1つの嘘で
僕は至って普通な男子高校生、幸海斗、正義感が強いが気が弱い、そんな厄介な矛盾を抱えて生きている。
8月上旬。僕が通っている学校は、自称進学校だ。夏休みという名の幻影は、微塵もなく、補習という名の強制授業が連日のように生徒を縛り付けている。
「母上、行ってきます!」
意気揚々として、いつも通りに家を出ていった。
「いってらっしゃーい!暑いから気をつけてね!」
家を出るとお気に入りのオレンジ色のマウンテンバイクに跨り、学校へと向かった。
「外から、カイト、外からカイトが差して一着!勝ったのはまさかの伏兵、カイトーーー!」
競馬の実況のモノマネを脳内で反芻しながら、ペダルを力強く踏み込む。高校生離れしたその趣味が、憂鬱な学校生活を耐え抜く数少ない燃料だった。
家を出て五分ほどで、白亜の校舎が見えてくる。
「到着!学校!授業頑張りますか!」
そういう言って、自分のクラス、3−3へと向かった。
学校に友達という友達がいなく、自分から話しかけない。話しかけてきてくれたら、返答するぐらい。だから勉強に集中できるし、孤独ではあるが、人間関係に悩むことはない。
席に座って、ぼんやりと外を眺めていた矢先。
「よっ!端的に言うんだけど話聞いてくれるか?」
気だるげな声で話しかけてきたのは、松田楓太であった。
考える間もなく、反射的に「いいよ!」と答えた。
「うちのクラスに障害持った子いるじゃん?」
(誰のことだ.......三角美紀のことか?ちょっと変わった子だけど、障害は持ってはいないような...... )
「でさ、挙動キモイからイジメようぜ!これからみんなで虐めようぜ!オレと一緒に!!」
血の気が引くのが即座に分かった。
僕は正義感だけは人一倍強い。だが、それ以上に気が弱く、面と向かって「嫌だ」と断る勇気がなかった。だがそれ以上に、「いじめる側に加担する恐怖」の方が、僕の喉元を冷たく締め付けた。
(怯えるな、怯えるな……!)
心の中で必死に自分を叱咤し、震える声をどうにか押し殺して、精一杯の拒絶をぶつけた。
「――嫌だ!」
「イヤ!」
彼は、一瞬ビックリしたように見えた。当たり前だ。こんな気が弱そうなヤツが言い返すようには思わないだろう。
「そうか......お前もイジメられたいんだな!」
という発言だけをして、自分の席に戻っていった。
クラス内の騒音で、2人の会話は聞こえていなかっただろう。
地獄の補習が終わり、一目散に学校を逃げ出した。
あと2日、あと2日で地獄の補修が終わる。
家に帰ってからも、松田の冷たい瞳と声が脳裏から離れず、夕飯に箸をつける気力すらなかった。恐怖に怯えながら、僕はいつもより早く、眠りに入った。
翌日。
「母上、行ってきます。」
昨日とは違い、掠れた声しか出せなかった。
「なんかあったら、母に話すんだよ。いってらっしゃーい!」
背中を見送る母親の声が、やけに遠くに聞こえた。
いつもなら脳内で競馬の実況を響かせながら走る通学路も、今日の僕にはただの処刑台への道にしか思えなかった。
漫画やドラマのワンシーンが脳裏をよぎる。自分の机に刻まれたバカや、死ねといった赤い文字。冷たい視線。そんな悪夢のような光景を想像しながら、自分のクラスの扉を開けた。
イジメに関することを、自分の机に着くまでずっと考えていた。
「良かったーー!異常なし。」
誰にも荒らせれていない机を見て、安堵のため息を吐き出す。
だが、その安堵は一瞬で打ち破かれた。
「――3年3組、幸海斗。至急、校長室まで来るように」
自分の名前が、無機質なスピーカーから冷たく響いた。
教室のざわめきにかき消されそうになりながらも、その名前だけが生々しく耳朶を打つ。
(何が起きた……? 僕は何もしてないぞ!)
