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第二六話 がんばれ 男の子 その三 

 翌日から悠輔は「水戸黄門」の講演の資料作りを始めた。やってみると意外に手間がかかる。目的の資料が思ったより本屋や図書館に少ないのだ。蔵人が図書館巡りをして資料を探すが、これは、というものが見つからない。

 あさ美もネット検索で手伝う。が、どうも落ち着かない。心ここにあらずという感じだ。

 資料作りが進まず、何日かが過ぎていく。

 幾日もあさ美の暗い表情が続き、鈍い悠輔もさすがに心配になる。

「どうした?」

「なんでもない」

そんなやりとりを何度か繰り返した後、悠輔が言う。

「『夫婦は一心同体』なんだろ。そんなに悩んでるのに、俺には言いたくないのか?」

 意を決したあさ美は、多喜との賭けの顛末をを告白する。

「多喜姉ちゃんがお兄ちゃんを奪いに来る。あんな完璧な美人が本気になったら、あたしは何一つ敵わない。何でもできる多喜姉ちゃんは、お兄ちゃんが喜ぶことを全部する。お兄ちゃんを取られちゃう。」

涙がこぼれる。

「そんなことない。多喜姉さんは姉さんだ。俺の奥さんはおまえだ。おまえがいてくれるだけで、俺は満たされてる。」

あさ美の涙をぬぐいながら、悠輔は言う。

「本当?」

「あさ美はだだ一人の女だ。愛しているよ。」

あさ美が大きな瞳をさらに見開く。

「はじめて、言ってくれた」

あさ美は悠輔に抱きつく。

「そうだっけ?」と悠輔はあさ美の頭をなぜる。

「そうよ」悠輔に顔を寄せる。

悠輔は見つめ返す。悠輔もあさ美に顔を寄せる。あさ美は目を閉じる。

…………

悠輔はくすりと笑った。悠輔の胸に顔を埋めたまま、あさ美は尋ねる。

「どうしたの?」

「いや、「一心同体」だな、と」

「やだ、いやらしい」

「おまえがいつも言ってるんじゃないか」

「そうなんだけど。言葉とは、違う」

あさ美は悠輔にすり寄る。

「お兄ちゃん、柔道始めてから逞しくなったね」

「始めたばかりで、そんなに変わるもんか。」

「ううん。なんか余裕が出来たというか、責任感が増したというか」

「おまえに対する責任感は、今まさに実感してる」

「お兄ちゃん、大好き!」あさ美は体ごと悠輔に飛び込む。

小柄な体躯からはあり得ないほど大きく張り出した胸が悠輔の胸にあたる。信じがたいほど柔らかく滑らかな感触が悠輔を刺激する。たまらず、悠輔はあさ美に覆い被さる。あさ美は、ビクッと身を固くする。

「いや?」と戸惑った声の悠輔。

「いやじゃないけど……」

 破瓜の傷みは途方もなく、もう一度それに貫かれるのは、怖い。こういう時こそ、優しい言葉をかけて欲しいのに。

 でも、それ以上の、例えようもない喜びを感じている。あさ美は悠輔の背に手を回す。

 悠輔は不器用にあさ美を求めてくる。

(この人にそういう機微を求めるのは、無理よねえ)

それでもいい、あたしはこの人を愛している、とあさ美は思った。


 悠輔の講演会は八月二一日の登校日の後となった。

 今どき夏休みの登校日が二回もあるのかと、生徒たちに不評なのだが、伝統を重んじる校風のため、改正されずに続いている。

 八月一〇日、柔道部の練習日。そのあとに講習会の準備をする。打ち合わせに柔道場に集まったな関係者から、時間がないとの意見が出ると、豪胆な石垣先生は

「いいではないですか、おかげで東山くんの講演が早く開催できる。」と言う。

「簡単に言ってくれますねえ」と、軽い特別メニューの練習なのに、疲れた顔の悠輔が言う。

「前回のビブリオバトルより機材は少ないし、冷房機材は引き続き神楽女観光が貸してくれる。柔道場の準備は柔道部に任せてくれ。親しくなった同輩のためだから、部員たちも張り切っている。」

 親しくなったというより、石垣先生がほとんど一方的に悠輔を可愛がってるのだが。柔道部員たちが協力的なのは事実だ。

 悠輔が言った通り、悠輔の柔道はとてつもなく下手だ。何度やっても基礎の受け身が上手くならない。だが、指示を熱心に聞き、改善しようと努力する姿に、部員たちは皆、悠輔に好感を持っている。英語が出来ないのをいじめてくる連中と真逆だ。

 軽くしているとはいえ、悠輔にはきつい練習に「体育会系のノリは苦手だ」とあさ美に愚痴をこぼす。しかし、柔道部員たちの武道家らしい真摯な態度を好ましく感じているようだ。それが悠輔の精神に良い影響を与えているとあさ美は感じる。

