7
第一聖所の窪地を後にした俺たちの頭上には、いつの間にか、血のような朱色を帯びた夕闇が広がり始めていた。
ベルタ島の峻険な岩肌を縫うようにして作られた、切り立った下り坂。
一歩、足を突き出すたびに、小石がサラサラと音を立てて崖下へと転がり落ち、遥か数千メートル下方の海面へと吸い込まれていく。そのたびに、俺の足の裏からは、大地の感覚が一時的に消失するような、奇妙な浮遊感が伝わってきた。
「おい、カイ。足元の岩に気をつけな。その辺りの石灰岩は見た目以上に脆い。体重を乗せすぎると、そのまま下層の海までノンストップで自由落下することになるぜ」
前方を歩くバルドが、背中の巨大な鉄槌を歩調に合わせて小刻みに鳴らしながら、太い声で注意を促してきた。彼の茶色い瞳は、暗くなり始めた山道の先を油断なく見据えている。そのたくましい背中は、スラムのガキどもを安心させるために張っていた俺の「鎧」とは違い、数々の実戦を潜り抜けてきた本物の「盾」としての厚みを帯びていた。
「へっ……。そいつはありがたいアドバイスだな、大クジラ。だが、コーラルのキャットウォークは、これの十倍は腐ってたぜ。踏めば木板ごと海へ真っ逆さまだ。この程度、ただの散歩道さ」
俺はひび割れた唇を舌で湿らせ、目が先に笑う不敵な笑みを、意地でも顔から剥がさなかった。
だが、内情は限界に近かった。シオンから与えられた神殿の聖水による強引な神経活性は、すでにその効力を失いかけている。一歩進むごとに、あの断片獣との一戦で無理な踏み込みをした右太腿の繊維が、焼け付くような熱を持って激しく痙攣していた。鉄剣を杖代わりに地面に突き立てなければ、一瞬で膝が折れて、バルドの言う通り崖下へ転落していただろう。
シオンは、俺の少し前を、やはり一言も零さずに歩いていた。
純白の礼装の裾は、先ほどの儀式で流した彼女自身の血によって、痛々しいほどに赤黒く汚れている。その真っ白な裸足が、夕闇に沈む鋭い岩肌を踏みしめるたび、乾いた皮膚が擦れる微かな音が、潮騒の音に混じって俺の鼓膜に届いた。彼女は自身の右肘をきゅっと掴み、何かを耐えるようにして視線を足元に落としている。その銀髪が、夕風に吹かれて細い糸のように彼女の頬をなぞっていた。
(あの歌の代償……。あのお嬢さん、本当なら今すぐぶ倒れてもおかしくねえはずだ)
だが、彼女もまた「鎧」をまとっているのだ。世界を救う『詠み人』という、呪われた、あまりにも美しすぎる硝子の鎧を。
「……構えの根底が、力に拠りすぎている」
不意に、俺のすぐ隣、完全に気配を消して並走していたセイジが、低く抑えられた声を投げかけてきた。
おっさんは俺を見ることはせず、黒い外套のフードを深く被ったまま、暗暗に沈む山道の先を凝視している。その歩調は、相変わらず砂の上を滑るかのように無音で、一切のブレがない。
「へえ、おっさん。俺の剣に何か文文句でもあるのかよ。さっきの化け物は、これ一本で見事に真っ二つにしてやったぜ?」
「一度の成功は、生存の保証にはならない」
主語を省いた、冷徹なまでの事実の提示。セイジの灰色の目が、チラリと俺の右腕、それからその手首の古い包帯へと向けられた。
「ソウルの『波断ち』は、世界の流れと同調する。だが、お前は当たる瞬間に、己の肉体のバネを強引に捩じ込んでタイミングを合わせている。力による補正だ。それは『波断ち』の模倣に過ぎない。その戦い方を続ければ、いずれ次の一振りで、お前の右腕の骨は内側から粉砕される」
おっさんの言葉は、俺の肉体の痛みの核心を、正確無比に射抜いていた。
確かにそうだ。さっきの一撃、俺は親父の技を完全に再現できたわけじゃない。足りない感覚を、スラムで培った強引な筋力と、命がけの反射神経で無理やり補填したのだ。だからこそ、今、俺の右腕は鉛を詰め込まれたように痺れ、痙攣が止まらない。
「模倣で上等だよ、おっさん。死にかけた俺の命を繋いだのは、その模倣だ。世界一の剣士様と同じ完璧な技じゃなきゃ、生き残っちゃいけねえって法はねえだろ」
「死ぬと言っている」
セイジの声の温度が、さらに一段と下がった。左目の下の刀傷が、夕闇のなかで黒い影となって深く刻まれている。
「ソウルは、その一振りのために、三十年以上の歳月を世界の波長を聴くことに費やした。お前のそれは、ただの自殺志願者の蛮勇だ。シオンを守るという契約を交わした以上、その未熟さで足を引っ張ることは許されない。次からは、私の指示に従え」
(チッ……。本当に、可愛げのねえおっさんだ)
俺は奥歯を噛み締め、それ以上の反論を飲み込んだ。
悔しいが、このおっさんとの間には、埋めようのない圧倒的な「経験」と「実力」の差が存在している。それを認めなければ、この外の世界で真っ先に死ぬのは俺だ。何より、このおっさんを超え、親父の技の本当の真髄を掴まなければ――目の前を歩く、あの死へ向かう銀髪の少女の未来を、力ずくで捻じ曲げることなど、到底できはしない。
「なぁ、カイ。セイジさんの言うことも一理あるぜ」
バルドが、少しだけ声を潜めて会話に割り込んできた。
