
アリスは乾いた血の上にしゃがみ込み、三月うさぎのポケットを探る。
固いものが指に触れる。これだ。
取り出せば薬瓶があった。様々な薬が入った、不思議な瓶。
ほっと息をつく。
「何してるんスか?」
背筋が凍る。
振り向くことさえ、悍ましい。
拒否する身体を抑え、必死に振り返る。
そこにいたのは帽子屋だった。
バールを持ち、全身が血に汚れた彼と会うのは、殺人鬼に遭遇したのと同等のことだった。
彼は三月うさぎと何か揉めたのか、弱り、肩で息をしているようだった。
「ちょうどよかった。話があるんス」
「……なんだ」
「最後に残った二人が生き残る、って話じゃないですか」
帽子屋は淡々と、その場から動くことなく語る。
「それ、アリスサンとでもいいです」
「は?」
「白うさぎさんが生き残るのは癪に触るんスよね。だからといってチェシャ猫さんも気色悪いです。あなたのことも好きではないんですけど、ここに来てくれたのがあなたなら」
「あなたと協力するのも、ありかと。あなたなら油断を誘うの得意でしょ?」
思ってもいなかった誘い。
「……なるほどな」
チェシャ猫が先に現れた場合彼に誘いをかけるつもりだったのかもしれない。
「ひとつ聞かせてくれ。なんで三月うさぎを殺した?」
「そりゃ、はい、えーとですね」
「俺のものにするにはこれしかなかったんです」
「ムカついたんスよ。ずっと、アイツ、俺がいるよって言っても多人数を求めるような、俺を無視するような言動ばかりしてきてて、そのことも合わさって、カッとなって」
「殺すつもりじゃなかったんスよ。けど、あまり、俺を拒むから」
「だからっス」
淡々と、そう語るものだから。もう彼は人を殺すことに躊躇いなどなくなってしまったのだとわかった。一時的な混乱状態、心の防衛反応かもしれない。
だけどもう正気ではなかった。
「……答えてくれてありがとう」
「で、あなたの答えは?」
「わかった。手を組もう。私も戦力が欲しいところだった」
「話が早くて助かるっスねえ。案外生きたいタイプでよかった」
帽子屋が近づいてくる。
「じゃあ、握手しましょ」
「ああ」
握手を交わす。
「じゃあ、こっちだ」
アリスは城に向かって足を進めようと、帽子屋へ背中を向ける。
瞬間。一瞬の出来事。
帽子屋が、アリスへバールを振るう。
アリスは殴られる寸前に小さな背丈を利用し、屈む。それが先だった。思い切り振りかぶられたバールは受け止める先がなく、空振りその重さのままに帽子屋のバランスが崩れる。
その身体の下に潜り込んだアリスは、ポケットにしまっていたものを取り出し帽子屋の腹部へそれを突き刺す。
「……あ゛っ」
帽子屋がその場に倒れる。
腹部に浅く刺さった果物用のナイフ。
「あ……あ……!?」
パニックになった彼が思わずナイフを引き抜く。
刺されたナイフをすぐに引き抜くのは悪手だ。抜いた箇所から更に血が滲み、痛みに背を丸めた。
「い゛……たっ……!!」
痛みには慣れていないのか、悶え続ける。こうなるとアドレナリンで緩和されていないのがアリスにとっては幸いだ。
今なら逃げることができる。
逃げることができる。
「帽子屋。さっきの、私と手を組むというのは最初から嘘だったな。騙す時は騙される覚悟もしておいた方がいいぞ」
「……!!」
アリスは、心理状態や嘘を見抜く力に長けていた。
故に話に乗るフリをして、油断を誘った。帽子屋が言っていた油断を誘うのが得意、というのはある意味合っているのかもしれない。
逃げることができる。
だけど、それで、白うさぎが本当の意味で助かるのか?
このままではきっと、ずっと逃げ続けるだけだ。追いかけられるだけだ。
極限状態で怯え続けるだけだ。
白うさぎのことを思えば思うほど、このままではダメだと焦りに駆られる。
帽子屋の引き抜いたナイフへアリスが手をかける。
それを取られないように、帽子屋も必死で握る。
「……離せッ!!」
アリスが顔面へ膝で蹴りを入れる。
帽子屋のアイデンティティとも言える帽子が地面に落ち、げふ、だとか声が漏れる。だけどナイフを握る手を緩めない。
もう一度蹴る。
力のないアリスでは、簡単にはいかない。
罪悪感を感じないために、正気が削れていく。止まらないために、狂気でいなければいけない。
蹴る。
ナイフを落とさない。
脳の芯が熱くて、自分も高熱を出しているんじゃないかと疑う。
でも。
誰のことも死なせたくなかった。でも。
誰彼のことも殺した人間が目の前にいて、それが、白うさぎの危険につながるのであれば。
自分の取るべき行動が、一つしか浮かばなかった。
願う。そして、手にナイフを現した。
ナイフを振り下ろす。
覚悟の決まっていない刃の先が、首の横、肩を切りつける。
「てめ……!!」
激痛の中、バールを振るわれる。だけど切り付けられた肩では腕にも影響が出て、アリスにもうまくは当たらない。
殺人はダメだ。
白うさぎに前に言った、自分の言葉が反響する。
だけど止まれなかった。
殺しはダメだ。
でも、だったら、自分に何ができる?
じゃあどうすれば彼を救える?
ナイフを斜めに振るう。
首に、当たった。
帽子屋が首元を抑える。だけど手遅れだった。傷ついた証が絶え間なく溢れ出てくる。
何かを喋ろうとする彼の声が、溺れるみたいに聞こえない。
「あっ……あ……!!!」
アリスはナイフを持ちながら、後ずさる。
倒れそうになるのを我慢して、そのままその場を逃げる。
走るたび、ポケットの中の薬瓶ががらがらと音を立てている。
走る。風を切る。
無数に飛び交う蝶の群れを突き抜ける。
街頭も、チカチカと光を失いつつあった。
城の中へ走ってくる。
血のかかったエプロンを脱ぎ捨てる。
二階へ駆け上がり、白うさぎの部屋の扉を叩く。
「私だ!!開けてくれ!!」
鍵は、内側からかけられていなかった。
警戒心の強い彼にしてはおかしなことであったが、好都合だ。
ドアノブを思い切り捻り部屋の中に入り込み今度こそ鍵をかける。
白うさぎはベッドに座り込んでいた。
「……ほんとに、帰って、きちゃったんだ」
「薬、取ってきたッ……」
白うさぎをベッドに座らせたまま、薬瓶を押し付けるように渡す。
「これ!!持ってきたんだ!お前の言った通り……!これで、これで治してくれ……!!」
彼は薬瓶を、見つめる。
「……ありがとう」
素直な感謝。
アリスは、歪に口角が上がるような感覚を覚えた。いっそ笑ってしまいたかった。
「ねえ、薬飲んでるからさ、その間あっち向いててくれる」
「……?どうしてだ?」
「あんま、見られたくなくて」
不思議に思う。だけど、彼がいうならそうしてあげたい。
アリスは椅子に座る。そして壁を向く。
未だ、胸がどくどくと鳴っていた。
さっきまでの光景が、痛いくらい、頭にこびりついている。手先の感覚がない。思い出したくもない。
今にも叫び出したいのを堪えていた。
がらがら、と、薬の音が聞こえる。
無数の錠剤がぶつかる音。
違和感がある。
何故、薬を飲むだけなのに、見られたくないなんて言うのか。
飲んでいる時間が、長い気がした。
彼から得ることのできた微かな信頼を裏切ることになるかもしれない。
それでも、嫌な予感がした。
アリスは振り返り、白うさぎの方を見る。
そこで彼は、薬瓶の中のすべての薬を取り出していた。
飲み続けていた。何錠も。
「満月ッ!?」
アリスが思わず大きな声を出す。
椅子が倒れる勢いで立ち上がり、その腕を掴み止める。
「何やってるんだ!??」
薬瓶はすでに空だった。
ごくり、と嚥下する彼の喉に、止めろと叫び出したくなってしまう。
白うさぎは薬瓶をただ、見つめていた。
その顔は、前に向けられた怒りや殺意に満ちたものとは同一人物とは思えなかった。
虚空を見つめ、思考がまとまっていないような、影を纏う表情。
「……すまない!」
迷わずアリスは白うさぎの後頭部を支え、もう片腕の指の二本をその口内に突っ込んだ。
舌の奥の方を押さえ込み刺激すれば、白うさぎの身体が大きく震えた。急いでベッド横のゴミ箱を取り口元へやれば、そのまま、何も食べていなかった彼の胃液と大量の錠剤が吐き出される。
微かな安堵と裏腹にアリスの心臓はバクバクと鳴っていた。
だが、ゴミ箱の中を見て白うさぎは表情一つ変えず、手のひらにトランプを現した。
そのトランプはすぐにナイフの形へと変わった。
アリスは思わずナイフの持ち手をめがけて渾身の力を込め、はたき落とす。
「お前……何をっ……」
「……もういい」
「何が!?」
「いいんだ」
白うさぎは飲み損ねた薬を指先で転がす。
「死なせてくれ」
「……は?」
「せめて、楽に死にたいんだ。殺される前に」
理解ができない。理解したくなかった。
元から彼は、このために、薬を求めていた?