 とはいえ、悠輔が困っているのは会場整備ではない。準備時間がなくなってきたのに、講談の中身が上手くまとまらないのだ。

 悠輔は石垣先生に、どこでつまずいているのかを説明する。

「なんだ、早く言ってくれよ。」と石垣先生は気安い。

「それ、講談じゃなくて浪曲だ。知り合いの浪曲ファンが水戸黄門のレコード持ってると思おうから、相談してみよう。」

 言うが早いか、スマホを取り出して電話をかける。話はすぐに終わる。

「聞きに来いって。じゃあ、行こうか。野口先生、堺くん、こちらはお願いします。」

「オス、任せてください」と堺部長。

対応の速さに悠輔は目を丸くする。

「体育会系のノリはやっぱり苦手だ」とつぶやく。

石垣先生は豪胆に笑う。そう言いながらも感謝している悠輔の物言いが分かってきたのだ。

「どこへ行くんです?」と悠輔。

「小野屋だ。車で一時間くらいだな。」

「あたしも行きます」とあさ美。

「よし。駐車場まで駆け足。」

柔道で鍛えた石垣先生には軽いランニングの速度でも、練習後の悠輔にとっては息が上がるペースだ。

「体育会系の、ノリは、やっぱり、苦手だ」

石垣先生のSUVの後席で、咳き込みながらで途切れ途切れに言う。

「でも、ちゃんと走れるようになったね」とあさ美は悠輔の背中をさする。

「おいおい、教師の車の中で過剰な異性交遊はやめてくれ。」と石垣先生。

「不純異性交遊じゃありません。私たちは夫婦ですもの」とすまし顔のあさ美。

「あのねえ……」と石垣先生はを説教を始めそうな口調。

「あさ美、やめとけ。石垣先生には、シャレにならない。」咳き込みながら悠輔。

悠輔も石垣先生の人となりが分かってきたのだ。


 八月二一日、登校日の後、柔道場で悠輔の講演が開催された。

 前面の中央にスクリーン、向かってその左の演壇に悠輔が立つ。演壇の左にはパソコンを操作するあさ美が座る。司会席の都子は右端に座っている。

「はい、半月ぶりです。日本文化を紹介するこの活動、僕がしゃべるときはこのスタイルです。講師は僕、東山悠輔です。講談と言ってますが、素人のしゃべりなんで、補足の説明資料をスクリーンに映します。その操作をしてくれるのが鮎帰あさ美さんです。」

あさ美がジトッとした目で悠輔を見ている。

「どうした? 何か言いたいの?」

 あさ美は演壇に入ってくる。

「お兄ちゃん、何をいまさら他人行儀な。みんな知ってるわよ。」

観客がクスクス笑う。

あさ美は大きく息を吸う。

「はい、本日の講師、東山悠輔の妻、東山あさ美です。」

 会場が、えっ、って顔であふれる。いま、「東山」と名乗ったな。

「はーい、旧姓、鮎帰です。このたび、めでたく結婚しました。」

 会場からやんやの喝采。「おめでとう、若紫ノ君」「ついに正式に籍を入れたのか」と声がかかる。

「いやあ、役所への届け出はまだなんですけどね。年がどうとかがややこしくて。じゃあ、なんで「結婚」かって? いやだなあ、皆まで言わさないで。」

 あさ美の視線が柔道場の後ろに座っている多喜に向かう。「どうだ」とでも言いそうな表情になる。多喜は無表情で微動だにしない。

 常ならあさ美がこの種の発言をするとムキになって否定する悠輔が、今日は真っ赤になってうつむいた。それを見て会場は更に大盛り上がり。

(やってくれたわね)と司会の都子は頭を抱えそうになる。

「源氏物語で結婚の悪口を言ったあたしがこう言うのもあれなんだけど、結婚っていいもんですね。」とあさ美は調子に乗って言葉を重ねる。

 会場はやんやの大盛況。たまらず司都子が口を挟む。

「誰が結婚披露宴やれと言いましたか。真面目にやりなさい。」

「わたしは大真面目です」とすまし顔のあさ美。

会場はドッと沸く。渋い顔をしていた野口先生と石垣先生も、これには吹き出した。

「あー、怖いお姉さんがマジで怒りそう。じゃあ、本題に行こうか。お兄ちゃん、よろしく」とあさ美はパソコン席に戻る。

 悠輔は真っ赤になったままだ。

「なにをしゃべるんだったか、全部飛んじゃったよ」

会場は更に笑いに包まれる。

「去年、こういう枕話は俺の役だったんだが」悠輔がとつぶやくと、「夫婦は一心同体」とあさ美が返す。

 前の列に座っていた蔵人が講師席に駆け、お茶のペットボトルを置く。悠輔はキャップを外すと、一気に飲み干した。

「蔵人、ありがとう。」と一呼吸置く。

「じゃあ、建て直しまして。

 本日のお題は水戸黄門です。有名な割に、教科書にはあまり出てこないすね、徳川光圀。諸国漫遊の世直し旅なんて、もちろん創作ですから、事実を淡々と並べる教科書では出番がない。

 なのに人気の有名人です。実際に、領民を大事にして善政をひいた名君だったそうです。そこから尾ひれが付いて、真偽不明の都市伝説みたいな話が広まったようです。

 有名なところでは、五代将軍綱吉が悪名高い「生類憐れみの令」で、犬を殺したら人間が死刑になるって無茶苦茶を始めたら、光圀は犬の毛皮を綱吉に送って、「寒いからこれで温まってください」って書面をつけたって。

 それがどこまでが史実なのかの検証はさておき、こういうお上に抵抗する痛快な話は庶民に受けます。

 今回紹介する、水戸黄門、湊川の段もそう言う話の一つです。

 湊川とは摂津国湊川、現在の兵庫県神戸市にあります。」

スクリーンに神戸市の一と、湊川周辺の地図が映される。以下、要所要所でスクリーンに説明資料が写される。

「1336年、黄門様の時代からおおよそ三〇〇年前に起こった湊川の戦いの古戦場です。厳密に云うと当時と現在とでは地形が違うんですが、ざっくり神戸、つまり京都の南西だと思ってください。湊川の戦いは九州から京都に攻め上ろうとする足利尊氏と、迎え撃つ後醍醐天皇側の楠木正成たちとの合戦です。

 この合戦は血湧き肉躍る大ネタなんですが、今日は割愛です。結論から言うと兵力に勝る足利尊氏が勝ちました。楠木正成は最初から不利なのを分かってるから、それを挽回する作戦を立てたんですが、朝廷は聞き入れなかった。正成は負けると分かっていても戦います。後醍醐天皇に忠義を尽くし、討ち死にしてしまいます。

 これに黄門様はいたく感銘を受けて、楠木正成は武士の鑑だと尊敬していた。――この辺までは事実のようです。

 これ、実はややこしい要素を含んでます。黄門様が領主を務めた水戸藩は徳川御三家、簡単に言うと徳川幕府の分家です。いざとなれば将軍を出すための家です。であれば、黄門様が忠義を尽くすのは徳川幕府のはずです。

