6
岩壁の僅かな木陰に、湿り気を帯びた熱い風が吹き抜けていく。
喉の奥に残る、あの神殿の聖水の氷のような刺激と、バルドから放り投げられた乾燥肉の、喉を焼くようなひどい塩辛さ。それらが混ざり合い、俺の朦朧としていた意識を、無理やりこの過酷な現実の輪郭へと繋ぎ止めていた。
「……ハァ、……っ、あ」
右手首の古い包帯を、左手でギリギリと締め上げる。
麻痺していた感覚が戻るにつれ、全身の筋肉が断裂したかのような鋭い痛みが、一斉に神経の網を駆け巡った。漂流による深刻な脱水と、あの断片獣との一戦で放った『波断ち』の反動。それらは毒のように俺の骨の髄まで浸食していたが、シオンから与えられた聖水が、死んでいた末梢神経を強引に叩き起こし、強制的な活動を強いている。
「動けるか、カイ。無理なら俺が担いでってやってもいいんだぜ? 遠慮はいらねえ、お前みたいな痩せっぽち、クジラの幼体よりも軽いからな」
バルドが、巨大な鉄槌を背中の固定具へ無造作に放り込みながら、豪快な笑みを浮かべて覗き込んできた。その茶色い瞳には、カイの「技」に対する隠しきれない敬意と、同時に、今にも消え入りそうな命の灯火を見守るような、不器用な優しさが混じっている。
「……あいにくだが、男の背中に揺られる趣味はねえよ。剣を杖代わりにすれば、歩くくらいはどうにかなる」
俺はひび割れた唇の端を吊り上げ、目が先に笑う不敵な笑みを顔に張り付けた。そうでもしなければ、内面から溢れ出そうになる弱音が、そのまま血と一緒に喉から溢れ出してしまいそうだったからだ。
休息は数時間。太陽はすでに天頂を過ぎ、エメラルドグリーンの海面を、オレンジ色の鈍い光がなぞり始めている。俺たちは砂浜を離れ、ベルタ島の中心部にそびえる、切り立った岩山へと向かって歩き出した。
(これが……コーラルの外の世界か)
一歩、踏み出すたびに、視界に入る景色のすべてが、俺の常識を音を立てて破壊していく。
登るにつれて、鼻腔を突く匂いが、潮の生臭さとヘドロの腐臭から、湿った土と、数千年の時を経て積み重なった巨木の落葉が放つ、濃厚で芳醇な緑の匂いへと変化していった。
足元を覆うのは、見たこともないほど巨大なシダ植物の葉だ。その表面には、大気中の水分を限界まで吸い込んだ露の粒が、宝石のように輝きながら滴り落ちている。行く手を遮る巨木の幹は、大人が五人で手を繋いでも足りないほどに太く、その樹皮には、不気味に発光する奇妙な苔が、脈動するようにして群生していた。
正式な訓練を受けていない俺の身体に、この島が持つ圧倒的な垂直構造が、じわじわと物理的な重圧として圧しかかってくる。だが、ふと視界が開けた瞬間に見える、あの空が、すべての疲労を一瞬だけ忘れさせた。
見上げる位置にあったはずの浮遊島が、今はほぼ水平の視界に位置していた。
無骨な茶褐色の岩肌の裾から、数千メートルもの高さを垂直に落下する滝の白い筋。その水飛沫が太陽の光を乱反射させ、島と海を繋ぐ巨大な虹の橋を、幾重にも描き出している。
浮遊島の底辺部では、激しい上昇気流が雲を渦巻かせ、千切れた綿菓子のような白い霧が、島全体を包み込むようにして流れていた。
世界は、これほど残酷なまでに美しく、そして、圧倒的に広かった。
フジツボと錆びた鉄粉のなかで、明日をも知れぬ配給を待っていたコーラルの日々が、まるで遠い前世の出来事のように、急速にかすんでいく。
「……シオン、無理をしていませんか」
一行の先頭を歩くセイジが、一度も振り返ることなく、だがすぐ隣を歩く銀髪の少女へと、低く抑えられた声で問いかけた。
セイジの黒い外套は、この鬱蒼とした密林のなかでも一切の汚れを許さず、その足取りは砂の上と同じく、質量を感じさせない無音のまま維持されている。