体調を良くするためではなく。生きるためではなく。
死ぬ為に。
「痛いのが、嫌なんだ」
彼は吐露する。
「怖いのが、嫌だ」
彼は顔を覆う。
指の隙間から見える瞳は、恐怖に焦点を振るわせていた。
「もう全部、嫌なんだ」
「殺される前に殺さなきゃって思った。でも、もう、もう無理じゃないか?全部ダメなんじゃん」
「俺は、殺されたくないだけなんだよ」
「これ以上、生きたくないんだよ」
「俺はそもそも帰りたいなんて、思ってないんだよぉ……!!」
今にも泣き叫びそうな声が、アリスの思考を揺らす。
今までずっと、帰る気でいるようだった白うさぎ。
その、帰りたいなんて言葉がずっと嘘のように感じてた。
答え合わせが、こんな最悪な形で出されると思わなかった。
何がきっかけだ。どれが。
思考を巡らせる中に、彼の最愛の弟の最期がよぎる。
あの、最期に吐き散らした呪いのせい?
だとすれば、なんてことをしてくれた、三月うさぎ。
胸が苦しい。
白うさぎに寄り添わないといけない。手を伸ばしたい。
それなのに、その冷静な思考に反して、誰かに似た怒りのような感情が、行き場なく現れる。
アリスは口をぱくぱくとさせた、でも、次の言葉を止められなかった。
「生きたいって言ってくれよ」
「無理だ。もう無理だ」
「生きるって言ってくれ」
「嫌だ」
「じゃあなんで私は人を殺したんだ!!!」
その言葉に、白うさぎが目を丸くして顔を上げた。
「……は?」
「……」
しまった。
まずい。反省、後悔、それらの感情が一斉にアリスを襲う。自分の中の良心や正気が今のアリスを指差して責め立てる。冷ややかな声が聞こえて、生きた心地がしなくなる。
白うさぎは、アリスがエプロンを身につけていないことに気がついた。そしてその服の端についた、血の跡が、新しいものだと気づいてしまった。
「……あ、……?」
白うさぎの困惑が、受け入れ難いものを見る声へ変わる。
アリスは、いよいよ立っていられなくなってしまった。
アリスは、白うさぎの為に、殺したのだ。
逃げようと思えば逃げれた。それでも、白うさぎを優先して、帽子屋を手にかけた。それは全て彼を生かすためだった。
「……帽子屋を、殺したんだ。薬を手に入れる時に、遭遇して……殺してしまった、んだ……」
アリスは言葉を絞り出す。こうなっては言わなくてはいけない。否、誰かに聞いてもらわないと気が狂いそうだった。
自分の持った刃が人の皮膚に当たる感覚。それが、忘れられない。
白うさぎは絶句していた。
「……だって、お前が、言ったんじゃん、殺しちゃダメだって」
「……そうだ」
「なんで、お前がやってんの?」
「……」
「答えろよ」
「俺のせい、みたいだろ……」
二人で黙る。出会ってから何度目かの沈黙に慣れきってしまった気がしていたのに、今だけは居た堪れなかった。
「なんで」
「悪い」
「なんで……」
白うさぎは叫ぶ。
「なんでお前はいつもそうなの!?」
「……は」
いつも?
「なんで!!なんで!!」
「お前はいつも俺を生かそうとするんだよ!!!」
「俺が、」
「うつ病だって、知ってるくせに……」
「俺なんか、帰ったってどうしようもないのに」
「もう全部手遅れなのに」
「現実の俺はもう壊れてるのに」
「もうやり直せないのに」
彼は項垂れた。
そして、呟いた。
「なんで……覚えてないんだよ……」
…………………………………………………………
しっかりと、覚えている。
染み込んで取れない記憶が、ここに来てまで取れやしない。
未来のことも考えたくはない。だけど、過去に想いを馳せると吐き気がする。
時なんてものは、どれだけ経とうが癒やしにもならない。生きるたびに、傷は増えていく。
哀れな母親。
俺と弟は最低の家庭に生まれた。
母親は俺たちが生まれるより前に男に捨てられた。父親の顔なんて見たこともないし、名前も知らない。俺や弟は母に似たから、顔もわからない。
ずっと泣いていて、ずっと怒っている人。
時々優しくなって、誕生日ケーキを手作りしてくれたりしたけど。
そんな母親を幸せにするのが俺の役目だった。
母親の代わりに家事をしたり、弟の世話をしたり、泣いている母親の縋る先になった。
俺みたいな子供のこと、ヤングケアラーっていうらしい。
大人になったら良い会社に勤めてお金を稼いで、家族にいい思いをさせるために頭のいい子にならないといけなかった。だから子供らしく遊ぶことより勉強ばかりしてた。
弟と遊ぶ時だけ普通に遊べていた。
母親は俺たちが気分を損ねると叫びながら物を投げてきた。
だからいつも弟のことを庇ってた。泣いてる佳斗を慰めた。
その時の俺は、それでよかった。
二人のことを可哀想だと思ってはいれど、自分が哀れだなんて思ってなかった。
それなのに。
ある日急に、警察が来た。
母さんが虐待の容疑をかけられて、俺達が保護された。
何のことかわからなくて、俺は怖ささえ覚えてた。突然のことで、こんなことになる心当たりもなかった。
泣き叫ぶ佳斗と離れて、職員に問いかけられた。
弟くんの話を聞かせて、と。
された虐待の内容。たとえば、こんなこと。
それこそ、心当たりがない。なんの話かわからない。どこからそんな話が出てきたのか、そもそも。
佳斗が殴られていることなど、ない。
自分が守っていたのだから。
それなのに話の内容は全て、佳斗が被害を受けていることになっていた。
その時の俺は正直に話す子供じゃなくて、大人にこうだよね?そうだよね?なんて話しかけられたら、頷いてしまう子供で、大人の顔色を窺って嘘をつくやつだった。
だから、虐待だということになった。
しばらく保護されて、やがてもう一度母親の元に戻ることになったけど。
状況は悪化した。母親は更に病んだ。
周りの目が変わった。近所の人の目が、学校の同級生の目が、同情や距離をとるものになって。
そこで気づいた。
不快だと。
同情されたくない。俺は可哀想ではない。俺が可哀想だなんていったら、母さんが悪いみたいだ。俺が弱いみたいだ。
中学生の時、理解が追いついた。
虐待騒ぎ。あれは、佳斗が──弟が捏造したものだ。
状況証拠も、出せるのはあいつしかいない。
佳斗は、構ってほしさに自分勝手にあんなことをした。
それに気がついてからは、佳斗に構う気になれなかった。同じ血が流れていることが気持ち悪くて、双子だと指されるたびに不快感に見舞われた。
高校生になって、母親が自殺した。
ついに、という感想だった。
俺たちではなく、いとこの子供を連れての無理心中だった。酷い話だ。
佳斗はそれから閉じこもるようになった。同じ家なのにあんまり顔も合わせなくなって、同じ学校に通うはずだったのにいるのは俺だけになった。
俺は、どうなったかというと。
これまでの蓄積されたストレスを学校で発散するようになった。母親がいなくなったことで解放されたように、なんでもできるようになった。
カスみたいな奴らと遊んで付き合うようになった。
目についた邪魔なやつを虐めるようになった。
同情なんてされないために、学校で一番偉い存在になりたかった。そのためにはやられる前にやる必要があった。だから強さを証明する為に、殴ったり蹴ったり、他にも思いつく限りの最悪なことをした。
誰かに怯えられるたび、自分は変わったのだと全能感に満ちた。
……でも、偉い存在であるためには、金が必要だった。
貧乏は見下される。これまでの人生、金が足りたことはなかった。ろくに働けない母親に子供二人分。余裕があったことなんてない。
それは、母親がいなくなってからも変わらなかった。金が足りなかった。金がなければ遊べない、遊べないやつは付き合いが悪い、だから虐められる。
貧乏は可哀想だ。
だから、金が必要だった。
虐めたやつから金を巻き上げた。それでも足りるわけない。……多少、違法なことに手を出した。
俺は、顔が綺麗だった。白い髪は特別感があって、付加価値があった。
年齢も良かった。未成年で、そういう大人にとっては価値があった。
大人と遊んだ。大人に金を出してもらっていた。
そこでやめればよかったんだ。
話したり、愚痴を聞いたり、そんな関係で留めればよかった。
目先の金につられた。
騙された。
気がついた時には、大事な何かを失っていた。
誰にも言えなかった。
親戚だとか血縁者、弟には勿論、友達どころか、警察にさえ頼れなかった。
「被害」を受けたことが耐えられなかった。
だから、被害じゃなくすることにした。
あれは大したことなかった、と。お金のためだ、と。お金で学校の地位も守れて、弟のお小遣いも増やせて、いい生活ができて、いいことしかないと。
最終的に、援助交際を繰り返した。
結局全て、「今」を保つ為で、未来のことなんて考えられなかった。
考えたくなかった。
そんな時に、お前に出会ってしまった。
数ヶ月前。
帰宅する時、家の前に子供がいた。
子供と言っても中学生くらい。背丈の低い女。鴉みたいな黒髪で、顔立ちこそいいが服には皺が目立つ。
マンションの別の家に住んでるやつかと思って通り過ぎようとした時に、あっちから声をかけてきた。
「夢矢満月さんですか」
「……あ?」
驚いた。機嫌が特段悪かったわけではないが、咄嗟に少し睨んでしまう。
「あなたに用があります」
「……なんの用?俺の友達の妹とか?」
彼女は、カバンから封筒を取り出して渡してきた。
「なに?」
「お金です」
「は?」
封筒を開け、中身を確認する。中には五万円が入っていた。
この子供から?中学生の五万円?
