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第二六話 がんばれ 男の子 その二

東山家家族会議の翌日の放課後、理科準備室。その報告と今後の対応で集まると、無料通信システムで連絡が回った。例によってスマホを持たない悠輔は都子から口頭で聞く。

 都子が理科準備室を開けると、多喜が一人でいた。悠輔は青山先生に呼び出されて遅れる。あさ美と蔵人も別様があるようだ。野口先生も不在だ。

「野口先生がここにいないとは、珍しいこともありますね」と都子。

「職員会議が長引いているようです。たぶん、野口先生の提案に反対意見が出ているのでしょう。」と多喜。

「昨日はありがとうございました」と続ける。

「いえ、先輩こそ。ところで乙原先輩、昨日は意識的に発言を控えたのではないですか?」と都子。

 多喜は微笑む。(気が付きましたか)とその笑顔が言っている。

「東山一家は強い。わたくしが口を挟まない方が良い方法に行くように思ったのです」

 都子は小首をかしげる。どういう意味か、と問うたのだ。

「普通、いじめは表面化しにくいものです。いじめられた子どもは親にも言えず、一人で苦しむ。最悪、誰にも悩みを知られないまま自殺してしまう。胸が痛みますね。」

 野口先生が見抜いたとおり、悠輔はいじめられやすい気質だ。その悠輔を育てた多喜には、いじめを苦にして自殺する子どもの話は人ごとではないのだろう。

 都子はうなずく。

「ところが東山家では大っぴらにして、言い方は悪いですけど、家族でイベントに仕立ててしまう。

 御幸母様なんて、この事態を面白がってるフシがあります。長いつき合いですが、懐の深さに驚かされます。

 今回ほど、悠輔が、その環境も含めて、普通でないと感じたことはありません。」

都子は(あなたこそ、その普通でない環境の主要因でしょう)と思ったが、口には出さなかった。

 その都子の心情をどこまで見抜いたのか、多喜は静かに微笑んだ。


 そのころ、生徒指導室では、悠輔は不機嫌な光里を前にしていた。もはや恒例行事となった、英語の欠点による補習授業の通知だが、何度経験しても慣れるものではない。

「昨日、来るかと思ってた。いつもは呼び出される前に出頭するのに。今日になったから、職員会議を抜け出す羽目になったのよ。」と光里。

「昨日はちょっと家族会議がありまして。」と悠輔。

 今でなくてもいいのに、職員会議より自分との面談を優先したのは先生じゃないか、と悠輔は思うが、それを言っても光里は納得しないだろう。女に育てられた悠輔は、女のわがままをよく知っている。

 悠輔は昨日の経過を説明する。光里の不機嫌さは目に見えて増していく。

「確かにいじめの兆候だけど、野口先生は大げさじゃないかしら。」

「そうなんですか?」と人ごとのような悠輔。英語の不出来を指摘されるのは辛いけど、人の悪意には鈍感なので、いじめられている事態を把握していない気配がある。

「野口先生の、成績が悪い生徒を助けたいとの考えには賛成する。けど、その目的のために、君は利用されてるんじゃないかと思うの。」と光里。

「野口先生はそんな悪人じゃない」悠輔の口調が荒くなる。野口先生は信頼できる師匠だ。

「悪意がないから問題なのよ。君の補習授業を一般に開放すれば、英語ができない生徒の勉強にはなる。けど、君は出来の悪さをからかわれて、もっと辛い思いをするかもしれない。野口先生はそれを乗り越えろと言いたいのでしょうけど、、肝心の君はどのくらい辛くなるのか、分かっているの?」

「まあ、助けてくれる家族もいるし、何とかなるでしょう。青山先生もいてくれるし。」

 真顔で見つめられて光里はドキリとする。その瞬間、思考が飛んだ。この素直さに女は引かれるんだ。けど、それを悟られるわけにはいかない。どんなに可愛くても、これは教え子なのだ。

「調子のいいことを言うな。君の成績が悪いおかげで、私がどれだけ苦労してるか、分かってるの?」

 光里は悠輔の頬を引っ張る。

「痛い(ふぃたい)。暴力反対ぼうひょくふぁんたい。」

 そう言いながら悠輔はされるがままになっている。さして痛くはない。これはコミュニケーション、じゃれているようなものだ。

 二人きりだからこんなことができる。他の生徒が入ってくれば普通の授業になる。と光里は思う。と同時に、それを寂しく思うのを否定しようとしていた。


 横手高校の理科準備室。ほどなく一同が集まり、代表して都子が昨夜の東山家家族会議の結果を野口先生に伝えた。

「なるほど、ビブリオバトルですか」

野口先生はしばし考え込む。

「短期間での効果はないでしょうが、他に有効な手段が思い当たらない現状では、やってみる価値はありそうです。八月六日まで準備期間は短いですが、夏休みですから皆さんにも働いてもらいましょう。柔道部顧問の石垣先生には僕からもお願いしておきます。

 初めてなので様子が分からないし、資材は最低限ですませましょうか?」

都子が答える。

「マイクとか発表の器材はうちの会社のを借りられます。昨夜、母に頼みました。使い方が分からなければ、設営も手伝ってもいいって。」

「また神楽女観光にお手間をかけますか」

「大丈夫です。地域貢献というか、イベントに協賛するのは母の趣味みたいなものですから。

 それより、問題は発表者です。中学生の栄恵ちゃんが参加してよいものかどうか。」

「いいんじゃないですか」と野口先生は軽く言う。

「柔道場の使用許可さえ取っておけば、課外活動に参加者の規定はないでしょう。石垣先生は豪胆な方です。生徒がやる気になっていると説明すれば、活動に難癖つけたりしません。細かいことを言うだろう校長先生は私が説得します。」

 悠輔は目を丸くする。野口先生は自分と同じく人付き合いをしようとしない人かと思っていたら、同僚のことをよく知っているのだ。こういう点も学ばなければ。

「説得、するのですよね。なるべく穏便に……」と都子。

 野口先生は、相手が校長でも、筋が通らないことを言われたら公然と反抗する。

「心配しなくてよいです。」と野口先生は微笑む。

 都子はかえって心配になる。

「参加者だけど、手を上げてるのは三人。テーマを漫画にした日本の古典と言い出した多喜姉ちゃんは出るつもりね?」とあさ美

 多喜は微笑んでうなずく。

「悠輔ばかりにいい思いはさせませんよ。」

「じゃ、任せる。」

この完璧超人に細かい段取りは不要だ。

「五人の枠だから、あと一人は……」

とあさ美が言いかけると、蔵人が勢いよく手を上げる。

「僕、やります」

一同は蔵人を注目する。

「いつも東山先輩の講談を聞いているだけでは申し訳ないです。ご恩返しのつもりで頑張ります。ぜひ、僕に発表させてください。」

あさ美は(大丈夫?)と言いたげな表情で蔵人を見る。蔵人は、どちらかといえば体を動かすことの方が得意な印象がある。積極的に自分の意見を言うタイプとは思えない。

「あさ美、何事も経験です。吉住さん、わたくしに出来ることがあればお手伝いします。遠慮なく仰っててください。」

「はい、ありがとうございます」

蔵人は最敬礼した。

 打ち合わせ終わり、生徒たちが理科準備室を去ろうとする最中、あさ美は多喜に「話がある」とアイコンタクトを送る。多喜はうなずく。様子を察した都子は「私も行く」とあさ美に耳打ちする。

 感激でボーッとなっている蔵人はその様子に気づかない。野口先生は見て見ぬふりをしているようだ。悠輔はこういうことには鈍い。

 人気のない渡り廊下であさ美は多喜に言う。

「多喜姉ちゃん、吉住くんにあんまり優しくすると、彼は本気になっちゃうよ。いや、もう既に夢中か。高嶺の花に憧れてるうちはまだいいけど、今日の多喜姉ちゃんはやり過ぎ。多喜姉ちゃんぐらいの美人だと、微笑みかけられただけで男の子は我を忘れちゃう。分かってるでしょ?」

「あなたも気遣いが出来るようになりましたね。少し前までは自分の恋愛で手一杯だったのに。」

「茶化さないで!」

「本心からそう思っています。悠輔はよき伴侶を得ました。姉として嬉しい限りです。

 でも、わたくしだって、これでも恋する乙女なのです。愛しい殿方を妹同然のあなたに取られてしまった傷心は深いのです。

 そこに出会ったのが、真面目で可愛い後輩です。親しくなりたいと好意を寄せるのも無理からぬことです。どうも、わたくしは年下が好みのようです。」

あさ美はあんぐりと口を開けた間抜け面になる。

「多喜姉ちゃんが壊れた……」

理性的な多喜は自分の恋心さえ人事のように分析している。と捉えたいところだが、心情変化が飛躍しすぎている。そもそも言ってることが矛盾している。幼いころから多喜を知るあさ美は、あり得ないと思う。