「大丈夫です、セイジさん。少し……この島の『痛み』が、強まっているのを感じるだけですから」
シオンはそう答えると、左手で右肘をきゅっと掴み、いつもの癖を見せた。
彼女は、真っ白な裸足のままで、尖った石や硬い木の根が剥き出しになった険しい山道を歩き続けている。一歩歩くたびに、その繊細な足の裏から、薄紅色の血の跡がぽつぽつと地面に残っていくのを、俺は見逃さなかった。だが、彼女は痛みを口にすることはおろか、眉ひとつ動かさない。まるで、この肉体的な苦痛こそが、自らに課せられた聖なる義務であると信じて疑わないかのように。
(……なんで、裸足なんだ。神殿の決まりか? それとも……)
俺は、剣の先を杖代わりに地面を突き、震える膝を強引に前へと進めながら、その背中をじっと見つめていた。
彼女の銀髪が風に揺れるたび、あの淡い青緑色の瞳が、木々の隙間から漏れる陽光を反射して、この世の者ではないような神聖な輝きを放つ。だが、その輝きは、同時に「自分はもうすぐ消えてしまう」という、絶望的な諦念の裏返しであるように、俺には見えて仕方がなかった。
やがて、巨木の森が唐突に途切れ、視界がすり鉢状の巨大な窪地へとひらけた。
ベルタ島の心臓部。
切り立った岩壁に囲まれ、周囲の喧騒から完全に隔絶されたその場所に、第一聖所は鎮座していた。
「……あれが、聖所か」
俺の喉から、掠れた声が漏れ出た。
それは、かつては美しかったであろう白亜の石造りの祭壇だった。だが、今となっては長年の風雨に晒され、表面のあちこちが黒ずみ、不気味な蔦植物が血管のようにその全身を侵食している。
祭壇の中心部には、直径数メートルはあろうかという、不自然極まりない『歪み』が存在していた。
ただの空間ではない。
そこだけ、大気の密度が異常に沸騰しており、まるで透明な硝子が熱でどろどろに溶けたかのように、背景の岩肌がぐにゃぐにゃとねじれ、脈動している。歪みの中心からは、パチパチと不快な紫色の火花が絶え間なく爆ぜ、周囲の草木を瞬時に炭化させるほどの、嫌な硝煙の匂いがあたりに立ち込めていた。
ヴォイドの穴。
世界が、自らの重みに耐えかねて生み出した、膿んだ傷口そのものだ。
「……バルド、セイジさん。周囲の警戒をお願いします。この歪みの波長に惹き寄せられて、断片獣が集まってくるかもしれません」
シオンは静かに告げると、迷いのない足取りで祭壇の上へと登っていった。
一歩、また一歩。彼女の裸足が冷たい石の表面を叩くたび、血の赤が白亜の石畳を汚していく。
彼女は歪みの真ん前まで到達すると、ゆっくりと両手を胸の前で合わせ、深く、長く、息を吸い込んだ。
「……息を止めていろ、カイ。来るぞ」
セイジが、俺の隣に音もなく並び、腰の刀の柄に手をかけたまま囁いた。おっさんの灰色の目は、シオンの背中に全神経を集中させている。
シオンの青白い唇から、最初の旋律が溢れ出た。
「――――――――」
言葉ではない。それは、人間の声帯が放つ音の領域を遥かに超えた、純粋な「魂の振動」そのものだった。
哀しく、それでいて、聴く者の魂の最も柔らかい部分を優しく包み込むような、圧倒的に透き通った声。
その歌声が響き渡った瞬間、俺の右手首の包帯の下が、沸騰した鉛を注がれたかのように、猛烈な熱を持って暴れ始めた。
ドクン、ドクン、と狂ったような鼓動が鼓膜を突き破らんばかりに打ち鳴らされ、俺の視界のなかに、見えないはずの「世界の流れ」が、極彩色の糸となって激しく乱舞を始めた。
(……っ! なんだ、この歌……! 俺のなかの『波断ち』の感覚が、勝手に共鳴してやがる……!)