胸騒ぎを覚えたまま、足早に廊下を歩く。不思議と恐怖はなかった。事実として、何も悪いことはやってないという確信があったからだ。
校長室の前に立ち、三度、規則正しくノックをする。
「3年3組の幸海斗です。校長先生はいらっしゃいますか」
「……入りなさい」
扉の向こうから返ってきたのは、底冷えするような怒気を含んだ声だった。
(何もしていない、大丈夫だ……大丈夫だよね?)
自己暗示をかけながらドアを開けた瞬間、そこには異様な光景が広がっていた。
待ち構えていたかのように、松田がそこに立っていた。
(は……? 一体どういうことだ?)
「幸くん、君は三角さんを執拗にいじめていたそうだね? 松田くんからすべて聞いたよ。言い逃れはできない、すべて吐き出しなさい!」
血相を変えた校長の言葉に、頭が真っ白になる。
状況が全く分からないが、反射的に言葉を吐露した。
「先生、誤解です! そんなこと、僕一切――」
その瞬間、横に立っていた松田が、底意地の悪い目で僕を睨みつけた。まるで、虫けらを見るような冷徹な視線だった。
「嘘つくなよ。俺は見たんだからな。幸が三角さんを執拗にいじめてる現場を……ショックが大きすぎて、具体的な証拠までは覚えてないけど!」
「そうだ! 松田くんは勇気を出して告発してくれた。君のような愚かな人間は、厳罰に処すしかない。両親には連絡。そして退学か、もしくは停学にする……」
校長の剣幕に、僕は完全に気圧されていた。
2対1。最初から勝負になどならない。僕は、ただ気弱で、威圧の前には無力なカス高校生なのだから。
「やってない……本当に、本当にやってないです! 信じてください、やってないってば……!」
必死にすがりつき、涙を流しながら訴えた。だが、その言葉はただの情けない言い訳にしか響かなかった。
「泣いて罪を逃れようなどとは見苦しい! いじめの加害者が吐くセリフだよな。すぐに両親に連絡する。松田くん、君は教室に戻って補習を受けなさい!」
「はい、先生。ありがとうございました」
松田は勝ち誇ったような、嘲笑を帯びた顔のまま、足取り軽く校長室を後にしていった。
「先生、両親にだけは……それだけは勘弁を……!」
「今さら遅い! 三角家にもすでに連絡を入れている。お前は今すぐ家に帰りなさい。返事はどうした、返事は!!」
「……はいっ、すみませんでした!」
あまりの迫力に、嘘の事実を真の事実かのようにしてしまった。
溢れる涙を制服の袖で拭い、僕は校長室を飛び出し、下駄箱で自分の靴を引っ掴み、駐輪所まで走り、そして、自転車のペダルを踏むこともできず、押しながら、ゆっくりと家路を歩いた。
(母上なら、僕を信じてくれるはずだ……。ちゃんと話せば、絶対に分かってくれる。大丈夫、大丈夫だ……)
壊れかけた呪文のように心の中で繰り返しながら、ようやくの思いで自宅の玄関にたどり着く。
震える手でインターホンを押した。
まるで待ち構えていたかのように、すぐさま扉の向こうから母親の声が響いた。
「……鍵は開いてるわ。早く中に入りなさい」
怒りと、底知れぬ悲しみが混ざり合った、凍てつくような声だった。
「ただいま……」
ドアを開け、リビングに足を踏み入れた瞬間。
乾いた音と共に、視界が大きく揺らいだ。人生で初めて、母親に頬を打たれたのだ。
「あんたねぇ……いったい何をやっているのよ! 正義感が取り柄のあんたが、そんな陰湿ないじめをするなんて……!」
母親はまだ何か言いかけたが、怒りよりも哀しみが勝ったのか、その場に崩れ落ちるようにして言葉を失った。
「母上……ごめんなさい……」
「被害にあった子に、謝りに行くわよ。いいわね?」