「本気……ですか」と都子。

「いくらわたくしでも、冗談や気まぐれで人の心をもてあそんだりしません。ましてや吉住さんは悠輔の大事な後配です。

 でも、この恋は成就しません。わたくしは振られてしまいます。」

都子とあさ美は怪訝な顔になる。悠輔は例外として、乙原多喜を袖にする男などいるものか。

「吉住さんも傷心なのです。留学生に思いを寄せていたのに、彼女は悠輔に告白したとか。それで悠輔と留学生が結ばれるならまだしも、悠輔はあさ美を伴侶にしてます。吉住さんは、「自分は道化だ」と思っているようです。そこに、思わせぶりな女が現れたので、つい気持ちがゆらいだのです。でも、わたくしは吉住さんが求める女とは違います。吉住さんには、もっと明るく華やかな女性が相応しい。

 吉住さんは愚かではありません。そう遠くないうちに、わたくしへの思いは一時の勘違いだと気が付くでしょう。」

「そこまで分かっていて……」と言いかける都子に、あさ美が言葉を被せる。

「それはない!」

「あさ美、あなたは人生経験が少なく、悠輔に一途すぎるのです。もう少し客観的なりなさい。人の思いは非論理的で儚く、しかも移ろいやすいと知らなくては。

 それが理解できたら、わたくしが振られると分かります。」

あさ美の眉が上がる。心が壊れて支離滅裂な恋愛に走る人に言われたくない。幼いころから全て完璧で、時に嫉妬を覚える「姉」だが、今は真っ当な判断力をなくしているとしか思えない。

「そこまで言う? よーし、賭けようか? 吉住くんは多喜姉ちゃんに夢中のままだわ。」

「その挑戦、受けましょう。何を賭けます?」

「あたしが勝ったら、多喜ねえちゃんには、あたしとお兄ちゃんが結ばれる手伝いをしてもらう。家から一晩、親を追い出すとか。」

「あさ美、ちょっと待ちなさい!」さすがに都子が口を挟む。が、二人とも聞いてはいない。

「わたくしの助力などなくとも、もはや悠輔があさ美を拒む要因はありません。そんなものは賞品になりません。」

「じゃあ、デートのセッティングをお願い。とろけるような夜を演出して。」

「二人でいれば、どこで何をしても最高でしょうに。まあ、いいでしょう。悠輔が連れて行きそうにない、夜景が素敵な高級レストラン、とかね。」

「そういうの! ああ、楽しみ。」

「勝ってからおっしゃい。わたくしが勝ったら、そうですねえ、悠輔を誘う権利を頂きます。」

「今更、お兄ちゃんがなびくもんですか。」

「試してみます?」

「ちょっと、二人とも落ち着いて」たまらず都子が割って入る。

「わたくしは冷静です」と多喜。

都子は溜息をつく。だからタチが悪い。

「こんなの賭けにならない。吉住くんの気持ちを確かめる方法なんかないでしょ?」

「それに関しては考えがあります。都子さん、協力してください。」と多喜。

「嫌ですよ」都子は即答する。

「呼ばれもしないのに付いてきた都子さんが悪い。お願い、付き合って」

とあさ美は、従順で一途な子犬のような目で、真っ直ぐ都子を見る。

(こんちくしょう、可愛いな)

都子はもう一度、盛大に溜息をついてみせる。

「で、私は何をすればいいの?」


 八月六日の登校日の後、ビブリオバトル開催。

 開催決定が一学期末で、準備期間が二週間ほどしかなかったが、前日までに用意はほとんど終了した。神楽女観光の資材提供もあるが、その運搬や設置に率先して動いてくれる柔道部員の協力が大きかった。

 学校側は反対こそしなかったものの協力もしなかった。正式な学校行事ではなく、主催も曖昧だから、文句をつけようとすればつけられるのだが。この会をどう考えているか、校長の意図が見える。

「いいんじゃない、余計な口出しされる方が面倒だ」と言う悠輔に、都子は苦笑した。確かに、細かい説明をしなくてすむから仕込みもしやすかったが。

 開催告知も苦はなかった。都子、あさ美、蔵人が無料通信システムで知り合いに発表者と取り上げる本を知らせたら、たちまちSNSで話題にり、短期間で全校生徒に拡散した。

  ○乙原多喜  「信長公記 マンガ日本の古典二二」(小島剛夕:著)

  ○東山悠輔 「三河物語」(安彦良和:著)

  ○鮎帰あさ美 「あさきゆめみし」 (大和和紀:著)

  ○住吉蔵人  「方丈記 マンガ古典文学」(水木しげる:著)

  ○鮎帰栄恵 「更級日記」(羽崎やすみ:著)

   神楽女都子 司会

 全校女子の憧れである乙姫様こと乙原多喜と、伝説の講談師の東山悠輔が語るのだ。加えて、けっこう人気者であるあさ美のファンは、その妹も可愛かろうと好奇心を持つ。男前の性格が同性に好まれる都子を応援したい生徒も参加者に加わった。

 八月六日、登校日あとの柔道場は入りきれないほどの観客が集まった。

 暑熱対策に抜かりはない。イベントになれている神楽女観光は六台の簡易クーラーと八台の扇風機を持ち込んだ。念のため給水器と冷たいおしぼりも用意している。

 都子はホッとする。これなら熱中症は大丈夫だろう。

 けっこうな費用がかかるのではないかと都子は心配したが、母の高子は「問題ない」と言う。どういう仕組みか教えてくれないけれど、多数のクーラーでブレーカーが落ちないか、電気代がいくらかかるかの計算までしているようだから、経費回収の工面は出来ているらしい。

 観客の誘導は柔道部員が行った。こちらはイベント慣れしてはいないだろうに、テキパキと業務をこなしていく。

「さすが、武道家は動きにキレがあるなあ」と悠輔。

 堺柔道部長は筋肉質と厳つい顔に似合わぬ微笑みで応えた。

 発表者が入場し、前面左に置かれた席に座る。その右側、中央にはスクリーンが置かれ、デモ画面が映写されている。

「ただいまより、ビブリオバトルを開催します」

司会の都子の開会宣言に拍手が起こる。観客の期待は高い。

 都子はビブリオバトルのルールと本日の進め方の説明をする。発表時間は一人五分、発表後に一つだけ質問を受け付ける。五人の発表が終わったら、観客に投票してもらい、本日のチャンプ本を決定する。

 今回は題材が漫画なので、作中の絵の使用を認める。ただし一発表につき一枚までとする。

「はい、スクリーンのテストします。後ろに座ってる人、見えますね?」と都子。

 スライド係の柔道部員が右手を挙げ、パソコンを操作する。正面のスクリーンに漫画の神様、手塚治虫先生のユーモラスな自画像が写る。観客がどっと笑う。

「はい、続いてマイクテスト。発表者の皆さんは、一人ずつ自分の前のマイクにしゃべってみて。ああ、マイクを叩いちゃ駄目、傷むから。乙原先輩から、どうぞ。」

「はい、本日は晴天なり」と多喜。

 定番の台詞も多喜が言うと上品になる。それだけで観客は「おお」と沸く。

以下、次々に「本日は晴天なり」と言う。それだけで観客は盛り上がる。

(いいね、お客さん、暖まってる)と都子は思う。

 続いて、発表の順番をくじ引きで決める。司会の都子がトランプをシャッフルしながら発表者席に行く。一枚ずつ引いて、数字の大きい順に発表するのだ。最初に蔵人に引かせるとき、都子が多喜とあさ美に目配せしたのを、誰も気づかなかった。

 発表者の五人は自分のカードを頭上に掲げる。その結果、多喜、悠輔、あさ美、栄恵、蔵人の順になり、席を移動する。

 柔道部顧問の石垣先生が、発表者席の反対側に前面に設置したホワイトボードに発表者と書名を書き出す。武道家らしいかっちりした書体、なかなかの達筆だ。

「では、一番目、乙原多喜さんの発表です。」と都子。

 多喜は静かに演台に進み、一礼する。客席から「乙姫様っ」と女子の黄色い声が上がる。多喜は静かに微笑み、もう一度頭を下げる。何をしても品の良い多喜がすると、それだけで聴衆は息を飲む。

 多喜は静かに語り始める。

 「わたくしが取り上げるのは「信長公記」、織田信長の一代記です。東山さんが取り上げる「三河物語」と同じ「マンガ日本の古典」シリーズの一冊です。このシリーズは全三二巻で、社会の教科書に載るような有名な古典か並んでいます。また、執筆者が豪華で、日本を代表する漫画家ばかりです。

