第三十四話 存在しない商会
雨は二日続いた。
ラーゴスの街は灰色の雲に覆われている。
警邏隊本部。
執務室の机には書類の山が積まれていた。
その中央に置かれているのは、一枚の紙だった。
エルドラム商会。
バルドが残した名前。
レインはそれを見つめていた。
「何も出ません」
セリスが書類を閉じた。
「商業組合の登録記録なし」
「税務記録なし」
「倉庫使用記録なし」
「交易許可証も存在しません」
机に資料が並べられる。
どれも空振りだった。
ガルクが腕を組む。
「幽霊商会かよ」
「少なくとも表向きには存在しない」
セリスが答える。
「北辰交易商会ですら登録はありました。ですがエルドラム商会は何も残っていません」
レインは窓の外を見た。
存在しない商会。
だがバルドは追っていた。
北辰交易商会のさらに先、その可能性が高い。
「消されたのか」
「あるいは最初から別名です」
セリスが言う。
「本当の名前ではない可能性があります」
沈黙。
その時だった。
扉が開く。
「邪魔する」
入ってきたのはヴァルカだった。
その後ろにはロイもいる。
「客だぞ」
ヴァルカが言う。
「客?」
「軍人さん」
聞き慣れた声だった。
リーネだった。
今日は珍しく煙草を咥えていない。
その代わり、後ろに誰かを連れていた。
ミアだった。
相変わらず縮こまっている。
部屋へ入った瞬間から落ち着かない様子だった。
「し、失礼します……」
小さな声。
レインは椅子を勧めた。
ミアは慌てて頭を下げる。
「す、すみません……」
その姿を見てガルクが苦笑する。
「相変わらずだな」
ミアはさらに縮こまった。
リーネが肩を叩く。
「大丈夫だって」
「で、何の用だ」
レインが聞く。
リーネは椅子へ腰掛けた。
「ミアが話したいことがあるんだって」
全員の視線が集まる。
ミアは顔を真っ赤にした。
「わ、私じゃなくて……」
「お前だよ」
リーネが即答する。
「昨日からずっと気にしてたじゃん」
ミアは視線を泳がせた。
そして。
「……その」
声が震えている。
「北辰交易商会、エルドラム商会って……」
部屋が静まる。
レインが身を乗り出した。
「知っているのか」
「い、いえ……」
慌てて首を振る。
「知ってるわけじゃなくて……」
ミアは膝の上で手を握り締めた。
「前に聞いたことがあるんです」
「どこで」
沈黙、ミアは俯く。
言いにくそうだった。
だが、やがて覚悟を決める。
「お客さんです」
リーネが横で煙草に火を付けた。
「どうせそんなこったろうよ」
セリスが手帳を開く。
「詳しくお願いします」
ミアは何度も頷いた。
「三ヶ月くらい前です」
「酔ってたんです」
「その人達」
男達だった。
二人組。
商人風。
だが金払いが良かった。
そして。
酷く酔っていた。
「最初は普通だったんです」
酒。
女。
景気の話。
北区の話。
どこにでもある会話。
だが。
酒が進むにつれて変わった。
「片方の人が……」
ミアは思い出す。
嫌そうな顔をした。
「北方互助会なんて使い走りだって」
全員の目が変わった。
「続けてください」
セリスが言う。
「はい……」
ミアは頷く。
「北辰交易商会も潰れたって」
「昔からそうだったって」
レインが眉をひそめる。
「昔から?」
「はい」
ミアは言った。
「エルドラムがある限り困らないって」
部屋が静まり返る。
誰も口を挟まない。
ミアはさらに続けた。
「それで……」
「片方の人が怒ったんです」
『名前を出すな』
そう言った。
『酔ってても口にするな』
そう、かなり本気で、怒っていた。
「だから覚えてたんです」
ミアが小さく言う。
「珍しかったので……」
娼館では酔客の話など日常だ。
だが、あそこまで怯えた顔は珍しい。
リーネも頷く。
「確かに」
「ミアが珍しく気にしてた」
レインが聞く。
「顔は覚えているか」
「はい」
ミアは即答した。
そして。
「一人はまた来ました」
空気が変わる。
セリスのペンが止まる。
「いつですか」
「先月です」
「名前は」
「わかりません」
ミアは首を振る。
「でも……」
少し迷う。
「左手がありませんでした」
沈黙。
誰も動かなかった。
レインとセリスが顔を見合わせる。
ヴァルカの耳が動く。
ガルクが低く呟く。
「おいおい」
ミアは気付いていない。
自分が何を言ったのか。
「左手首から先です」
「袖で隠していました」
「でも見えました」
レインは静かに立ち上がった。
地下施設。
エルドラム商会。
北方互助会。
そして。
左手首のない男。
別々だった線が。
初めて一本に繋がった気がした。
窓の外では再び風が強くなり始めていた。
長く埋もれていた十年前の事件が。
少しずつ姿を現し始めていた。




