第九話 全員生き残れ
秋。
士官学校最終試験。
二週間の総合野戦演習。
候補生全員参加。
兵站、指揮、野営、戦闘。
全てを試される。
班分けが発表された時、ダンが顔をしかめた。
「……これ、わざとだろ」
レイン率いる混成班の面子は、平民組全員、成績下位の貴族候補生、問題行動で処分を受けた者ばかりだった。
実質、捨て班だった。
「終わったな……」
ダンが青ざめる。
エルトが静かにリストを見ていた。
「……私も入っていますね」
「そうだな」
「レイン班に入れてもらえるのは」エルトは少し間を置いた。「ありがたいと思っています」
野営演習の頃から、エルトへの空気は少し変わっていた。
以前のように当然のように荷物持ちを押し付けられることは減った。エルト自身が断るようになったこともあるし、周囲の候補生たちも、補給計算や帳簿整理で役に立つ人間を無駄に消耗させるべきではないと理解し始めていた。
図上演習では、セルジュ班の末席から補給線の異常を最初に見抜いた男だ。
捨て班に入れられた理由は分かっていた。
家格が低い。
成績が目立たない。
だが使える。
レインにはそれで十分だった。
——
初日。
他の班は即座に戦術会議を始めた。どこを攻めるか、どう迎撃するか、陣形をどう組むか。
レイン班は違った。
「まず全員座れ」
「え?」
「疲労管理をする」
最初にやったのは戦術ではなかった。
睡眠時間の確保。荷重の再分配。炊事担当の固定。負傷者搬送の手順。
エルトが手を挙げた。
「補給の管理は私がやります。図上演習で少し慣れました」
「頼む。二日ごとに数字を出してくれ。矢、食糧、替え靴の順で」
「替え靴まで?」
「足を潰した兵士は荷物になる。野営演習の時に見たはずだ」
エルトは少し考えて、頷いた。
ダンが呆れたように言った。
「家政婦か、俺たち」
「戦う気あるのか」
周囲の班から笑い声が上がった。
——
二日目の夜。
ダンが火を起こした。
野営演習の時と同じ手際だった。石を組み、薪を割り、鍋を置く。
豆と乾燥肉の煮込みの匂いが広がると、班の空気が変わった。
成績下位で集められた貴族の一人が、鍋を覗いて言った。
「……こんな材料でこうなるのか」
「腕があれば何とかなる」とダンは言った。「食えるか食えないかは、材料より火の使い方だ」
男は黙って受け取り、一口飲んで、また黙った。
それだけだった。
だがその夜から、男は文句を言わなくなった。
人間は腹が満たされると少し戻る。
北方でも、王都郊外でも、変わらない。
——
三日目から差が出た。
他班は崩れ始めた。寝不足、補給混乱、命令錯綜、士気低下。
第七駐屯地で毎日見てきた光景だった。
防壁整備兵たちが怒鳴り合っていた食堂。夜警兵が持ち場で倒れた朝。帳簿の数字が実態と乖離していくさま。
あの場所で起きていたことが、ここでも起きていた。
場所が変わっても、人間の壊れ方は同じだ。
一方レイン班は疲弊が少ない。
眠れている。
食えている。
それだけで判断が残る。
エルトが毎朝、小さな紙を持ってきた。
「食糧、残七割。矢、残九割。替え靴、二足消費。足を痛めているのはクーロとテナの二名」
「クーロは今日の行軍で後方に回せ。テナは明朝確認する」
「分かりました」
当たり前のようにやっていた。
だがこれが当たり前ではない駐屯地を、レインは知っていた。
——
五日目。
セルジュ班が斥候を飛ばしてきた。
珍しかった。
伝令が来て、短い書き付けを渡された。
〔側面の森、三日後に模擬敵軍が展開する兆候あり。情報共有する。セルジュ〕
ダンが首を傾げた。
「敵じゃなかったのか」
「総合演習は全体での生存率も評価される」とレインは言った。「セルジュは全体を見ている」
図上演習で学んだのは、レインだけではなかったようだった。
前線だけ見てる奴は側面を崩される。
自分でそう言って、自分で補給線を見失った男が、今度は側面の情報を共有してきた。