 「信長公記」を描いたのは小島剛夕さん。「子連れ狼」とか、迫力ある時代劇漫画を描く第一人者です。その方が織田信長を描くのだから、さぞ重厚なマンガだろうと読んだら――肩透かしを食らいます。」

 会場から笑いが起こる。

「小島さんが下手なせいではないと思います。「信長公記」を一冊にまとめるのが難しいのです。信長の四九年の生涯は、まさに波瀾万丈。次々に疾風怒濤の事件が起こります。ですから、原典も一六巻に及ぶ大作です。

 「信長公記」の特徴は、著者の主観を除いた事象を淡々と描く書きぶりにあります。信憑性の高い資料的価値のある著作と評価されてますが、読者を喜ばせる物語性は低いのです。

 ですが、漫画にするのなら、合戦とかのアクション、信長の破天荒な人となりにページを割いて、迫力のある絵で表現しなければなりません。それでは一冊の漫画にまとめること自体に無理がありましょう。要所要所、原典などを引用して注釈の説明を入れていますが、書き込む余白に限りがありますし、解説が追いついていません。おまけに原文で、現代語訳が付いていないので分かり難いです。

 ですから、この物語のストーリーを理解するためには、事前にネット検索でもして、信長がそのとき、なぜそういう行動をしたかとかを知っておくことをお勧めします。

 このように申し上げると、この漫画は面白くなさそうですね。」

 多喜は薄く微笑む。その可憐さに聴衆は息を飲む。

「ずるい」

あさ美は呟く。こんな御令嬢が品良く振る舞ったら、何を言っても聴衆の心を掴んでしまう。

「でも、引きつけられる漫画なのです。わたくしが感心したのはこの場面です。」

 スクリーンに見開きページが写される。信長が扇子を手に舞う姿と騎馬武者たちのシルエットが描かれている。

「桶狭間の合戦に臨む場面です。信長が舞っていますね。映画やテレビドラマでも、桶狭間の戦いの前で、信長が舞うシーンがよくあります。信長は幸若舞の「敦盛」が好きだったと言われています。

 漫画ではそういう説明はありません。「敦盛」のよく知られた歌詞、「人生僅か五十年」すら書かれていません。不親切と思われがちですが、そこが良いのです。

 幸若舞は動きが少なく地味だと言われます。その観点で見ると、このページは騎馬武者や家臣の慌ただしい動きと信長の静けさの対比が際立っています。

 言葉では分かり難いですね。「敦盛」がどういうものか、実演してみましょう。全部を演じると五分以上かかるので、有名な部分だけを抜粋します。そういうのは本来、あまり誉められた方法ではないので、ここだけの戯れと、お許しください。」

多喜は演台を離れ、扇子を取り出すと客席に一礼する。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

穏やかに舞う。なるほど、優雅さが特徴の日本舞踊の中でも、更に動きが少ない。それが御嬢様然とした多喜の容姿に合ってる。観客は息をするのを忘れるほど見惚れた。

「お粗末様でした」多喜は一礼して演台に戻る。

観客から拍手が起こる。多喜はもう一度礼をする。

「感じていただけましたでしょうか。織田信長の激しい生涯と、「敦盛」の静かな厭世観とが、この漫画では見事に描かれています。全編、そのような描写で信長を表現しています。この漫画を推薦する理由はそこにあります。

 わたくしの発表は以上です。」

 観客から拍手が起こり、多喜はもう一度頭を下げてそれに応えた。さらに拍手が大きくなる。コンサートだったらアンコールを求める声が起こりそうな勢いだ。

 上品な多喜は静かに一礼して歓声に応えた。

 都子はうなずく。司会進行にはこういうのが助かる。

「それでは、質疑に移ります。ただいまの発表に質問のある方は挙手願います。」

 いくつもの手が上がる。

「じゃあ、いちばん早くを挙げた、三列目の右の方の女子。そう、あなた。お願いします。」

指名された一年女子は勢いよく立ち上がる。

「ありがとうございます。ええと、乙姫様--乙原先輩はお淑やかだから、織田信長を取り上げるとは意外でした。信長のような激しい人がお好きなんですか?」

観客席から「キャー」と黄色い声が上がる。

「発表に関連がない質問は」と言いかけた都子を、多喜は手で制する。

「信長は、あくまで歴史上の人物として興味深いと考えています。もし現実に信長が身近にいたとしたら、気性が激しい殿方ですから、わたくしのようにおっとりした女は怒らせてしまうでしょう。怒ると斬りかかってくるそうですから、近づきたくないですね。」

観客は笑う。

「そのくらい強烈な人間でないと、天下統一は出来なかった、ということだと考えます。そういう観点で読んでも、「信長公記」は面白いかもしれませんね。」

多喜は一礼する。

「ありがとうございました。次は東山悠輔さんです。」と都子。

 悠輔は「次がやりにくいなあ」とつぶやく。

 マイクがその声を拾い、観客が笑う。多喜は微笑んでいる。

 悠輔は演台に立つ。

「僕が紹介するのは「三河物語」です。原文の作者は大久保彦左衛門、江戸初期に天下のご意見番として、当時の庶民に人気のあったお殿様です。漫画を描いたのは安彦良和さん。」

 スクリーンに鎧兜の大久保彦左衛門、主人公で後に魚屋の一心太助として名を挙げる若侍などが描かれたカバー絵が写る。

「絵を見てピンと来た方もいらっしゃるでしょう。安彦良和さんは「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインをした人です。

 安彦さんは漫画家としても活躍されてます。歴史物もいくつも描かれて、ごらんのように武士を描いても上手です。

 この漫画の魅力はそれだけではありません。徳川家康に忠義を尽くす彦左衛門と、その割には報われずに貧乏暮らしになる大久保渦中の鬱積とかが、時に物悲しく、時に猛々しく描かれていることです。

 大久保家は何代も徳川家に使え、戦乱のなか長年忠勤に励んできました。大久保のような三河武士は戦に強いことで有名だったようです。家康の苦労時代は貧乏に耐え、戦となれば満足な武具すら用意できないのに愚直に戦う。家康もそういう家臣を大事にしました。そうやって徳川家の家臣は徳川家を支えたから、家康は天下を取りました。

 こんな話が伝わっています。天下を取ったあと、家康はこう問われました。「全てを手中に収めて、何か大切なものはあるか」と。家康は、こう答えた。

「さしてない。しいて言えば、私のために命を投げ出してくれる家臣であろうか。」

 家臣たちは男泣きしたでしょう。命がけで戦ってきた甲斐があった、と

 しかし、徳川幕府が成立すると、家康が必要とするようになったのは国家組織を運営するための財政や事務処理に長けた人、いまの言葉で言えばキャリア官僚になりました。

 反対に、戦働きに長けた古くからの家臣の扱いは軽くなる。中にはあやふやな嫌疑をかけられて改易、つまり地位や領地を剥奪されたりする。

 大久保彦左衛門はこれが不満なのです。ことあるごとに新参者の経済官僚の悪口を言います。でも、それって年寄りの愚痴です。この漫画の中でも、それも忠義を尽くせと講談を語り聞かせる彦左衛門に、家来たちはウンザリしてます。

 これは僕の印象なんですが、大久保彦左衛門も、自分のような戦場でしか役に立たない武士は時代遅れだと、分かってるんじゃないでしょうか。けど、惨めな思いをしても、敬愛する家康への忠義は貫かねばならない。だから過去の苦労話を繰り返し家臣に説く。だから、ちょっと刺激されると過敏な行動を取る。屈折してますねえ。

 圧巻なのは大坂夏の陣です。真田幸村の猛攻に、圧倒的に優勢なはずの徳川方の本陣が崩れ、大御所・徳川家康も逃げる。戦後、家康が逃げる屈辱に至ったのは誰のせいかと責任問題になる。家康の旗持ちが先に逃げて、それにつられて本陣が崩れたではない、か。

 家康の居場所を示す旗の間近にいた彦左衛門は『旗は立っていた』と言い張る。そんなはずはない、との証言がいくつも出ても、発言を撤回しない。ついには虚言を申告したと切腹騒ぎにまでなる。

 悠輔は一呼吸置く。

「このあたり、人物の表情がメチャクチャ迫力があります。安彦さんって、お話も絵も、凄く上手いです。」

「説得に来た親友に、彦左衛門は死に装束で言う。あいつは旗持ちをするような器量ではない。そんなやつに重役を任せたのは間違いだ。あれほどの大人物でも、年を取ると目が曇るのか。これは大御所様の大落ち度だ。