喜びより疑惑の方が強く、改めて睨みつける。
「……なんのつもり?誰?お前」
「私は兎野アリス」
「あなたを買いにきた」
「……はァ?」
封筒を握る手に力が入り、くしゃりとしわができる。
意味がわからない。狂っているのか?
少なくとも、自分のことを知られていないとこんな発言は出てこない。だとすれば自分がやり取りしている大人の娘かそこらしか浮かばない。だとして、なぜ?
「……ワケわからない。何言ってるかわかってんの?」
「わかってる。私が言いたいこととしてはつまり、あなたとしばらく話す機会を設けたい。カフェ代とかも出します。放課後や休日に少しだけでいい、時間をください」
「しばらくってどれだけ?」
「2ヶ月ほど」
「は。じゃあ倍出しなよ」
試す為だった。ここまで言えば引き下がるだろう。金は惜しいが、あまりに怪しかった。
「では」
兎野と名乗った彼女がカバンを漁り出す。
「はあ!?冗談だよ!出すなら後で出せ!」
ずっと真顔の少女からは真意が読み取れない。調子が狂わされる。
「全然意味わかんないんだけど。なんで俺?何のため?」
「あなたに心理療法を試したい」
「は??」
聞けば聞くほど、意味がわからない。
「心理療法ってアレ?カウンセリングとか、精神科でやるやつ?何でお前が俺に?要らねえまじで」
「……カウンセラーの娘、なので」
「話通じねえ……」
心理療法。そういう響きが、嫌いだった。カウンセリングの類は大嫌いだ。
「お前に話すことなんて無いから。この話は無しで」
「では返してください」
五万円を指差される。
「逃げてもいいですけど、家ここですよね」
「……チッ」
思い切り舌打ちが出る。こんな大きな金、返す気にはなれない。
「話すだけな?話すだけだろ」
「連絡先交換してください」
差し出されるスマホ。渋々連絡先を登録する。
「では後ほどまた連絡します」
それだけ言うと彼女は去っていった。
なんだったんだと眉間に皺がより、気味の悪さが脳内を占める。
とはいえ、財布として利用できるかもしれない。多少は使ってやろうと、そのままマンションのエレベーターに乗った。
数日後、実際に連絡が来た。
本当にやるのかよと思いつつ、連絡を簡素に返す。
放課後に会う予定を作り、学校から少し遠い街のカフェで合流する。
人も多いチェーン店のカフェ内では声を荒げることもできないし、多少の深い話をしても周囲に掻き消える。
先に来ていた二人がけの席に座る兎野は携帯をいじり、声をかければやっと反応する。
「来てやったけど」
「どうも」
どうもじゃねえよ。と思いながらも向かいの席に座った。
「それで、満月さん」
「下の名前かよ」
「弟さんもいてややこしいでしょう」
彼女は紅茶を飲みながらも話す。
「私はあなたの悩みを知りたい。何か困っていることなどありませんか」
「無いけど?」
「例えば、弟さんがあなたを困らせていたり。知ってますよ、弟さん、割と問題児でしょう」
どうやら佳斗のことも知っているらしい。そればかりは話が早くて助かる。
「……はっ、そうだけど?アイツは碌な奴じゃ無いよ、そんなことまで知ってんだ」
「ええ。でも詳しくは知りません。そうですね、彼の嫌なところを話すことからはじめません?」
俺は無糖のカフェラテを一口飲んでから、嫌なことを思い浮かべる。そうすれば無数にアイツの記憶が出てきた。
「そうだな。まず、うるさい」
「というと」
「部屋を貫通する声で話すのやめてほしい。誰かと通話してんのかしらねえけどたまにある。声がデカい」
「ほう」
「あと人に甘えればどうにでもなると思ってる」
「兄として身をもって知ってそうですね」
「もう少し厳しくするべきだった。マジで。カス野郎に育った」
数えれば、幾つになるか。何個も嫌な点が浮かぶ。
「一度弟さんと会ったことあるんですけど」
「はあ」
「あの人、態度も良くないですよね」
「そうなんだよ!」
弟は、自分が主役で、他人のことをモブとしか思ってなさそうな態度が透けて見えている。
コイツはどうやらそれを見抜ける側の人間らしい。
「なんというか、どんな顔してても全部心の底から思ってなさそうなんですよね。実はあなたたちのお母様の一周忌の時にいたんですけど」
こんなガキいたか?と思いながらも続きを聞く。
「お母様の死も、大して……なんとも思ってなさそうでした。それなのにそれをキッカケに不登校になってるのは些か不思議なんです」
「よくわかってんじゃん。アイツ多分偶然いい理由できてラッキー程度にしか思ってない」
そう、多分、自分が可哀想になるキッカケとして母さんの死を利用している。
「……というか、何でそこまで知ってんだよ。一周忌?お前、俺たちに何の関係があるワケ」
「私の母が、あなたのお母様の担当医でした」
「はあ」
「ということで、母繋がりです」
だからといって五万円を出してこんな時間を設ける理由としては納得できない。
「へえ。でも話早いな、あいつなんか今じゃ弟だとも思ってないね。迷惑ばっかかけやがって。加えて虚言癖とかどうしようもねえよ」
「虚言癖」
「そう!!すぐ人を悪く言う癖があって俺と比べて何もできねえの!人に頼ってばっかだからな!」
「あなたは優秀な人のようで」
「俺は成績もいいしアイツと比べてできることしかねえよ?それこそお前が俺と話すためだけにそこまで金出すような価値がある」
「……そうですね」
彼女は静かに頷く。
「もっと聞かせてください。弟さんのこととか、嫌いな人のこと」
変な女だ。趣味が悪い。
大金払って愚痴を聞きたい、なんて奴は大人にもいなかった。むしろ話を聞いてほしい──そんな奴ばかりだったのに、彼女は聞きたがりだった。
仕方なく、思いつく限りの話をした。アイツが悪いコイツが悪い、弟の最悪な点、学校にのさばるゴミ共の愚痴。話しているうちに何だか楽しくなって、いつも悪口を言い合っている相手の言えない悪口を言う。
兎野はそれらを黙って聞いて、時々相槌を打ったり同意したりする。殆どは俺が喋り続けた。
そうしてるうちに夜が来て、他の友達との約束の時間が来る。
「じゃ、そろそろ行くからな」
「どこに」
「友達んとこ。今日泊まる約束してんの」
「……さっき言ってた人ですか」
「まあね」
不愉快な相手とも付き合わなくちゃいけない。別に全部が嫌いなワケじゃない、ただ、いいところを見つけて、その面だけを見ていれば時間が終わるのを待てる。
「お前もさっさと帰れよ。じゃあな」
「……次」
「あ?」
「次も会ってください」
「……あー」
適当に頷く。
五万円分、まだこの関係は続く。
次に何を要求されるかわからない。だが、最低限のことは今日しただろう。
それから不快な時間を過ごして、深夜になれば寝たふりをする。
突然泊まりに誘われたものだから、不眠に効く薬を家に置いてきた。眠れない間は嫌な記憶が脳内をループする。
しつこい。
気持ちが悪い。
ミミズが何匹も心を這うような感覚に、それを取っ払いたい一心になる。それでも尚眠れない。そのせいで眠れない。
朝になれば、よく眠れたフリをしてまた学校に行く。
教師の声が曖昧にしか聞こえず、教科書がよく読めない。今が何ページかもわからないし、文字が頭に入ってこない。それをただの「不良として携帯をいじってたフリ」をしてやり過ごす。
早く終われ。そう願っているのはいつものことだった。
時が過ぎれば次が来る。その次が来るのが怖いのに、終わって欲しくてたまらない。
心ここに在らず。上の空。だけど時間が来たら、力の証明をする。特段嫌なことがあったわけではないが、嫌いな奴が座っていた椅子を蹴り飛ばして帰宅の準備をする。
そんな日を送って、後日にまた兎野から連絡が来た。
再び同じカフェに集って、最新の嫌なことを話す。
そんなことを何度か繰り返した。
何回目かの集合。
十回はすでに超えた。
「なあお前、紅茶しか飲まねえの?」
いつも紅茶ばかり頼んでる彼女に、カウンター席の隣で話しかける。
「……紅茶、すきなので」
「フーン」
「お前、金あんだろ。もっと他に興味あることねえの?」
「……と、いうと」
「酒とか」
「未成年ですけど」
「見りゃわかるに決まってんじゃん」
カフェ代はいつも出してもらっている。
あわよくば、他の場所の金を出してもらったりしてもらいたかった。
彼女は少し考え、提案した。
「ゲームセンター」
「ゲーセン?」
「あそこ。子供がいていいのは午後6時までです。……そのギリギリを攻めるのはどうですか」
悪いことに誘うなら、この程度なら乗るということだろう。
「いいぜ。お前が金出せよ」
「今から行きますか」
二人で飲み切った空の皿を返却口に戻し、近場のゲームセンターへ向かう。
時刻は午後5時の30分。
目にはチカチカとするし、ガヤガヤとした音がうるさい。気が散って、本当は好きじゃないけれど付き合いで来ることは多い場所だった。
