三月うさぎ√第4話「疑惑」
鳥の声が聞こえない。
けれど、確かに朝だった。
窓の外は明るくやけに濃い青色で満ちている。
ベッドの上はというと、寝相の悪い三月うさぎに退けられるアリスの絵面だ。ベッドの殆どを四肢を放り出した三月うさぎが占め、アリスは端に追いやられている。
文句の一つでも言ってやりたいが、彼を起こさないよう静かにアリスだけが起き上がり、先に寝巻きから着替える。
いつものエプロンドレスに身体を通し、頭のリボンをつける。そして三月うさぎへ声をかけた。
「三月。起きろ。朝だ」
「あ!??朝!?大丈夫!?誰か死んだ!?」
「何も起きてない」
彼は胸を抑えていた。
「そっか、よかった。怖い、起きるのも怖かった……」
「そうか。私が先に部屋から出てるから落ち着いたらお前も着替えてきてくれ」
「うん……」
扉の外に出て、廊下に一人で立ったままアリスは足を交差させた。
相変わらず人がいる気配がなく、扉越しに聞こえるバタバタとした三月うさぎの発する物音だけが安心感に繋がった。
素早く着替えを済ませた三月うさぎが勢いよく扉から出れば、ぶつかりかけたアリスが寸前のところで避ける。
「おまたせ!!」
「別に待ってない。むしろ早すぎる」
帽子で殆どは隠れているが、寝癖も直っていない。枝毛の多い髪の毛が更に乱雑に広がっている。
アリスは寝癖を直すついでに彼の頭を撫でた。
「わあ!!!」
「うおっ」
三月うさぎが突然声を上げるものだからアリスも驚いてしまう。
「なんだ、急に」
「ごめん突然撫でられたからびっくりして……」
「いつも距離感が近いのはお前の方なんだから、今更じゃないか」
そう。今まで、アリスとの距離感を取らずに接してきたのは彼の方であった。
アリスは三月うさぎの手を取り、引っ張って歩き出す。
「朝食を食べに行くぞ。こんな時だからこそ食べた方がいい」
「今日の朝食なんだろうね?」
「オムレツがいい」
ダイニングの方へ向かってみるが、そこには誰もいなかった。朝食の準備がされているどころか、厨房をのぞいてみても誰かが立ち入った気配がない。
「……作るか」
「でもアリス、ここは不思議の国だよ?願ったら朝食くらい出てくるって!」
「思い出せ。あの散々な弁当箱を」
「あっ」
「雪辱を晴らそう」
アリスはエプロンドレスから普通のエプロンへ着替え、台所に立つ。卵とバターを手に取り、それを三月うさぎへ手渡す。
「卵を割ってくれ」
「役割分担?」
「いや、私は卵を割るのが非常に下手らしい。必ず殻が入る」
「どんな割り方してるの??」
試しに一個、台所の角に目がけて卵を振り下ろす。ヒビが入り、そのまま割られた殻が内側へ入り込む。ボウルに卵を入れ、中に散乱した殻をちまちまと取り除きながらアリスは続けた。
「こうなるんだ」
「アリスってちょっと……男勝りというか……すっげ……」
少しは卵を割る時力加減をしないのだろうか。
三月うさぎは言われた通り渡された残りの卵をボウルに割り入れる。
「あっやべ!」
しかし、彼もまた卵を扱うのは下手だった。ぐしゃりと無惨に割れた黄身がボウルの中へ垂れて落ちていく。
「どのみち混ぜるからいいだろ」
アリスは牛乳を目分量で追加し、泡立てるように混ぜていく。フライパンを熱して、その卵の液体を入れていった。
「あ」
「アリス?」
「バター敷くの忘れた」
「アリス!!」
案の定フライパンに焦げ付いていく卵を最大火力で燃やしていく。
結果、出来上がったものは途中で破れている挙句に火の通り過ぎて固まり切った、黒焦げの何かだ。
仕方がないのでそれらを皿に、せめて見栄えが良くなるようレタスやプチトマトなどを付け足しながら盛り付ける。
「……記憶がないから料理が下手なの?それとも元から??」
「わからない。お前はなんだ?お前もなんで壊滅的なんだ?」
「オレはそもそも料理とかしないもん……」
三月うさぎはトーストを齧りながら言い訳をする。
「ずっと母さんか兄さんが作ってくれてたし……一人の時は調理が必要ないものばっか食べてたから料理しないんだよ」
「へえ。どんなもの食べてたんだ」
「栄養ゼリーとかコンビニのご飯とかカップ麺」
確かに三月うさぎがそういったもので食事を済ましているのは想像しやすかった。栄養が偏っているのではないかと食生活への心配はあれど、料理ができないことにも納得がいく。