 ところが、楠木正成が忠義を尽くしたのは後醍醐天皇です。武士の元締めの幕府じゃないんです。名目上、幕府を統べる征夷大将軍は天皇が任命しますから、天皇は将軍の上位、武士は天皇の命に従うべき、とはなります。だから楠木正成は忠義の人とはなりますが、武士の時代にそれは無理があります。実際に楠木正成がそう考えていたかは疑問なんです。

 いや、たぶん、黄門様の時代、元禄年間にもそんな大義名分を言ってる人は少なかったと思います。日本の政治を切り盛りしてるのは徳川幕府ですもの。

 けど、黄門様は杓子定規な人だったようで、日本で一番偉いのは天皇だって理屈を重視した。黄門様が編纂した歴史書、水戸藩が総力を挙げて作ったと云ってもいい「大日本史」もその観点でまとめられているそうです。

 僕も読んだことありません。司馬遼太郎さんによると、後の歴史研究に何の影響も与えなかった、壮大な無駄なんだそうです。

 ともかくも、黄門様が、天皇に忠義を尽くせってな調子ですから、水戸藩で尊皇思想、つまり将軍より天皇の方が偉いって思想が出来ちゃいます。これが幕末の尊皇攘夷運動の思想的バックボーンになる訳です。まあ、話を分かりやすくするために、説明を思い切り端折ってますが、ざっくりそういうもんだと思ってください。

 先ほども言いましたが、黄門様の水戸藩は徳川の分家です。徳川宗家の血が絶えたら将軍を出す家です。事実、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜は水戸家の出身です。ここが徳川幕府に敵対する理屈を作ってるんだから、面倒なこと甚だしい。」

スクリーンに徳川慶喜の写真が写る。

「慶喜公もやりにくかったと思います。なーんか、皮肉屋っぽい顔してると思うのは、僕の偏見ですかね。」

 悠輔は喉を潤すより、間を取ろうとしてペットボトルを取るが、飲み干しているのに気づく。すかさず蔵人が身を低くしたまま講師席に駆け寄り、新しいペットボトルを置く。

「ありがとう、あとで買って返すな」と悠輔はキャップを外す。

蔵人は両手を振って不要だと示す。

「とにもかくにも、黄門様は楠木正成の偉業を讃えたい訳です。ここから講談です。『講談師見てきたような嘘を言い』をやります。事実無根と突っ込まないでください。」

 悠輔の顔が芝居かかる。

「諸国漫遊の世直し旅を続ける水戸黄門一行は兵庫に着いた。

「助さん、角さん、ここは武士の鑑、楠木正成公の終焉の地だ。湊川で墓参りをしますぞ。」

と、大楠公の墓を訪ねようとするが、地元の者すら所在を知らぬ。ようやくたどり着いた墓はみすぼらしく、まるで無縁仏のように寂れている。

「ああ、なんと無惨な。これはいけません。建て替えましょう。」

 黄門様は近所の者に、このあたりに腕の良い石屋はいないかと尋ねる。それならば勘兵衞という石屋が良かろうと聞き、さっそく尋ねる。

「おごめん」

黄門様が扉を開くと、中には六〇がらみの男が昼間から酒を飲んでいる。

「だれじゃ?」

「わたくしは越後の縮緬問屋の隠居、光右衛門と申します。この二人はお供の助と角。」

「なんや、えらい遠くから来たのう。何の用じゃ?」

「こちらは石屋の勘兵衞さんのお宅と伺いました。」

「勘兵衞はワシじゃ。何のようじゃと聞いとる」

「墓を一つ、作っていただきたい」

「爺さん、あんたまだ生きとるようじゃが」

「いえいえ、わたくしでの墓ではございません。この先の坂本村に眠る、大忠信・楠木正成公の墓を建て直していただきたい。見ればどれが墓石かも分からぬような有様。このままでは兵庫の名折れ、いや、日の本の名折れでございます。」

「なんや、偉そうなこと抜かす爺が来よったな。言われんでもわかっとる。わしかて気に病んでおる。じゃがな、地元のもんにかけおうても、銭がないの一言で終わりじゃ。」

「銭など気にすることはございません。わたくしは金の使い道に困り、このように諸国を尋ね、金を使う工面を探しております。どうか立派な墓を作って下さい。」

「大層なことぬかしやがる。どないな墓を作れっちゅうんじゃ。」

「そうですなあ。まずは畳二枚ほどの御影石を寝かせてもらいましょう」

「寝かしたろう」

「そのうえに畳一枚ほどの御影石を寝かしてもらいましょう。」

「寝かしたろう」

「そのうえに亀を刻んで寝かしてもらいましょう」

「なんや、寝かしてばっかりやな」

「じゃあ、そのうえは御影石を立ててもらいましょう。「嗚呼忠信楠子之墓」と刻んでもらいましょう。」

「よかろう、刻んだる」

「雨が降ったら困りますので、屋根をつけて下さい。それから、お参りしやすいように玉垣を巡らして、砂利を敷いて、鳥居をつけてもらいましょう。」

「ちょっと待て。とんでもない金がかかりおるわ。」

「お金は心配いりません。助さんや、路銀はいかほど残っておるか?」

「五〇両ほどございます。」

と助さんは懐から小判を包んだ切り餅を二つ出す。

「足りんわい」と勘兵衞。

「これは手付け。残りは国に戻って取り寄せますので、すぐに取りかかってください。」

「そりゃ、あかん。今月と来月の二月ふたつきは仕事ができん。」

「何故ですかな?」

「前の道を西国のアホ大名どもが通りよる。江戸の将軍にお参りに行くんじゃ」

「ああ、参勤交代ですな」

「うちの店の前は道にかかっとるからな。石が道に出ようもんなら、「下に下に」の大名行列の連中が「我らの通行を妨げる無礼者め」と抜かしやがる。あのアホどもはすぐに人斬り包丁抜きたがるからな。危なくて職人も寄りつかねえ。仕事にならんので、こうして酒を呑んどる」