彼女は一階のクレーンゲームコーナーをうろうろと歩く。狙いの定まっていない目で、獲物を探す。
「どれがいいですか」
「俺に聞くな。なんでもいいけど」
「そう……」
兎野は、ウサギの中くらいの大きさのぬいぐるみを指差す。
「コレ」
「そこそこ取りにくいやつじゃん。やってみなよ」
「……?どういう感じに……」
「下手かよ」
小銭を入れるが、クレーンゲームに不慣れな様子でプレイする彼女は見ている限りまるで取れそうになかった。
「あーもう貸せ!」
少しイライラするぐらいだったもので、台を奪うようにプレイする。が、うまく取れない。
「……諦めたら?」
「金ならありますけど」
札を小銭に両替する兎野と、どうしたものかと立ち止まる俺。
繰り返しプレイし、数センチ程度に動かし続けること何度目か。投入した合計金額に勿体無さを感じる頃、やっと景品が手に入る。
白いふわふわの兎。目はツヤを反射するボタンでできていて、首元にはストライプ柄の緑のリボンがついている。
「はい。これでいいかよ」
兎のぬいぐるみを持った彼女は様々な角度からそれを堪能して、目を伏せた。
「ありがとう」
「もっと可愛げある喜び方しろよせめて……」
無愛想な女だとつくづく思う。笑った顔の一つも見たことがない。そんなに自分といて楽しくないのか、それとも元の気質がそうなのか。
「お前、そんな可愛いもの好きだったんだ。意外」
「あなたに似てたから」
「はあ?」
ぬいぐるみに視線を向ける。どう見ても似ていない。
強いて言うなら白いところだけ。目はこんなにきゅるきゅると可愛こぶっていないし、リボンなんてつける柄でもない。
それに、自分は動物に例えたところでうさぎではないと思う。
「どこも似てねえだろ」
「あなたは白い兎だから」
「俺に兎っぽい要素ある?」
寂しいと死ぬだとか、一人じゃ生きていけない生き物として例えられがちなことを思い出せば、弟の方がまだ似ている。なんなら、遠回しな悪口かとさえ思えてしまうのは思考の癖だ。
「……あげる」
「あ?お前が欲しかったんだろ」
「ううん。取りたかっただけ」
「要らねえのかよ、ここまでしておいて……」
溜め息をつく。しかし彼女は至って真面目にぬいぐるみをこちらの胸元へ押し付けてきた。
「いらねェ〜〜!」
拒否してやりたいところだったが、それを察してかスマホの画面を見せてくる。
時刻が午後6時を指そうとしていた。
「帰らないと」
「……あー?そんなに居座ったのかよ……」
案外、時はあっという間に過ぎた。終わって欲しい時間は何時間も長く感じるのに、そうではない時は意識せずとも時計が進む。
「多少越してもいいだろ」
「……ギリギリを攻めるという話だった。あと2分ですしもう出ましょう」
舌打ちを鳴らす。
押し付けられたぬいぐるみをそのまま持っているわけにもいかず、景品を入れるための袋を一枚もらってその中に突っ込む。丸みを帯びたビニール袋をぶら下げてゲームセンターを出れば、涼しい風が吹いた。
今日は月が出ている。
もう、夜だった。
「では、そろそろ帰ります」
「……夜道危ないし、送ってやろうか」
「いえ、大丈夫です。ここから遠くないので」
「……あっそう」
「満月さんも、気をつけて」
そう言うと、彼女は何の躊躇いもなくその場を去っていく。
また、独りになる。
気分転換になった。別に楽しかったなんて言うつもりはない。ただ、名残惜しいと思うところがあった。
ずっと今ならよかった。これ以上時を進めたくなかった。
いつの間にか頭の中は、この後のことを考えることをやめていた。未来のことを考えたくない進路を考えたくないなんかじゃなくてもっと、数時間後のことが考えられなかった。
スマホにカレンダーに登録した予定の通知が来る。
午後七時。予定。
「……はは」
そうだった。夜になったら、また大人に媚びを売らないといけない。
そうしないと生きていけないから。
そこまでして、生きている意味って何だ?
そこからはもう、ぜんぜん記憶がなかった。
ただ、家に帰って、ぬいぐるみをらしくもなく机に置いて。
弟の部屋に入った。
寝ている弟。一度ぐっすりと寝付いたら中々起きない佳斗。
弟の汚い机の上でも、「それ」はいつもわかりやすい。彼の持っている抗不安薬、睡眠導入剤を数錠バレない程度に盗む。いつも不定期に薬を乱用している弟には多少錠剤の数が減っていても気がつく脳がなかった。
前から時々、こんなことをしていた。
薬を自室まで持って行って、そのうちの数錠を飲み下す。薬に対する抵抗感も初めよりはかなり薄れていた。
こうやって、気絶するように眠らないと、明日が来ることに耐えられない。
時が進むのが、唯、怖い。
「……どうかしましたか」
いつものカフェで、ハッと意識を戻す。
記憶が曖昧だ。タイムスリップしたかのように突然、今に至る。でもそうだ、兎野とまた会っている。
「いや、大丈夫。なんでもない」
「何かあったみたいですよ」
「……別に、何もない」
言えない。
言えるわけがない。
適当に場をはぐらかしたことは覚えている。何と言い訳しただろう。幸い、彼女はそれ以上聞いてくることはなかった。
何も言うことがない。いつもより早めに席を立って、俯く。
「今日は帰る」
「でも……」
「いい。じゃあな」
彼女の顔も見ないままに外に出る。店内の喧騒が遠のいて、街を行き先もないままに歩く。
横断歩道に立てば、このまま轢かれたいと思う。
ビルの横では、落ちてきた何かが自分に当たればと思う。
電車のホームで、先頭に立つ。誰か背中を押して欲しい。
自然と、視界に映る全てが凶器に見える。
でもそんなことは起きない。
全ての予定を無視して、帰って、何も食べないまま深夜まで過ごした。
また朝が来て、制服のまま寝ていたからシワだけを直して鞄を持つ。
スマホには通知がたくさん来ていたが、見る気にはなれなかった。
そういえば近々テストだったっけ。何の対策もしていない。成績だけは、いいはずなのにそれさえも保てなくなりそうだ。
登校する。……周囲の目が、気色悪い。
怯えられるのは、自分が特別だからだ。自分が強いから。でも、この日は何か違った。
ヒソヒソと喋る声が聞こえる。
「……九楽さん、あの子のせいでやっちゃったんでしょ?うわー……」
「よく来れるよね」
「え、何の話?」
「いやー……」
「あの子にいじめられてた子、自殺未遂したんだって」
足が、止まる。
九楽。その名前は、クラスメイトであって。自分が最もいじめている人物の名前だった。
「川で溺れてるところが見つかったんだって……今も意識不明だって」
「もう、殺しじゃん」
自分を見る目が、冷たい。
眩暈がする。
自分がいじめている人物が死のうと、どうでもいいと思っていた。むしろ、いなくなってくれた方が好都合だった。
人殺し。
そんな声が聞こえた気がして、自分がどんな顔をしているかわからなくなった。
「遺書が見つかったんだって」
「てか一連のいじめ全部バレたんでしょ。やばいことなってんじゃん、警察くる?」
「……というかさぁ」
「アイツ援交してたんでしょ?なんで学校これんだろうね」
足の向きが、変わる。
学校へ行こうとしていた。けど、逆の方へ、早歩きでその場から逃げるように去る。段々とスピードが上がって行って、いつの間にか息を切らして走っていた。
殺し。違う、そんなのは悪い言い方だ。心の弱い奴が悪い。
バレた。
時間が早く感じる。いや、記憶がない。そこから自分はどうしたのか、確か。
兎野に連絡した。
今日、会えないかと。
いつもの場所に行くのは怖かった。喧騒が耳障りで全員が俺の悪口を言っている気がして、街の人々が全員俺を通報している気がした。
夜、7時。人のいない小さな公園に座る。
集合場所を伝えられた兎野は迷うことなく辿り着き、顔を合わせる。……自分はいつも通りの表情を作っていたはずなのに、彼女はすぐに心配を向けてきた。
「具合、悪そうですね」
「……はは、良くはないかもなぁ」
「どうしてまた急に、こんなところで」
「さァ……?」
声に笑いが混じる。笑うことで正気を保っている。
彼女はベンチの隣に座ると、鞄からファイルのようなものを取り出した。
「これ」
ファイルの中に入っていた一枚を手渡される。
そこに書いてあったのは、どこかのサイトの印刷。メンタルクリニックにあるようなもの。
うつ病のサイン一覧。
「あなたに、話をしにきました」
彼女はじっと目を見つめてきた。
「満月さんは多分、うつ病なんだと思います」
「……は?」
「これまで話を聞いてきて、そう判断したんです」
ファイルを指差して、彼女は荒唐無稽に語る。
「不眠。自責、他責癖。焦燥に記憶の欠落。……乖離の症状。食欲の減退、感情を抑制している一面と逆に過剰なイライラを抱えている。集中力も無く、犯罪行為を犯す形の自傷癖がある。トラウマの再演癖」
