悪党の烙印
身の毛もよだつような寒気が、夏の夜の湿った空気を切り裂いて全身を駆け巡った。
松田、校長室での理不尽な糾弾、母上からの容赦ない平手打ち、そして三角家の母親の涙と憤怒。
そのすべてに絶望し、家に着いたあと、すぐに、自室のベッドへと潜り込んだ。
母親が下の部屋で溜息を吐いている。
静まり返った家の中で、現実逃避をするために、海斗は、スマートフォンを何気なく手にとっていた。
ふと気まぐれに開いた地元のSNSのローカルコミュニティの掲示板。
そこに並んでいた文字列を見た瞬間、心臓が凍りついたような感覚に襲われた。
「【拡散希望】北桶高校で虐め事件が発覚、虐めた奴の名は幸海斗」
目を疑った。そこには、自分のフルネーム、正確な自宅の住所、そして自分の顔写真までもが晒されていた。
書き込まれていたのは、おぞましいまでのデマの数々であった。
「学校で障害を持つ生徒を執拗にいじめ、追い詰めた屑」
「退学しろ!」
「反省の色一切なし。」
これ以上、自分についての嘘を、SNSで見るのが怖くなり、スマホの電源を切った。
校長室での一件を知った誰かが、面白半分に書き込んだのか、あるいは松田や松田の周囲の人間が仕掛けたのか、ネット上の群衆は真実の検証すらせず、その嘘情報を猛烈な勢いで拡散し続けていた。
「嘘だろ……なんでだよ……何もしていなのに……!」
喉の奥から乾いた声が漏れた。
母上に真実を自分の口から言う事が出来ず、見放され、逃げ場を失ったその心に、不特定多数の人間からの容赦ない罵詈雑言が、さらに深く突き刺さっていく。
(もう、どうにもならない……。どこに逃げても、僕は「悪党」のままなんだ……)
1人の尊厳を壊すのは、群衆にとっては、単なる娯楽にすぎない。
(スマホなんて触るべきじゃなかった。もう何も考えたくない......)
スマホの電源を切った時から、しばらく経ったときだった。
母上が、下の階から、階段を駆け登り、海斗の自室のドアの前に立った。
「あんたさ、いつまでふて腐れれているの?」
「いつまで部屋に籠もっているのよ。謹慎だってよ。あんた。」
その声が、言葉が、今の海斗にはあまりにも重く、痛かった。これ以上、家族に迷惑をかけ、「いじめっ子」のレッテルを背負わせ続けるわけにはいかない。
海斗は、ベッドから重い体を起こし、活力の無い足でなんとか、自室のドア前に立ち、少し間を置いて、
「……すみませんでした、母上。」
と、海斗は自分の部屋のドアに向かって、掠れた声で返事をした。
足元がふらつく。もう限界だった。
「ちょっと、疲れたから……眠るね」
「……勝手にして頂戴!」
再び、ベッドに足を運び、ベッドに倒れ込むように横たわる。
スマホの画面は、電源が切ってあって真っ黒だ。
なのに、今もなお僕を、嘲笑う通知音が、鳴り響いているように感じた。
(僕は、ただ普通に生きていただけなのに……どうして、こうなるんだよ……)
涙は出なかった。ただ、絶望という名の鉛が全身を満たしていく。
ふと何かを思い出したように、ベッドの引き出しに手をかける。引き出すと、中には、鋭利なカッターナイフと複数の色鮮やかな折り紙が入っていた。
もう何もかも考えるのが、嫌になり、素早くカッターナイフを取り出し、躊躇いなしに、自分の喉にカッターナイフを当てて、思いっきり刺した。
痛むはずの感覚が、なぜか不思議と心地よく感じられた。
この命を終わらすことができるのであれば、すべてから解放される。松田、濡れ衣、母上の失望、三角母の憤怒、ネットの中傷。
本気で、呼吸を止めさせるため、躊躇いなく刃を走らせ続けた。
辺りが赤く染め上げられる。視界が急速に狭まっていく。遠くで、階段を駆け上がる母上の叫び声が聞こえたような気がしたが、そんなのはどうでもよかった。
「あんた?あんた?どうしたの?ねぇ!ねぇってば。」
自分は、痛みも感じなく、悲鳴を出したつもりはなかったが、母上には、自分の悲鳴が、聞こえていたのだろう。
薄れゆく意識の中で、彼はただ、静かな闇へと落ちていった。