「左様ですか。大丈夫です。わたくしが一筆書きますので、それを往来に立てなされ。そうすると大名がむこうに行ってくれる」

「爺さん、頭おかしいとちゃうか」

 黄門様は微笑んで一筆したためる。

「なんや、これ。ほう、爺さん、あんた顔は不細工やが字はきれいやな。ワシは石屋やから、字の上手い下手は分かる。

 「各大名へ この道、通行無用なり」その後ろに小さくなんか書いてあるな。水、隠れる、梅、里――なんや、おまえ河童か何かか。こんなもんで大名が回り道するかい」

「いいから、これを往来に立てなされ。すぐに仕事にかかりなされ。」

「そもそも、おまえ、金が足りんじゃろ」

「足りない分はこの立て札を見た大名が出してくれます。勘兵衞さん、これでやめたら兵庫の名折れですぞ。アホの大名どもに気概を見せておやりなさい。」

 酔った勢いとは恐ろしいもので、普段から威張り腐った大名に腹を立てていた勘兵衞はその気になって、言われた通りに立て札を立てる。手付けの五〇両で職人を呼び寄せて墓作りを始めた。

 そこに山口の大大名、毛利大膳太夫の一行、およそ一千名が「下にぃ下にぃ」とやって来る。

 露払いの若侍が甚兵衛の店の前にさしかかりますと、往来で石屋連中がトンテンカンとやっている。

「無礼者め」

 斬ってやろうかと鯉口を切って近寄ると、立て札が目に入る。

「各大名へ この道、通行無用なり」

「おのれ、大名を呼び捨てとは無礼千万」

と刀を抜かん勢いで石屋に迫る。あわてた職人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ散る。

「逃げるな」

と言われ、黙って斬られる奴はいない。追いかけようとした若侍、はたと思い直す。勝手な処置は出来ぬ。このうえは殿様に言上しよう。

 報告を受けた毛利公は

「無礼な石屋どもめ、カゴを近づけい」

と、くだんの立て札に近寄る。ここまでは若侍と同じだが、さすが殿様ともなると目配りが違う。

「各大名へ この道、通行無用なり」の左に小さく号が書かれている。

「水陰梅里、とな」

はたと気が付いた毛利公、真っ青になる。

「殿、いかがなされた」

「水陰梅里とは、先の副将軍、水戸光圀公の俳号である。ご老公様に無礼があったとなれば、毛利家はお取り潰しとなる。」

慌てふためいて黄門様が泊まる木賃宿に駆けつける。

「ご老公様、ひらに御容赦を」と土間に頭を擦り付けるように平伏する。

「毛利殿、すまんな。実はな、大楠公・楠木正成公の墓を建て替えようと、石谷の勘兵衞殿にお願いしたのじゃ。参勤交代の邪魔をしたかの。」

「滅相もございません」

「それは良かった。毛利殿、大楠公の墓を立派にしたいのう」

「仰せの通りにございます」

「そうか、毛利殿の力添えがあるとは心強い。立派な墓にしたいのう」

「ははぁ」

「わしは年のせいかのうこのところ物忘れが酷うなってな。何と申したかな、神社仏閣を建立する際に善男善女が協力することを」

「寄進、でございますか」

「おお、それじゃ。毛利殿、立派な墓を建てたいのう」

「喜んで、寄進させていただきます」

「おお、さすが毛利殿。貴殿ならば百両、と言いたいところじゃが、参勤交代の途中で金もなかろう。五〇両にまけておこう」

「ははぁ、ありがとうございます」

 このようにして、通る大名を平伏させては金はを集める。かくして、楠木正成公の墓は立派に建立されました。

 水戸黄門、湊川の段、本日はこれまで」


 二学期になり、悠輔が一人で受けていた補習授業を希望者に開放するとの決定は、たちまち全校に広まった。青山先生は熱心な指導で評判が良いが、人気の理由には美貌もある。その特別授業を受けられると、下心のある男子生徒が集まってきた。