 誰しもしくじりはある。大御所様も三方ヶ原で武田に大負けした。だが、大御所様は後に武田を破り、ついには天下を取られた。だが、その大御所様も齢七〇、もうこの先は恥をすすぐ大戦はあるまいよ。

 だから家康に恥をかかせられない。そのためには自分の命など惜しくはない。

 強烈な忠義ですね。こういう武士は、当時でも少数派だったのでしょう。

 それだけ忠義を尽くしても、大久保彦左衛門は報われないのです。録も少なく、貧しいから庭を畑にすべく、自らクワをふるう。

 そういう様子を見て、侍に憧れて田舎から出てきて、縁あって彦左衛門に使えた一心太助は侍稼業に嫌気が差します。この辺はこの漫画のオリジナルです。

 一心太助は気っぷのいい江戸っ子の魚屋として、昔の講談や浪曲では活躍するんですが、架空の人物ではないかとも言われています。

 この漫画では一心太助が主人公です。彦左衛門を好きなんだけど駄目な面も理解している、いわば解説者として読者にこの時代や徳川家の背景を分かりやすく説明します。こうしないと、作者の安彦さん自身、大久保彦左衛門が理解できないようで、話が面白くないんだと。

 この辺の人物配置、上手いです。更には武士をやめて証人になった松前屋が登場します。

 松前屋は一心太助に言います。

『豊臣家が滅んで これからは徳川の世と世間ひとは言うよ でも本当は町人の世だ 自分の気持ちに正直に生きていける町人がやっと 戦をこわがらずに のびのびと生きられる世の中になったのだと思うよ』

 僕はこれを読んで、目から鱗でした。太平の世に武士は不要です。少なくとも江戸時代の文化を作ったのは町人です。そういう観点で考えると、江戸時代は違った見え方になります。

 武士道を代表する「葉隠」が書かれたのはもうちょっと後、江戸中期です。忠義を説く武士道が過去のものになっていくから、その心得を書いたのではないかと、僕は思います。

 けど、それより前、江戸幕府が始まるころには、もう武士道の時代じゃなくなっていたんじゃないか。そもそも武士道は日本の一般的な考え方ではないのではないか。町人、すなわち日本人の多くが『のびのびと生きられる世の中』では、大久保彦左衛門のような武士道の権化の侍は過去の遺物ではないか。この漫画を読んで、そんな風に思いました。

 根拠が薄い仮説ですけど。もっと勉強しなくちゃ結論は出せませんけどね。

 そう思わせてくれたこの漫画は深いです。それが、僕がこの漫画を推す理由です。

 本日はこれまで。」

 「これ以上、まだ勉強する気?」思わずつぶやいた都子の声がスピーカーから流れた。観客はどっと笑った。悠輔は頭をかいている。

「質疑に移ります。質問のある方……」

観客席の一列目の中央に座った堺柔道部長が、低いがよく通り声で「はい」と手を上げた。その迫力に余人は手を上げ損なう。

「じゃあ、堺さん」と都子もその迫力に気圧される。堺は立ち上がる。

「東山くんの発表は武士道を否定しているようだ。武道家として、はなはだ遺憾だ。僕は武士道は素晴らしいと考える。君は日本の伝統を否定するのかね?」

 悠輔は困った顔になる。

「そこなんです、『結論が出せない』と言ったのは。」

「ちょっと説明が長くなるけど、いい?」と都子に尋ねる。

「なるべく手短にね」と都子。既に五分の発表時間を超過しているのだ。

悠輔はうなずく。

「「葉隠」の有名な一節、『武士道と云は、死ぬ事と見付たり』。誤認している人が多いようですが、あれは「潔く死ね」という意味ではなくて、常に死ぬ気で頑張れ、いつ死んでもいいくらいの覚悟で身辺を整理しておけ、って意味でしょ? 

 そういう考え方は立派です。決して悪いものじゃない。でもね、それって、滅茶苦茶キツいです。僕なんて怠け者だから、常に全力なんて、勘弁してください、と言いたくなります。

 武士道のそういう厳しい生き方を教育できるのは、武士という特権階級だからじゃないかと思うんです。江戸時代に武士は人口の七パーセントぐらいだったそうです。そのくらい少ない支配階級が子弟を教育するのに、「おまえは武士の子、苦しくても町人のように好き勝手をしてはいけない」と諭すから、武士道は成立したんじゃないでしょうか。

 武士道は日本の長い歴史で育まれた思想ですけど、成立したのは江戸中期です。しかも江戸時代に「葉隠」は一般公開してなかったそうです。武士道が日本古来の、日本人一般の思想だとするのは、明らかに間違ってます。

 ですから、明治以降、国民皆兵の時代に武士道を奨励したのは問題だと思うのです。国民全部非生産階級の武士になれって、無茶です。ましてや、何を勘違いしたのか『武士道と云は、死ぬ事と見付たり』を「潔く死ね」と解釈しちゃった。そりゃ、国がおかしな方向に行っちゃいますよ。その行き着く先が一億総玉砕なんて狂った政治ではないか、と僕は思うんです。

 繰り返しになりますけど、武士道の考え方は決して悪くない。「葉隠」には現在でも通用する、同感できる考え方が沢山あります。武士道を実践している堺部長は、体の動かし方からしてキチッとしてる。武道家は立派だと思います。

 つまり武士道は強い薬だと思うのです。かつての日本は猛毒になりかねない薬のさじ加減を間違えた。これは反省すべき点でしょう。

 じゃあ、二一世紀を生きる僕らはどうすればいいのか?」

悠輔は一呼吸置く。

「ごめん、分かりません!」

会場は爆笑する。堺部長も苦笑いしている。

「ってとこで、今日のところは勘弁してください。」

悠輔は一礼して演台から降りる。拍手が起こる。

 都子は咳払いする。

「次は鮎帰あさ美さんです」

 あさ美は元気よく立ち上がる。観客生から声援が上がる。指笛を鳴らすものもいる。あさ美は手を振ってそれに答える。

「あたしが取り上げるのは「源氏物語、あさきゆめみし」 です。有名な古典だから、いくつも漫画になっているので、あたしも読んだことのない漫画が多いのだけど、大和和紀さんのこれは、特別にいいと思います。

 源氏物語は光源氏の生涯を扱った長いお話で登場人物も多く、人間関係も複雑です。系図を用意してもらわないと、血縁関係も分からなくなります。いや、系図を見ながらでも、不倫の子とかも出てくるので、あたしの頭じゃ誰が誰の子供だかこんがらがっちゃいます。

 おまけに、宮様とか姫様とかは、似たような名前の人が出てくるからややこしい。

 その点、漫画はいいです。黒髪の美形が光源氏で、平安貴族なのに金髪っぽいのが頭の中将、って具合。

 さて、漫画でも長い話です。あたしが特に印象的だったのは「完全版」の第八巻、光源氏が死ぬ話です。いや、正確に言うとはっきりとは描かれていなくて、そうなんだろうと明石の君が察するんだけど、これが余韻があって心引かれるの。

 最愛の妻、紫の君を失った光源氏は、もう生きていても仕方ない、出家したいと嘆く。それが延々と続くんだけど、読んでいて退屈じゃない。これまでの人生を振り返ったり、いかに紫の君が素晴らしい女性だったかを回想するのが、雅というかものの哀れというか、感動的です。

 なにせ紫の君は、理想の女を求める光源氏が幼いころから自分の好みに合わせるように育てていった女の子。でも幼女のころの紫の君は、光源氏を恋愛対象として見てないの。漫画の中では、最初「おにいちゃん」と呼んでる。光源氏は男女の意識がない少女を、なにされてるか分からないうちに肉体関係に持ち込んじゃう。ロリコンというより、現在だったら犯罪じゃないかしら。」

 会場から「お兄ちゃーん」と声がかかる。

「あたしはいいの。お兄ちゃんがマザコンでロリコン、スケベだって分かってる。そのうえで好きなんだから。」

 悠輔は困った顔になる。会場から囃し立てる声が起こる。

「会場は静かにしてください」と都子。

「ええと。とにかく、紫の君を失った光源氏は失意で生きる気力を失うの。

 原文でも、光源氏の死が描かれているらしい「雲隠れの段」は現代に至るも見つかっていなくて、元々タイトルだけで書かれていないのではないかと言われてるんだって。

 あたしもこの前、教えてもらいました。あたしもそうじゃないかと思います。漫画で創作されたのこのくだりは、そういう紫式部の意図をくんだ奥ゆかしさを感じます。千年も前のことだから、あたしの勝手な想像ですけど。