「……本当は、希死念慮もありませんか?」
思考が停止する。
自分に何が起きたのかわからなかった。全てを見透かすような視線が、冷ややかなそれらよりもうんと受け入れ難い。
何もかも間違っている。
「何の話?」
「あなたの話です」
「意味わかんないんだけど」
「わかってください」
「全部、全部、違う」
はは、と笑いが込み上げる。
「何だ、お前、何もわかってなかったんだァ!俺のこと少しも理解してなかったんじゃん、馬鹿な奴」
「……しばらく一緒にいて分析したことです」
「なあ、このためだけに俺に金払って過ごしてたわけ?こんな、俺を馬鹿にするために?くだらない、アハハ!」
特に、違うのは、希死念慮だ。
死にたいだなんて思ったことはない。自殺なんて、母親みたいな人間のすることを望んだ覚えはない。
何も理解されてなかった。近づいたと思ったのが馬鹿らしく思えて、ここに彼女を呼んだことさえ恥じてしまう。
「何?カウンセラー気取り?アハッ、きもちわる!それで俺のことをわかった気になってたなら愚かで仕方ないな!だとしたら最低だ」
「……満月さん」
「もう俺を呼ぶな」
満月。その名前も、嫌いだった。
苗字も揃って、嫌だった。
「心理療法とか何とか言ってたな、で?試せたワケ?俺はお前と一緒にいて何か変わった?何も、何も変わってないだろ」
何一つとして変われていない。
「テメエの行動は全部無意味に終わった!意味わかんない女だと思ってたけどここまで馬鹿だったとはねえ!」
やっぱり、この世界のどこにも居場所はなかった。
「心理療法はまだ終わってません、私は……あなたに話が」
「うるさい!!黙れ!!黙れよ!!」
彼女の胸ぐらを掴んで引っ張り上げ、立ち上がる。
「終わったんだよ!全部!俺たちの関係も何もかも!!」
「……」
「お前に話すことなんかもう、何もない」
「……私は、あなたに」
「うるさい」
そうだ。
ずっと。ずっと。ずっと思っていたことがあった。
無愛想で、感情が希薄で、髪も爪も自分より汚くて、一人ぼっちで、背丈も低くて弱くて、頭の悪そうな、コイツが。
自分より生きてても苦しくなさそうで。
どこかで羨ましくて。
自分のことをわかったような顔をしてて。
「ずっと、お前のこと嫌いだったんだよ」
「大嫌いだ」
嫌いだ。
「死ね、早く」
「俺の前から、消えてくれ」
胸ぐらを掴まれたまま、手を伸ばしてくる。
触れられそうになる。だから、気持ちが悪くてその場に彼女を思い切り突き飛ばした。
痛みに対する生理的な声があがる。土埃が舞い、じゃりと砂の擦れる音がして、小さな石によって彼女の足に傷ができた。
それを見下ろして、睨みつける。
この場で、殺してやりたい。
死んでほしい。
何も次の言葉が見つからない。どれだけ考えても、彼女を殺す呪詛だけが喉から溢れるばかり。
何かを彼女が言いかけたのを見て、そこから先が聞きたくなくて走り出した。
自分の名前に相応しくない満ちた月が見下してきている。
「……ッはははは!!!」
誰もいなかった。
自分のそばには、誰も。
どこにも行き場はない。
スマホには通知が入り続けている。それら全てを無視して、知っている中でも最もよくない大人に連絡をした。
大人が車で迎えにきてくれた。
乗り込めば、どこかもわからない場所へ連れて行かれる。
「タダで俺に何してもいいよ」
そう連絡したのがキッカケだ。
ついた場所に時計はなかったから、時間感覚は拍車をかけて失う。
そこから、記憶が曖昧なんだ。
俺は自分に乖離の症状があるなんて思わなかった。
だけど、実際、そうだったらしい。
「俺のことぶっ壊して。殺していいから」
そう言ったことは覚えている。
何をされたか実感がない。
どれだけ時間が経ったのかも。
強いて言うなら、酒瓶で頭を殴られたことは覚えている。
生ぬるい血が額から頬までを伝っていく。意識がぐらついて、身体が限界を迎えた。
「ごめんなさい……」
口から何に向けたかもわからない謝罪が漏れる。
早く、全部終わらせて欲しかった。
それなのに、何で続いている?
死んだ先で、不思議の国で目覚めた。
何も終わりではなかった。弟の佳斗もいた。……自殺未遂をしたはずの九楽もいた。
どうしてか責められることもなく、馬鹿みたいに平和な国にいさせられる。
なんで俺の能力は繰り返すことなのかな。
なんでよりによって時間に関することなのかな。
それに、なんでいるんだよ。
兎野アリス。
お前とは縁を切るつもりだった。
お前が間違った選択をしたせいだって責めるために、あえて、はじめましてってフリをした。お前のことなんか知らねえよって。
記憶喪失なんか嘘だろ。記憶があったら俺と話すのに都合が悪いんだろ。
そう思ってたのに。
何で何もかも忘れてるんだよ。
…………………………………………………………
「俺が死にたいんだって知ってるはずだろ」
「ふざけるな、何で忘れてるんだ!!俺だけが覚えてるなんて不公平だろ!!本当は覚えてるんだってそうだって言えよ、そうじゃないとおかしいだろ!!」
「帰りたいワケないだろあんな場所に」
「もうどこにも居場所なんてあるわけないだろ」
「何でお前が人殺しになってんだよ」
「お前がそんなことしていいワケないだろ」
「何でこんなところにいるんだよ」
「結局おまえ、何も、俺のことわかってないんじゃん……!!!!」
「……は」
動揺するアリスに縋り、慟哭するように叫ぶ。
「俺のことを買ったんだろ、じゃあ、もう、好きにしていい。俺を好きにしていいから、だからもう、俺のこと殺してくれよ、いっそそれでいいから!!」
「なんで、全部忘れてるんだよ、兎野」
「思い出してくれよ、頼むから、そうしたら俺が死んでいい人間だってわかってくれるはずだから!!」
吐くように震えた声をあげて、焦点がぶるぶると定まらなくなる。脳が絞まるみたいな感覚なのに白うさぎは叫ぶのをやめられない。
悲鳴じみた声で彼は喋り続けた。
「本なんか、読めないんだ。読んだフリばかりできて、内容が入ってこないんだ」
「眠れないんだよ。朝起きれないんだ。薬を飲んでどうにかしてるんだよ」
「何も食べる気になれないんだ。味がしないんだ。人に触れられるのが嫌だ。佳斗のうるさい声がたまに怖くて、ずっと何かに追われてるんだよ」
「俺がいじめたせいで女王は、九楽は死んだんだよ」
「なあ、俺がなんて言えば、死ぬのを認めてくれる?俺がどれだけ悪い奴だったかわかればお前は俺を捨ててくれる?どうやったら俺のこと殺してくれるんだよ」
「お前は、俺をどれだけ惨めにすれば気が済む?」
見上げてきた彼の顔を見て、アリスは身を引く。この驚愕は本来の彼への不理解の証であり、いつのまにかアリス自身も彼に微かな理想像を押し付けていたのだとわからされた。
「……、……」
アリスが言葉を詰まらせる。
彼の絶望に占められた瞳は、涙を流していた。今の彼にさえ美しさを見出すのは最悪だ。かといって、彼の心からの叫びを醜いだなんて言いたくなかった。
罪悪感がのしかかる。
もしや、自分は、想定を遥かに超えるほど彼を傷つけていたのではないか。
うつ病。何度考え直してもその単語に結びつく。
自分と彼は、現実で──前から関係を持っていた。だとして何故、自分は忘れてしまったのか。忘れるだなんて酷いことができたのか。
白うさぎがアリスへ向けてくる殺意は、何も襲われる恐怖だけから生まれた物ではなかった。
因縁があったから。
ずっと、怒っていたから。
これまでに生まれた彼との数えきれないほどの無言の時間。
それを今ばかりは、彼の嗚咽が歪めていた。
「……満月」
「私は、お前を死んでいい存在だなんて思ったことはない」
殺されかけた時も、仕返しをした時も。
「確かにお前に怒っていることはあった。でも、死んでほしいなんて思っていない。……今も、私は……」
「……生きててほしいんだ」
自分勝手だ。それこそ、怒らせても仕方のないことを言っている自覚がある。
人殺しがこんなこと望んでいいわけないかもしれない。
でも、
「お前のことを大切に思っていたら悪いか。都合が悪いか?」
背中に触れようとすれば、彼は身体を大きくビクリとさせて拒んだ。
「や、やめ、やめろ、汚いの、うつるから……」
「汚くない」
宝物に触れるように、彼の背を撫でる。
身体を優しく抱き寄せた。
「身勝手だってわかってる。頭ではわかってるんだ、でも、ごめん、私は、お前を失いたくはないよ。覚えてなくても、前の私がどうかわからなくても、今の私は……そうだ。お前のこと、絶対に離したくない」
アリスも、手が震えそうになる。必死に言葉を選ぶ。
「お前が悪人でも、なんでも、私はお前のことわかってあげたいし、お前のそばにいられるなら正義を敵に回してもいい」
「それだけ大事なんだ」