「決めた。次はフレンチトーストを作るぞ。私が食べたい」
「卵料理好きだね!」
「お前も作るのには参加しろ」
アリスは食事量に物足りなさを感じつつも、食べ終わった皿を片付ける。
そして振り向いた時、三月うさぎが薬を飲もうとしているのが見えた。
「おい。それはなんだ」
「!!バレたッ!」
「三月」
三月うさぎは何錠も取り出した錠剤をポケットの中へ仕舞いつつ、残された2錠ほどをアリスへ見せた。
「これは朝の分!ね、ダメ?」
「必要な分は何も怒ったりしない。余計なものはやめろ」
許しを得た彼はすぐに薬を飲み込む。
「アリスは要らない?」
「……私は病人ではない。医師から処方されたわけでもない薬を飲むわけにいかない」
「でも一回オレが飲ませてあげたじゃん。あれもう要らないの?」
「あれは……不可抗力だろ……」
思えば、そもそもあの時飲まされた薬は精神薬の類ではなかったと思う。どちらかといえば、麻薬のようだった。
2度と飲んではいけないと理性が警告を鳴らしている。
「三月うさぎ。一つ、聞いていいか」
「……?ん?」
「お前、現実で……違法薬物、にまでは手を出していないよな?」
「あっ!それはね!オレは!」
意気揚々と何か説明しようとしたところで、三月うさぎの動きが止まる。目の焦点はどこか遠くを見て、笑顔が困惑へ変わっていく。
「……あれ」
「三月?」
「オレ……どうだったっけ……?」
三月うさぎは両手を顔へ寄せ、何かを思い出そうとする。
「やばい。やばい。どうしよう。何か変だ」
「落ち着け。変って、何がだ」
「記憶が……」
「は?」
「なんでオレ、今まで変だって思わなかったんだろ」
三月うさぎは、迷子の子供のような表情を浮かべアリスを見た。
「思い出せない。違法薬物はやってないって、否定できない。やってないはずなんだけど、一個だけ、何かひっかかる……」
「……は!?」
「オレ、市販の薬とか……病院でもらった薬しか飲まなかったはずなんだけど……そういう、法律には触れてないはずなんだけど……なんか、心当たりがあって、なのに思い出せなくて」
「自覚的にはやってない。が、そうと言い切れない?」
彼は頷く。
「オレが死ぬ時にね、どんな薬飲んだのか……思い出せない。薬やって死んだって覚えてんのに、なんでそうなったのか……!なんで……!?」
「……私も、落ちて死んだのはわかるがそこまでのこと覚えていないし……それに近しいものだろうか」
「帰ったら逮捕されてるとかない?」
「さあ……」
そう話していた時、足音が聞こえた。
アリスは咄嗟に身構え、三月うさぎは耳を縦に立ててそちらの方向を見た。
「……あっ!!いた!」
その声の主は、帽子屋だった。
「帽子屋!!」
三月うさぎは彼に飛びかかる。
「三月チャ〜ン!探してたんスよ!!」
「置いていかれたかと思ったよ!?なんで急にいなくなるの!?」
「いやぁ俺も他になんか手段ないのかなーって探して……」
帽子屋はたははと笑いながら、申し訳なさを滲ませた。
「あの、やっぱみんな自殺っぽいッスね!死んだら向こうに戻れるっぽいス!」
「というのは、確信を得たのか?」
「見た感じみなさんそうっぽいですし〜……あの、女王サマとお話ししたんです。そこで、これをみんなに見せてほしいって渡されまして」
彼がカバンの中へ手を突っ込み、何かを取り出した。
それはシーリングスタンプがされていた赤い封筒だった。特殊な紙質で、見たことのない不思議な雰囲気を醸し出していた。
三月うさぎは手渡された赤い封筒の中身を、アリスに見えるように広げる。
メッセージカードのようなもので、丁寧で達筆な文字が書かれていた。
『この世界では自分で命を絶ったものから元の世界に戻れる』
ただそれだけが書かれていた。
「これ、女王サマが見つけた時には封筒が開いてたらしくて……チェシャ猫サンが見たんじゃないかーって……」
「……これ、どこにあったかは聞いたか?」
「チェシャ猫サンの部屋にあったって言ってたッスよ〜。あのあと城の持ち主特権で調べたんスかね?」
「……はあ」
つまり、仮定すると。
チェシャ猫がこの封筒を見つけ、手がかりを書き残して誰よりも先に死亡した……元の世界に戻ったということだろうか。
