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鉄粉の混ざった辛い飛沫が吹き付ける港町リガの路地を抜け、バルドの後ろ姿についていくようにして、俺たちは一軒の頑丈な宿屋へと滑り込んだ。
「おい、マスター! 部屋を三つだ! それと、この世で一番重くて、一番脂ののった肉を、大皿の底が抜けるまで持ってきやがれ!」
バルドの地鳴りを受け止めた宿屋の主人が、無言のまま黒ずんだ木札をカウンターに叩きつける。
宿の内部は、外の喧騒が嘘のように、分厚い石壁によって完全に遮断されていた。漂うのは、長年床に染み込んだ古い麦酒の酸っぱい匂いと、奥の厨房から風に乗って届く、焦げた動物の脂の、暴力的なまでに強烈な匂い。
「カイ、お前はまずその塩と血にまみれたボロ布を脱ぎ捨てて、奥の湯殿へ行ってきな。死人みたいな顔をして食う肉ほど不味いもんはねえからな」
バルドに背中をドスンと叩かれ、俺はよろめきながらも、宿の奥にある蒸気の立ち込める湯殿へと向かった。
石造りの浴槽には、浮遊島の地下から汲み上げられたという、不気味なほどに熱い湯がなみなみと湛えられていた。
ボロボロに引き裂かれた衣服を剥ぎ取るようにして床に落とし、全裸になって、恐る恐るその湯のなかに身体を沈める。
「――っ、あ、あ、ガ……っ」
激しい衝撃が、全身の皮膚から脳へと突き抜けた。
乾燥してひび割れていた全身の皮膚、あるいはあの断片獣との一戦で無理な踏み込みをした右太腿の筋肉の繊維へと、熱い湯が容赦なく侵入し、融解させていく。あまりの熱さと痛痒さに、俺は湯のなかで身体を丸め、声を殺して悶絶した。
右手首の古い傷跡が、湯のなかでどす黒く脈打っているのが見える。
だが、数分が経過し、湯の熱さに肉体が慣れてくるにつれ、骨の髄まで冷え固まっていた「深海の冷気」が、皮膚の毛穴からジワリ、ジワリと汗となって外へ押し出されていくのが分かった。
数日分の塩の結晶が湯に溶け、硬直していた全身の関節が、油を注がれた機械のように、ゆっくりとその柔軟さを取り戻していく。
(……生きてる。俺は、本当に、戻ってきたんだな)
湯から上がり、宿が用意した無骨な麻の衣服に身を包んで食堂へ戻ると、そこにはすでに、スラムのガキなら一生お目にかかれないほどの「山」が築かれていた。
「おお、すっきりした顔になったじゃねえか! ほら、座れ! 宴会の始まりだ!」
バルドが、人間の頭ほどもある木製のジョッキを俺の前に叩きつけた。なかに注がれているのは、冷えた果実水だ。
テーブルの中央に鎮座するのは、浮遊獣の脇腹の肉を、荒い岩塩と乾燥したハーブだけで豪快に焼き上げた、巨大な肉塊。表面の皮は炭のように黒く灼かれ、そこから透明な黄金色の脂が、ジュウ、ジュウと音を立てて皿の底へと滴り落ちている。
俺の胃袋が、それまでの数日間の飢餓を思い出したかのように、猛烈な音を立てて鳴動した。
「……いただくぜ」
俺はナイフも使わず、フォークでその肉の塊を強引に突き刺すと、野生動物のように大きな口を開けて齧り付いた。
ガブり、と肉の繊維を歯が断ち切った瞬間、口のなかいっぱいに、限界まで濃縮された獣の旨味と、暴力的なまでの脂の熱量が爆発した。
「――っ! う、美味い……クソ、美味すぎる……!」
咀嚼するたびに、乾燥しきっていた口内に濃厚な肉汁が溢れ返り、喉の奥へと滑り落ちていく。その一切れが胃袋に到達するたびに、死にかけていた体内の細胞が、一斉に歓声を上げて歓喜の炎を燃え上がらせるかのような、凄絶な充足感。
俺は言葉を失ったまま、狂ったように肉を口へと運び続けた。
手のひらも、口のまわりも、黄金色の脂でベトベトに汚れ、赤黒い岩塩の粒がひび割れた唇に染みて痛むが、そんなものを気にする余裕など微塵もない。
「おいおい、そんなに急いで食うなよ。肉は逃げやしねえよ」
バルドが苦笑しながら、冷えた果実水を一気に飲み干す。
その正面では、セイジが、やはり表情を一切変えないまま、主語を省いた独特の動作で、小さく切り分けた肉を静かに口へと運んでいた。おっさんの灰色の目は、俺の食いっぷりを、どこか値踏みするような、それでいて僅かに満足げな光を湛えて見つめている。
正式な訓練を受けていない俺の身体に、この肉の熱量が、じわじわと物理的な活力として染み渡っていく。
そして、その隣。
シオンは、驚くほどに静かに、そして美しく食事をしていた。
彼女の前には、宿の主人が気を利かせて持ってきた、果実を煮詰めた甘いスープの皿が置かれている。彼女は、袖口が汚れないように左手で純白の礼装の布地を優しく抑えながら、木製のスプーンで、一滴の雫も零さずにそれを口へと運んでいた。
その指先は、先ほどの儀式での激しい震えが嘘のように落ち着いている。だが、その肌の白さは、やはりまだどこか硝子細工のような儚さを残したままだった。
「お嬢さん。……そんな上品に食ってたら、この大クジラに全部横取りされるぜ」
俺は、口のまわりの脂を腕で手荒に拭いながら、いつもの不敵な笑みを顔に張り付けた。お腹がいっぱいになったことで、ようやく他人の顔を見る余裕が生まれたのだ。