 『いい最終回だった』って、こういう話だと思う。雲をバックに「完」って一文字も印象的です。

 でも、原文でもこの漫画でも、続編の宇治十帖が描かれてます。悪くはないんだけど、光源氏の強烈な物語に比べると見劣りがする。これもあたしの勝手な想像だけど、千年前の紫式部も、現在に漫画を描いた大和さんも、熱心な読者に続きを求められて、続編を書かざるを得なくなったんじゃないかしら。人気作品の辛さね。

 そのくらい光源氏ってキャラクター性が強いんです。

 それを引き立たせて印象的なのは、この漫画の雅な絵です。とにかく美しい。」

 スクリーンに光源氏が幼い紫の上を抱えたカラーの一枚絵が写る。

「主人公の光源氏と、最愛の妻の紫の上です。優美な平安装束に引き込まれますね。こういう絵で全編が描かれてます。

 光源氏って、美男子で天才、おまけにみかどの子って、生まれも最高。この上なくいい男なんだけど、今で言うとマザコン。困ったことに母親が比類なき美人だったから、マザコンに磨きがかかっちゃった。」

 会場からクスリと笑い声が上がる。

「笑わないで。人事じゃないんだから。」

会場の笑い声が大きくなる。

「あたしだって勉強したんです。

 男の子の最初の恋人は母親なんですって。母親は子供に無限に愛を注ぐから、幼子は母親を慕うわね。でも、子供も成長すると段々と親と意見が合わなくなる。それに、母親も年を取って容姿も衰えてくるから、男の子は母親から離れて、同年代の女の子に目が行っちゃう。でも、光源氏は幼くして母親を亡くしてるから、理想的な母親像を持ったまま青年になっちゃった。ここらへん、千年前の貴族の話なのに、リアルなのよねえ。

 年を取っても美しくて理想的な母親って、もっと厄介だけど。」

あさ美は息を吐く。会場から再び笑い声が起こる。

「だから、笑わないで。あたしは現実にそれで悩んでるんだから。」

あさ美が慕う悠輔の母親は、とても高校生の息子がいるとは思えない若々しい美人だと知っている観客はうなずくやら笑うやら。

「源氏物語に話を戻します。源氏物語が物凄いのは、ここから先。

 早くに亡くした母親に似た美人に恋い焦がれるだけならまだいいんだけど、光源氏は母親に似た美人に会うと、相手が誰だろうと強引にものにする。不倫や強奪、何でもあり。しかも次々に次の女を求めていく。

 一夫多妻の時代とはいえ、新しい女が出来ても、前の女とも付き合ってるの。この漫画の中でも、明石の君と紫の上は良好な関係になる。平安貴族って、実際はどうだったんでしょうね。あたしだったら耐えられない。」

 チラリと悠輔を見る。悠輔は何とも言えない表情をしている。

「浮気なんかしないよ」

悠輔の呟きをマイクが拾い、会場に響いた。

「って、マイクの感度良すぎだろうが」と悠輔があわてる。

「信用……してるけど、他の女に言い寄られる危険があるものなあ。」と、あさ美がつぶやく。

「女房の妬くほど、亭主もてもせず」多喜がつぶやく。

「多喜姉ちゃんが一番危ないのよ」

 会場は爆笑する。

多喜が何か言いかけるより前に、司会の都子が割って入る。

「夫婦げんかはそれくらいにして。話を元に戻して。」

「はいはい、って、どこまで話したっけ。ええと、光源氏が女たらしって話ね。

 光源氏の幾人もの奥さんは、それぞれに立派な女性だけど、最高なのは紫の君だって。さっきも言ったけど、その紫の君を若くして亡くした光源氏の嘆きが、この漫画では延々と描かれる。これがまた、雅というか、ものの哀れというか。プレイボーイが勝手なことを言うな、って気もするんだけど、情緒があるの。

 源氏物語が現在でも日本文学の最高峰だと言われるのは、こういった心情と、四季の美しい風景とがマッチしている、その豊かな表現ゆえだと、あたしは思う。

 漫画は絵でそれを補強できる。しかもアニメや実写映画と違って、余白を想像できる。その漫画は、そういった漫画の長所を最大限に引き出している。

 これが「あさきゆめみし」を推す理由です。

 「あさきゆめみし」雲隠れの段、本日はこれまで」

あさ美は一礼する。会場から拍手が起こる。

「では質疑です。質問のある方……」

早い者勝ちと思った観客は、我先に手を上げる。

「じゃあ、いちばん手を上げるのが遅かった五列目の中央の人」

観客がドッと受ける。都子に指さされた男子は「自分ですか?」と自分を指さす。

「はい、あなたです」と都子。このおとなしそうな男子なら、困った質問はすまい。

「えーっと、光源氏と「お兄ちゃん」、どっちが素敵ですか?」

会場が爆笑する。都子は頭を抱えたくなる。

「だからっ、発表に関係のない質問はしないで下さい。」

「愚問ですね」とあさ美。

「お兄ちゃんに決まってるじゃない。」

会場から「ヒュー、ヒュー」と声がかかる。悠輔は真っ赤になる。あさ美は平然としている。

「だって、光源氏は次々に女を作るのよ。浮気じゃなくて、何人もと結婚するの。一夫多妻の平安貴族ならありかもしれないけど、あたしは耐えられない。他に女を作るんだったら、せめてバレないようにやってほしい。」

会場にうなずく女子が幾人もいる。

「あたしと同じ考えの女子は多いみたいね。それで考えちゃうんだけど、いくら美男子でも、あっちこっちに女を作るとんでもない男が、今の日本でも持てはやされるって、どうしてなんでしょう? ねえ、都子さんはどう思う?」

会場から笑い声が上がる。

「私に聞かないで。というか、司会者は答える立場じゃない。」

「いいじゃない。都子さんもお兄ちゃんが好きなんだもの。いま思い至ったんだけど、これって「源氏物語」状態じゃない? ねえ、明石の君。」

都子は軽くあさ美をにらむ。お兄ちゃんは私以外の女になびかないと思う余裕から、私をからかいにきたな。こんなところで、前にからかった仕返しをこんなところでするつもりか。

「そりゃ、他に女を作られるのは嫌よ。」

「「あさきゆめみし」では、明石の君と紫の君は仲良くなるわ。」

都子は答に詰まる。

あさ美は一礼して演壇を降りる。

「紫の君、おしわせに」と声がかかり、あさ美は手を振って答える。

(してやられたわね)と都子は思う。気持ちを切り替えよう。

「次は鮎帰栄恵さんです」と都子。

「栄恵さんは本校の生徒ではありませんが、このビブリオバトルの発案者なので、本日は特別に発表者に加わってもらいました。」

 栄恵は立ち上がってうなずく。早足で演台に向かう。

「こんにちは、鮎帰栄恵あゆがえりさかえといいます。隣の中学校から来ました。はい、制服見れば分かりますね。」

 栄恵は腕を広げ、くるりと回る。目鼻立ちのくっきりした顔立ちとやや細身のスタイルが、アイドルのステージ衣装かと思える中学校の制服によく似合う。観客は「おお」と声を上げる。栄恵には能でいう花がある。人気アイドルが共通して持つ、人を引きつける華やかさは、計算もあるのだろうが天性のものだ。登場してすぐに観客の視線を引きつけた。

「いま発表した、大きな胸で男の子を誘惑しまくるくせに、二言目には兄を夫だと言う変な女の妹です。」

発表者席のあさ美は苦笑する。会場からは笑い声が起こる。

「え、似てない? よく言われます。妹の方が可愛いって。」

テヘっと笑う。この笑顔で言うと嫌みに聞こえない。

「この愚妹め、いいから本題に入りなさい。」とあさ美。

「まあまあ」と悠輔がなだめる。

「はいはい。お姉ちゃんは優雅な源氏物語を紹介しておいて、全然みやびじゃないなあ。」

観客は更に盛り上がる。

 かすかだが栄恵の口角が上がったのを都子は見た。姉がこう突っ込むことを計算したうえでの枕話か。

「私が紹介するのは、源氏物語の少し後に書かれた「更級日記」です。漫画を描いたのは羽崎やすみさんです。原文を書いたのは菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ。本名が分からないから、孝標って人の娘さんと呼ばれてるの。

 平安時代中期って文学が盛ん。平和だからでしょうね、有名な古典の作者は女の人がいっぱいの、完全に女の時代。更級日記もそうだけど、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記、栄花物語、和泉式部日記、みんな作者は女。なのに、みんな本名が分からない。ひどいよね。

