第一話 使い潰される兵士
北方徴募兵団第七駐屯地。 レインがそこへ到着した時、最初に感じたのは臭いだった。
汗と泥と血、そして乾ききっていない死の臭い。
「次! 荷物置け!」
怒鳴り声が飛ぶ。雪混じりの雨の中、徴募兵たちは整列させられていた。
皆、痩せている。北方の農村出身者、都市の失業者、行き場のない者。目に生気がない。
レインもその一人だった。
粗末な兵舎へ押し込まれると、中はすでに満員だった。藁の寝床。湿った毛布。壁際には乾ききっていない鎧が並ぶ。
「空いてるとこ使え」
片目に古傷のある古参兵が顎をしゃくった。年齢より疲れた顔をしている男だった。
レインが荷物を置くと、隣の少年が小さく声をかけてきた。
「……お前も北の村?」
「ああ」
「俺、トーマ」
「レインだ」
トーマは細い身体をしていた。まだ子供っぽさが残っている。
「怖ぇな」と彼は小声で言った。
「ここ、すげぇ臭いする」
レインは答えなかった。分かっていた。この臭いは、戻ってこない場所の臭いだ。
だがそれを口にする言葉を、レインはまだ持っていなかった。
訓練は翌朝から始まった。
夜明け前に叩き起こされ、まず駐屯地の周囲を走らされる。雪道を、装備も付けずに。遅れた者には教官の怒鳴り声と、時に蹴りが飛んだ。
「足腰が死んでる奴から先に食われる! 魔物は遅い獲物から狙うんだ!」
午前中は木槍の訓練。構え、突き、払い。同じ動作を何百回も繰り返させられた。腕が上がらなくなっても続ける。
午後は防壁資材の運搬と、剣の基礎。夜は兵舎の掃除と装備の手入れ。終わる頃には深夜になっていた。 最初の三日間で、七人が逃げた。
教官は追わなかった。
「逃げたきゃ逃げろ。どうせ野垂れ死にするだけだ」
それが本当ことだと、皆なんとなく分かっていた。
レインは逃げなかった。逃げても戻る場所がない。それだけのことだった。
トーマも残った。細い身体でふらふらになりながら、それでも毎朝起き上がってきた。
「なんで残るんだ」とある夜、レインは聞いた。
「食うためだろ」とトーマは言った。
「お前だって同じじゃないのか」
レインは黙った。否定できなかった。
北方の土地は痩せている。夏は短く、冬は長い。畑を耕しても碌に実らず、猟に出れば魔物に喰われる。村に残っても飢えるだけだ。軍に入れば飯が出る。それだけで十分な理由だった。
それきり、その話はしなかった。
一週間が過ぎた頃、片目の古参兵がレインに声をかけてきた。
「お前、読み書きできるんだって?」
「できます」
「ちょっと来い」
連れて行かれたのは教官詰所の隅だった。男は羊皮紙を広げ、「これ読んでみろ」と言った。
魔物の目撃報告書だった。レインが声に出して読むと、男は少し目を細めた。
「バルド」と別の古参兵が声をかけてきた。
「その新人か?」
「ああ」とその男――バルドは答えた。
「読み書きができる。使えるかもしれん」
以来、バルドはレインに声をかけるようになった。
最初は報告書の代読や写しの手伝い程度だった。だがその合間に、槍の持ち方の細かい癖を直されたり、夜間の歩き方を教わったりした。教官の怒鳴り稽古とは違う、静かで実用的な指導だった。
「魔物と戦う時、音を立てるな」とバルドは言った。
「向こうは耳がいい。気づかれたら囲まれる」
「経験があるんですか」
「十年ここにいる」
レインは少し黙った。十年生き延びた男が目の前にいる。それがどれほど稀なことか、一週間でもう分かっていた。
「なぜ除隊しないんですか」
バルドは答えなかった。ただ「槍を持て」と言った。
二週間が過ぎた。
訓練の中身が変わってきた。木槍から実際の鉄槍へ。隊列を組んでの連携動作。そして模擬戦。
レインの体力は同期の中で際立って高いわけではなかった。走れば中ほど、資材運搬でも人並み程度。
ただ、何かが違った。