アリスは言葉にできない妙な違和感を抱えながらも、納得するしかない目の前の証拠へ眉間にシワを寄せた。
「ということなんで、女王サマも戻るらしいんで、オレも戻りたいんスけど」
「これを伝える為に私たちを探してたのか?」
「あっ!それもあるんスけど……えーと」
彼は曖昧に、言いづらそうに言葉を探す。煮え切らないまま、やっと選んだ言葉で会話を続けた。
「三月チャン。薬くれない?」
「えっ!いいよ!」
「やったー!ありがとう流石三月チャン〜!」
三月うさぎはポケットからあらゆる薬を取り出す。錠剤、粉薬、注射器までも。
「こっちの薬がフワフワになるやつで、こっちが頭バーンって感じになるやつ!」
「お、おい三月うさぎ……!」
「じゃあ〜恐怖心とか?そういうの無くす感じの〜楽しいやつほしいっスね!」
そう言われた三月うさぎは薬を選び、まるでお菓子でも渡すかのように大量の薬を渡す。20から30錠ほどの錠剤に、注射器まで。
「帽子屋から言うなんて珍しい!やっぱ薬あった方がいいよ!飲もう飲もう!」
「あはは」
アリスは帽子屋の肩を掴み、振り向かせる。その表情は伸び切った前髪で隠れて見えないが、どこか挙動不審な態度は隠しきれていない。
「……帽子屋お前、何のつもりだ?」
「あは!えーーと……ッスね〜〜あの、怒らないで聞いてくださいね?結構当たり前のことなんで納得してもらえるとは思うんスけど」
渡された薬を握り、服の中へしまいながら彼は続けた。
「死ぬ時、薬あった方がやっぱいいなって……あの、思いません?正気で自殺するとか無理ッスよ。当たり前に。無理ッスほんと」
「………………えっ。じゃあそれ飲んでから死ぬつもりなの……?」
「そ!」
「オレは?置いてくの?」
「……えーでも、三月チャンは、この世界に残りたいんでしょ。俺はそろそろ帰るから……」
「オレは残りたい、けど、帽子屋がいないのはイヤなんだけど……!?」
「ごめん!ほんと!でも俺やっぱ帰らなきゃだわ……!家族も待たせてんだ!」
そう言ったところで、言葉選びを間違ったというように帽子屋は急いで口元を抑える。
「家族……?」
「あっ、いや、これは違くて!」
「オレはまともな家庭じゃないのに……、帽子屋はそうだよね、ちゃんと家族が待ってんだもんね、いいよね。じゃあ帰ればいいんじゃないの?」
「あ〜っ落ち込まないで〜!でもさっほらっ白うさぎのお兄さんもいるし……!お兄さんは残ってくれるって!絶対!な!もしくは三月チャンがこっち来るならお兄さんも来てくれるはずだし!」
帽子屋はアリスの方を見る。
「コイツのことあとはよろしくお願いします!じゃ!」
彼は逃げるようにその場から走り出す。アリスが止める間もなく城の外へ行ってしまったものだから、取り残された三月うさぎはその場に蹲る。
「なんなの……!!!」
「落ち着け」
「あれさ、オレのこと見捨てたよね?オレは残るって言ってんのにアイツは外行くんだ!酷いって!!」
アリスは屈み、彼の背中を撫でる。
「帽子屋とはさ、中学も一緒で……友達だと思ってたのに……なんで?オレから薬もらうだけもらっていなくなるとかありえない……!薬無しで死ぬ勇気もないくせに……!」
「次会ったら殴るか?」
「殴りはしないけど……」
「そうか。じゃ、私はお前のことを託されたわけだが」
「……アリスは、オレを見捨てたりしないよね」
「……私も帰りたいんだが」
三月うさぎは再び顔を俯かせた。
「兄さんもオレを見捨てたりしないし」
「……そうだな」
三月うさぎは自身の腕の皮膚を引っ張り、爪を立てる。ガリガリと掻くものだからアリスは腕を掴みその行為を止めた。
「……えっ」
その時、目にしてしまった。
彼の腕には幾重にも重なった赤黒い線が入っていた。リストカットという単語が一瞬で脳をよぎり、思わず掴む力が弱まる。
「おいコレ……なんだ……」
「……薬で足りない時にやってる」
「……痛くないのか」
「痛いよ。ずっと」
彼は目を細め、兄によく似た表情を浮かべる。
「この世界に来る前からずっとやってて、この世界に来た時も……傷、治ってなかったんだ。だから、ごめん、汚いよね」
「汚くない」
この腕の傷は孤独に苦しんでいる証だ。一人の時にしていたのだろう。
アリスは元の世界に戻れるならば、戻りたい。しかし──彼をこのまま置いて行っていいのだろうか?
