アリスとクロア
アリスはニヴタンディに第五王女として生まれた。
王には既に数多くの子どもがいたのでその存在は重要視されるほどではなかった。
ただアリスは母に一番似ていて、五歳になる頃には朝焼けに輝く淡い薔薇のように美しい少女に育った。
「アリス姫、こっちへ来てください。ガーベラが綺麗に咲きましたよ」
「あぁ待って。クロアも来て、こっちよ」
「クロアなんて放っておいていいですよ」
「ダメよ。みんなで行かなくちゃ」
レミレス家の見事な園庭は一目見た時からアリスのお気に入りだった。
しょっちゅう出入りするうちに長男のアールと次男のベイガが小さく可愛らしいアリスを誘うようになった。
ただ、アリスと一番年の近い三男のクロアは上二人に邪険に扱われているようだ。
アリスは綻び始めた沢山の花にうっとりと魅入った。
これは何ていう花なのだろうか。
どうして花はこんなに綺麗な色を咲かせられるのだろうか。
そう考えるだけで何時間でも楽しめた。
上二人は初めこそアリスに付き合うがいつまでもじっとなんてしていられない。
何度声をかけてもアリスが庭園から出てこないとなると、いつも途中でどこかへ行ってしまった。
「これはネモフィラですね」
「ネモフィラ…?可愛い名前ね。それにこんなに沢山咲いていたらまるで青空が広がっているみたい」
必然的に残されたクロアと二人になることが多かったが、クロアは花のことを沢山知っていたのでアリスはクロアが好きだった。
後で知ったことだが、クロアはアリスの為に沢山調べていたらしい。
二人のやりとりは微笑ましいほど慎ましやかなものだった。
それでも数年続いたその時間は着実に信頼関係を築いていた。
だがそんなアリスの平和な時は、日に日に不穏な空気に包まれるようになった。
ニヴタンディが他所で戦さをしているのは知っていたが、その影響が町にまでで始めたのである。
殺伐とした空気が城の中でも流れた。
アリスの姉二人も、噂では強国と手を結ぶ為に急遽花嫁として送り出されたらしい。
「クロア…。きっと私もそのうちに国のためにお嫁に行くんだわ」
アリスは自分が育てたネモフィラを見つめながら小さく震えた。
城の者にはこんな弱音は言えないが、この園庭でクロアと二人だけの時は何でも言えた。
クロアは気遣わしげにアリスの瞳を覗き込んだ。
「アリス姫はまだ十歳だから大丈夫ですよ」
「でもあと数年もしたら私だって…」
「アリス…」
「…いや。いやよ。強いだけの国に一人でお嫁に行くなんて絶対にいや」
クロアはいつもみたいにアリスの頭を撫でた。
「そうだね。それまでに戦争なんて終わればいいのに」
「クロアも、兵隊さんになっちゃうの?」
「うん。たぶんね」
アリスはしくしくと泣き始めた。
「行かないでクロア。死なないで」
「まだ先の話だよ」
二人は肩を寄せ合いただ目の前に広がるネモフィラの空を見つめていた。
事件が起きたのはその翌年だった。
出先でアリスが行方不明になり、翌日に何者かに襲われ怪我を負った姿で見つかったのだ。
それを耳にしたクロアはすぐに城まで走った。
とはいえ子ども一人が面会を申し出ても会わせてもらえない。
なんとかツテで入れてもらえないかと奔走したが、そうそう上手くいくはずもない。
諦めきれないクロアは何日も城に通い詰めた。
するとそこで不穏な噂を耳にした。
アリスの三つ上の姉、ルミイ姫のことだ。
製鉄法に優れた国に王妃として嫁ぐことが決まっていたらしいが、ニヴタンディに視察に来た当の王子がアリスを見た途端花嫁はアリス姫にと言い出したというのだ。
理由は勿論、アリスの美しさだった。
ルミイ姫は表面こそ平静を保っていたが、その恨みは相当なものらしかった。
アリスは自身も知らぬ間に王妃として迎え入れられる準備を進められていたわけだが、その最中にこの事件が起きた。