 この漫画では、いちいち菅原孝標女って呼んでちゃ、落語の寿限無みたいになっちゃうから、更級日記から取って「サラちゃん」って呼ばれてます。これ、私は結構気に入ってるの。可愛らしくて現代っぽい。」

 モニターに作中のサラちゃんが写る。

「ほとんど少女漫画か学習雑誌ね。でも、それがいいの。サラちゃんは今で言うと文学少女というかオタ女です。源氏物語が読みたくて仕方ないんだけど、父親の赴任先が田舎だから手に入らない。都に行きたい、美しい物語を読みたいって切望するの。この時代の下級貴族の女の子って、ほとんど現代人と同じメンタリティーじゃないかと思うくらい共感しちゃう。

 父の任期が終わって都に帰る。念願叶って伯母から「源氏物語」をもらえて、自分もこんなふうな高貴な殿方と恋をするのかと、夢見る少女の夢想は最高潮。このあたり、サラちゃんが可愛くて可愛くて。

 ちなみにサラちゃんのお気に入りは薫中将と匂宮におうのみやなんですって。光源氏じゃないのね。一番人気のキャラ推しじゃないのが、またオタクっぽいと思う

 でも、父の藤原孝標はあんまり身分の高い貴族じゃないから都落ちしちゃう。サラちゃんは源氏物語のような様な都でみやびで高貴な貴族との出会いになんかない。そうなったら光源氏のように赴任先でラブロマンスがあるんじゃないかと思う。夢見る少女は無敵ですね。物語のような出会いがあるはずもないんだけど。

 家事が忙しくなってウンザリする。それが嫌で宮仕えしたら、周りは出来る女だらけ。自分は普通の女で源氏物語に登場するような貴公子のお相手はないのだと思い知らされる。

 夢見る少女が成長して、段々と現実の厳しさが見えて大人になっていく。これって、完全に現代人と同じのメンタリティーよね。

 それで、サラちゃんは結婚する。お相手は人の良さそうなおじさん。光源氏や薫大将に憧れるサラちゃんの理想とはかけ離れてる。サラちゃんは思う、『大人になるっていうことは あきらめることなのね』。『私の中の薫大将に 静かにお別れしたの』。」

 ここで栄恵は一呼吸入れる。

「私はまだ、夢見る少女でいたい。だってまだ一三歳なんだもの。」

 会場から驚きの声が上がる。「中学一年?」「嘘だろ」「来年この高校に入学してくると思ってた」との声が上がる。

 実際、高校生と言われても通りそうなくらい大人びて見えるし、弁舌も子供離れしている。

「あれ、言ってなかった? 中学二年生です。」

舌を出して笑う。可愛らしさに観客から「おおっ」と声が上がる。

(この効果を計算してやってるな)と都は思う。なるほど、姉のあさ美が「こまっしゃくれ」と言うわけだ。

「そんな子供の私が読んでも、大人になる寂しさを更級日記の結末は胸に迫るものがある。古典文学は今を生きる私たちと同じような人達が描かれている。だから千年を経ても愛されているんだと思う。

 私が更級日記が好きな理由はそれを教えてくれたからです。これで私の発表を終わります。」

 栄恵は一礼する。会場から拍手が起こる。栄恵は両手を振ってそれに応える。会場の拍手がさらに大きくなる。

 鳴り止まない拍手の中、栄恵はステップを踏む。観客の拍手はそれに合わせた手拍子となる。

 悠輔はポカンとなる。しげしげとマイクを見る。隣のあさ美は「なに?」と言いたげな顔になる。

「スイッチ、どこ?」と悠輔はあさ美に耳を寄せて言う。

あさ美はマイクを手に取り、根元にあるスイッチを切る。

「ありがとう。」と悠輔。

「これ、なに? 更級物語と関係あるの?」

あさ美は自分の席のマイクのスイッチを切りながら答える。

「栄恵が最近はまってるK-POPのダンスだと思う。Saraって名前に引っかけたのね。まったく、あのこまっしゃくれ、多喜姉ちゃんに対抗するつもりなんだ。」

「多喜姉さんが舞を披露するって、事前に知らなかったろ。栄恵ちゃん、即興で踊ってるの? 凄いな。」

「そういうの出来ちゃう子ななの。だから、こういう場に出したくないの。」

栄恵は右腕を天に突き出してポーズを決まる。ぺこりとお辞儀をして自席に戻る。

 司会の都子が注意しようとする直前にダンスを切り上げた。姉妹二人共にしてやられたと都子は苦笑する。

 観客はやんやの大盛況。栄恵は手を振ってそれに応えるが、もう立ち上がろうとはしない。その潔さがまた好印象だ。都子が静まるように放送するが、拍手はなかなか収まらなかった。

「質疑に移ります」と都子。

いっぱいの手が上がる。これ以上変な質問はしないでよ、と都子は祈りながら比較的落ち着いた表情の男子を指名する。

「今日は特別参加、ありがとう。また横手高校に来てくれますか?」

(だから、どうしてみんな、発表に関係ない質問ばかりするの)

栄恵は小首をかしげる。

「発表の関係ない質問は想定してなかったなあ。」

観客から感嘆の声。もはや、栄恵が何を言っても受ける状態だ。

「お姉ちゃんみたいに、策を乗り越えて?」

中学時代のあさ美が悠輔に会いに、隣の中学校から境界の柵を乗り越えていた横手高校に入っていたのを知る観客から笑いが起こる。

「生徒会長の都子お姉ちゃんが困るから、そんなことしたくないなあ。正門からちゃんと入ってきたいから、また呼んでください。」

ぺこりと頭を下げた。模範解答の締めに、観客から大きな拍手が起こる。

 次に発表する蔵人は困り果てた顔になる。汗をかいているのは夏の暑さのせいだけではない。

 ようやく会場が静まり、都子の紹介を受けて演台に立つ。

「僕が取り上げるのは「方丈記」です。」

 蔵人は文庫本を掲げる。「マンガ古典文学方丈記 水木しげる」とある。その手が震えている。緊張した顔には汗が滲んでいる。無理もない、これまでの発表のインパクトが強すぎたうえに、栄恵のパフォーマンスが華やかすぎた。トリを務める重責に押しつぶされそうになっているのが、痛々しいほど伝わってくる。

「大丈夫。練習した通りに発表すればいいの」

 多喜がマイクに入らないように小声で励ますが、聞こえた様子はない。

 たどたどしく発表を続ける。

「原文は鴨長明。漫画を描いたのは水木しげるさん、「ゲゲゲの鬼太郎」で有名ですね。この漫画は鴨長明の庵を水木さんが訪ねて、人となりや生涯を聞く形で方丈記を紹介します。

 鴨長明は平安末期から鎌倉時代にかけての人です。このころは源平合戦だけでなく、多発する自然災害や大火で大勢の人が死ぬ、地獄のような時代でした。

 水木さんも太平洋戦争の激戦地で左腕をなくすとか、大変な苦労をされました。」

 観客は困惑した顔になる。マイクを通しても声が小さい。棒読みなうえに早口で発声が不明瞭だ。なにを言っているのか聞き取れない。

「落ち着け。そば屋で注文を取るようりょうでしゃべりゃいいんだ。よーし注文いくぞ、『鴨長明ならぬ、鴨南蛮そば、一つ』」

観客席から声がかかる。豊だ。

「お客さん、鴨南蛮は冬限定です。」

蔵人は思わず店の調子で答える。観客席がどっと沸く。

「観客は勝手な発言をしないで下さい」と注意する都子の声にも笑いが混じる。

豊は手を両手を擦り遭わせて謝る仕草をする。その姿がユーモラスで、観客につられて蔵人も笑った。

(先輩、ありがとう)

 蔵人は深呼吸する。

「方丈記は厭世観で貫かれています。鴨長明が悲観的になったのは、あまり良い思いをしなかったのが大きいでしょう。

 まず、このころは、戦乱や政治の混乱に加え、数え切れないほどの餓死者が出るほどの天災の時代であったことが影響してます。

 鴨長明自身の問題もあります。歌や楽器に才覚はあったのですが、出世するタイプじゃなかったこと、それで落ち込んだこと、家族にさえも打ち解けられない孤独な人だったこと、色々と重なったせいでしょう。何をやっても虚しいと思っちゃったらしいんです。諸行無常ですね。

 その象徴でしょう。この漫画は幾度も落ち葉が舞います。隠者となった鴨長明はそれとともに月日を過ごしていきます。」

 モニターに、方丈の庵に向かう水木さんの見開きページが写る。庵の周りに枯れ葉が舞っている。

「この漫画の中では、晩年の鴨長明は達観しています。あくせく生きて何になる、自然の中で自由に生きるのがいい、負け惜しみじゃない、と言ってます。わざわざそう言うところに、世間への未練を感じますが、嘘ではないのでしょう。

