アリスとオルフェ王子
「スアリザ王国へ!?」
クロアはアリスの右肩を掴んだ。
「しかも第三王子の側室だって!?完全に下に見られてるじゃないか!!」
「…そうね」
「受けることはないよ!!そんな話!!」
アリスは長椅子に座ったまま青い顔で項垂れた。
「…駄目なの。クロア、ニヴタンディが戦争を終わらせようとしていることは知っているでしょう?」
「それは…」
「今国は飢饉と物資不足が蔓延しています。スアリザ王国は南では一番力のある国ですもの。この繋がりは無視できない。私が行く意味は充分あるわ」
アリスは泣き笑いのような顔になった。
「私はこれでもニヴタンディの王女なのです。これは…義務です」
「アリス…!!」
「今までありがとう。クロア…」
気丈に振る舞うアリスに、クロアは言葉を失った。
クロアはこの後すぐに従者の任を解かれ、レミレス家に強制的に連れ戻された。
アリス姫は王家の者だ。
王の決定に抗うことの無力さは身を以て知っている。
全ての思いを胸に秘め、涙を見せることもなくスアリザ王国へと旅立って行った。
長い道のりの先に辿り着いた国は、町のいたるところに瑞々しく花の咲く美しい国だった。
それはアリス姫を僅かばかり慰めた。
王宮は煌びやかで、自国には漂っていた戦さの気配などまるでない。
あの大国ニヴタンディからきた姫君ということもあり、アリスはスアリザではどこへ行っても好奇の目で見られ続けた。
最初に王に謁見し、持参した金や翡翠などの土産を惜しみなく差し出す。
次に長兄、次兄とその側室たちに挨拶をこなし、やっと三男のオルフェ王子と対面をした。
第一印象は、華やかな人。
襲われた記憶にあるような大柄でごつごつした男ならばその場で卒倒したかもしれないが、幸いにもオルフェ王子はどちらかといえばクロアに近い穏やかな雰囲気であった。
アリスは何とか笑おうとしたが、長年凍てついた顔は上手く動きはしない。
歓迎の晩餐が終わる頃には、オルフェ王子は肩書きだけの碌でもない姫をつかまされたのではと既に噂されていた。
あてがわれたのは後宮の一番奥の部屋。
ニヴタンディから共に来た者たちは全て返され、代わりに付けられたのは経験豊富そうな侍女が三人。
三人とも上部は愛想よく話しかけてきたが、アリスがあまりにも反応を返さないので次第に諦めたのか口数が減った。
見知らぬ場所。
慣れぬ匂い。
知らぬ人たち。
そんな中で、今日自分はさっき初めて会った王子の相手を務めるのだ。
アリスの左肩がずきりと疼いた。
同時に思い出すのは押さえつける大きな手、手、手。
「…や」
「アリス姫様?」
アリスは侍女を振り切ると奥の寝台にうつ伏せた。
「いや…」
完全な孤独と恐怖に、アリスはがたがたと震えていた。
侍女達は互いに顔を見合わせた。
他国から側室に入る姫なんて、国の事情だと相場が決まっている。
「アリス姫様…」
「お願い、一人にして」
侍女たちは躊躇いながらも部屋を出て行った。
一人になったアリスはきつく寝具を握りしめた。
「クロア…クロア…クロア…!!」
呼んでもその人が来るはずもない。
ずっと一緒にいてくれると言った、優しい人。
「クロア…たすけて!!」
アリスは震えながらただ時間が無情に過ぎていくのに耐えるしかなかった。
数時間経ち、その時は来た。
静かに扉がノックされたかと思うとオルフェ王子が部屋を訪れたのだ。
思っていたよりかなり早く来たが、アリス姫はきっちりと夜の支度を整えて出迎えた。
「オルフェ様…」
オルフェ王子はあまりにも青い顔をしているアリスに苦笑した。
「そう緊張しなくてもいい。侍女たちから貴女の様子がおかしいと聞いて様子を見に伺いに来ただけだ」
「…」
王子は冷静にアリス姫を観察した。
笑顔もなく、むしろ陰りがあるが純粋に美しい姫だと思った。
「アリス姫、侍女を一人入れても構わないか。お茶の用意でもさせよう」
「…はい」
二人きりより誰かがいる方がましだ。
もしかしてそれも王子の配慮だったのかもしれないが、アリスは素直に頷いた。
入って来たのは黒い髪を結い上げた子どもといっても間違いではない歳の侍女だった。
どう見ても十代半ばを過ぎたくらいだ。
「こんばんは、アリス姫様。今すぐお茶をいれますね」
少女は年齢にそぐわない手際の良さで紅茶を入れ始めた。
テーブルにお茶とお菓子が並ぶとにっこりと笑顔を見せて数歩下がった。
「どうぞ。体が温まりますよ」
アリス姫は思わぬお茶会に王子を見上げたが、アリス姫の前に座った王子もカップを手に取り口をつけた。
「リシンダの紅茶はやはり一番いい香りがするな」
「ありがとうございます。さぁ、姫様も」
アリス姫は促されるままに紅茶を一口飲んだ。
花の香りが鼻孔をくすぐり温かさが体に染みる。
「…美味しい」
「ありがとうございます」
リシンダは嬉しそうに笑った。
それから話の邪魔にならないように隣の部屋へと行ってしまった。
王子はお茶をしながらスアリザ王国の話を色々話し始めた。
その物腰は柔らかく、微笑みは優しい。