 が、不純な動機で参加した生徒は、早々に後悔することになる。補習授業の光里は普段の授業とは顔つきが違う。恐ろしい。

「前回の復習からです。って、前回は東山くん一人か。じゃあ、東山くん、「I have lived in Yokote for ten years」訳して」と光里。

「はい、『私は一〇年間、横手に住んでいます』。haveで動詞が現在進行形になっているので、一〇年前から今も横手に住み続けているという意味です。」

 生徒たちは一様に驚いた表情になる。なんだ東山め、欠点のくせにちゃんと出来るじゃないか。

「はい、良くできました」

光里はほめ言葉とは思えない静かな口調で言う。生徒たちは怪訝な顔になる。何が気に入らないのだろう。

「では、次です。」

光里は黒板に「I have lost my keys.」と書く。

「訳して」静かに悠輔を見る。

悠輔は困った顔になる。光里は溜息をつく。

「lostでつまずいた? 辞書を使っていいから。」

悠輔は辞書を引く。目的の単語のページを一度で開く。

「lost loseの過去形。」

次にlostを引く。これまた一発でloseのページを開く。

「lose 失う。じゃ、「私は私の鍵を失ったのを持っている」?」

光里は溜息をつく。

「やっぱり現在完了が分かってないか。haveプラス動詞の過去分詞で現在完了って、たったいま自分で言ったことです。この場合はloseは過去形じゃなくて過去分詞。

 現在完了が何か、言ってみなさい。ノートを見ていいから」

「ええと」と言いながら悠輔はノートをめくる。

「あった。」悠輔はノートを読む。

「『現在完了はhaveプラス 過去分詞、過去から現在までつながっている状態。一〇年前から横手に住み始めて、今も住んでいる』という場合に使います。」

 悠輔はくすりと笑った。

「何がおかしいの?」光里の低気圧が更に下降する。

「カンナが先生して、小学生英語を復唱させた次の補修事業で習ったことだな、と思ったら、そのギャップが可笑しくて。」

「可笑しくない!」

光里は教壇を降りて悠輔の前に立つ。教科書を丸めて悠輔の頭を打つ。

「そういうことは覚えているのに、肝心のことは抜ける。丸覚えするんじゃなくて、分からないことは聞きなさいと、いつも言ってるでしょう。」

「はあ、その時は理解したつもりなんですが。次の日には忘れるんで。というか、忘れたことを忘れます。」

「漫才やってんじゃない!」

悠輔を叩く光里の手に力が加わる。

「痛い、暴力反対。というか先生、教科書が傷みますよ」

「そう思うなら体で覚えなさい。現在完了形は教科書で叩かれた日に教わった、と」

 他の生徒は呆れ顔から恐怖に変わっていく。出来が悪い生徒相手だと、青山先生はとんでもないスパルタ教育だったんだ。

 央佳だけはジトッとした目で悠輔を見ている。

 ひとしきり悠輔の頭を叩き、光里は教壇に戻る。

「現在完了だから、lostで過去に鍵をなくした。現在完了はその状態が現在も続いている。はい、今、私は鍵を持っているか、それとも持っていないか?」光里は傷んだ教科書で悠輔を指す。

「ええと、なくした状態が今も続いているから、今も持っていない」

「はい、良くできました。もう、覚えたわね」

 悠輔は自信なさげに顔をそむける。周りの生徒はクスクスと笑う。

「笑うな! あなた達の中に、東山くんほど真面目に授業内容を記録している人がいますか? そういう努力をしていないから、補習授業を受ける羽目になるのです。人を笑う前に、自分の努力不足を反省しなさい。」

生徒たちはシュンとなる。

「これで君の成績が良かったら、ビシッと決まるんだけど」

光里はしみじみと悠輔を見る。

「ごめんなさい」と悠輔は頭を下げる。

「まあ、君はスペシャルだものねえ。あれだけ国語の成績がいいのだから、いっそ日本語だけ覚えられない? 現在完了形はhave――「持つ」プラス過去分詞」

「日本語は文法を覚えてるんじゃなくて、本を読んで言い回しに慣れていったんだけど……努力します。」

 光里は溜息をつく。

「次に行きます。過去完了形です。」光里は黒板の「I have lived in Yokote for ten years」の下に新たな例文を書く。

I had lived in Yokote for ten years.

「現在完了がhave、過去完了はhad。訳して」

指さされた悠輔は戸惑う。

「分からない単語は辞書を使って良し」

悠輔はチャッチャッと辞書を引く。

「ええと、「私は一〇年間、横手に住んでいた……のを持っていた」?」

光里は冷ややかに説明する。

「hadは「持っていた」じゃなくて過去完了を示す。現在完了がhave、過去完了がhad。その様子じゃ、現在完了と過去完了の違いも分かってないわね?」

「現在と過去の違い?」悠輔はけげんな声を出す。

「現在完了はhave + 過去分詞、過去から現在までつながっている状態。上の例文はそれです。つまり、一〇年間ずっと、今も横手に住んでいます。

 対して過去完了は過去形のhad + 過去分詞。下の例文を過去完了にすると、今はもう横手に住んでいないことを示します。」

生徒たちは感心した顔になる

「あなたたち、初めて聞いたような顔して。一年生で教わったはずよ。」

 光里の怒りに生徒たちは照れ笑いするやら視線を外すやら。

 その間、悠輔はノートをめくっている。

「あった。現在の状態の違いだって。現在完了を習った次の補修で説明受けてます。言ってくれれば、すぐに探し出して答えられたのに。」

「試験にノートを持ち込むわけにいかないでしょ」

再び笑いかけた生徒を光里は睨み付ける。

「よく分かりました。君たちは思った以上に勉強してない。一年生の内容からやり直しです。」

 光里は右手に持ったテキストを左手に打ち付ける。バチンと大きな音がして、生徒たちは凍り付く。とんでもないところに来てしまった。

 補習授業が終了すると、央佳はあきれた声で悠輔に尋ねた。

「毎回、こんなの?」

「いや、僕が一人で受講しているときは、――もっと酷い。青山先生はヘッドロックをかけたりする。」

悠輔の声が小さくなっていく。

「大して痛くないでしょ。甘噛みみたいなもんよ。」

悠輔は怪訝な顔になる。

「分かってないか。青山先生は本気で体罰しているんじゃない。」

悠輔が可愛くてたまらなくて、じゃれているのだ。光里にかまって欲しい央佳は、悠輔だけが特別扱いされるのが面白くない。

 次の日から、央佳は悠輔の不出来を言いふらした。悠輔の物覚えの悪さを笑う生徒もいたが、眉をひそめる生徒も少なくない。

「東山がバカなのには呆れる。けど、それを何とかしようと一所懸命に勉強してる姿を笑うのは感心しないな。」

「人が努力してるのを蔑むなんて、央佳ちゃんを見損なった」

 悠輔をからかう者達と、央佳に反発する者達とにクラスが二分されていく。

 央佳は、自分に賛同しない者がいるのが面白くない。クラスのためにろくでなしを排除しようとしているのに、なぜ反発されるのだ。

 やっつけているはずなのに、このところ、「夫婦」そろって、なんか余裕があるのもイラつく。

 生徒会長が憎い。自分が何か言うと激しく言い返してくる。

 春木豊も嫌いだ。野球部の次期エースで、見た目さわやかなスポーツマンなのに、何であんな根暗なガリ勉の肩を持つのだ。

 央佳のいじめは、都子と豊がいない時を狙った陰湿なものになっていく。昼休みに悠輔が一年生の英語の教科書を開いていると、「まだ、そんなところ勉強してる」と言う。

 悠輔は「だから何?」と、教科書を見たまま言う。

 央佳は、「また英語の授業が遅れる」と。わざとらしくため息をつく。

 「これは補修の勉強。通常の授業の進行には関係ない。あー、もう、邪魔しないで。明日までにこの構文を覚えなきゃならないんだから。」

「いくら勉強しても無駄よ。すぐに忘れる。バカは直らない。」

悠輔はキッとなる。が、言い返せなくなって下を向く。勝ち誇った央佳は更に罵声を浴びせる。

 それを笑う者がいる。が、さすがに見かねる者も現れる。

「央佳ちゃん、もう止めなよ」

「なんで?」

 央佳は素で理解できない。みんなのために嫌なヤツをやっつけてるのに。しかも、こんなに気分がいいのに、なぜ止めなければならない?