 それをのんきに生きる人の代表みたいな水木さんが描くのが味わい深いです。

 同じ酷い目にあっても、水木さんは明るいです。現代人は辛くても生活のために働かなければなりません。水木さんも諸行無常なんて言ってる暇はなく、頑張って漫画を書き続けたのでしょう。

 この違いが、はっきりとではありませんが、行間――マンガですからコマの間とでも言えばいいでしょうか――から滲んでいるような気もします。

 水木さんは作中で、『水木サンは若いころ……出征する前に『方丈記』を読んで、大いに共感を覚えた。死にいく者はあきらめの境地にならなければならなかったのだ。』と言っています。深いですね。水木さんは生きて帰ってきましたけど、戦争は死ぬのが普通ですから、なまじ希望を持つ方が辛いんでしょう。

 けど、水木さんはこう続けています。『しかし 今の時代、全てを容認してあきらめずに困難に立ち向かう姿勢こそが大事なのかもしれない。』

 いまはこっちの方が美徳とされるでしょう。でも、それは明日も生きているのが普通の現代だからの考えではないでしょうか。

 僕はこの漫画を読んで、しみじみ思うのです。平和はありがたいなあ、と。

 平和な時代に生まれ育った僕には、諸行無常は、分かるんだけど完全に同意はしかねます。

 そりゃ、辛いことはいっぱいあります。うちのそば屋でもお客さんが来ない日とかは、嫌になります。でも、鴨長明のように山の中に籠もったするほどじゃないです。だいたい、商売しなかったら、お金がなくなって、たちまち食うに困っちゃいます。

 水木さんほどの生活苦はしたことはないですけど、生きるためには働かなくちゃなりません。どうせなら、頑張れば未来は明るくなると思いたいです。明日が来るのが当たり前の世界で生きてますから。

 そば屋をやってると、お客さんに「美味しかった」と言われたら嬉しいです。もっと美味しいそばが打てるように頑張らなくっちゃ、と思います。はい、明日もまた食べて欲しいな、と思います。」

 蔵人はここで一息入れる。

「なんか、方丈記を否定するようなこと言ってますね。でも、諸行無常、この世のすべては虚しい、って考え方は自分の中にもあります。

 この世の栄達に執着しすぎて、欲まみれになるのは良くない、って考えは、今でも日本人の心の中に確かにあると思うのです。

 思うのだけど、言葉でうまく説明できません。そういうモヤモヤも含めて、水木さんの方丈記は深いと思います。これで僕の発表を終わります。分かり難くてすいません。」

 蔵人は一礼した。そのとき、

「分かるよ」とスピーカーから声が流れた。

「え?」と思わず蔵人は顔を上げた。

 モニターがパッと切り替わり、金髪碧眼の美少女が映った。

「はーい、蔵人、久しぶり。初対面の方は始めまして。六月まで留学生だったカンナ・チャッカマウガです。」

 会場から歓声が上がった。蔵人は呆けた顔でモニターのカンナを見つめる。

「やったね。Surprise大成功。」

カンナは悪戯っぽく笑う。その愛らしさに観客は息を飲む。

「こちら、アメリカはバージニア州、リッチモンドからの生中継です。時刻はアメリカ東部標準時で八月五日の二二時です。」

蔵人はまだポカンとなっている。

「蔵人、驚いた? ショギョウムジョウ――発音しにくいな。でも、君の説明は分かりやすかったよ。日本人の潔さの根幹はここなんだね。欲望にまみれてはいけないって、ことだね。日本人の人を思いやる心はここから始まるんだ。

 ユウ、ちょっと映って。これ、教えてくれなかったね?」

 都子がウェブカメラの位置を指さす。悠輔はそちらを向いて言う。

「短期間で何もかも説明できるか。無理を言うな。というか、カンナ、どこから湧いてきた?」と悠輔。

「無料通話システムよ。ユウは相変わらず、携帯電話も持ってないの? 今日は都子の仕込みでパソコンを通して通信してるの。便利でしょ? 

 でもウェブじゃもどかしいなあ。ユウ、やっぱりアメリカに来てよ。息づかいを感じる近さで、沢山お話ししましょう。」

すかさずあさ美が割って入る。

「ダメです。どうしてもと言うなら、妻の私もついて行きます」

あさ美は「妻」を協調した。

「あら、あさ美、いたの? ユウを取ったりしないわ、たぶん。」

カンナはわざとらしく、とぼけてみせる。アメリカに帰国後も日本語を勉強しているのだろう。芝居かかった口調が日本人と遜色ない。

「この泥棒猫が……」とあさ美。

「カンナ、あなた日本語が美味くなっただけじゃなく、日本人の心境も分かって話をするようになったのね」と都子。

「ありがとう。でも、まだまだよ。今日は勉強になった。発表はみんな良かったけど、一番関心が高かったのは蔵人の「方丈記」ね。私は蔵人に一票。」

「こら、おまえがそんなこと言ったら、観客の関心がそっちに行く。票の誘導になるだろ」と悠輔。

「そう? みんなは自分の良かったと思う発表を支持してね。」

カンナは、小首をかしげて舌を出した。可愛らしさに観客からどよめきが起こる。

「だから、そういうのが……」

都子がふと見ると、蔵人が泣いている。多喜は微笑んで、「ほらね」と言いたげにあさ美を見る。あさ美は憮然としている。

「カンナさん、ありがとう。僕はやっぱり、あなたが好きです。」と蔵人は呟く。

「蔵人、何か言った? 聞き取れない。」とカンナ。

「カンナさん、僕はあなたが好きです。付き合ってください。」マイクなしでも柔道場に響き渡る大声で叫んだ。

会場は驚愕の大音声。さすがのカンナも驚いた表情になる。

「ええと、何と言ったら……。そうだ、日本ではこういう時、『お友達なら』って言うのよね?」

「はい、友達になってください。英語を勉強します。お金を貯めてアメリカに行きます。」

 会場は歓声に包まれた。

 「ええと。全ての発表が終わったから、投票に移ります。」

 蔵人への質疑応答が飛んだが、カンナが質問したようなもので、もういいだろう。都子はもう一度投票を呼びかけるが、興奮冷めやらない観客のどよめきにかき消される。

(だから嫌だと言ったのに)と、都子は思う。今更ぼやいても遅いが。

 よせばいいのに悠輔が

「清き一票をよろしく」

とおどけて言い、観客から無視された。

 渦中のカンナはモニターの中で、困惑を隠すように微笑んでいる。蔵人はそのモニターをとろんとした目で見つめている。多喜は静かに微笑んでいる。あさ美は憮然とした表情のままだ。栄恵はそれを面白うそうに眺めている。

「はい、みんな、ビブリオバトルに戻るわよ。受付で配った投票用紙の一番読みたくなった本に丸をつけて、投票箱に入れてください。回収箱を持って係の人が回収に回ります。投票が終わったら集計のため、五分間休憩に入ります。――ちょっと、聞いて!」

 聞いちゃいない。業を煮やした柔道部員たちが観客席を回って、蔵人の告白に盛り上がっている観客には予備の投票用紙を突き出し、投票を促した。

 そうこうして、ようやく投票が終わった。野口先生と石垣先生の立ち会いのもと、柔道部員たちが集計する。

 休憩時間をはさみ、ようやく落ち着いてきたころ、都子が結果発表をする。

「集計が終わりました。発表します。五位と四位は同数の一二票です。 

「三河物語」は東山悠輔さんの発表、「あさきゆめみし」は鮎帰あさみさんの発表です。」

 拍手が起こる。普通ならあさ美が『夫婦仲良く同着』とか言いそうなものだが、今回は黙って礼をするだけになった。ハプニングだらけで困った顔の悠輔もでそれにならった。

「三位は方丈記、二〇票。住吉蔵人さんの発表です。」

 先ほどより大きな拍手が起こる。蔵人の発表は序盤の失敗が減点になってるはずだ。しかしカンナの登場と彼女への告白で、内容関係なしに票を取った。拍手に交じって指笛を鳴らすものもいる。蔵人は真っ赤になった。

「二位は信長公記、二三票。乙原多喜さんの発表です。」

多喜は静かに一礼した。その品の良さに観客の拍手が強まった。

「はい、残りは一位です。決定しました。二位と僅差の二五票です。更級日記、鮎帰栄恵さんの発表です。おめでとうございます。鮎帰さんには、賞品として図書カードが送られます。」

 栄恵は元気よく立ち上がり、野口先生から賞品を受け取った。観客の拍手が一曹大きくなる。栄恵は、両手を振ってそれに応える。そういう仕草にも花がある。観客の声援が最高潮になる。