母の容赦ない怒気と哀しみの前に、僕はただ「はい」と頷くしかなかった。
「今日の夕方、相手の家に行くわ。……それまでは、二階の部屋から一歩も出ないで頂戴。いまのあんたの顔なんて、見たくもないから!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、僕は階段を駆け上がり、自室のドアを乱暴に閉めた。
ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋める。時間だけが、残酷なまでに冷たく刻まれていく。
「もう終わりだ……松田のせいで、僕の人生は全部壊された。先生からの信頼も、母上からの信頼も……何もかも」
頭の中で、ぽつりと不吉な単語が紡ぎ出された。
死ねば、楽になれるのだろうか。
「……」
時計の秒針が、カチカチと乾いた音を立てて進む。 その規則正しい音が、今の僕には世界で一番恐ろしいものに感じられた。
それから数時間以上が経ち、あたりが夕闇に染まる頃。
「……行く時間。しっかり謝るのよ、分かっているでしょうね?」
呆れ果てた、冷え切った母親の声が階段の下から響いた。
真実を口にしたところで、誰も僕の言葉など信じやしない。いや言えないんだ。
「うん...」
乾いた返事をした。
覚悟を決め、僕は母の後を追うように家を出た。
五分ほど歩き、目的地である「三角家」の前に到着する。
その家は、漆黒の壁で囲まれた豪邸だった。庭にはプールまで備え付けられており、ここが日本であることすら忘れさせるような異質な空間だった。普段なら気圧されるほどの場所だが、今の僕には、そこへ向かう足取りはまるで処刑台へ向かう罪人のそれだった。
罪人は、松田なのに......
「さあ……あんたがインターホンを押しなさい。そして、まずは誠心誠意謝るのよ」
母上の冷たい一言に促され、僕は震える手でインターホンに手を伸ばした。そのボタンは、まるで僕の命を奪う凶器のようだった。
『はい、三角の母です。……どうぞ、お入りください』
インターホンの向こうから聞こえた声に、心臓が大きく跳ねる。
ガチャリと重い音がして、玄関の扉がゆっくりと開いた。
三角の母親は、娘から
「幸くんはいじめていない!」
と聞かされているはずだ。ここで初めて、この真実が嘘だと、母上に分かるはずだ。
そう淡い期待を抱いた瞬間、目の前の光景に息が詰まった。
三角の母親の顔は、とめどなく流れる涙でぐしゃぐしゃになっていた。
彼女は一歩、一歩と重い足取りで僕に近づいてくると、僕の前に立つと、迷うことなく、大きく振り上げた手で僕の頬を激しく叩いた。しかも一回じゃない。何度もだ。
「もう二度と、うちの子に顔を見せないで頂戴!」
それだけ吐き捨てると、彼女は冷たく踵を返した。
「すみっ……せんでした……!」
震える声で謝罪の言葉を絞り出した時には、彼女はすでに玄関のドアノブに手をかけていた。
その横顔に見えたのは、怒りよりも深い、血を吐くような悔恨と絶望が滲んでいた。
何も言わず、彼女は扉を閉め、僕たちの目の前で冷たい拒絶の壁を作った。
(僕は……一体どうすればよかったんだ? 三角さんはまだ家に帰ってきていないのか? 一体、どうすればよかったんだ……?)
「……帰るわよ、あんた。」
眉間に深くシワを寄せ、深く溜息を吐いた母親のその姿が、追い打ちをかけるように僕の心をすり潰していく。
「母上……本当に、もうしませんから……」
もう手遅れだ。罪が濡れ衣だとしても、すべてを受け入れるしかないのだ。
(この罪も、罰も、仕方ないことなんだ。)
そう自分に言い聞かせ、崩れそうな心を必死に繋ぎ止めながら、僕は冷たい街を母の背中を追って歩き始めた。