「なんでそこまで」
「お前とやり直したいからだ!!」
抱きしめている彼の表情は見ることができない。
これは、誰かにとっては悪かもしれない。
誰かにとっては、指を指して罵声を浴びせたってそれが正当化されるような、そんな愛かもしれない。
でも、それでもよかった。
人が死んで、殺して、もうやり直せないところまできてしまった。
白うさぎはいじめを行ってきた。それで傷ついた人がいることもわかっている。無かったことにはならないし、させもしない。
だけど、せめて、彼との関係だけはやり直しが効くと思いたかった。
彼の人生も、せめて、ここからマシになってほしかった。
「頼む」
「生きると言ってくれ」
「その一言があれば、私は何でもするから」
もう一度私の死を願ってくれ。
それくらい元気になってくれたら、なんでも構わない。
縋るような願いだった。
この不思議の国でも叶えられない願い。彼にしか叶えることのできない願い。星にも届かない願い。
「……兎野は」
「うん」
「生きることが、怖くないわけ」
「……記憶がないからな。思い出したら、どうだか。でも」
「きっとお前となら、生きてもいいよ」
とくとくと、心臓の鳴る音。生きている証が抱きしめるアリスの手の平に伝わる。
この鼓動をどうにか繋ぎ止めたい。その為なら、何でもする。
どうか、応えてくれ。
その願いの答えが、間を開けて彼から返ってきた。
「責任、とれるの」
「……責任って、つまり」
「人を殺した責任。俺を生かした責任。俺が生きてるせいで誰かがまた嫌な思いをしたら、それも全部お前のせい。それでもいいの」
「……」
「……」
「生きるっていうなら、もう今までのような罵られる人生を歩ませないぞ。犯罪はやめだ」
「何それ」
「責任は取る」
「はあ」
「結婚しよう」
彼が咳き込む。咳が背中を通してダイレクトに手のひらに伝わる。
「急な求婚やめてくれる?」
「……」
「こんな時に冗談とか……」
「……いや、冗談じゃない!全ての責任を取りたくなった!」
鼓動がやっと、落ち着いてくる。余計な一言に一度は乱れたが、むしろそれで涙に区切りがついたようだった。
「ここを出たら付き合おう」
「死亡フラグみたいなの立てるのもやめろよ。わざと?」
「やっぱりお前にはそうツッコミ担当をしてもらう方が落ち着くな」
「俺を過労死させる気?」
馬鹿らしくなったのか、彼がため息をつく。
「そもそも、ここを出るっていうのが何を意味するかわかってんだよね。……確実にあと一人いるでしょ、この世界に」
「ああ」
「馬鹿じゃねえの〜!?俺が死ねばお前確定で生きられんのにさ〜ッわざわざ面倒な手段選ぶとか……」
「……別に私は自身の生が目的ではないから……」
「お前も大概おかしいよな。ずっと思ってたけど」
「前の私はどうだった?」
「前の方がさらに変だったよ。今も前も可愛げないのは一緒だけどな」
彼がアリスの身体をうざったそうに引き離す。
それを合図に、アリスも立ち上がった。
「もう、大丈夫か」
「前から平気だけど?」
「そうか」
彼の精一杯の強がりも無視して、ポケットの中へ手を入れてナイフを握った。
すでに、覚悟は決めた。
アリスは悪へと身を堕とす。林檎は罪の象徴である果実だと誰かが言っていた。ならば、その種まで飲み込んでやる。
それで白うさぎと同じ立場、いや、彼を見上げるくらいの場所に立てるならちょうどいい。
「私が行く」
「は?俺も行くけど」
「……だとしても、手を出すなよ」
「あくまで一人でやるって?俺別に潔白でもないんだけど」
「そうは思ってないが、これ以上めちゃくちゃにならないでくれ」
扉に二人で立つ。
開けば暗闇に慣れた目が廊下の光に眩む。大した光だというわけでもないのに、牢屋に数年間も閉じこもっていたような気持ちだ。
この世界にもう一人残っているのは、チェシャ猫だ。
……栄が「条件」に含まれているのかはわからない。
大広間を抜け、城の門を潜り、城の前まで出てくる。夜空にはいつのまにか星がいくつも浮かんでいた。
「チェシャ猫。出てこいよ」
空に向かって声をかける。
一か八か。仮に彼と同じことを考えていた場合、先手を打たれるのは自分達だ。何故なら彼は姿を消せる、奇襲能力に長け過ぎている。
けれど、チェシャ猫はいつもアリスにちょっかいをかけるのが好きだった。
殺して終わり、だなんて形をとるわけがない。嫌な信用で今に至る。
結果、何かの煙が漂ってきた。
アルコールを含むような不慣れな匂いはこちらを酔わせるようで、今日は酸っぱさを感じさせる。熟した果実の潰されたような甘い香りはチェシャ猫が訪れた合図。煙は少年の形をとり、夜空を背に宙に軽やかに現れた。
「良い夜だね、アリス」
「お前にとってはそうかもな」
チェシャ猫。
この状況の、元凶。
「そろそろお気づきの通り、手紙を最初に読んだのは俺だよ。それをみんなに教えたのもね」
こちらの考えを見通したように彼は答えを出す。
「何故、一人で読まなかった。図書室に置きっぱなしにした」
「ンー……?少し違うよ、アリス」
「そもそも俺は、図書室で見つけたわけじゃない」
「……は?」
「けれど誰よりも先に見つけた俺は思ったわけです!」
「"コレ"を一人で見ているなんてつまらないことはしていたくないって!」
何を言っているかわからなかった。
「そりゃ、俺だぜ?誰よりも暗殺とか得意分野中のど真ん中!俺だけ知ってれば簡単に全滅させられる。でもでもさ!」
「つまんないじゃん!」
アリスはポケットの中でナイフを握る力を強めた。
「だから、俺は考えましたとさ。白うさぎの読み進められてない本、タイトルは知ってた!だからその作者順で元々本があったであろう場所を見つけて、そこに封筒を仕掛けたんだ」
「白うさぎがそれを見つけたら、どうなるんだろうってね」
「……白うさぎを利用、したな?」
「うん」
悪びれることなく彼は笑う。子供のいたずらのように軽々しく言ってのけて、楽しそうに口角を上げていた。
白うさぎは自分がまんまと手のひらで踊らされていたことに衝撃を受け、チェシャ猫に怯えを感じ始めている。
「なんで、白うさぎだったんだ」
「そりゃ、彼は汚い人だからだ。絶対に生きて帰る条件のことなんて共有せず、行動に出る。こんなに面白い人もあんまりいないよ?」
「じゃあなんでその後に他の奴全員にこのことを話した!」
「その方が盛り上がるから!」
ただ、それだけのために。
ここまで死人が出た。例えるなら火をつけたのは彼だ。
「俺を殺す?」
アリスはナイフを握る。ポケットから取り出し、チェシャ猫に刃先を向けた。
「……」
「覚悟はもっと上手に決めないと」
瞬間、彼の姿が煙として消える。
瞬きなどしてなかったというのに、次に彼が現れた時には目の前にいた。彼が蹴りをアリスの腕に加え、衝撃でナイフが飛んでいく。
「兎野!!」
白うさぎが咄嗟にチェシャ猫へ殴りかかる。だがそれを煙として避ければ姿が見えなくなる。
カラカラと飛んでいったナイフが音を止ませる。そうして持ち主が現れた。チェシャ猫がナイフを拾って微笑んでいる。
「……返せ!」
アリスが願い、手元にトランプを現す。そのスペードのAは瞬く間に瓶に変わり、振り翳せば中がチェシャ猫に向かって撒き散らかされた。
「おっと」
チェシャ猫が再び煙として消え、持っていたナイフだけが消えずにその場に残る。
液体を浴びたナイフは焼けるような音を立てる。
「……うわっやるねえ。殺意高っ」
正直アリスも想定外だった。あの液体はおそらく殺意の現れだ。だが怯んでいる暇もなく、チェシャ猫が透明になる。
どこに行ったか確かめることもできないまま、煙が形を現した時にはチェシャ猫が白うさぎに蹴りを入れていた。
「痛っ……!!」
白うさぎが地面に倒れるが、その身体をすぐさまチェシャ猫が盾にするように持ち上げた。
「これで何もできないね!俺は何も殺す気はないんだぜ」
「卑怯者!」
「狡賢いのは褒め言葉さ!」
チェシャ猫はニタニタとまるで勝者のように笑い、アリスを見上げる。
「話をしようぜ!死んだらもう話ができないだろ?死人に口なしなんて俺は嫌いなことわざだ!せっかくなんだから今のうちに言葉を交わそう」
「お前と話すことなんかあるわけあるか!!」
「キミは人の話を聞くのが好きじゃないのかな?話の余地がある人、アリスは好きだと思ってたんだけどな」
チェシャ猫は白うさぎの身体を持ち上げながらも、彼の首を絞めるようにした。
「満月!!……お前、それが対等に人と話をする態度か!?」
「人殺しは好きじゃないけど首絞めんのは好きだよ、生きてる感じが肌から直接感じられて」
饒舌に彼は語る。
「アリス。キミがここにいるのは何のためだと思う?覚えてないだろうけど……だからこそ聞きたいんだ」
「はあ!?こんな時に何を……」
