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宿を出て、鉄粉の混ざったリガの風を肺の奥まで吸い込んだ瞬間、俺は自分の肉体が完全に「別の生き物」に生まれ変わっているのを確信していた。
十五時間という、泥のように深く濃密な睡眠。
あの宿屋で貪り食った極上の肉の脂と、熱い湯の熱量が、ズタズタに断裂しかけていた右太腿の筋肉を細胞単位で完璧に縫い合わせていた。
指先を強く握り締め、そして開く。右腕を襲っていた鉛のような猛烈な痺れは、もはや影も形もない。
腰の鞘に収まったなまくらの鉄剣が、驚くほど軽々と、しかし確かな重量感を持って俺の右手に馴染んでいた。完全復活、ってやつだ。
「――おい、カイ! 何ぼさっとしてやがる、置いてくからな!」
前方を歩くバルドの太い声に、俺は不敵に笑い、鉄の床板を力強く蹴って歩調を速めた。
朝霧の向こうにそびえ立つその構造物は、近くで見れば見るほど、鉄と蒸気によって築かれた巨大な牢獄、あるいは異形の神殿のようだった。
港町リガの外縁、浮遊島の文字通りの「端」に位置する、水圧式昇降ドック。
一歩、その内部へと足を踏み入れた瞬間、容責のない鉄粉の匂いと、大気を強引に加熱する高圧蒸気の凄絶な熱風が、俺の全身の皮膚をじりじりと灼き始めた。
ズズズ、ズズズ……と、鼓膜の奥を直接爪で引っ掻くような重低音が、大地の底から絶え間なく鳴り響いている。
見上げれば、直径数メートルはあろうかという漆黒の鉄の鎖が、油に濡れてぎらぎらと黒光りしながら、島の最下層から天井の巨大な歯車へと向かって、生き物の触手のように送られていた。
その鎖が噛み合うたびに、火花が真っ赤に散り、風に乗って焦げ付いた油の不快な臭いが鼻腔の奥を執拗に突く。
この巨大なインフラを維持するために、どれほどの石炭と人間の労働力が消費されているのか、想像するだけで眩暈がしそうなほどの圧倒的な威圧感だった。
錆びついた鉄骨の隙間からは、絶えず高圧の蒸気が白い悲鳴を上げて噴き出しており、それが朝の光を乱反射して、空間全体を幻惑的な灰色に染め上げている。
周囲の壁面を見渡せば、過酷な外海の塩害と瘴気によって茶褐色に腐食した古いボルトや、急ごしらえで溶接されたと思われる真新しい鉄板の継ぎ目が痛々しく露出しており、ここがただの交通拠点ではなく、死と隣り合わせの最前線であることを無言で物語っていた。
「おい、カイ。ここからは足元から目を離すなよ。ドックの床板は、下層の海から巻き上げられた油と飛沫で、凍りつくよりも滑りやすくなってやがるからな」
バルドが、背中の巨大な鉄槌をベルトの上からポンと叩きながら、太い声で警告を発した。
彼の明るい茶色の瞳には、これから始まる外海航路への、戦士としての静かな高揚感が宿っている。
昨日までの優しげな大男の空気は完全に削ぎ落とされ、その褐色の肌は、どのような不測の事態にも即座に対応できるような、鋼のような硬質さを取り戻していた。
鉄の床板を乱暴に叩く彼の大振りのブーツの音さえ、このドックの轟音にかき消されそうになるほど、周囲の空間は狂暴な駆動音に支配されている。
彼のような練達の戦士でさえ、この場所特有のただならぬ空気に神経を研ぎ澄ませているのが、そのわずかに強張った肩のラインから見て取れた。
「へっ……。心配してくれてありがたいな、大クジラ。だが、俺の足裏は、コーラルのヘドロで徹底的に鍛え上げられてるんでね。この程度の鉄板、ただの絨毯みたいなもんだぜ」
俺は唇の端を吊り上げ、目が先に笑う不敵な笑みを顔に張り付けた。
強がりではない。
一歩、鉄の床板を踏みしめるたびに、右太腿の太い筋肉の繊維が、地面からの反発力を狂いのない精度で受け止める。
右手首の古い包帯の下も、今は静かに鳴りを潜め、鉄剣の柄を握る五指には、昨日までとは比べ物にならないほどの確かな力が宿っていた。
身体が自分の制御下にあるという感覚が、これほどまでに心地よいものだとは知らなかった。
スラムの泥に塗れていた日々からすれば、このように明確な目的を持って、五体満足で立っていること自体が奇跡に近い感覚だったのだ。
俺は自分の爪先が鉄板に刻む確かな感触を確かめながら、バルドの背中を追った。