教官が怒鳴る前に隊列の乱れに気づく。
魔物の目撃報告書を読んだとき、出没時刻と天候の癖が自然と頭に入ってくる。
模擬戦では相手の重心が崩れる一瞬を、考えるより先に身体が拾っていた。
バルドはそれを見て、何も言わずに少しだけ頷いた。
トーマは違った。気力では誰にも負けなかったが、細い足腰は三週間経っても思うように鍛えられなかった。走り込みの最後はいつも最後尾で、教官の怒声を背中で受けていた。
「足が遅い奴は前に出るな」とバルドがある日、訓練後に静かに言った。誰に向けた言葉でもなく、ただ宙へ放つように。
トーマはその言葉を聞いていたはずだった。
「あいつ、気になるな」とバルドがある夜ぽつりと言った。
「トーマが?」
「ああ。ああいう奴は大抵、早く死ぬ」
レインは何も言えなかった。
三週間目に入ると、新兵の半数近くが訓練離脱か逃亡で減っていた。
残った者たちの顔つきは、最初と変わっていた。痩せてはいるが、目に何かが宿っている。恐怖か、諦めか、あるいは意地か。
「そろそろ実戦だな」
とトーマが言った。夕食の硬い黒パンを噛みながら。
「まだ早い気がする」
「どうせ来る。早いか遅いかだけだ」
それはレインも分かっていた。ここは訓練所ではない。駐屯地だ。訓練は実戦の準備に過ぎない。
初めての任務は三週間と四日目の朝に来た。
「起きろ! 街道護衛だ!」
夜明け前だった。外は吹雪いている。
まともな装備は相変わらずない。革鎧、鉄槍、短剣一本。それだけ。バルドは古びた鎖帷子を着ていたが、新兵たちには支給されなかった。
隊列を組み、雪道を歩く。護衛対象は食糧荷車だった。痩せた馬。凍えた商人。皆、疲れていた。
「……本当に魔物出るのか」
とトーマが震える声で言った。
レインは槍を握り直した。バルドの教えを思い返す。音を立てるな。隊列から離れるな。囲まれたら終わりだ。
その時、レインはふと気づいた。トーマが隊列の端にいる。足が遅い者が端に立てば、魔物に狙われやすい。
「トーマ、位置——」 言おうとした、その瞬間だった。
森から咆哮が響く。
「接敵!」
雪の中から飛び出してきたのは、灰色の巨大な狼だった。魔狼。飢えている。
「槍構えろ!」
隊列が乱れる。新兵たちが怯える。レインは足を踏ん張り、槍の穂先を前へ向けた。
三週間、毎日繰り返した構え。だが目は魔狼ではなく、隊列の端を向いていた。
レインの視界で、時間がわずかに遅くなる。
トーマがこちらを見た。 助けを求める目だった。
次の瞬間。 トーマの悲鳴が響いた。
「ぎゃあああ!!」
隊列の端で、魔狼が飛びついていた。喉笛を噛み千切られた。血が雪へ飛び散る。
レインは凍り付いた。動けない。気づいていた。気づいていたのに、声が出なかった。
「突けぇッ!!」
バルドの怒号が響く。槍が魔狼へ突き刺さる。乱戦。叫び声。血。肉の裂ける音。
気づけば終わっていた。
雪の上に、トーマが転がっている。目を見開いたまま。まだ十五、六だった。
レインはその場で吐いた。胃液しか出ない。しばらく雪の上に手をついたまま、立ち上がれなかった。
その夜。 バルドが無言で水筒を投げて寄越した。
「……新人は大体そうなる」
「……」
「だが明日にも同じ日が来る」
レインは震える手で水を飲んだ。
「助けられたかもしれないと思ってるか」
バルドが言った。
レインは答えない。
少し間を置いて、バルドは続けた。
「助けようとして死ぬ奴もいる。見捨てて生き残る奴もいる」
「……」
「どっちも同じ兵士だ」
さらに静かに、付け加えた。
「助けようとして間に合わなかった奴が、一番壊れる」
「この状況には慣れるんですか」
バルドは黙った。答えが返ってくるまで、少し間があった。
「慣れねぇよ」
静かに言った。
「慣れたふりをするだけだ」
レインは水筒を握りしめたまま、何も言えなかった。