 そんなことを繰り返していた九月の中頃。

「おまえ、本当に嫌なヤツだな。」悠輔は央佳をにらみ付けた。

悠輔は愛情に囲まれすぎて育ったから、人の悪意に鈍感だ。気が弱いところがあるから、理不尽な目にあっても、自分にも負い目があると思うと反論しないことがままある。

 しかし、ここまで露骨に蔑まれると流石に腹を立てたのか。いや、それだけではない。

「人が苦しんでるのが、そんなに楽しいのか。」

思わぬ攻撃に央佳が怒声を挙げる。

「あんたが悪いんじゃない!」

 央佳は内心あわてていた。これまでの悠輔だったら、反撃してくるなど考えられない。何かは分からないが、この「劣等生」は二学期になってから、妙な自信を持っている。

 そこにあさ美が入ってくる。

「お兄ちゃん、この人、まだくだらない言いがかりをつけてきてるの?」

何か言いかける央佳を悠輔は見もしない。

「そうなんだ。反論すると怒鳴り返してくるし、黙ってると調子に乗るし。鬱陶しいったらありゃしない。」

「困ったわねえ。今晩、美幸おばちゃんに相談しよっか?」

「あんまり母さんに甘えると、また多喜姉さんに叱られるなあ。」

「甘えじゃなくて相談。あたしには甘えていいよ」

あさ美はは子犬がじゃれつくように悠輔にすり寄っていく。

「よせよ、学校の中で。今晩――のおかずは?」

悠輔は周囲の視線に気づいて、言葉の途中で言い換える。

「ハンバーグ。ちょっと期待していいよ。」

 予鈴が鳴る。

 あさ美は「じゃあね」と手を振って二年二組から出て行く。悠輔は一年生の教科書をしまうと次の授業の用意を始める。完全に無視された央佳は言葉をなくす。

 (なんなんだ、こいつらの余裕は)

 生徒会の用で出ていた都子が教室に戻ってきて、悠輔の隣の席に座る。雰囲気を察して悠輔に声をかける。

「何があったの?」

「ちょっと腹を立ててたときに、あさ美が慰めに来た。わがままなガキと口を利かずに助かった。」と悠輔。

「何ですって!」央佳が怒鳴る。

「授業が始まります。後で事情を聞かせて」と都子。

「また、生徒会長のえこひいきだ」と央佳。

悠輔はそっぽを向く。本当に口を利かないつもりか。

「悠輔くん、そういう態度は良くない。黙っていると、ますます勝手なことを言われるって、分かってるでしょ。」

悠輔が何か言いかけたとき、始業の鐘とともに教師が教室に入ってきた。

 言葉では悠輔をいじめ抜けないと感じた央佳の嫌がらせは、この先、更に陰湿になっていく。

 下駄箱に入れていたはずの上履きが土間に転がっていたり、机の上に置いていた教科書が廊下にあったりした。露骨な嫌がらせに顔をしかめる生徒もいたが、それで収まるものではなかった。都子と豊は疑わしい央佳を問い詰めるが、知らないと言い張られ、やめさせることは出来なかった。

 そこまでになると教師にも異変は伝わる。光里は生徒たちをさとし、いじめの中心だと思える央佳を生徒指導室に呼び出して話をするが、『証拠もないのに疑うのか』と反発された。

「出来の悪い生徒がいると学校全体の迷惑だ」と言い返される始末で、光里は指導する言葉を失った。

 央佳を返した光里は、生徒指導室で顔を両手で覆った。一人で悩んでいると泣きそうになる。

「お困りのようですね」

 不意に聞こえた声に、あわてて涙を隠す。

「勝手に入ってこないで。気配もなしに。あなた、本当に忍者なの?」

「ただの高校生ですよ」と多喜。

「役立たずの教師をいよいよ始末する気?」と光里。

「そのつもりなら、とうに学校を辞めていただいています。悠輔が嫌がるから、あなたに手を出したりしません。この件に関して、わたくしは何もしない約束もありますし。」

「じゃあ、なに。無様な教師を笑いにでも来たの?」

「誤解されているようですが、わたくしは先生を嫌いではありません。悠輔は先生を好きですしね。悠輔はマザコンですから、年上の強い女性に引かれるのですよ。」

「あなたのような? 違うでしょ。「奥さん」は可愛い年下じゃない。」

「わたくしはこの童顔ですから。」と多喜は寂しげに言う。

「悠輔があさ美を選んだのは、可憐さに押し切られたというか、マザコンだから大きな胸に惹かれたというか。あれも年頃の男ですからね。

 いってみれば、先生とわたくしは悠輔に振られた女同士ですから、近親感もあるのです。」

「あなたに隠し立てしても無駄ね。ええ、私は教師の立場なのに、東山くんに生徒以上の感情を持っています。で、振られた女同士で慰め合いでもするの?」

「そうではありません。わたくしが言いたいのは、本音で話をしたい、ということです。」

光里は無言で先を促す。いいでしょう、御嬢様然とした上品な物言いを取り払って、実直な意見を聞かせてもらおう。

「先生、もうお気づきでしょう。通常の生徒指導ではこの事態を収められません。しかも事態はエスカレートしそうです。そうなったら、もはや強力な第三者の介入しか解決策はないのでは?」

「学校に部外者は入れられない。」

「そんなことを言ってる事態ではないでしょう。悠輔のように家族の愛と可愛い奥さんの献身に守られている生徒だから、この程度ですんでいるのです。柔道を始めた効果も、思った以上に大きいようです。

