第三十九話 灰の中に残るもの
「急げ!」
怒号が飛び交う。
水桶を抱えた男たちが走り、警邏隊員たちが周囲の住民を建物から遠ざけていく。
その中心にあるのは、見慣れた建物、北方互助会本部だった。
数時間前まで人の出入りがあったはずの建物は、今や黒い煙を吐き出し、赤い口を開けていた。
「レイン!」
先に到着していたドクが手を上げた。
「遅かったな」
「火災現場に走ってくるのを趣味にした覚えはない」
「俺もだよ」
ドクが煙を見上げる。
「だが、今回は嫌な感じがする」
レインは答えず、建物を見た。
火の勢いは強い。
だが、不自然だった。
炎が建物の中央ではなく、いくつかの場所から上がっている。
「セリス」
「周囲を確認します」
セリスが燃え上がる建物を見回し、近くの警邏隊に指示を出す。
「…火の手が強いな」
何名かの警邏が顔を煤で黒くしながら戻ってくる。
「少尉殿、火元が一つではありません」
「そうか」
「はい、少なくとも二か所以上かと」
彼女は淡々と答えた。
レインの目が細くなる。
「失火ではないだろう…、放火や計画的な火を使った人災とでもいうべきか」
「火を使った人災、ですか」
その時だった。
「少尉殿!」
警邏隊の一人が建物の裏手から走ってきた。
「裏口の周辺、妙な跡があります」
「何だ?」
「轍です」
レインたちは裏へ回った。
燃え落ちた木材と灰を背にし、消火活動でぬかるんだ地面に、車輪の跡が残っていた。
「何台だ?」
「少なくとも二台ぐらいか」
ロイがしゃがみ込む。
「ただ、火事の後についた跡じゃない」
「分かるのか?」
「火が回る前にここを通ったとしても時間も経ってない。消火でぬれた地面を走っていれば轍の淵が」ガタガタになるだろうな」
セリスが膝をつき、車輪跡を確認する。
「確かに……」
レインは焼け落ちていく建物を見た。
「つまり」
ガルクが言った。
「火をつける前に、何かを運び出したってことだな」
誰も答えなかったが、全員が同じことを考えていた。
北方互助会は、見られて困る何かを処分し、何かを持ち出した。
その後で建物を燃やした。
――――
大きな北方互助会の本部を包む炎は半日以上燃え続け、炎は夜になっても勢いを止めることはなかった。
火が鎮まり始めたのは、それから更に半日ほどたってからだった。
建物の中へ入れるようになった頃には、空はすっかり明るくなっていた。
壁は黒く焦げ、床には水と灰が溜まっている。
棚は倒れ、紙片が炭になって散らばっていた。
「何も残っていないな」
ガルクが呟く。
「いや」
セリスが答えた。
「何も残っていないのではありません」
彼女は焼け跡を見渡した。
「何も残していないのです」
レインが振り向く。
「何か見つけたか?」
「書類だったものです」
セリスは壁際を指差した。
「ここに棚がありました」
「それが?」
「棚そのものより、周囲の焼け方がおかしいんです」
セリスは床に落ちた黒い金具を拾い上げた。
「紙を保管していた場所だけ、異常に火が強い」
「証拠を燃やした?」
「そう考えるのが自然です」
レインは黙って周囲を見回した。
家具、食器、衣服、建物の一部、それらは確かに焼けている。
だが、書類を置いていた場所には、油を使ったような跡まで残っていた。
「徹底してるな」
ガルクが吐き捨てる。
「証拠隠滅ってわけか」
「そのようですね」
セリスは灰を掻き分ける。
「ただ……」
「何だ?」
「全部は燃えていません」
彼女の指が止まった。
灰の中から、細長い金属片を取り出した。鈍く光る煤けた金属製の留め具。
そして、その下に焼け焦げた紙が挟まっていた。
セリスは慎重に紙を拾う。
ほとんどが炭になっている、残っているのは、ほんの一部。
「読めるか?」
「少しだけ」
セリスは紙を光にかざした。
「……ラーゴス南区」
「倉庫の名前か?」
「いえ」
セリスは紙の続きを探した。
「受取……」
そこから先は完全に焼けていた。
「何かを別の場所へ送るための荷札ですね」
レインが紙を見る。
「北方互助会から?」
「おそらく」
「中身は?」
「分かりません」
ヴァルカが近づいてきた。
いつものようにダガーナイフを腰に差したまま、しゃがみ込む。
「貸して」
「何を?」
「それ」
セリスが荷札を渡す。
ヴァルカは紙を鼻に近づけ、しばらく黙っている。
「……油」
「火をつけるための?」
「それもある」
ヴァルカは紙の端を指で擦った。
「だが、こっちは違う」
「何が?」
「木箱の匂いがする」
レインが眉を寄せる。
「荷物が入っていた木箱か?」
「たぶん」
ヴァルカは立ち上がった。
「それと」
裏口の方を見る。
「人間の匂いも少ししてる」
空気が止まった。
「何人だ?」
レインが聞く。
「そこまでは分からない」
ヴァルカは首を振った。
「ただ、荷物だけじゃない」
ガルクが顔をしかめた。
「……人を運んだってことか?」
「可能性はある」
セリスが静かに言った。
「ただ、断定はできません」
「だが、馬車の跡もある」
ロイが言った。
「何かを運び出したのは間違いない」
レインは荷札を見つめた。
証拠をすべて燃やした。その前に何かを運び出した。
何を?