シオンは、俺たちの数歩先を、静かに歩いていた。
新しく神殿から支給されたという、微かに青みがかった清潔な聖衣を纏い、その裾を夕風ならぬドックの突風に小さく揺らしている。
彼女の真っ白な裸足は、冷たい鉄板の上に残された油の膜を恐れることもなく、前方に佇む怪物へと向かって真っ直ぐに進んでいた。
彼女は時折、左手で右肘をきゅっと強く掴むあの癖を見せていたが、その瞳の奥にある、世界の痛みを引き受けるという冷徹なまでの覚悟は、朝の光を反射して、一層深く、澄み切った光を湛えていた。
彼女の細い背中を見つめていると、胸の奥を硬い杭で打たれたような、奇妙な焦燥感が湧き上がってくる。
この船が放つ圧倒的な金属の質量が、じわじわと心地よい緊張感として俺の五感に染み渡っていく。
正式な訓練を受けていない俺の身体に、この巨大な造船インフラの存在そのものが、これから始まる航海の過酷さを無言で告げていた。
彼女が歩く軌跡だけ、まるで汚れが浄化されていくかのように見えたのは、俺の錯覚ではなかったはずだ。
その足取りには、自らの命を削って世界を繋ぎ止めるという、痛烈なまでの宿命の重さが宿っていた。
そして、そのすぐ隣。
セイジは、黒い外套のフードを深く被ったまま、完全に気配を消して歩を進めていた。
男の右手の指先は、相変わらず腰の無骨な黒い鞘の刀、その柄の数インチ手前で、まるで空間に固定されたかのように静止している。
その歩調は質量を感じさせない無音のままで、鉄粉の舞うこの狂狂しいインフラのなかでも、おっさんの周囲だけがぽっかりと真空になったかのような、不気味なほどの静寂を纏っていた。
周囲の駆動音がどれほど激しく鳴り響こうとも、彼の呼吸の周期だけは決して乱れず、ただ一定の冷徹さを維持し続けている。
「……ソウルの剣は、元々、このような場所で振るうためのものではなかった」
不意に、セイジの口から、主語を省いた独特の低い声が零れ落ちた。
おっさんはこちらを振り返ることはせず、ただ前方のドックの最深部を見つめたまだ。その横顔は、朝霧と蒸気のせいで酷く曖昧に霞んでいた。
「へえ。おっさん、親父の昔話か? 珍しいこともあるもんだな。あいつがどこでどんな風に剣を振り回してようが、俺には関係のない話だけどよ」
「ソウルは、世界の形を嫌っていた」
セイジの声のトーンは、ドックの駆動音にかき消されそうなほどに静かだったが、俺の耳の奥には、鋭い楔のように正確に突き刺さった。
「神殿が敷いた秩序、詠唱院が管理する海図、およびこの空と海を隔てる不条理な境界のすべてを。あの男は、ただ一振りの刃だけで、その歪みのすべてを断切ろうとした。お前がその剣を持つということは、いずれ、その呪いをも引き継ぐということだ」
おっさんの灰色の目が、チラリと俺の腰の鉄剣、およびその柄に巻き付けられた古い革紐へと向けられた。
そこには、かつてソウルと共に地獄のような戦場に立った者だけが知る、言葉にできない暗い重みが宿っている。
親父の名前を出されるたびに、俺の血が不愉快に疼くのは事実だった。
「呪い、ねえ」
俺は鼻で小さく笑い、右手で鉄剣の柄を軽く叩いた。
「大層なもんを背負わせようとするなよ、おっさん。俺の目的は最初からひとつだけだ。このお嬢さんの旅に付き合って、ミラージュの大書庫から海図を分捕る。それと、コーラルへ帰る。親父の残した呪いだか何だか知らないが、そんなものが俺の足元を邪魔するってんなら、化け物ごと流れで叩き斬るだけさ」
「……ならば、その意志を忘れるな」
セイジはそれだけ言うと、再び深い沈黙のなかにその身を沈めた。
おっさんの冷徹な言葉の裏側に、僅かな値踏みと、それ以上の、俺に対する奇妙な信頼のようなものが混ざり始めているのを、俺は皮膚の表面で静かに感知していた。
鉄剣の重みが、かつてないほどに明確な輪郭を持って腰のあたりに感じられる。
親父が何を見つめ、何に絶望したのかは知らないが、俺には俺の、目の前の少女の命を守るという極めて個人的な契約があった。
それだけが、俺を動かす唯一の真実だった。
「――到着だ。俺たちの命を預かる、外海航行用装甲船『グラン・リヴァイア号』だ」
