第三十三話 残された名前
翌日。
雨だった。昨日の騒動を洗い流すかのように静かに降っていた。
灰色の空がラーゴスを覆っている。
警邏隊本部の執務室では、セリスが昨夜回収した帳簿を整理していた。
机の上には資料の山。
北辰交易商会。
北方互助会。
孤児保護施設。
物資搬入記録。
寄付金台帳。
どれも一見すると合法的な記録ばかりだった。
「……綺麗すぎます」
セリスが呟く。
レインは向かいの椅子へ座っていた。
「綺麗すぎる?」
「はい」
帳簿を一冊開く。
「孤児保護施設の運営記録です」
ページを捲る。
「食料搬入。」
「衣類支給。」
「就労斡旋。」
「医療支援。」
どこを見ても問題はない。
むしろ慈善事業として模範的だった。
「表向きは...か」
レインが言う。
セリスは頷く。
「ええ」
そして別の帳簿を開く。
「問題はここです」
そこには孤児の管理記録が並んでいた。
名前、年齢、保護日時、就労先。
全て整然と記録されている。
「ですが途中から名前が消えています」
「消えた孤児か」
「はい」
セリスは眉を寄せた。
「ただ……数が合いません」
「何がだ」
「失踪人数です」
レインは黙って聞く。
「帳簿上で消えた孤児は二十七名」
数字を指差す。
「ですが食料消費量、寝具数、医療品支給数から逆算すると、最低でも四十名以上の孤児が存在していたはずです」
レインの目が細くなる。
「帳簿に載っていない人間がいる」
「そうなります」
沈黙。
その時だった。
執務室の扉が叩かれる。
「失礼します」
入ってきたのはセリスではない。
ギルドの受付嬢。
ミレナだった。
両手で古い革鞄を抱えている。
「ギルドマスターから預かってきました」
レインが立ち上がる。
「ドグからか」
「はい」
ミレナは机へ鞄を置いた。
古い。
かなり古い。
革はひび割れている。
「父の遺品です」
空気が変わる。
セリスも顔を上げた。
「バルドの?」
「はい」
ミレナは少し緊張した様子だった。
「ギルドが保管していました」
「なぜ今まで」
「何故でしょう」
小さく笑う、寂しそうな笑みだった。
「でも……」
言葉を切る。
「今なら見なければいけないと、ギルドマスターが」
レインは鞄を開いた。
中から出てきたのは。
古い手帳。
地図。
報告書の断片。
そして、一冊の小さなノートだった。
北方で使われる携行用の記録帳。
レインには見覚えがある。
バルドの字だった。
無骨で大きい字。
冒険者らしい文字。
ページを捲る。
ほとんどは任務記録だった。
魔物討伐。
護衛依頼。
街道警備。
だが、途中から内容が変わる。
孤児失踪。
商隊調査。
倉庫監視。
見張り。
尾行。
そして、あるページで手が止まった。
「……これか」
レインが呟く。
セリスとミレナが覗き込む。
そこには名前が書かれていた。
たった一行。
だが何度も線が引かれている。
執念のように。
――エルドラム商会
部屋が静まり返る。
ミレナが小さく息を呑んだ。
「初めて聞く名前です」
セリスが言う。
レインはページをさらに捲る。
次のページ。
その次。
どこにも詳細はない。
ただ、同じ名前だけが何度も出てくる。
エルドラム商会。
エルドラム商会。
エルドラム商会。
まるで追い続けていたかのように。
「北辰交易商会ではないか」
レインが言う。
「ええ」
セリスが答える。
「むしろ北辰交易商会が隠れ蓑だった可能性があります」
レインはノートを閉じた。
考える。
十年前。
孤児失踪。
違法奴隷売買。
北辰交易商会。
そして。
バルドが最後に辿り着いた名前。
エルドラム商会。
「バルドは」
レインが静かに言う。
「北辰交易商会を追っていたんじゃない」
セリスも頷いた。
「その先を見ていた」
沈黙。
ミレナがノートを見つめる。
「父は……」
声が震える。
「何を知ったんでしょう」
誰も答えられなかった。
その時。
ノートの最後のページから一枚の紙が落ちた。
古い紙片だった。
折り畳まれている。
レインが開く。
そこには短い文章が残されていた。
走り書きだった。
だが間違いなくバルドの字。
⸻
北辰は表。
本体は別にいる。
エルドラムを追え。
北へ続いている。
⸻
そこで文章は終わっていた。
誰も喋らない。
窓の外では雨が降っている。
静かな雨だった。
だが、レインの胸には確信が生まれていた。
十年前の事件。
北辰交易商会。
北方互助会。
孤児失踪。
全てはまだ終わっていない。
そして。
バルドが追いかけていた敵も。
まだ生きている。
レインは紙を握り締めた。
「次の調査対象は決まったな」
セリスが静かに頷く。
ミレナも顔を上げる。
その目には不安と。
ほんの少しの希望があった。
十年間埋もれていた事件が。
ようやく動き始めていた。