「神殿の戦士だって、詠唱院の術式と同調するのには何年も訓練するんだ。お前はいきなり外海に出てきて、ぶっつけ本番であれをやった。それだけで、俺から見れば十分に化け物だよ。だけどな、この世界の『痛み』は、俺たちが思っている以上に狂暴なんだ」
「……世界の痛み、ねえ。あのお嬢さんが命を削って歌えば、それで本当に元通りになるのかよ。コーラルは、消滅したって言てただな」
俺の問いに、バルドは少しだけ悲しげに眉を下げ、だが確固たる信仰の光をその茶色い瞳に宿して頷いた。
「ああ。消滅した。大魔獣ヴォイドが残した傷口から、世界のあらゆるエネルギーが吸い取られちまったんだ。だけど、シオンがこうして聖所を巡って『断ち歌』を捧げることで、世界のこれ以上の崩壊は食い止められている。詠唱院が配給してくれる『チェイサー』だって、聖所が安定しているからこそ、下層の海から汲み上げることができるんだ。神殿の教えは、この世界の唯一の秩序なんだよ」
バルドのその真っ直ぐな言葉が、俺の胸の奥を、不快な棘となって執拗に突き刺した。
コーラルで俺たちが見ていたチェイサーの配給。それは、暗く濁った海から、汚れきった鉄パイプを通じて、ほんの一滴ずつ、人々が生きるために貪り合うようにして分け与えられていた、泥水のような液体だ。
神殿の戦士たちが「世界の秩序」だと信じているものの裏側で、切り捨てられ、幽霊のように生きることを強いられている人間が、確かに存在している。その歪な矛盾が、この美しすぎるアクアリスの空の裏側に、どす黒い影となって張り付いているのを、俺は確信していた。
「――見えてきたぞ。ベルタの境界、港町リガだ」
バルドの声と同時に、山道が唐突に終わりを告げ、目の前の視界が一気にひらけた。
そこは、鉄と飛沫、あるいは剥き出しの狂気が支配する、境界の街だった。
ベルタ島の最下層、外海へと突き出た巨大な岩の棚に、へばりつくようにして建てられた港町「リガ」。
コーラルの退廃的な静けさとは全く違う、けたたましい金属音と、蒸気の白い煙が、街全体を生き物のようにつつみ込んでいた。
建物の大半は、浮遊島から切り出された無骨な岩石と、黒く錆びついた強固な鉄板を幾重にもボルトで固定した、要塞のような構造をしている。
潮風に含まれる強烈な塩分のせいで、鉄の表面はどこも赤黒く腐食し、風が吹くたびに、鉄粉が混ざった辛い飛沫が顔を打ち付けた。
正式な訓練を受けていない俺の身体に、この島が持つ圧倒的な垂直構造が、じわじわと物理的な重圧として圧しかかってくる。だが、街の中心部に鎮座する、この街の存在意義そのものである巨大なインフラが、すべての疲労を一瞬だけ吹き飛ばした。
「……なんだ、ありゃあ」
俺の喉から、驚愕の声が漏れ出た。
それは、浮遊島リガの端から、垂直に数千メートル下の「下層の海」へと向かって、気の遠くなるような長さで垂れ下がっている、無数の巨大な鉄の鎖とレールだった。
直径数メートルはあろうかという、一環一環が人間の胴体ほどもある漆黒の鎖が、巨大な歯車に噛み合いながら、ズズズ、ズズズ、と、大地を震わせる重低音を立てて絶え間なく上下している。
そのレールの間に、鳥籠のような形をした巨大な鉄の「昇降ドック」が固定されており、下層の海から、引き揚げられたばかりの外海航行用の巨大な木造船が、大量の白い飛沫と海水、そして油の虹色を撒き散らしながら、ゆっくりとこの島の港へと引き揚げられていくところだった。
浮遊島の世界アクアリスにおいて、空から海へ、海から空へ、船を移動させるための、鉄と水圧の怪物。
「驚いたか? カイ。これが、外海を渡るための唯一の足、水圧式昇降ドックだ」
バルドが、自慢げに胸を叩いた。
「俺たちが聖都ミラージュへ向かうための船も、あのドックのなかで、次の出航の準備をしてる。外海の瘴気は、コーラルの比じゃねえからな。船体に強固な装甲を張り付けるための、最後の調整中さ」
ガキィィィィン! と、ドックの方向から、重い金槌が鉄板を叩く、鼓膜を直接破壊するかのような凄絶な音が響き渡り、風に乗って、焦げ付いた油と、鉄を削る激しい火花の匂いが、俺の鼻腔を執拗に突いた。
街を行き交う人々も、コーラルの生気の薄い住民たちとは違っていた。
分厚い革の胸当てを纏い、腰には例外なく無骨な刃物をぶら下げた、目の荒い船乗りや職人たち。誰もが、いつ次の『大いなる波』に飲み込まれてもおかしくないという絶望を、狂暴なまでの活気で覆い隠すようにして、大声で怒鳴り合い、笑い合っている。
「……行きましょう、カイさん。私たちの船は、もうすぐそこにあります」
シオンが、振り返って俺を見た。
完璧な聖女の笑顔の裏側に、先ほどの儀式による凄絶な疲労を張り付かせたまま、彼女はその青緑色の瞳に、俺を故郷へ帰すという約束の光だけを宿して、微笑んでいた。
「ああ。……どこまでも付き合ってやるよ。お嬢さん」
俺はまた、目が先に笑う不敵な笑顔を顔に張り付け、鉄剣の先を力強く石畳に叩きつけた。
右手首の古い傷跡が、激しく脈動する。
鉄と飛沫の街。世界の歪みと、この少女の死の運命が交錯するこの場所から、俺の本当の戦いが、今、音を立てて幕を開けようとしていた。
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