暴漢に襲われたのだ。
命に別状はないということだがその体には消えぬ傷とあらぬ疑惑が残った。
アリスを王妃にと言い放った王子はそれを聞くとあっさりとルミイ姫に花嫁候補を戻した。
こうなるとアリスの事件にはルミイ姫が濃厚に絡んでいるように思えたが、それを裏付ける証拠は一切上がってこない。
王族が襲われた事実はショッキングな事件だったが、犯人はすぐに捕まりその場で即処刑された。
本来なら生け捕りにして尋問にかけるべきだがこれ以上内輪で揉めることを嫌ったのだろう。
クロアはそれを聞くともうじっとなんてしていられなかった。
勝手に城の奥まで入り込むとアリスの部屋を探した。
迷いに迷ったが、アリス自身から聞いた話を元になんとか目当ての部屋を見つけた。
クロアはすぐに飛び込んだりはせず、使用人が全て出て行くまでじっと物陰で身を潜め根気よく待っていた。
チャンスが訪れたのは昼食の後だった。
出入りする人数をきっちり確認したクロアは今ならアリスが一人だと確信を持ち動いた。
そっと扉に近づきノックをする。
返事はなかったが、クロアはそっと扉を開いた。
「…アリス?」
アリスは大きなベッドの中にいた。
体を起こし座り込んだまま固まっていたが、クロアだと気付くと右手を伸ばした。
「…クロア!!」
「しーっ。入ってもいい?こっそり来たんだ」
「勿論よ!!勿論…」
アリスはクロアに手を伸ばしながら大量の涙を落とした。
「クロア…クロア…」
「アリス。怪我は大丈夫なのか!?」
クロアがベッドの隣に跪くとアリスは泣きながら胸に手を当て服を緩めた。
左肩には痛々しげな包帯が巻かれている。
「ここを、焼かれたわ」
「焼かれた!?」
「ええ。…恐い男の人が、何人もいて私を押さえつけたの…!!」
「何だって!?一体どうして!?」
「わ、分からないの。何が起こったのかさっぱり分からないの!!気が付けば知らない暗い場所にいて、真っ赤に焼けたコテで…!!」
「アリス、アリス落ち着いて…興奮しちゃだめだ」
クロアはアリスをそっと抱きしめた。
「アリス…恐かったね。恐かった…。守ってあげられなくてごめん…」
「クロア…」
アリスはまた涙を落とした。
「クロア、私…私もう、外を歩けないわ」
「…」
「だって、だってこの体はもう、もう穢れたのかもしれないわ…」
「アリス」
クロアはアリスの頬に口付けた。
「大丈夫。アリスは何も変わってない」
「…」
「僕がそばにいるから。誰が何て言おうと、恐くないよ」
「クロア…」
アリスは震えながらクロアにしがみつき、何度も何度も頷いた。
アリスを取り巻く環境はそれから一変してしまった。
医師の診断では左肩から胸にかけての火傷以外は問題なしとのことであったが、一度かぶった汚名は返上されることはなかった。
アリスをちやほやと取り巻いていた者たちはこぞって離れ、心無い噂は常に纏わりつく。
唯一の光はクロアがアリス専属の従者になることを許されたことだった。
「これで、よかったのかもしれないわ」
十四歳になったアリスはクロアと遠乗りに出かけた先でこぼした。
左肩にはまだ痛々しい跡が残るが、アリスは誰もが認める美しい姫に成長していた。
ただ、その表情はクロアと二人の時以外は冷たく凍てついたままだ。
「お父様は何とか縁談をと意気込んでいるみたいだけれど、私はこのまま断られ続けることを望んでいるもの」
「アリス姫…」
「それに私には、クロアがいるわ」
クロアはアリスの頬にキスをした。
「アリス。大人になったら僕と一緒に国を出てくれないか」
アリスは少し目を見張ったが嬉しそうに顔をほころばせた。
「勿論よ」
「ありがとう」
今は辛くとも、耐え続ければこの先自由になれる。
二人はそう信じて疑うこともなかった。
翌年、アリス姫がスアリザ王国のオルフェ王子の側室に決まったと聞くまでは。