バルドの声が響き渡った瞬間、ドックの最深部を覆っていた白い蒸気が一気に吹き払われ、その怪物の全貌が姿を現した。
それは、俺の知る船という概念を根底から覆す、漆黒の鉄の巨躯だった。
全長は百メートルを優しく超え、船体の表面は、外海の凄絶な瘴気と断片獣の爪に耐えるため、幾重にも重ねられた分厚い防腐鉄板によって完全に覆い尽くされている。
リガの職人たちが打ち込んだと思われる、頭の直径が拳ほどもある巨大なボルトが、船体の随所に不気味な鱗のように整然と並び、朝の光を鈍く跳ね返していた。
通常の船にあるべき巨大な白帆は存在しない。
代わりに、船尾には、浮遊島の動力核から直接エネルギーを引くという、四基の巨大な鉄製の蒸気推進筒が、怪物の尾鰭のように無骨に突き出していた。
船首部分は、氷山をも突き破るために鋭利な楔型に研ぎ澄まされ、その先端には、神殿の守護紋様が、赤黒い魔力を帯びて微かに明滅を繰り返している。
その鉄の質量は、見つめているだけでこちらの呼吸を圧迫するほどに暴力的で、かつ完成された機能美を湛えていた。
装甲の至る所には、過去の激戦を物語る無数の深い爪痕や、熱線によって融解したかのような痛々しい歪みがそのまま残されており、この船が何度も地獄から生還してきた歴戦の強者であることを雄弁に示していた。
「すごい……。何度見ても、この船の威容には圧倒されますね」
シオンが、祭壇の上で見せる聖女の顔ではなく、一人の少女としての純粋な感嘆をその声に混ぜて呟いた。
彼女の銀髪が、船の推進筒から漏れ出る熱風に吹かれて、きらきらと細かく舞う。
「さあ、乗り込むぞ! 出航の準備はすべて整っている!」
バルドを先頭に、俺たちは鉄のタラップを登り、グラン・リヴァイア号の重厚な甲板へと足を進めた。
甲板の上もまた、鉄と油の匂いで満ちていた。
何十人もの目の荒い船乗りたちが、太いロープを引き締め、バルブを回し、けたたましい大声で怒鳴り合いながら、最終的な出航準備に追われている。
誰もが生きるために、この怪物のなかで自分の役割を必死に全うしていた。
その熱気は、スラムの絶望的なそれとは全く異なる、生きようとする強靭な意志の塊だった。
甲板の鉄板をしっかりと踏みしめる。
足の裏から伝わってくる微細な振動は、船の奥底で眠る巨大な蒸気機関が、今まさに目覚めようとしている鼓動そのものだった。
周囲を行き交う屈強な男たちの視線が、新参者の俺たち、特に腰になまくらの鉄剣をぶら下げただけのガキである俺に突き刺さるが、そんなものは今の俺の敵ではない。
俺はただ、これから始まる未知の航海への興奮で、胸の鼓動を熱く高鳴らせていた。
「全員、固定具を掴め! ドックの解放が始まるぞ!」
船長の咆哮が、甲板のスピーカーを通じて響き渡った瞬間、ガコォォォォォォン! と、船体を固定していた巨大な鉄のアームが一斉に跳ね上がった。
世界の重力が、一瞬にして消失するような、凄絶な浮遊感。
俺たちが乗る漆黒の装甲船は、浮遊島リガの端から、垂直に数千メートル下の「下層の海」へと向かって、レールの間を滑るようにして、一気に落下を始めた。
視界のなかにあったリガの港町が、凄まじい速度で上空へと遠ざかっていく。
顔を打ち付けるのは、もはやただの潮風ではない。
下層の海から、猛烈な勢いで吹き上げてくる外海の濃厚な瘴気と、白く濁った狂暴な飛沫の嵐だ。
下を見れば、これまで穏やかに見えていたエメラルドグリーンの海面が、急速にその牙を剥く海面へと変わり、巨大な怪物の口のように、俺たちの船を飲み込もうと迫り上がってくる。
このまま自由落下を続ければ、船体ごと粉々に砕け散るのではないかという、極限の恐怖と加速。
激しい風圧のなかで、俺は甲板の鉄の手すりを右手でギリギリと音を立てるほどに握り締め、口の端を強引に釣り上げた。
右手首の古い傷跡が、迫り来る「本物の海」の気配を察知し、まるで歓喜の声を上げるかのように、熱く、激しく脈動し始める。
上空に浮かぶ欺瞞の島々を見上げながら、俺たちは死と混沌の渦巻く漆黒の海へと叩きつけられようとしていた。
死へ向かう少女の運命を、このなまくらの鉄剣で叩き割るための本当の航海が、今、圧倒的な落下の衝撃と共に幕を開けた。




