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北方徴募兵団 ~使い潰される最前線で数字を見ても英雄にはなれなかった~  作者: 社畜太郎


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第三十三話 狂人の仮面

 雨は止んでいたが、湿った重い空気がしていた。


 警邏隊本部の執務室にも、その匂いが差し込んでいた。


 机の上には資料が並んでいる。


 北辰交易商会。


 北方互助会。


 エルドラム商会。


 そして、左手首のない男。


 レインは椅子に腰掛けたまま資料へ目を落としていた。


「整理しましょう」


 セリスが書類を並べる。


「地下施設の帳簿」


「北辰交易商会」


「ミアの証言」


「そしてエルドラム商会です」


 ロイが頭を掻いた。


「結局よ」


「そのエルドラムってのが何なんだ?」


「現状では不明です」


 セリスは即答した。


「ですが北方互助会の上位組織である可能性が高い」


「可能性か」


「証明するために動きます」


 レインが口を開く。


「十年前の裁判記録だ」


 全員が顔を上げた。


「バルドの件か」


 レインは頷く。


「商人を斬った事件だ」


「裁判になったなら記録が残っているはずだ」


 セリスも同意した。


「司法記録なら改竄は難しいでしょう」


 ヴァルカが鼻を鳴らす。


「面倒くせぇな」


「だが近道だ」


 レインは立ち上がった。


「裁判所へ行く」


 ――――


 ラーゴス地方裁判所。


 北区の行政街にある石造りの建物だった。


 警邏隊本部より古い。


 高い窓。


 重い鉄扉。


 まるで人より記録を守るために建てられたような場所だった。


 受付で事情を説明すると、年配の書記官が現れた。


 眼鏡の奥の目が冷たい。


「十年前の裁判記録ですか」


「はい」


 セリスが身分証を提示する。


「警邏隊による捜査です」


 男は確認した。


 そして。


「お断りします」


 即答だった。


 セリスが眉をひそめる。


「なぜ?」


「権限がありません」


「捜査権限が警邏隊にはあるはずですが」


「閲覧権限がありません」


 同じ言葉、感情がない、まるで壁だった。


 セリスがさらに食い下がる。


「当時の事件は現在進行中の捜査と関連している可能性があります」


「関係ありません」


「確認もせずに?」


「規則です」


 男は書類を閉じた。


「お帰りください」


 会話が終わった。


 レインは数秒だけ男を見た。


 そして踵を返した。


「行くぞ」


 セリスが後を振り返りながらレインの横に並ぶ。


「いいのですか?」


「今はな」


 裁判所を出る。


 背後で鉄扉が閉じた。


 嫌な音だった。


 ――――


 夕方、酒場。


 ヴァルカは肉を齧りながら笑っていた。


「だから役人は駄目」


「何がだ」


 レインが聞く。


「どうせ正面から行った」


「当然だ」


「馬鹿」


 ロイが吹き出した。


 セリスが眉を寄せる。


「何がおかしいのですか」


 ヴァルカは酒を飲む。


「情報が欲しいなら情報屋を使う」


「誰だ」


「決まってる」


 ヴァルカは笑った。


「リーネ」


 ――――


 その夜。


 娼館。


 リーネは煙草を咥えたまま笑った。


「裁判所に正面から行ったのかい?」


「ああ」


「馬鹿じゃないの」


 ガルクとロイが吹き出した。


 セリスは不機嫌そうだった。


「笑い事ではありません」


「いや笑うよ」


 リーネは肩を震わせた。


「軍人さんらしいけどさ」


 レインは黙っていた。


 リーネは煙を吐く。


「で?」


「何を知りたい」


「当時の裁判記録及び書記官だ」


 セリスが言う。


「十年前の裁判に関わった人間」


「ふーん」


 リーネは少し考えた。


 そして。


「ツケで飲んでる書記官なら知ってるよ」


 全員が顔を上げた。


「どこのどいつだいって話だろ?」


 リーネが笑った。


「案内してやるよ」


 ――――


 南区。


 路地裏。


 ボロ屋が並ぶ一角だった。


 夜風が冷たい。


 窓は割れている。


 壁は傾いている。


「ここか」


「ああ」


 リーネが顎をしゃくった。


 中から声が聞こえる。


 笑い声。


 怒鳴り声。


 独り言。


 支離滅裂だった。


 ロイが顔をしかめる。


「駄目な奴じゃねぇか」


 扉を開ける。


 酒臭い。


 部屋の中央で男が笑っていた。


「鳥が飛ぶ!」


「鳥が!」


「ははは!」


 白髪。


 痩せた身体。


 焦点の合わない目。


 明らかに正気ではない。


 ガルクが小声で言った。


「ハズレだろ」


 だがヴァルカだけは黙っていた。


 鼻が動く。


「どうした」


 レインが聞く。


「臭う」


「何が」


 ヴァルカは男を見た。


「嘘の臭い」


 部屋が静まる。


 男は笑い続けている。


 だが。


 ほんの一瞬。


 目だけがこちらを見た。


 レインは見逃さなかった。


 リーネが前へ出て、煙草を灰皿へ押し付けた。


「あんた、何か知ってるかい?」


 レインがリーネの肩を掴んで制し、前に出た。


「エルドラム商会」


 男の動きが止まった。


 完全に笑い声が消える。


 沈黙。


 数秒。


 男はゆっくり立ち上がった。


 窓を見る。


 扉を見る。


 全員を見る。


 そして低い声で言った。


「誰から聞いた」


 別人だった。


 ガルクが口笛を吹く。


 ロイが息を呑む。


 セリスの目が細くなる。


 男は苦く笑った。


「……とうとう来たか」


 その顔に狂気は無い。


 疲労だけがあった。


「十年か」


 男は椅子へ座った。


「長かった」


 レインが前に立つ。


「当時の書記官だな」


「ああ」


 男は頷く。


「裁判記録も書いた」


「バルドの件も」


 沈黙。


 そして。


「バルドは正しかった」


 静かな声だった。


「証拠もあった」


「孤児もいた」


「商人も捕まえるだけの証拠は揃ってた」


 ロイが眉をひそめる。


「なら何で負けた」


 男は笑った。


 乾いた笑いだった。


「上からだ」


「全部消された」


 セリスが手帳を開く。


「誰に」


「知らん」


 男は首を振った。


「だが名前だけは覚えている」


 部屋の空気が重くなる。


 男は小さく呟いた。


「エルドラム商会」


 誰も喋らなかった。


「裁判記録から消された名前だ」


「だが私は見た」


 男の手が震える。


「見たから生き残るために狂人になった」


 その言葉に重みがあった。


 十年間。


 狂人を演じ続けた男の重み。


 男はレインを見た。


「頼む」


 声が震えていた。


「軍で保護してくれ、牢屋でも良い」


「話したと知られれば殺される」


 沈黙。


 レインは答えた。


「分かった」


 男は初めて安堵した顔を見せた。


 ――――


 その頃。


 街のどこか。


 暖炉の火が揺れていた。


 男が報告を聞いている。


 左袖は空だった。


「警邏隊が例の書記官に接触しました」


 部下が頭を下げる。


 沈黙。


 男は暖炉を見つめた。


 燃える薪の音だけが響く。


「たどり着いたか」


 低い声だった。


 やがて男は立ち上がる。


 空の左袖が揺れた。


「……しかし、遅かったな」


 部下は何も言わない。


 男は窓の外を見た。


 雨雲が再びラーゴスを覆い始めていた。


 その目は冷たかった。


 十年前と同じように。

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