兄は一緒にいてくれると信じ切っている彼と正反対に、アリスは白うさぎがここに残るとは思えなかった。白うさぎは既に、三月うさぎに対し疲弊し切っている。もしこれが縁を切れるキッカケになるなら……戻ることを選んでしまうかもしれない。
そうしたら、どうなる。
彼がもし、一人になってしまったらどうしよう。
どうにか彼のことを現実に連れていくことができたら。
「……三月うさぎ」
「……何」
「私が、私達が現実に戻ったら……お前に元の世界に戻る選択をさせた責任を取ると言ったら、帰ると言ってくれるか?」
「……え?」
「私はどうにかしてお前を連れて帰りたい。もし、私が責任を取ることでお前が救われることがあるならできることはしてあげたいんだ」
「アリス……?」
きっと、彼と共にいることは簡単なことではない。
虚言癖に、自傷癖に、薬への依存症……それ以上にも何か、抱えていることがある。医者ではないアリスには診断名など下せない。
それでも彼が幸せになれるなら、何かをしてあげたい。
三月うさぎはアリスからの言葉を咀嚼し、飲み込み、理解すると微笑んだ。その笑顔はいつも見る底抜けのテンションからくるものとは違い、優しく穏やかなもので、瞳には微かな潤みが宿っていた。
「……それなら、考えてもいいかも」
「ほんとか?」
「うん」
アリスは三月うさぎの頬に手を添え、撫でる。
「なら決まりだ。これからどうするか考えよう。ずっとここにいるわけにもいかない」
「そうだよね!オレも手伝うよ。……って言っても何したらいいかわからないけどさ……」
「チェシャ猫からでも何か聞けることがあったら良かったんだが……」
アリスが困っているというのに、チェシャ猫は現れない。
彼はいつだって、どこからでも現れた。いつどこでも見られているような気がした。それなのに、彼はいなかった。
チェシャ猫がまとう甘ったるい香りもしない。
唇を軽く噛む。
そこまで思った時に、ふと違和感を感じる。
アリスには、自分を見張っているとまで言える人物が二人いる。
一人はチェシャ猫。一人はハートの女王だ。
それだというのに、
……なんで、あいつ、何も言わないんだ?
三月うさぎはアリスと一緒にいたというアリバイに対しても何も言わなかった。見ているなら知っているはずなのに。
三月うさぎに襲われた時も何も介入してこなかった。
チェシャ猫の死体を見ても動揺の色を見せなかった。あんなに怖がりなのに。
『この世界では自分で命を絶ったものから元の世界に戻れる』
あのメッセージカード。やけに字が綺麗だった。気をつけて書いたとしても逆にもっと角張ってしまったりするものだ。それが達筆で。
ハートの女王が勉強をしているときに見たような、綺麗な文字。
封筒も、チェシャ猫の遺言も、全部ハートの女王が見つけた。
何より。
ハートの女王はきっと、この世界から出る方法がわかったならその時点でアリスへ教える。帽子屋など経由しないで、アリスを置いてなどいかず。
アリスは口を抑えた。
「あいつ」
咄嗟に立ち上がる。
「女王を探してくる。三月も、探してくれ。見つけたらすぐに大きな声を出してくれ!」
「えっ!?」
返事を聞く間もなく、アリスは走り出す。
階段を上がる。
嫌な予感がする。
もっと早くハートの女王を疑うべきだった。
アリスの胸には不安が渦巻く。
最悪。全て彼が仕組んだものであったら?
──彼らの死に、意味などなかったら?
考えるより先に彼を探し、答え合わせをしなければならない。
アリスは走り続けた。