 普通の高校生だったら、家族や教師がいじめを知ることもなく、一人で苦しんで精神を病んでしまいます。そうなる前に、非常手段を準備しておくべきです。」

光里は無言で多喜を見つめる。

「お忘れではないでしょう。悠輔はあれで、ナイーブで精神がもろいのです。家族の愛情でフォローできないほどいじめがエスカレートする可能性もゼロではありません。

 美幸母さまには「大丈夫」と言われましたが、過保護なわたくしは心配です。」

 過保護との自覚はあるのか。

「いじめがどれほど辛いものか、先生の様な強い方にはおわかりにならないのでしょうか。些細ないたずらに見えても、受けた方のダメージは大きいのです。最悪の事態も有り得ます。」

「脅す気?」

「本音、と申しております。わたくしは心配で、悪い方に考えてしまうのでしょう。しかし先生、最悪の事態を否定できますか? あの悠輔ですよ。」

光里はいやが上にも、音楽を勧めたら発作を起こした去年の騒動を思い起こす。

「考えさせてくれる?」

「はい、よくお考えください。ただし、時間はありません。」

 その後、光里の生徒指導が減っていく。それに反比例して、空き時間や放課後に、校外に出かけていることが多くなっていく。

 そんな日々が過ぎていき、九月下旬になった。

 トイレから教室に戻ってきた悠輔が、筆箱を開けると中身がない。机の中にも鞄の中にも筆記用具がない。あちこち探して、まさかと思ってゴミ箱を見ると、折られたシャープペンシルがある。悠輔が愛用していたものだ。ゴミ箱の中を探ると、ちぎれた消しゴムや折れた定規も出てきた。

「使いやすくて手に馴染んでいたんだけどなあ」と悠輔はつぶやく。

異変を感じた光里が悠輔の横に立つ。壊れた文房具を見て、顔が真っ赤に染まる。

「さすがにこれは見過ごせません。誰がやったの? 名乗り出るまで全員、帰しませんからね。」

 怒り心頭の光里は教壇に仁王立ちになり、ゆっくりと生徒たちを見ていく。下を向いたままの者、視線をそらす者が大半だ。中にはニヤついている生徒がいる。光里はゆっくりと教壇を降りてその内の一人の前に立つ。

「何がおかしいの?」

その生徒はそっぽを向いて返事をしない。

「言いなさい」

凍り付くような声で詰問する。

「別に」と吐き捨てる。

「君も今、笑ったわね。何がおかしいのか言いなさい。」

光里は一人一人を問い詰める。まともに答える者はいない。

「そう、分かった。こんな情けない子たちを育てたとは、担任として恥ずかしい限りです。

 そっちがその気なら、こちらにも考えがあります。覚悟しなさい。」

光里はスマホを取り出すと電話をかける。つながると音声をスピーカーにする。

「――警察署、少年課です。」

教室がざわつく。光里はかまわず続ける。

「横手高校二年二組担任の青山と申します。校内で窃盗と器物破損事件が発生しました。現在、容疑者の生徒を教室に拘束しています。お手数をかけます。捜査員の派遣を要請します。」

「了解しました。すぐに参ります。現場には手を触れず、そのままお待ちください。」

「先生、そこまでしなくても……冗談、ですよね」

被害者の悠輔の方があっけに取られている。

「冗談ですむなら警察いらない、でしょ?」

「学校に警察入れるなんて、無茶苦茶だ。抗議してやる。」強気なことを言う者が出ると、次々に賛同の声が上がる。

「黙りなさい。この件をうやむやにしたら、犯人は図に乗ってもっと酷いことをします。いじめられた被害者が泣き寝入りなんて、絶対にさせませんからね。

 抗議する? やってご覧なさい。校長や教育委員会が怖くて、ましてやそんなところに文句を言う卑怯者を気にして教員ができますか。君らとそう年が変わらない女だとなめてかかると、後悔することになりますよ。」

 光里の啖呵に生徒たちはおののく。一本の電話で警察が動くなどあり得ないのだが、事態の急変にあわてて、その不自然さに気づく冷静さを失っていた。

 ほどなく、教室に警察官が入ってくる。光里が手短に事情を説明すると、鑑識課員らしき警官が手早く現場や折られた文房具の写真を撮り、指紋の採取にかかる。

「出ました。定規を折るときに付いた親指の指紋のようです。先生、どうします? この生徒数なら、全員の指紋照合はすぐにできますが。」

教壇の光里は全員を見据える。

「最後の機会です。いま、名乗り出ればこれで終わりにできる。証拠が出てからだと犯罪者になります。前科者になりたくなければ、正直に白状しなさい。」

しばしの沈黙の後、真っ青になった男子が震える手を上げた。

「僕が、やりました」

玖倍くべくん。そう、残念です。」光里は寂しげに言う。

警察に引き渡されるのだと思った玖倍は必死になる。

「僕はそそのかされただけだ。指示役は中さんだ。東山はいい気になってるから懲らしめてやろうって。折ったシャーペンをゴミ箱に捨てたのを見て、喜んでいたヤツもいた。里屋とか永福とかだ」

 名を上げられた生徒たちは青ざめた。

「私、そんなこと言ってない」「見てただけだ」「お前がやったんだろうが」と抗議が上がる。

「一緒になって笑ってたくせに、きたねえぞ」と玖倍は叫ぶ。

「見苦しいなあ」と悠輔は呟く。

「やめなさい」と都子はたしなめる。調子に乗る場面じゃない。


 三日後、東山家。リビングの客席に央佳と母親が座っている。悠輔が一人で対峙している。

「内容証明郵便で呼び出すなんて、大袈裟ね。出頭しなければ法的手段を取るって。それであなた一人って、どういうこと? 保護者はどこ?」

不機嫌そのものの口調で央佳の母が言う。央佳はそっぽを向いたままだ。

悠輔は静かに答える。

「父は海外出張です。母は妊娠六ヶ月の検診で産院にいます。そういう時は保護者というか姉代わりが立ち会うのですが、事を大きくしちゃう人なので遠慮してもらいました。ご存じですかね、元生徒会長の乙原多喜って、うちの高校の三年生。」