誰もが心許しそうな温かな心遣いだが、それでもアリスは頑なに警戒をし続けていた。
王子はテーブルを片付けさせるとずっと固い顔をしたままのアリス姫に苦笑した。
「これは困ったな。俺はそこまで貴女を追い詰めているのか」
「…いえ。すみません。オルフェ様のせいでは決して…」
この後を考えるとどうしても胸が苦しい。
だがスアリザに来た以上どう足掻いても避けては通れぬことだ。
それに服を落とし肩があらわになれば火傷の跡は隠しきれるものではない。
それならばあの忌まわしき事件のことは今自分から言うべきであろう。
アリスは意を決すると顔を上げた。
「オルフェ様」
「…」
「わたくしは王子に自分がどのような女であるかお話ししなければなりません」
アリスは震える手でナイトドレスの紐に手をかけた。
華奢な鎖骨と左肩が露わになる。
そこにはっきりと残る火傷の跡に、王子は目を見張った。
「…醜いものをお見せして申し訳ありません。これは十一の時に受けた跡です」
話しながらも声が震える。
あの時のことはまだ思い出すだけで吐き気に襲われた。
「わたくしは、出先で…さらわれたらしく…」
言葉にしようとすると身体中が拒否をする。
震え出す体を何とかなだめようとするが逆に呼吸が出来なくなった。
王子はすぐにアリスの異変を察知した。
「アリス姫。無理に話さなくてもいい」
「…ですが」
王子は居住まいを正すと真摯に言った。
「勝手ながら、貴女の過去のことはほぼ把握している」
「え…」
「ニヴタンディほどの大国がわざわざ俺の側室にと貴女を差し出したことに疑問があったからな。俺は個人的に貴女のことを調べさせてもらった」
「…」
「だから、無理に話さなくても構わない。貴女の体が穢れていないことも俺は知っているし、貴女の意思を無視して押し倒すような真似もしないと約束する」
アリスは呆然と目の前の人を見つめた。
スアリザの王子が自分を受け入れたのは、てっきりその遠さゆえに事情を知らないからだと思い込んでいた。
「…知ってらっしゃるのに、私を迎え入れたのですか?」
「貴女が悪い事をしたわけではないのに、なぜ断る必要がある?」
「オルフェ様…」
アリスは身体中から力が抜けるとぼろぼろと涙を落とした。
ずっと気が張っていただけに、それは次から次へと流れては止まる気配さえ見せない。
オルフェ王子はアリスに指一本触れずにそばで落ち着くのを待っていた。
今夜はこのまま部屋を出ようとしたが、その時思わぬことが起こった。
「アリス姫!!」
あろうことか扉が開き、一人の青年が殴り込んで来たのだ。
青年はアリスの涙を見て激昂した。
「アリスに触れるな!!」
短剣を引き抜くと有無を言わせずオルフェ王子に突撃する。
隣の部屋から異常を察知した侍女が飛び出てきた。
「オルフェ様!?」
苦痛に呻く声が部屋に響く。
アリスも侍女も青くなったが、ぐらりと大きく体が傾いだのは突撃してきた青年の方だった。
「オルフェ様!!」
「…あぁ、問題ない」
オルフェ王子は反射的に引き抜いた剣を閃かせていた。
アリスは倒れた青年を見て悲鳴をあげた。
「そんな…まさか!!クロア!?」
王子と侍女は揃ってアリスを振り返った。
アリスは取り乱しながらクロアにすがりついた。
「クロア!!クロアどうしてここに!?クロア!!クロア!!」
「静かに。騒ぐと人が来る。心配せずとも峰打ちだ」
「え…」
「綺麗に入ったからな。気絶してるだけだ」
「ほ、ほんとうですか…?」
オルフェ王子は剣を鞘に戻した。
「アリス姫の知り合いなのか」
「は、はい…」
「その取り乱しようからすると大事な人のようだな」
アリスははっとした。
それからすぐにオルフェ王子に頭を下げた。
「も、申し訳ございません!!どうか、どうかクロアをお許しください!!」
「…」
「オルフェ様…わたくしなら、どんなことをしてでも償いますから!!どうか…」
答えたのは王子ではなく、その隣で厳しい目をしていた侍女だった。
「…お前、ふざけているのか?」
「え…」
「王族に刃物を向けただけで死罪は免れない。こいつがしたことはどんなに軽くても終身刑に値する」
アリスはさっきまでにこにこしていた侍女の代わりぶりにぽかんとした。
王子は侍女を諌めた。
「これ以上姫を追い詰めるな、レイ」
「王子、まさか本気で見逃すつもりじゃないでしょうね」
「…」
王子は深く考え込むとアリスとクロアを順に見た。
「…ここで罰するだけなら俺もただの王族と同じだ。それはお前も望まぬ事だろう?」」
侍女は苦々しい顔になった。
王子は青年を抱きかかえた。
「この者の身柄はとりあえず俺が引き受ける」
「オルフェ様…!!」
「心配せずともアリス姫の知らぬところで始末したりはしない」
アリス姫は手を伸ばしたが侍女がそれを遮った。
目の前でぱたんと音を立てて扉が閉まる。
「…クロア」
アリスはふらふらとベッドまで歩いたがそこまでが限界だった。
ぱたりと横になるとそのまま意識を手放ししばらく眠り続けた。




