第八・零話 図上演習前夜
野営演習が終わってから数日後。
士官学校の空気は、目に見えて変わっていた。
廊下では小声の会話が増え、講義後も生徒たちが地図を広げて議論している。教官たちの視線もどこか張り詰めていた。
図上演習が近い。
その事実だけで、校内全体が静かに熱を帯びていた。
夕方、レインが訓練場脇を歩いていると、背後から声が飛んだ。
「レイン」
振り返るとセルジュがいた。
相変わらず姿勢がいい。制服にも皺一つない。
「少し付き合え」
言って、校舎裏の石段へ向かう。
レインも黙って続いた。
石段の先は中庭に面した休憩スペースになっている。夕暮れの空気は冷え始めていた。
セルジュは腰を下ろし、しばらく黙っていた。
「お前、最近やたら名前が出てるぞ」
「そうなんですか」
「野営演習の件だ」
セルジュは淡々と言った。
「補給計算。行軍速度。水の配分。教官連中の評価がかなり高い」
レインは少しだけ眉を動かした。
自分としては、当たり前のことをしただけだった。
北方では、水と食料が尽きれば死ぬ。
それだけだ。
「平民課程側の連中も、お前を見てる」
レインは小さく息を吐いた。
「目立ちたくなかったんですが」
「無理だな」
セルジュは少し笑った。
「もう手遅れだ」
セルジュが続ける。
「次の図上演習、代表を立てるならレインだろうって話になってる」
「代表?」
「指揮役だ」
レインは少し黙った。
士官学校の図上演習は、ただの座学ではない。
兵站、地形、行軍、情報整理、指揮統制。
実戦を模した大規模演習だ。
そして成績への影響も大きい。
失敗すれば、卒業後の配属にも響く。
「……まだ決まったわけじゃないでしょう」
「半分は決まってる」
セルジュは即答した。
「少なくとも平民側ではな」
レインは石畳へ視線を落とした。
代表。
北方徴募兵だった自分には縁のない言葉だと思っていた。
「嫌か?」
セルジュが聞いた。
「分かりません」
レインは正直に答えた。
「指揮をしたいわけじゃない。ただ、崩れるのを見るのは嫌です」
セルジュは小さく鼻で笑った。
「お前らしいな」
風が吹いた。
遠くで鐘の音が鳴る。
夕刻を告げる鐘だった。
「貴族側は荒れてる」
セルジュが空を見たまま言った。
「平民に負けるわけがないと思ってる連中と、負けるかもしれないと思って焦ってる連中でな」
「セルジュは?」
「俺か?」
少しだけ間が空いた。
「……面白いと思ってる」
珍しく、本音のような声音だった。
「北方上がりの徴募兵が、王都の貴族連中を相手にどこまでやるのか。興味はある」
レインは苦笑した。
「他人事ですね」
「実際、半分は他人事だ」
セルジュは立ち上がった。
「だが勘違いするな」
その声だけが、少し低くなる。
「図上演習は、“勝てる戦術を一つ作れるか”を見る試験じゃない」
レインは顔を上げた。
「全体を見て、戦場を支配できるかを見る試験だ」
セルジュは続ける。
「前線だけ見てる奴は、側面を崩される。兵だけ見てる奴は補給を失う。一戦だけ勝っても、全体が瓦解すれば意味がない」
その言葉は、レインの中へ静かに落ちた。
第七駐屯地。
夜警配置。
補給帳簿。
崩れた防壁。
全部、繋がっていた。
どこか一つだけではなかった。
「……はい」
セルジュはそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出した。
去っていく背中を見送りながら、レインは夜空を見上げる。
王都の空は、北方より少し明るかった。
夏空は何かを示すように星が瞬いていた。