「高校三年生? 未成年じゃないの」

母のバカにした口調に央佳が袖を引っぱる。

「乙原家の御嬢様よ」

母親は「え?」と言葉をなくす。

「そしたら、現生徒会長が同席するって言い出しましてねえ。その父親が、こういう問題は自分に任せろって言ってるらしいんです。神楽女健造かぐらめ けんぞうさん、って言うんですけどね。」

「神楽女観光の社長……」

「ご存じですか。僕、あの人は苦手なんです、ヤクザみたいに人を脅すから怖いんです。立ち会いは謹んでお断りしました。

「みたい、じゃないでしょ」

 観光地には遊楽施設が多く、反社会勢力が入り込みやすい。実際、かつて市内にはヤクザとつながりのある業者も少なからずいた。暴力団規制が厳しくなったこともあり、現在では様子が違っているのだが。

 神楽女観光はもともとヤクザと無関係なのだが、社長がヤクザだとの噂が絶えない。顔つきからして恐ろしい上に、交渉ごとで相手を威嚇する悪癖のせいだ。

 この母子もその噂を信じているようだ。悠輔はあえて否定しない。

 そういうわけで、僕が一人でこの一件の後始末をお話しすることになりました。中さんにとっても、その方がいいんじゃないですかね。」

母親は青ざめる。

「君、何者なの?」

「ただの高校生です。おたくのお嬢さんにいじめられた、情けない男の子ですよ。

 それで、ですね。気の弱い僕としては、これ以上事を荒立てたくないのです。青山先生がやらかしてくれたおかげで、クラスの居心地が良くなくて困っていますしね。

 お嬢さんが謝って、僕をもういじめないと約束してくれたら、それで終わりにしたいのです。」

「法的手段を取ると脅しておいて」

「ああ、それ、母の会社の顧問弁護士の入れ知恵です。正解でしたね。お二人は謝罪の気持ちなんて無さそうです。こうでもしないと話し合いに来てくれなかったでしょ?

 それで、これも弁護士の入れ知恵なんですけど、中さんに誠意が無い場合は争いもやむなしって。なにせ僕は愛用の文房具を壊された実害も被ってますので。」

「弁償すればいいんでしょ。たかがシャープペンシルで。いくらなの?」

悠輔は大袈裟に溜息をついてみせる。

「金銭的な解決って、僕は嫌いなんですが、そちらがそういう態度なら、やむを得ません。」

悠輔は引き出しから請求書用紙を取り出し、金額を記載し、母親に渡した。

「百万円って、ふざけないで!」

「高校入学のお祝いに母親が買ってくれた、僕にとっては大切な品物なんです。ああ、そういうのは裁判で認められないのかな。でも、いじめの精神的苦痛の賠償が高額になる判例、結構ありますよね。」

「裁判にする気? だいたい、シャーペンを折ったのはうちの娘じゃない。」

「それも弁護士に教えてもらいました。最近の判例では指示役も実行犯と同じ程度の刑罰を受けるんですって。」

 母親は引きつった。

 昨日、玖倍親子との会合で似たような話になった。玖倍の母は「息子は指示されただけで、悪いのは命じた中だ」と言い、悠輔の説明で、やはり言葉を失った。

 悠輔は続ける。

「まあ、刑法と民法は違うんでしょうけど。なんでしたら、この場に弁護士を呼んで、詳しく教えてもらいましょうか? こんなこともあろうかと、待機してもらってますんで。」

「最初から裁判沙汰にすると脅す気だったのね」

「違います。謝って欲しいのだと、言ってるじゃないですか」

央佳が再び母親の袖を引っぱる。もうやめた方がいい。この男は用意周到に準備して、自分たちを罠にはめようとしている。母はまんまとその策略に乗ってしまった。

 ほどなく、母子はうつむいて東山家を去る。悠輔の完全勝利だった。

「悠輔、あなたにしては上出来です」と多喜が居間から現れる。

「多喜姉さん、のぞいてたの?」と悠輔。神出鬼没も極まれりだ。

「あなたが困り果てたら出てくるつもりでした。美幸母さまは、『大丈夫。隠れて見てるのはいいけど、出番はないわよ』と言われてました。けど、わたくしは心配で。母親の言う通りでしたけどね。」

「お兄ちゃん、格好良かった。嫌な女をやっつけて、スカッとした。」

「それはいいけれど、調子に乗らないようにね。こんなことは、ないに越したことはないんだから。悠輔くん、最近ちょっと自信過剰よ。」

 あさ美と都子も出てくる。

「三人とも、どこに隠れたたんだ?」

あさ美は「でへへ」と笑う。

「乙原先輩に忍術を教わったの」と都子。

「へいへい、仲の良いことで」と悠輔は呆れる。

「悠輔、立派になりましたね。「姉」として嬉しい限りです。」

「子離れならぬ、弟離れ、する?」

「そうですね。弟ではなく、これからは頼もしい殿方としてお慕い申し上げます」

あさ美が多喜と悠輔の間に割って入る。

「お兄ちゃんは私の旦那様!」とあさ美。

「それ、日本語が変です」と面白そうに多喜が言う。

 都子はやれやれ、と首を振る。どこまでが本気で、どこからがあさ美をからかっているのやら。

 乙原先輩がこのところ情緒不安定なのは確かだ。しかし、あさ美が言うほど常軌を逸しているとは思えない。悠輔を弟と思う心と、恋愛対象と思う心とが渾然となっている。更にはあさ美を可愛くて仕方ない妹と思う心と、愛しい殿方を奪った恋敵と思う心とがせめぎ合っている。それらが混沌として、その時々の状況で違った行動を取らせるのだ。

 人の心を見抜き、時には操る天才少女も、自分の心は正確に解析できない。

 ともあれ、ラブコメ男の騒動はまだ続きそうだ。

「悠輔くん、強くなったわね」と都子。まくし立てるあさ美の声にかき消される。

 理不尽への対抗には、強硬な反撃を加えるより有効な手段がある。ムキになって反発するのではなく、人の話を受け流し、逆手に取る。単純だが有効な処世術を悠輔は身につけた。

                                    了

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