 結果発表も終わり、会場を片付けるころ、ようやく落ち着いてきた蔵人が悠輔に話しかける。

「東山先輩、先輩の発表は良かったです。僕の中では今日の一番です。――その、今日はすいません。」と蔵人。

 拙い発表だったのに、カンナの登場で注目されてしまった。

「いや、いいんだ。発表内容はよかったよ。蔵人の熱意は聞いている人の心に響いたと思う。」と悠輔。

 口調から、適当なことを言っているのではないと感じられる。が、想定外の事態に戸惑っているのも明らかだ。

「俺の評価が低かったのは、俺の力量が足りなかったせいだ。多喜姉さんと栄恵ちゃんの発表が受けたのは、まあ、仕方ないな。栄恵ちゃんの可愛らしさはトップアイドル級だし、本の紹介なのに舞踊を披露する多喜姉さんの反則技には敵わないよ。」

「ですよねえ。でも、先輩の多彩な知識は最高です。次こそは「太平記」の講談ですね。聞きに来る予定の同級生たちも宣伝しておきます。」

「いや、多喜姉さんに「太平記」の一番いいところを持って行かれたときから、自分にはそれ以上にうまく説明するのは厳しいと思ってるんだ。

 次回は楠木正成に関連がある、別のネタをやろうと思う。」

「何ですか?」ワクワクした声で蔵人は尋ねる。

「水戸黄門だ」

「へ?」

予想外の返答に、蔵人は素っ頓狂な声を出す。悠輔は悪戯っぽく笑う。

「次回までちょっと時間もあるから、あさ美と仕込みをするよ。蔵人にも手伝ってもらうかもしれない。」

「はい、喜んで。何でも言いつけてください。」

 いつもなら子犬のように喜んでじゃれついてくるあさ美は静かにしている。はてな、と蔵人が思ったとき割腹のよい中年男が二人に近づいてきた。

 悠輔は(おたく、誰?)と言いたげな顔になる。

「柔道部顧問の石垣です」と男は名乗る。

 授業を担当してないとはいえ、自分が通う学校の先生くらい、覚えてほしいものだ。というか、今日も何度か顔を合わせているだろう。

 蔵人は(まあ、東山先輩ですからねえ)とでも言いたげな顔をしている。

「君たち、柔道部に入らないか?」

石垣先生の言葉に、悠輔と蔵人は同じような「へっ?」て顔になる。

立ち直りは蔵人の方が早かった。

「すいません。僕は放課後は店の手伝い、いや、そば屋の修行があるので、部活は出来ないんです。将来はうちのそば屋を継ぎたいから、少しでも多く修行したいんです。」

「そうか。残念だが、そこまで将来を見据えているなら無理は言えないな」

石垣先生は本当に残念そうに言う。「日本文化同好会の活動はしてるじゃないか」と問い詰めず、あっさり引き下がるのに男らしさを感じさせる。

 石垣先生は悠輔を見る。悠輔は両手を振る。

「無理無理。僕は運動神経ないんです。ましてや格闘技だなんて出来ません。投げ殺されちゃいます。」

「投げられても怪我をしないようにするのが柔道なんだがな。いや、僕が言いたいのはそういうことじゃない。」

石垣先生の目に力が加わる。

「東山くん、君の武士道への考え方に、私は感銘を受けた。僕も堺部長と同じく、武士道は素晴らしいと思っている。しかし、君が言う弊害は確かにある。目から鱗だった。

 実は僕もまだまだなのだ。他に人がいないので柔道部の顧問をしているが、初心者なので勝手が分からない。部員たちの迷惑にならないよう修行しているんだ。」

「ご謙遜を」と小声で蔵人。

 その体格で初心者はない。何より耳がカリフラワーのように潰れている。乱取りとかで耳に圧迫がかかるから潰れる、いわゆる柔道耳になっているのは、相当の練習を重ねた結果だ。

「ともに柔道を、いや日本の武士道の精神を学ぼうではないか。」

「いや、だから運動苦手なんですって。僕の体育の成績、見て下さい。授業中の乱取りでも一度も勝ったことない。柔道部に入ったって練習について行けなくて、柔道部の皆さんの迷惑になるだけです。」

これで引き下がるかと思ったら、石垣先生は説得を続けた。

「君が試合で勝つことなど期待してないよ。」はっきり言われ、流石に悠輔もムッとした顔になる。

「失礼。」と石垣先生は素直に頭を下げる。いい人だ。

「勝つことが目標ではない。昨今の柔道界には、一部だが勝つことを目的とする風潮がある。嘆かわしいことだ。無論、勝負だから勝利を目指す。しかし、勝てば何でもいいとなれば、もはや柔道ではない。ただの暴力だ。

 柔道の目的は、強い相手、不測の事態に陥っても平静でいられる精神を養うことだ。そのために大切なのは礼節だ。だから柔道や日本の武道は礼に始まり礼に終わる。つまり「道」だ。極論すれば、日本人は殺し合いの道具であった「柔術」を、人の生き方を探求する哲学といってもいい「柔道」に昇華させたのだ。」

「姿三四郎ですね」と悠輔。

「おお、流石だね。知っているなら話が早い。あれは小説だから読者を引き込むために活劇を加えるなどの脚色があるが、明治になって失われゆく日本の美徳を理論的に解析して残そうとした、嘉納治五郎先生の精神を分かりやすく描いている。」

 それは君が留学生に日本の心として説いた思いやり、和を以て貴しと為す精神と通じるものがある。君の精神はサムライだ。」

「いや、そんな立派なものでは……」悠輔は照れて頬をかく。

「だが、残念なことに君にはそのためのバックボーンがない。つまり武道の習得がないから神経がか細い。」

悠輔は目を見開いた。悔しいが当たっている、と言いたげだ。

「無礼な言い方を許してくれ。」

石垣先生は声を小さくして、悠輔に顔を寄せる。

「君はいじめられているそうだね。」

「なんで、知ってるんです?」

「野口先生から聞いた。僕は前々から、野口先生に師事しているのだよ。その野口先生の名誉のために言っておく。野口先生は生徒の苦しみを軽々しく口にするような人ではない。僕が無理矢理に白状させたのだ。野口先生は君のことで悩み抜いている。その苦しむ姿を見かねてね。」

「知りませんでした。」

「生徒にそういう姿を見せないのが、野口先生の偉いところだ。」

石垣先生は深く息を吐く。

「いじめは悪しきことだ。教師として全力で阻止しなければならない。しかし残念ながら、この世から犯罪を撲滅できないのと同じように、いじめはなくならない。

 だから防犯と同じように、いじめに遭わないようにする対策は必要だ。」

「それが出来れば苦労はない」蔵人が思わず口を挟む。この先生は立派なことを言うが、「いじめられる方にも問題がある」って、不人情極まりない理屈の持ち主か?

「その通りだ」と石垣先生は蔵人の言葉をあっさりと受け入れた。

「いじめが恐ろしいのは、肉体的な苦痛もさることながら、いじめられっ子の精神を壊してしまうことだ。人間の精神はそんなに強くはない、簡単に折れてしまう。

 僕はね、いじめられっ子に、簡単に『強くなれ』と言う教師が大嫌いだ。それで強くなれるものなら、言われる前にやってる。」

「それで柔道をやって精神を鍛えろ、と?」と悠輔。

「そうだ。いや、「やれ」と言ってるんじゃない。僕と一緒に武士道を勉強してほしいとお願いしているのだ。週に一日でもいい。君の体力に合わせた、無理のない範囲でいい。」

悠輔は考え込む。

「良いではないですか。おやりなさい。」

いつの間にか多喜が横に立っている。神出鬼没になれてない石垣先生が驚く。

「体を動かすストレス解消だけでも効果はありましょう。同じ練習を何度無繰り返す柔道は、案外、悠輔にむいているかもしれません。それによる精神統一はあなどれません。

 石垣先生、お忙しいところにご足労をかけます。よろしくお願いします。」

「勝手に決めないでくれ」

「迷っているとは、その気があるということです。何事も経験です。」

何だかんだ言いつつ姉には従順な悠輔は諦めた。

「しょうがない、週に一回だけですよ。あと、僕は体を動かすのが本当に下手です。真面目に練習するほど無様な姿を見せるでしょう。僕を柔道場に引き込んだ石垣先生も一緒に笑われても知りませんよ。」と悠輔。

「真面目に練習するのを笑う不心得者など、うちの柔道部にはいない。」石垣先生は断言した。

 その様子を黙って見ているあさ美の表情は暗い。

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