「よく考えて。思考をやめないで。存在意義というのは、誰にも彼にも大事なこと。人は皆生まれたことに意味があって、生きた先に到達点がある」
「……キミには、大事な存在意義があるんだよ。アリス」
「は……」
「キミはどうしてこの国に来たと思ってる?」
「今じゃなくていい。思い出した時に、俺の想いに応えてほしい。絶対に……」
チェシャ猫が絞める力を強める。
「アリス。俺はね、キミのことが」
そこで、音が鳴った。
カチリ。
固い音。秒針が進んだ音。時の刻まれる音。
否、巻き戻る音が響いた。
全員の位置は変わっていない。だが異変が起きたのはチェシャ猫だけだった。
「……え、あれ?」
状況の理解が一歩遅れた表情を浮かべて、首を絞める力がパッとなくなる。記憶が、一分間分消えた。
見れば白うさぎは自身のポケットに手を入れていた。その内側で懐中時計を鳴らしたのだろう。
やり直す、と心の底から願って。
アリスはナイフをチェシャ猫の首に突きつける。
「……!?」
チェシャ猫が咄嗟に消えようとする。身体の輪郭が煙となろうとしていた。だが、それより早くアリスが覚悟を決める。
そのまま首を、切った。
頸動脈を切られた彼が首元を抑え、目を見開き地面に視線を落とす。血がぼたぼたと溢れ、傷のない二人にも付着する。
「ッあ゛……、ッ!!」
喋れなくなったのか、穴の空いた喉から空気を漏らすような音しかあげない。舞台に立っているかのように饒舌な彼も今ばかりは言葉に意味を持たせられなかった。
屈む。身体を丸め、首元を必死で抑える。けれど止まらない。一度切れた命の糸は結び直せず、解けていくばかり。
チェシャ猫が地面にそのまま倒れ伏し、血溜まりの中でアリスを見上げた。
「……あ、゛……」
アリス。そう呼びたいのだろう。
けれど、すぐに途絶えた。
息が止まり、瞼は閉じたまま二度と開かれることがない。
二人っきりになる。
なぜだか、これで終わりだとわかった。
アリスは血だらけで白うさぎと見つめあった。
「……これで終わったワケ」
「終わりらしいな」
「……やっぱ帰りたくない」
「ここまできてそれは無しだ!」
「約束する。目が覚めたら、すぐにお前を探し出して責任取ってやる」
「……これで……嘘だったら一生恨むからな」
「そんなわけないだろ」
「お前は嗅ぎ回るの上手いからな、どうせ隠れても見つかるし、待ってやるよ」
「連絡先消えててもちゃんと探せよ。夢矢満月、それが俺の名前。今度こそ忘れるなよ、絶対」
「……ああ」
「約束な」
そこで、意識が暗転した。
…………………………………………………………
心電図の音。
手に握ったナースコール。思わず押し込めば、看護師の慌ただしい声が聞こえる。
見上げた天井は一面の白で、点滴が垂れ下がっている。
身体中が痛い。
アリスは無数の管に繋がれ病室のベッドに横たわっていた。
「記憶喪失、ですか」
医師はアリスの言葉を元にカルテへ記録をしていく。
医師曰く、やはり学校で飛び降りてから昏睡状態だったらしい。
大した後遺症もなく、無事で済んだのは幸運という他なかった。
記憶に関しては、不思議の国で目覚めてからのものしかない。どうやら都合よく元には戻っていないようだった。
そして骨折があり、しばらくは退院もできそうにない。
はやく満月を迎えに行ってやりたい。けれど向かう手段もなく、天井を見つめる時間を過ごす。彼のことを思うとその時間が無限にも思えた。
放っておいたら今のうちにでも死んでるんじゃないか。焦りこそするが、立ち上がるだけで一苦労の状態ではどうしようもない。
……それに、栄とも連絡が取りたかった。お礼もしたいし、無事だと伝えたかった。最後に会ってから結構な時間が経つ。
そうしてしばらく経った時、看護師から声をかけられる。
「面会の方がいらっしゃっています」
「……名前は」
「夢矢満月さんという方です」
「すぐに通してください!!」
気迫に押され気味の看護師が面会人を連れてくる。
そこに現れたのは、現実でも真っ白な髪の毛を持つ青年……すぐに満月だとわかった。毛の色が違ったら印象も違ったが、どうやら地毛らしい。
額を隠すようなおろされた前髪、看護師に対してニコニコとしていた彼だが、看護師が去り扉が閉じられたことをきっかけにその笑みが失せる。
否、機嫌のよさげな……悪質な笑顔へ変わる。
「おい!!遅いんだよ!!」
「病人への第一声がそれか?」
「黙れ。待ってんのに来ねえから俺から探してやったんだよ」
どうやら待ちくたびれたらしい。約束すると言ったが、これは約束を果たせなかった判定に入るのだろうか。
「それは苦労をかけたな。悪い」
「謝れ!退院したら何か奢れよ!ある程度の金額で!」
ベッドの横の椅子にどかっと座り、彼は足を組む。
「でも、本当に待ってくれてたんだな」
「……嘘だったワケ?」
「そうとは言ってない」
「だよな」
彼は既にカット済みの林檎をお見舞いの品に出す。
……うさぎの形に切られている。
「後のゴタゴタ、大変だったんだから、お前も早く退院して手伝えよ」
「手伝うって?」
「とぼけんな。家のこととかだよ!学校も大変なんだよ!もう通えねえから引っ越すの!」
遺品整理などは既に終えた後らしい気配を感じる。
引っ越すとなれば、どこに行くのだろうか。遠くではないことを祈る。
「ちなみにどこに引っ越すんだ」
「あー?わかんねえ。決まってない」
「じゃあもしかしたら遠距離恋愛になるかもしれないんだな」
「あー」
「ん?」
「ア?」
否定が飛んでこない。
いつもなら確実に否定が飛んでくる冗談の一種。
「……んだよ」
「……」
「なんか言えって!」
謎にキレ気味の彼へ思わず笑ってしまう。
「……!!何笑ってんだ!滅多に笑わないくせに!」
「悪い」
「……付き合うんだろ?」
それも嘘だったのかよ、と確認するような意思が透けている。
「ああ。そうだな」
「なんなんだよ」
悪態をついてはいるが、内心ほっとしたのか背を少し丸めたのが見えた。
「まだガキのくせに……」
「おい、禁句だろそれは。お前もまだ子供だ」
「お前より先に大人になりまーす!残念だね!!」
「病人の前で騒ぐな」
けらけらと笑う彼はもういい子のフリをする気が微塵もなさそうだった。
しかし心の内を見せてくれたようで、アリスも安心する。
「なあ、退院したらすぐ会いに行くからな。電話番号交換しよう」
「……仕方ねえなあ」
「それまでは気が向いたら暇つぶしに付き合ってくれ。病室は暇なんだ」
「連絡こまめに返すの苦手なんだけど」
「そうだろうなとは思う。無理はしなくていい」
とはいえ、連絡を取ることで彼の生存確認をしたいのだ。
舌打ちをして彼は面倒くさそうに承諾する。
「いいよわかった。好きにしなよ」
「……ああ」
彼は時計を見て立ち上がる。
「もう見舞いの時間終わるから、行くわ。じゃあな」
「あっという間だったな。またな」
彼が部屋を出た後に、林檎を口に運ぶ。
退院の日が楽しみだった。
……それから数ヶ月こまめにやり取りをして、退院の日を迎えた。
その間に起きたこととしては、栄もお見舞いに来たことだ。
栄はアリスと再会し泣いて安心し喜んだ。あれからずっと心配で仕方なかったのだと。どうしても不思議の国に来ることができなかったのだと、自分の無力を嘆いていたが結果として生きているのだからいいだろうと慰めた。
不思議の国で起きた惨劇についてはどうも言う気になれず、話を曖昧にぼかした。それについては満月にも、栄には言わないよう口を塞いだ。
アリスは同じ中学にはもう通えなかった。自分も転校を余儀なくされ、栄とは離れることになったがそれでも友達としての縁は繋がったままになる。
一つ不思議なのは、自分の過去。
結局、わからずじまいだった。何故死んだのかも、退院後に自身の部屋を漁ってみても遺書の一つも出てこなかった。
けれど過去より未来の話をしたいと言える相手ができた。
今日も満月は隣にいる。
鬱病が簡単に治るわけもなく、まずは必ず一日二食とることからはじめさせた。病院も何軒か勧めたり、休息を取らせた。
彼は……不思議の国に来るまでに起きた事件の「被害者」として扱われる中でカウンセリングも設けられた。
彼も自分の弱い一面にゆっくりと、ゆっくりと向き合おうとしているようだった。
長い目で、彼が前を向けるよう支えようとアリスは思う。
はっきり言って、夢矢満月の不思議の国での能力がそれなのは最悪だった。
彼にはトラウマの「再演」癖があった。
最近で言えば、スプラッタ映画を見ようとする彼を止めたこともある。
そして弟の存在を語る時は大体、精神的に不安定な時だ。
都会の中心部では夜も星が見えない。
けれど、満ちた月だけがよく見えた。
愛を表現する言葉に月が綺麗だとはよく言ったものだ。
ゲームセンター帰りの満月がぬいぐるみの入った袋をぶら下げながら、話しかけてくる。