知っていることと、戦場で見えることは別だ。
だがその差を埋めようとしている。
レインは書き付けを折り、懐に入れた。
「三日後に備える。ダン、炊事の時間を一時間前倒しにしてくれ」
「なんで」
「夜襲は夕飯後に来る。満腹で眠い時間を狙う。飯を早めにすれば、対応できる状態を長く保てる」
ダンは少し黙ってから言った。
「……お前、本当にそういうことばっかり考えてんな」
「他に考えることがない」
——
七日目の夜。
模擬敵軍が来た。
セルジュの情報通り、側面の森から展開してきた。
他班は混乱した。夜営中の奇襲に対応できず、松明が乱れ、指示が飛び交い、怒鳴り声が上がった。
だがレイン班は違った。
「第三組、後退。狭路へ誘導しろ」
「松明消せ。森の縁を見ろ」
「槍組は三列。弓は後ろで待機」
冷静だった。
誰も怒鳴らない。
誰も混乱しない。
なぜなら。
眠れていたからだ。
飯を食っていたからだ。
三日前から備えていたからだ。
エルトが補給の数字を持って走ってきた。
「矢が残り三割。次の補充は明朝です」
「分かった。弓は温存。槍で詰める」
「槍組の前列、クーロが入っています。足の状態が——」
「後方へ回せ。代わりにお前が入れ」
エルトは一瞬止まった。
「……私がですか」
「図上演習で補給線を数えていた目だ。暗い中でも数は数えられる。後列で矢の残数を管理しろ」
エルトは頷いて、走った。
ダンが前に出た。
鍛冶屋の息子の膂力が、狭路で存分に活きた。
一人で三人分の壁になった。
野営の夜に飯を食いながら「もっと派手にやりたい」と言っていた男が、今は無言で踏ん張っていた。
戦闘が終わった後、エルトが静かに言った。
「……皆、生きています」
当たり前のように聞こえた。
だがレインには分かっていた。
当たり前ではない。
第七駐屯地で、トーマが死んだ朝のことを思った。
隊列の端にいるのを見ていた。
気づいていたのに、声が出なかった。
あの時と何が違うのか。
備えていたかどうかだ。
眠れていたかどうかだ。
判断できる状態だったかどうかだ。
——
最終日。
残存兵力の多い班が評価される。
レイン班は全員が歩いていた。
他班には足を引きずる者、担架に乗る者、離脱した者がいた。
セルジュ班は正面で削られながらも最後まで踏み留まっていた。
セルジュ自身は前線にいた。
強い、とレインは思った。
自分とは違う強さだ。
正面で受けて、削られながら、それでも立っている。
自分にはあれはできない。
だが情報を共有してきた。側面を教えてきた。全体を見ようとしていた。
図上演習で地図盤の補給線を指でなぞっていた男が、実戦の中でそれを体で学んでいた。
——
演習終了後。
教官会議では異例の評価が出た。
【武術適性:凡庸】
【個人戦闘能力:平均】
【統率能力:極めて優秀】
【戦術指揮能力:特級】
【特記事項】
『疲弊管理能力が極めて高い』
『人員配置と指揮統率に優れる』
『情報を分析し、戦場全体から勝ち筋を構築できる』
老士官は評価書を閉じながら呟いた。
「……こいつは英雄にはならん」
そして静かに続ける。
「だが、一番多くの兵を生き残らせる指揮官になる」
——
夜、兵舎でダンが天井を見ながら言った。
「俺さ、最初は嫌だったんだよな」
「何が」
「家政婦みたいなこと。飯作って、荷物分けて、眠れとか言って。もっと派手にやりたかった」
レインは答えなかった。
「でも」とダンは続けた。「全員生きてたな」
「ああ」
「それでいいか」
「十分だ」
ダンはしばらく黙った。
「……バルドって人に、会ってみたかったな」
レインは少し驚いた。
「なんで」
「お前がたまに話をしていただろう。それに思い出してる顔するから」
レインは天井を見た。
「使い切って死ね、って言われた」
「使い切れたか」
「まだ途中だ」
ダンは笑った。
「俺も途中だ。でも悪くない途中だな」
窓の外で、秋の風が鳴っていた。




