第二話 壊れる現場
北方駐屯地の朝は早い。
いや、正確には「朝」という区切りすら曖昧だった。夜警から戻った兵士が倒れ込む横で、別の兵士が叩き起こされる。誰も十分に眠っていない。
食堂では、硬い黒パンと薄いスープが配られていた。
「今日の肉、少なくねぇか」
「補給遅れてるらしい」
「またかよ……」
レインは黙ってスープを飲んだ。薄い塩気が舌に残るだけで、身体に必要なものが入ってこないのが分かる。
その時、奥の席で怒鳴り声が上がった。
「修理資材が足りねぇんだよ!」
「本部申請はどうなってる!」
「三週間返事なしだ!」
防壁整備兵たちだった。皆、疲れ切った顔をしている。怒っているはずなのに、声に熱がない。怒りではなく、消耗だ。
「第三区画、もう限界だぞ」
「崩れたらどうすんだ」
「知るかよ……俺らに言うな」
レインは黙って黒パンをちぎった。
第七駐屯地第三区画。
訓練中、遠目に見えた場所だ。亀裂が走っているのは分かっていた。
だが今思えば、それは“壁”ではなかったのかもしれない。
食後、レインは防壁補修任務へ回された。
近づいて、初めて分かる。
そこは壁ではなく、継ぎ接ぎだった。
石材は歪み、色も違う。崩れた箇所を別の石で埋め、さらにその上を別の補修が覆っている。積み上げられた修繕が、限界の上にさらに限界を重ねていた。
そして。
石の隙間から、風ではない音がしていた。
何かが、壁の中にいるような音だった。
「……これ、計画はあるんですか」
レインが聞くと、整備兵は鼻で笑った。
「計画?」
「補修の優先順位とか」
「ねぇよ」
男は木材を無理やり亀裂へ打ち込む。
石ではない。木だ。
応急処置ですらない。ただの延命。
「壊れたとこ埋める。それだけだ」
レインは黙って作業を続けながら、壁全体を見渡した。
どこが次に崩れるか、分かる気がした。
亀裂の走り方。石の歪み。補修の質の差。
一つ一つは小さい。
だが、重なれば——。
言わなかった。
言っても変わらないと、なぜか分かっていた。
日が沈み赤と青が混じる夕方から夜になる時間、警鐘が鳴った。
「魔物接近!」
空気が変わる。
兵士たちが走る。レインも槍を掴み、防壁へ向かった。
上は混乱していた。
「弓兵はどこだ!」
「補充まだ来てねぇ!」
「夜警班が戻ってません!」
指示は飛び交うが、誰も全体を把握していない。
どこが守られていて、どこが手薄なのか、それすら曖昧だ。
その時、バルドが隣に来た。
「騒ぐな」
低い声だった。
「声で位置がばれる」
レインは壁の向こうを見た。
森の縁が黒い。
ただの夜ではない“圧”がある。
「……二体、いや、もっといます。左に二、右に一以上」
言いかけて、気づいた。
数が合わない。
バルドが目を細める。
「弓は?」
「左に一人しか見えません」
バルドは舌打ちした。
そして走った。
怒鳴らない。
ただ、位置を変えさせる。
必要な場所へ、必要な人間を置く。
その一瞬の調整がなければ、崩れていた。
森が動いた。
魔狼。
二体ではない。三体。
さらに奥にも気配がある。
「接敵!」
戦闘が始まる。
弓が遅れる。
矢が一拍遅れて飛ぶ。
その“空白”を、レインは見てしまった。
あの一瞬で、誰かは死んでいたかもしれない。
だが、崩れなかった。
ぎりぎりで繋がっているだけの防壁が、そのまま持ちこたえた。
戦闘は短く終わった。
魔物は退いた。
死者は出なかったが、負傷者はいる。
静けさが戻る。
それは勝利ではなく、ただの延命だった。
兵舎へ戻ると、バルドが壁に背を預けて座っていた。
「さっきの、よく見えたな」
「たまたまです」
「違う」
少し間を置く。
「たまたまじゃ、毎回見えない」
レインは何も言わなかった。
「使えよ」
バルドが言った。
「そういう目は、持ってる奴が使わないと意味がない」
さらに低く続ける。
「そういう目を持ってる奴はな」
「早く死ぬか、長く生きるかだ」
レインは黙って水筒を握った。
バルドが最後に言った。
「どっちになるかは、自分で決めろ」
レインは何も返せなかった。
北壁の向こうで、何かがまだ動いていた。




