第三十六話 口封じ
夜風は冷たかった。
南区の路地裏。
崩れかけた家屋の前で、全員が黙っていた。
白髪の元書記官は椅子へ腰掛けたまま俯いている。
先ほどまで狂人を演じていた男とは思えなかった。
「軍で保護してくれ」
その言葉だけが重く残っていた。
レインは静かに頷く。
「警邏隊本部へ移送する」
男は安堵したように息を吐いた。
セリスが手帳を閉じる。
「本部へ到着次第、事情聴取を行います」
「いや」
男は首を振った。
「今夜はやめてくれ」
全員が見る。
男は乾いた笑みを浮かべた。
「十年ぶりに人間らしい会話をしたんだ」
「少し休ませてくれ」
レインは答えなかった。
だが拒否もしなかった。
「本部で話を聞く」
「……ああ」
立ち上がった男のその足は僅かに震えていた。
⸻
移送が始まった。
先頭をガルク。
中央にレイン、セリス、元書記官。
後方にロイ。
ヴァルカだけは姿が見えない。
いつものことだった。
屋根の上を移動している。
月は雲に隠れていた。
路地は暗い。
石畳を踏む音だけが響く。
不自然なほど静かだった。
その時、屋根の上から小石が落ちた。
レインが視線を上げる。
ヴァルカだった。
片手を上げる。
止まれ。
そういう合図だった。
全員が足を止める。
「どうした」
ガルクが小声で聞く。
ヴァルカは答えない。
鼻を動かしていた。
風を嗅いでいる。
数秒。
そして。
「臭う」
低い声だった。
次の瞬間。
矢が飛んだ。
⸻
「伏せろ!」
レインが叫ぶ。
矢が壁へ突き刺さる。
続けて二本。
三本。
全て元書記官を狙っていた。
「襲撃だ!」
ロイが剣を抜く。
ガルクが男を庇うように前へ出た。
屋根。
路地。
窓。
影が現れる。
黒装束。
顔は見えない。
数は五。
レインの目が細くなる。
「警邏隊に対する攻撃だぞ!」
声を張る。
「何者だ!」
返事はない。
黒装束は無言だった。
ただ、元書記官だけを見ている。
殺意だけがあった。
「口封じですか」
セリスが即座に言った。
「最初から彼だけが目標です!」
⸻
敵が動く。
一人が飛び込んできた。
ロイが迎撃する。
「来やがれ!」
剣と短剣が激突した。
火花。
だが敵は止まらない。
後ろへ流れる。
書記官へ向かう。
「させるか!」
ガルクの斧が振り下ろされた。
石畳が砕ける。
敵は横へ転がり回避。
訓練された動きだった。
「ただのアサシンじゃねぇぞ!」
ロイが叫ぶ。
⸻
元書記官が震えていた。
「来た……」
顔色が真っ青だった。
「来た……!」
そして、突然走り出した。
「おい!」
ロイが叫ぶ。
「待て!」
だが男は止まらない。
「嫌だ!」
「死にたくない!」
「嫌だ!」
十年間逃げ続けた男だった。
理性より恐怖が勝っていた。
⸻
路地を曲がる。
その瞬間。
上から影が降ってきた。
「捕まえた」
ヴァルカだった。
首根っこを掴む。
元書記官が暴れる。
「離せ!」
「離してくれ!」
「嫌だ!」
「駄目」
ヴァルカは即答した。
「死ぬよ」
男が止まる。
その目にあるのは恐怖だけだった。
ヴァルカは小さく溜息を吐いた。
「面倒」
腰からダガーナイフを抜く。
二本。
逆手に構える。
「私の後ろに居る」
⸻
一方。
戦闘は激化していた。
敵は喋らない。
倒れても喋らない。
レインが一人を切り伏せる。
残り三人。
全員が書記官を狙う。
「異常です」
セリスが叫ぶ。
「戦い方の定石を無視している!」
その時、屋根の上の一人が弓を構えた。
書記官へ向く。
「ヴァルカ!」
セリスが叫ぶ。
「右上です!」
矢が放たれる。
ヴァルカが反応した。
書記官を突き飛ばす。
矢が肩を掠める。
「ちっ」
同時に。
ダガーが飛んだ。
一直線。
弓兵の喉へ。
男が屋根から転落する。
⸻
最後の一人が突撃してくる
一直線に書記官へ。
短剣を構える。
「死ね」
初めて聞こえた声だった。
低い、感情のない声。
書記官が硬直する。
間に合わない。
「三時方向!」
セリスだった。
レインが振り向く。
踏み込む。
一閃、敵の腕が飛んだ。
だが止まらない。
異常だった。
腕を失っても前へ出る。
その執念に全員が息を呑む。
そして、ヴァルカが前へ出た。
「終わり」
レインが叫ぶ。
「待て、殺すな!」
ダガーが首を舐め、耳を切り落とした。
敵が崩れ落ちた。
静寂。
誰も動かない。
⸻
確認すると。
生存者はいなかった。
最後の男は毒を噛んで死んでいた。
セリスがしゃがみ込む。
「訓練されています」
「捕まる前提ではありません」
レインが頷く。
「ああ」
視線を落とす。
元書記官は涙を浮かべ震えていた。
「言っただろう……」
掠れた声だった。
「知られたら殺される」
⸻
深夜。
警邏隊本部。
元書記官は地下の保護室へ収容された。
扉の外には警備兵。
二重の鍵。
逃げられない。
だが殺されもしない。
レインは扉の前に立った。
中の男を見る。
「今夜は休め」
男はゆっくり頷いた。
「……ああ」
「明日」
レインが言う。
「十年前の話を聞かせてもらう」
男は目を閉じた。
長い沈黙。
やがて。
「全部話す」
小さく答えた。
⸻
執務室へ戻る途中。
セリスが静かに言った。
「これで確定ですね」
「何がだ」
「彼の証言は本物です」
レインは歩きながら聞く。
「なぜそう思う」
「彼一人を殺すために五人を投入した」
セリスは淡々と言った。
「しかも捕縛される気もない」
「普通ではありません」
レインは窓の外を見る。
再び雨が降り始めていた。
十年前の事件。
エルドラム商会。
左手首のない男。
全てが少しずつ繋がり始めていた。
そして明日。
ようやくその核心へ辿り着く。