どこへ?
誰が?
問いが頭の中を駆け巡る。
「裏を見せてくれ」
レインが言った。
セリスが荷札を裏返す。
そこには文字はほとんど残っていなかった。
しかし――。
「……数字?」
レインが呟く。
紙の隅。
黒く焦げた部分に、かろうじて一本の線が残っている。
その横には、
Ⅵ
と読める数字があった。
「六番……?」
ロイが覗き込む。
セリスは首を振った。
「違います」
「違う?」
「この書き方は住所や倉庫番号ではありません」
セリスは周囲の焼け跡を確認し、もう一度荷札を見る。
「これは管理番号のように見えます」
レインは眉を寄せる。
「管理番号?」
「はい」
セリスは荷札を指でなぞった。
「荷物を管理するためなら、受取先や品目を書くのが普通です」
「だが、これは?」
「受取先の名前がありません」
「……」
「品目もない」
セリスが続ける。
「残っているのは、送り先を示すような断片と、この数字だけです」
レインはしばらく黙っていた。
そして言った。
「人間を管理するための番号かもしれない」
セリスが顔を上げる。
ガルクも黙った。
ロイの表情が険しくなる。
ヴァルカだけが、焼けた建物を見ていた。
「……だから人ってやつは」
低い声だった。
レインは答えなかった。
ただ、手元の荷札を見つめる。
これが何を意味するのか。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
北方互助会は、何かを燃やした。
そしてその直前に、何かを運び出した。
敵は、自分たちが追いつかれ始めたことを知っている、だから逃げた。
「戻るぞ」
レインが立ち上がった。
「セリス。この荷札を調べる」
「はい」
「ロイは馬車の跡を追えるところまで追ってくれ」
「了解」
「ヴァルカ」
「分かってる」
ヴァルカが先に歩き出した。
「匂いが残ってるうちに行く」
「頼む」
ガルクがレインの隣に並ぶ。
「なあ、レイン」
「何だ?」
「これ、俺たちが来るのを待ってたんじゃないか?」
レインは歩みを止めた。
「どういう意味だ?」
「火をつけた奴は、証拠を消すだけならもっと早くやれたはずだ」
ガルクは燃え尽きた建物を見る。
「俺たちが元書記官を保護した」
「……」
「その直後にここを燃やした」
レインの目が細くなる。
「つまり」
「俺たちがどこまで掴んだか、向こうも探ってる」
レインは答えなかった。
だが、その可能性は十分にあった。
捜査しているのは自分たちだけではない。
向こうもまた、こちらを見ている。
――――
同じ頃。
ラーゴスから離れた場所にある、古びた建物。
窓は閉ざされ、昼間だというのに薄暗い。
黒衣の男は暖炉の前に立っていた。
「北方互助会は焼け落ちました」
部下の男が報告する。
「予定通りです」
「そうか」
黒衣の男は薪を一本、火の中へ放り込んだ。
「証拠は?」
「全て処分し、モノはすべて南方へ移送中です。」
「そうか、何も残してはいないだろうな」
男の声が低くなる。
部下が一瞬だけ黙った。
「まあ、よい」
黒衣の男の手が止まった。
部下が頭を下げる。
「それと、ラーゴス警邏隊が現場に入っています」
「当然だ」
黒衣の男は炎を見つめた。
「奴らはもう、ただの孤児失踪事件を追っているわけではない」
それ以上は言わなかった。
何を知っているのか。
どこまで掴んでいるのか。
黒衣の男にも分からない。
だからこそ、次の手を打つ必要がある。
「倉庫のものを移せ」
「どこへ?」
「予定していた場所だ」
「……分かりました」
部下が立ち去る。
一人になった男は、ゆっくりと左腕を見た。
袖の先には、何もない。
かつてそこにあったはずのものは、十年前に失われた。
男はそれをしばらく見つめた。
「……まだ終わっていない」
呟きは、誰にも届かなかった。
その頃。
ラーゴスでは、レインが焼け残った一枚の荷札を手にしていた。
そこに残された数字の意味を、まだ誰も知らない。
ただ一つ。
敵が消そうとしたものの中に――
消し切れなかったものがある。