「ふふ、大丈夫です、カイさん」
シオンはスプーンを置き、その青緑色の瞳を細めて、本当に悪戯っぽく微笑んだ。
「バルドは、私の分まで食べるほど、お行儀は悪くありませんから。……それよりも、カイさんのその食べ方を見ている方が、私、なんだか元気を貰えます」
「そいつは光栄だな」
俺は果実水のジョッキを傾け、一気に喉の奥へと流し込んだ。
冷たい液体の喉越しが、肉の脂で火照った胃袋を心地よく冷やしていく。
これほどの満腹感。これほどの下俗な活気。
コーラルのあの腐ったスラムでは、絶対に味わえなかった、本物の「生」の感覚が、俺の肉体を完全に満たしていた。
「よし! 食ったら寝る! これが戦士の鉄則だ!」
バルドがテーブルを叩して立ち上がると、俺は自分の部屋へと割り当てられた木札を握り締め、ふらふらと階段を登った。
部屋のなかにあったのは、硬い藁が詰められただけの、無骨な木製のベッドだ。だが、今の俺にとっては、大富豪の絹の寝床よりも価値がある。
鉄剣をベッドのすぐ脇、いつでも右手が届く位置に立て掛け、俺は湯上がりの麻衣を纏ったまま、泥のようにマットレスへと倒れ込んだ。
(……眠いな。信じられないくらい、身体が――)
目蓋が、まるで巨大な鉄板が降りてくるかのように重く閉じる。
右手首の包帯の下の疼きも、太腿の筋肉の痛みも、急激に訪れた圧倒的な眠気の海の中に、静かに沈んで、消えていった。
それからの記憶は、完全な無だった。
親父の恐ろしい夢も、燃えるコーラルの地獄も、深海の底の不気味な歌声も、何一つ俺の脳内を侵すことはなかった。
ただただ、深く、濃密な、救いのような睡眠が、俺のズタズタに傷ついていた肉体を、内側から細胞単位で丁寧に修復していく。
*
チュン、チュン、と、見たこともない奇妙な渡り鳥の鳴き声が、部屋の小さな天窓から差し込む光と共に届いた。
「……ん、あ……」
ゆっくりと目蓋を持ち上げる。
網膜を刺したのは、昨日までの苛烈な日差しではなく、浮遊島特有の、朝霧を含んだ優しく白い朝の光だった。
俺は、ベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。
「――っ!」
驚いて、自らの両手を見つめる。
軽い。
身体が、信じられないほどに軽い。
指先を何度も握り、開く。あの断片獣を斬った直後の、鉛を流し込まれたような猛烈な痺れは、完全に消失していた。
右太腿を擦ってみても、筋肉の断裂によるあの焼き付くような激痛は消え去り、神殿の治癒軟膏の、微かなハッカのような涼しい匂いだけが皮膚に残っている。
喉の渇きもなく、割れていた唇の皮膚は、一晩の睡眠の間に綺麗に塞がっていた。
十五時間。俺は、丸一日近く、一度も目を覚まさずに爆睡していたのだ。
「よっしゃ……。完全復活、ってやつだな」
俺はベッドから飛び起き、足の裏でしっかりと宿の床板を踏みしめた。
右手首の古い傷跡は、もう暴れていない。ただの、古い皮膚の痕跡として、静かにそこに佇んでいる。
俺は脇に立て掛けておいた傷だらけの鉄剣を掴み、腰の鞘へと鋭く収めた。カチリ、と響いたその音は、昨日までの迷いや弱音をすべて断ち切るかのような、最高のキレを持っていた。
部屋を出て、宿の薄暗い廊下を下り、食堂へと向かう。
すでにそこには、出発の準備を完全に終えた三人の姿があった。
バルドは鉄槌の革ベルトをきつく締め直しており、セイジは黒い外套のフードを深く被って、すでに気配を消している。
そして、シオン。
彼女は、昨日までの血に汚れた純白の礼装ではなく、新しく神殿から支給されたという、微かに青みがかった清潔な聖衣を纏っていた。長い銀髪は朝露に濡れてきらきらと輝き、その淡い青緑色の瞳は、昨日よりも一段と深い、澄み切った光を湛えて俺を見つめた。
「おはようございます、カイさん。……見違えるほど、良い顔になりましたね」
シオンが、左手で右肘をきゅっと掴みながら、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。おかげさまでな、お嬢さん」
俺は、目が先に笑う不敵な笑みを、今度は「鎧」としてではなく、本物の活力を込めて顔に張り付けた。
「長らくお待たせしたな。これなら、どんな化け物が現れようと、お前たちの盾くらいにはなってやれるぜ」
「頼りにしてるぜ、カイ!」
バルドが俺の背中を、昨日よりもさらに強く叩いた。今の俺なら、その衝撃を片足で余裕で受け止めることができる。
「行くぞ。船が、待っている」
セイジの短い一言が、宿屋の静寂を破った。
俺たちは宿の扉を押し開け、再び、鉄粉と飛沫の舞う港町リガの通りへと踏み出した。
朝霧の向こう、あの巨大な水圧式昇降ドックのなかに、俺たちが乗り込むべき外海航行用の「装甲船」の漆黒の船体が見えた。
完全に元気を取り戻した俺の肉体と、胸の中で静かに燃え盛る炎を宿し、俺たちの本当の旅が、今、音を立ててその幕を上げようとしていた。
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