「……あのさ……アリス」
「どうした」
「本当に俺でよかったの」
そんなことをあまりにも突然言われたものだから顔を見上げてしまう。けれど彼はそれに相反して、アリスの顔を見ようとはしなかった。
「付き合うとか、俺は軽い気持ちで言ったけどさ。……俺、お前のこと幸せにできないと思う。もっと……普通の男を好きになるべきじゃねェの」
「何を急に」
「……」
「私も普通の女じゃないからお似合いだな」
彼は黙ってしまった。
アリスが手を握れば、冷え切ってしまってしまっているのがわかった。
「不安か?」
「別に」
「行きたいところができた、駅のショッピングモール寄って帰ろう」
「はァ?なんで?」
「アクセサリーショップに行きたい。手頃なやつだ」
「だからなんでだって」
「仮の指輪を買おう。将来ちゃんとしたものを買うことを前提に」
「……は?」
「魔除けにもなる。恋人の自覚を持ってもらう」
「……バカじゃねえのお前……」
「お前ほどではない」
アリスには記憶がない。
だからこそ、今が第二の人生のように感じていた。
これが真の意味でやり直す、ということだろうか。
彼も第二の人生を歩みはじめている。
ここから二人でやり直すことを、夢見ずにはいられない。
……たとえ、そのために犠牲を払っていたとしても。
▼▼▼
三年後
アリスは友達と遊ぶことになった。
相手は小桜栄だ。彼女の家に遊びに行く。家族と暮らしている彼女だが、今日は仕事でいないのだと。泊まりがけの交友だ。
お菓子や泊まりの道具を持って家へ向かう。
……違和感があった。
どこかで見たことがある気がする家。
デジャヴ。
それも気のせいだと中に上がる。
「ここが私の部屋!えっとお布団もちゃんとあって……私のお家は好きに使って!見ちゃだめなところとか多分ないと思う!」
「わかった」
「あ……ジュースとか買い忘れちゃった。アイスも欲しいし……ちょっとコンビニで買ってくるね!何がいい?」
「じゃあコーラとストレートティー。あとチョコアイス」
「変な組み合わせ……!!」
彼女が財布を持って家を出る。
扉の閉まる音が、やけに響いて聞こえた。心臓の鼓動が早い気がする。
家の中を、歩く。
何か嫌な予感がした。
微かに記憶があった。
物置、のような部屋に踏み込む。
ごちゃごちゃとした場所。汚く、埃が積もっている。
だけどここが、忘れてはいけない気がして、先に進んでしまう。
ダメだと思った。
一線を超えてしまう。
それなのに、棚に手を伸ばした。
「……あっ」
見つけたのは。
赤い、封筒。
そこで何も見なかったことにできたのに。
『今じゃなくていい。思い出した時に、俺の想いに応えてほしい。絶対に……』
殺した相手の、言葉が蘇る。
存在意義。忘れてはいけないこと。
それが、そこにある気がした。
だから読んでしまった。
「……、……」
封筒が、床に落ちる。
アリスは中身だけを抜き取って、その場を立ち去る。
思い出した。
全部思い出した。
そもそも、夢矢満月に接触を図ったのは彼を救うためだ。
彼は、不幸せすぎた。空虚で、傷を増やすだけの毎日に、生きる意味などなく。
だから幸せにしたかったのだ。
彼を最も不幸にするためには、一度幸せにしてあげないといけなかった。
だが、一度失敗した。
うつ病を突きつけたのは間違いだったのだろう。彼は頼ることではなく拒むことを選んだ。
結果的に、不思議の国に呼び込むことに手間取った。
彼が去った後、すぐに家や学校に調べを入れたが満月のいる気配はなかった。行方不明になっていることを察してすぐに、以前から九楽 心が満月に仕掛けていたGPSを頼りに探すこととした。
そのGPSの情報を手にするのも時間がかかってしまった。
結果的に数十時間の監禁と、無駄な苦痛を与えてしまった。
見つけた時には酷い惨状で、瀕死の状態だった。警察に頼るのは好きではないが、流石に呼んだくらいに。
だがどうにか不思議の国で彼を手に入れることができた。
あとは落とすだけだ。
こんなに愛してしまったのだから。
不幸にすることも責任の一つだ。
…………………………………………………………
ある冬の日だった。
寄り道していたら夜、少し遅くなった。
あの事件から三年が経とうとしていて、夢矢満月……俺は、二十歳を迎えていた。
少し経って、帰るための居場所はアリスの家になった。半同居状態である。
認めたくはないが彼女には世話になっている。
いや、ある意味は世話をしていると言っても過言ではない。家事に関してはできる時にかなり手伝っているし。
だから少し、たまには感謝でも示してやりたかった。
寄り道というのはプレゼント探しだ。特段これといったイベントや意味はないが、珍しいこともあるもんだと思って欲しかった。
アリスに似た黒い兎のキーホルダーと、ショートケーキを買って帰路につく。都会の喧騒も、前より随分と居心地がいい。前は話す人々の声が全て自分を罵っているように聞こえていたのが、今は耐えられた。
人の少ない夜道を進んで、街灯の下を通り抜ける。アリスの引っ越した家へ辿り着いて、合鍵を使って中へ入る。
だが電気はついていなかった。……こんな夜遅くに出かけているのか。
連れ去られたりしたらどうするんだと少々怒りを覚えたが、ケーキがあるのだからとすぐに上機嫌に戻る。
それかもしかしたら、寝ているのかもしれない。
「帰ったぞー。もう寝てんのかよ」
玄関で靴を脱ぎ、廊下を進んだ。
扉を開けようとする。その時、何か嫌な予感がした。
最近は思い出していなかった、不思議の国での危機感。あれのような感覚。
弟の死に覚えた、予感。
「……?」
扉を開ける気になれない。
けど、開けなくちゃいけなかった。
ぎい、と音を立てて扉が開けば廊下の電灯がリビングへと漏れる。
何かが視界にうつった。
息が止まると同時に、悲鳴も出せなかった。
時が止まった。
きっと、そうだ。この世の全ての時計が止まったんだ。時間なんて進んでなくて、意識が進んでいるように感じる自分はいよいよ狂ってしまったんだ。
ぎい、と音を立てているのが扉だけではないと理解できない。
ぶら下がっている。
紐と、その先に人の身体が。
見覚えしかないのに、誰かわからない。リビングの時計の秒針の音がいやにこびりついて、剥がれない。
テーブルの上には紙が置いてあって、垂れ下がるそれは生に足掻くことをやめていた。
笑いが出る。身体から拒否反応が出て、形が崩れることも関係なくなってしまったケーキの箱が地面に落ちて横に倒れる。
なぜか、と自分に問いかけることもできない。
答えはとっくに出ていた。
もっと、自分が支えてあげるべきだった。
ずっとずっと支えられるばかりで、自分ばかりが弱かった。愛してあげるべきだった。強がりに愛を表現しなかった。愛を口にし損ねた。
全ては自分が弱かったから悪かった。
傲慢だった。怠惰だった。彼女に甘えてしまったのが間違いだった。
彼女だって、自分のために人を殺していた。不思議の国にくる理由だって、自殺を選ぶほどに苦しみを抱えていたはずだ。記憶喪失がなんだ、それは言い訳でしかない。少なくとも殺人の記憶は染みついて取れるものではない。
だがそれを、彼女が弱音として吐いたことがあったか?病院に通っていたか?支える人がいただろうか?
無かった。何も。
聞かなかった。心配しなかった。大丈夫だろうと思ってしまっていた。記憶喪失に甘えて彼女自身に踏み込むことを忘れてしまった。
今が幸せでも、間違いなく加害者であるどうしようもない俺が、天国に行けるわけもなかった。
幸せに甘えた。
全部、間違いだった。
やり直せなかったし、目の前のそれももうやり直せない。
全部俺が悪い。
彼女は死んだ。
だからもう、俺も死ぬしかないのだ。
やり直すなら来世だとかを期待するしかない。
テーブルに置かれた紙を読まずに、再びリビングの扉が閉められる。
玄関の明かりが消えて、靴の音だけがした。
そうして独り、街に消えていった。
■月■日
十七歳女性が自宅にて首を吊り死亡しているのが発見された。
署によると同じ宅に住んでいた二十歳男性が別の場所にて首を吊って死亡しているところが発見され、警察は捜査を進めているとのこと。
二十歳男性は三年前に起きた未成年への監禁及び暴行事件の被害者であり、何らかの関係があるとみられる。
以下、十七歳女性の遺書から発覚。
以前から調査中であった三年前に発生した連続自殺事件に、自殺教唆犯として彼女の存在が浮上。
いずれも自殺現場にいたとされるが、目的はわかっていない。
また、一連の事件に殺人で関与した疑いの■■山眠容疑者の遺体も三年前に発見されている。
何が彼らをここまで追い詰めたのか、その原因は彼女の存在と家庭環境にあるとされ──
アリスインヘブン 白うさぎ√ END




