第二十八話 痕跡
地下水路は暗かった。
湿った石壁。
腐った水の臭い。
頭上から滴る水滴。
地上の喧騒が遠い。
先頭を歩くヴァルカの耳が絶えず動いていた。
狼獣人の耳だ。
小さな音も逃さない。
鼻もひくついている。
その後ろではレインを中心に四周への警戒は怠らなかった。
誰も無駄口を叩かない。いや叩けなかったというべきか。
やがて。
ヴァルカが立ち止まる。
「止まって」
全員が足を止めた。
レインが小さく問う。
「何だ」
ヴァルカは天井を見上げた。
「臭い」
耳が動く。
「いる」
次の瞬間だった。
ヒュッ。
矢が放たれる。
悲鳴。
天井の暗闇からゴブリンが落ちてきた。
額へ矢が突き刺さっている。
だがそれが合図だった。
左右の側道。
崩れた壁穴。
天井の隙間。
灰色の影が一斉に飛び出す。
「伏兵だと!?」
ロイが叫ぶ。
セリスが剣を構えた。
ゴブリンが飛びかかる。
レインが前へ出る。
軍刀が閃く。
一匹の首が飛ぶ。
返す刃で二匹目の喉を裂く。
横から現れた一匹へガルクの棍棒が叩き込まれた。
頭蓋が砕ける。
ロイの槍が突き出される。
腹を貫かれたゴブリンが壁へ張り付いた。
最後の一匹は逃げようとした。
だが、ヴァルカの矢が後頭部へ突き刺さり、ゴブリンは倒れる。
地下水路に静寂が戻る。
「終わりか」
ガルクが息を吐く。
ヴァルカは死体を見下ろしたまま眉をひそめていた。
「……気持ち悪いね」
「何がだ」
レインが近付く。
ヴァルカは足元を指差した。
ゴブリンの足首。
そこには鉄輪が嵌められていた。
錆びた足枷。
鎖は途中で切断されている。
ロイが別の死体を見る。
「こっちもだ」
さらに別の死体。
また別の死体。
全て同じだった。
全てのゴブリンに足枷が付いている。
まるで家畜のように。
「捕獲されていた……?」
レインがしゃがみ込む。
「違う、これを見ろ」
セリスが首筋を見る。
「焼け跡……?」
そこには焼印が刻まれていた。
皮膚が爛れ、毛も焼け落ちており、奴隷や家畜へ付けるものと同じだ。
だが、紋章部分だけが意図的に削り取られていた。
レインの目が細くなる。
「管理されていた」
偶然発生したゴブリンの群れではない。
誰かが管理し、飼育し、兵士として運用していた。
その証拠だった。
レイン達がさらに奥に進むと地下水路の様子が変わった。
鉄製の柵。
餌桶。
大量の藁。
糞。
骨。
檻。
明らかに人間の手で作られた施設だった。
「本当に飼育場だな」
ガルクが吐き捨てる。
セリスの顔色が悪い。
「魔物を……家畜みたいに」
「家畜じゃない」
レインが答えた。
床を見る。
運搬用の轍。
訓練場らしき空間。
武器棚の跡。
「兵器だ」
沈黙。
その言葉は重かった。
ゴブリンを兵士として使っている。
その事実が。
誰の背筋も冷やした。
やがて一行は大きな広間へ辿り着く。
そこは地下水路の分水を行う場所の一つのようだった。
だが、誰もいない。
静かだった。
異様なほど静かだった。
広間には木箱。
毛布。
空瓶。
樽。
荷車。
そして中央。
巨大な焼却跡。
黒い灰が山になっている。
ガルクが舌打ちした。
「遅かったな」
レインは灰へしゃがみ込む。
指で掻き分ける。
紙。
帳簿。
地図。
封蝋。
全て燃やされていた。
セリスも周囲を見る。
「急な拠点の放棄、証拠隠滅……」
「いや」
レインは首を振る。
「計画的撤退だ」
全員が振り向く。
「慌てて逃げた形跡がない」
焼却跡を見る。
「最初から放棄するつもりだったか…」
「北区の騒乱は陽動か、少なくとも撤退準備は済んでいた」
「こちらが来ることを想定していた可能性がある」
全て、撤退のための時間稼ぎだったのだろう。
その時だった。
「おい」
ヴァルカの固い声がした。
全員が振り向く。
広間の奥。
巨大な鉄格子がある。
さらにその先。
とてつもなく大きな檻。
普通のゴブリン用ではない。
全員が近付く。
そして。
言葉を失った。
鉄格子が歪んでいる。
内側から。
無理やり捻じ曲げられたように。
床には太い鎖。
人間の腕ほどの太さ。
それが千切れていた。
ガルクの顔色が変わる。
「……おい」
セリスが聞く。
「何ですか」
ガルクは檻を見上げたまま答えた。
「こんな芸当ができる魔物なんざ、オーガかトロルぐらいだぞ。」
空気が凍る。
床には巨大な足跡。
人間の頭ほどもある。
壁には深い爪痕。
石が削れていた。
ヴァルカの耳がピンと立ち、尾も膨らむ。
獣人特有の警戒反応だった。
「嫌な臭いがする」
レインが問う。
「何の臭いだ」
ヴァルカは暗闇を見つめた。
「捕食者」
短い言葉だった、だが十分だった。
檻は空、しかもげたのではない、"放たれた"としたら。
レインが足元を見る。
燃え残った紙切れが落ちていた。
拾い上げる。
半分以上焼けている。
読める文字は少ない。
それでも辛うじて残っていた読める文字には”移送完了”、”第七貨物”、”北門経由”と書いてあった。
セリスが息を呑む。
ガルクが舌打ちした。
ロイも顔をしかめる。
真実は逃げ、証拠も消された。
だが、何かを運び出していたことはわかる。
そして、その何かは、ゴブリンより遥かに危険な存在かもしれない。
地下空間へ静寂が落ちる。
誰も喋らなかった。
レインは焼け残った紙を握り潰す。
そして静かに言った。
「戻るぞ」
全員が顔を上げる。
「ここにはもう何もない。…脅威がある何かがいたという痕跡以外は。」
彼らが見つけたのは終わった事件ではない。
これから始まる事件の痕跡だったからだ。
北区の闇は。
まだ底を見せていなかった。