肺のなかの酸素が、彼女の放つ歌の圧力によって完全に外部へと搾り取られ、意識が急激に遠のいていく。
隣のバルドを見ると、彼は静かに目を閉じ、胸の前で親指を立てる独特の印を組んで、一心不乱に祈りを捧げていた。彼にとってこの歌は、世界の正しさを繋ぎ止めるための、絶対的な救いの音色なのだ。
だが、俺の目には、その奇跡の代償が冷酷なまでに映し出されていた。
シオンが歌を紡ぐたび、祭壇の上の空間の歪みが、まるで意志を持ったかのように収縮を始めた。ぐにゃぐにゃに溶けていた背景の岩肌が、透明な手によって丁寧に形を整えられるようにして、元の正しい輪郭へと戻っていく。
パチパチと爆ぜていた紫色の火花が消え、空間の傷口が、彼女の歌によって強制的に「縫い合わされて」いく。
しかし、そのたびに。
シオンの透き通るような白い肌から、急速に生気が失われていくのが分かった。
首筋の細い血管が、どす黒く浮き上がり、破裂しそうなほどに脈打っている。
歌に込める魔力が、彼女の血液そのものを燃料として焼き尽くしているかのように、身体が目に見えて痩せ細り、指先が折れそうな硝子細工のように小刻みに震え始める。
呼吸をするたびに、彼女の胸元が痛々しく上下し、その青白い唇の端から、一筋の赤い血がじわりと溢れ出た。
血は顎のラインを伝い、純白の礼装を真っ赤に汚しながら、石の祭壇の上へと滴り落ちる。
(……やめろ。それ以上歌えば、本当にお前の……!)
俺は、叫ぼうとして、喉が完全に固着していることに気づいた。
シオンの歌の波長が、俺の肉体の支配権すらも奪い、ただその「終わりへの旋律」を強制的に聴かせ続けている。
彼女は笑っていた。
血を流し、肉体を削り、魂の欠片を世界の傷口へと流し込みながら、彼女はその瞳の奥に、誰にも言えないほどの孤独な慈愛を湛えて、微笑んでいた。
十五年前に消えた、あの親父と同じ顔だ。
世界を救うという大義名分を盾に、残される者の絶望を一切無視して、たった一人で美しく散ろうとする、傲慢な英雄の顔。
俺の胸の奥で、ドロドロとした黒い怒りと、それを遥かに凌駕する圧倒的な拒絶の念が爆発した。
やがて、最後の旋律が世界のなかに溶けて消え、第一聖所の歪みは完全に消失した。
静寂が、以前よりも重く、擂鉢状の窪地を支配する。
「ハァ、……、あ、……、っ」
シオンの身体が、糸の切れた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。
「シオン!」
バルドが叫び、駆け寄る。
だが、シオンは自身の左手で右肘をきゅっと強く掴み、肩を激しく上下させながら、なんとか顔を上げた。
彼女は口元に溜まった血を袖で乱暴に拭い去り、振り返って、俺たちに向かって完璧な聖女の笑顔を張り付けた。
「……大丈夫です。これで、この島の人々は救われました」
その笑顔の偽善的な美しさが、俺の右手首を、ちぎれるほどに激しく疼かせた。
大丈夫なわけがない。その足元の血溜まりも、その震える指先も、すべてが破滅へのカウントダウンであることを、俺はもう知ってしまった。
「……大層な、お仕事の真似事だな。お嬢さん」
俺は、目が先に笑う不敵な笑みを、より深く、より狂暴に顔に張り付けながら、祭壇の上の彼女へと歩み寄った。
右手首の包帯を左手でギリギリと締め上げ、湧き上がる怒りを無理やり喉の奥へと連れ戻す。
「だが、約束を忘れるなよ。これは貸し借りの話だ。目的地に辿り着く前に、お前がただの肉塊になっちまっちゃ、俺がコーラルへ帰るための取り立てのしんどさが跳ね上がるんでね。せいぜい大事にしな、シオン」
シオンは、俺のその棘のある言葉を、じっと見つめ返していた。
彼女は、左手で右肘を掴んでいた力を、ゆっくりと緩めた。
そして、これまでの完璧な聖女としての「鎧」ではない、ほんのわずかに、年相応の少女としての、本物の、困ったような苦笑をその唇に浮かべた。
「そうですね。……肝に銘じておきます、カイさん」
引き返せない旅の歯車が、世界の痛みを含んだ潮風のなかで、ガチリと、さらに重い音を立てて噛み合った。
死へ向かう少女と、その運命を力ずくで叩き割りたい俺の、泥臭い巡礼の旅は、まだ始まったばかりだ。
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