5
「……よろしくお願いします、カイさん」
そう言ったシオンの青緑色の瞳のなかに、諦念の裏側に隠された、微かな「生」への微熱を見た気がした。
だが、その余韻を、世界の痛みが力ずくで引き裂いた。
ドクン、と。
砂浜の底、大地の最も深い髄のあたりから、脳漿を直接揺さぶるような不快極まりない重低音が響き渡った。
足元の純白の砂が、まるで沸騰した大釜の水面のように、ぐにゃりと波打ち、奇妙な波紋を描いて震え始める。
上空に浮かぶ巨大な浮遊島の影が、大気の激しい対流によって一瞬だけ歪にねじれた。
「チッ……! 噂をすれば、もう嗅ぎつけやがったか!」
大柄な男――バルドが即座に背中の巨大な鉄槌の柄を掴み、砂を爆発させながら身構えた。
その顔から先ほどの陽気さは完全に消え失せ、戦士の狂暴な血がその褐色の肌を一気に緊張させていく。
黒外套の男――セイジもまた、無言のまま一歩下がり、シオンを自らの背中へと隠すようにして立ちはだかった。黒い外套が風を孕んで大きく翻り、その手はすでに腰の刀の柄へと完全に吸い付いている。左目の下の古い刀傷が、周囲の緊迫した空気に呼応するように、赤黒く浮き上がって見えた。
砂浜の端、切り立った漆黒の岩壁の裂け目。
本来ならあり得ないはずの影の濃度が、まるで黒いヘドロのようにじわりと染み出し、急速に巨大な四足獣の形へと膨れ上がっていく。
断片獣。
ヴォイドの周囲に湧き出る、世界の痛みの破片。
現れたのは、通常のオオカミを三回りほども巨大化させたような、狂った牙を持つ獣だった。
しかし、その肉体には毛皮も肉も存在しない。すべてが、禍々しい赤黒い結晶の固まりによって構成されている。
硬質な結晶の関節が擦れ合うたびに、硝子をヤスリで削るような、耳を劈く不快な硬質な音が周囲の大気をキリキリと引き締め、割れた顎の隙間からは、ぬるりとした漆黒の瘴気がよだれのように滴り落ちては、白い砂をじゅうじゅうと不快な音を立てて腐らせていた。
グルルルル……と、大気を激しく振動させる地鳴りのような咆哮。
「シオン、下がってろ! 俺が正面を止める!」
バルドが吠えた。
背負っていた胴体ほどもある鉄槌を、両手の剛腕で力任せに引き抜き、砂浜を重戦車のように突き進む。
大柄な体躯からは想像もつかない踏み込みの鋭さ。一歩ごとに砂がクレーターのように弾け飛び、バルドの放つ圧倒的な「力」の質量が、結晶の巨獣へと向かって真っ直ぐに炸裂する。
「オラァッ!」
渾身の上段叩きつけ。
風を強制的に押し潰すような重低音が響き、鉄槌の頭が断片獣の側頭部へと正確に命中した。
まともに入れば、通常の魔獣であれば頭蓋骨ごと肉を粉砕し、一撃で肉塊に変えるはずの破壊力だ。
ガキィィィィィィン!
しかし、砂浜に響き渡ったのは、巨大な鐘を鉄の棒で殴りつけたかのような、硬質で不条理な金属音だった。
火花が真っ赤に散る。
断片獣の頭部は、数本の細い亀裂が入っただけで、砕け散る気配すら見せない。
それどころか、化け物はバルドの破壊的なパワーをその結晶の肉体で強引に受け流し、その反動を利用するようにして、巨体を反転させた。
割れた赤い結晶の爪が、体勢を崩したバルドの無防備な胸元へと、凄まじい速度で突き出される。
「しまっ……!?」
バルドの明るい茶色の瞳に、初めて明確な焦燥が走った。あまりの巨躯ゆえに、一度全力で振り抜いた鉄槌の慣性を、すぐには殺しきれない。
「『凪げ』」
その刹那、戦場全体を凍りつかせるような、圧倒的に透き通った声が響いた。
シオンだ。
彼女は目を閉じない。どこか遠くを見つめるような、まっすぐで、世界の終わりを見届けるかのような青緑色の瞳のまま、その美しい唇を微かに震わせて、魂の波長を操作する旋律を紡ぎ出した。
詠み人の「断ち歌」。
空気が、一瞬にして冷たく張り詰める。
シオンの歌声が結晶の狼へと届いた瞬間、その狂暴な動きが、目に見えて鈍くなった。
赤黒い結晶の身体が、まるで水中に沈められたかのように微かに震え、空間を切り裂いていた爪のキレが、劇的に失われていく。
詠み人の歌が、化け物のなかのヴォイドの波長を一時的に乱し、その存在の強度を内側から削ぎ落としたのだ。
だが、化け物の殺意までは消し去れない。
動きが鈍ったとはいえ、結晶の鋭い爪は、依然としてバルドの喉元を確実に引き裂く軌道を描いて迫り続けている。
一歩後ろで控えていたセイジが、無音の踏み込みで刀を抜こうとするが、間合いが僅かに遠い。プロの目が、その「一瞬の遅れ」を冷酷に察知し、その灰色の瞳が僅かに狭まる。
(……動け、俺の、クソッタレな身体)
その時、俺の思考は完全に停止していた。
考えるよりも早く、肉体が勝手に砂を蹴っていた。
全身の筋肉がちぎれそうなほどの激痛を訴え、右手首の傷跡が火傷のように熱を帯びる。
だが、その痛みが、俺の脳内に、十五年前に親父が俺を小舟に放り投げたあの瞬間の、圧倒的な「背中の熱」を鮮烈に蘇らせていた。
逃げない。置いていかない。あの日と同じ無力を、俺は絶対に繰り返さない。
俺は無駄な叫び声ひとつ上げず、ただ一歩の踏み込みで、バルドと断片獣のわずかな隙間へと、滑り込むようにして割り込んだ。
腰の傷だらけの鉄剣が、音もなく鞘を離れる。
引き抜かれる刃の金属音すら、周囲の潮騒のなかに完全に消え去っていた。
それを見たセイジの目が、驚愕によってミリ単位で引き絞られるのが、視界の端で見えた。
俺の戦い方に、バルドのような圧倒的な力はない。
親父から泥水のなかで、骨の髄まで叩き込まれた「波断ち」の真髄。
それは、敵の狂暴な力に正面から逆らうことではない。
敵が放つ運動エネルギーの「流れ」を、皮膚の表面で細かに読み取り、その力が切り替わる、最も抵抗の少ない「タイミング」の凪に、己の刃のすべてを『置く』ことだ。
断片獣の結晶の爪が振り下ろされる、そのわずかな軌道の隙間。
暴風の目のような、一瞬の静寂の空間へ、俺はなまくらの鉄剣をそっと滑り込ませた。
大振りはしない。
見ているセイジやバルドの目には、まるで俺が、化け物の結晶の肉体をそっと撫でるような、驚くほどに軽い、無駄のない一振りに見えたはずだ。
刃が、断片獣の首の関節――赤黒い結晶の結合部の、最も歪みが集中している一点へと、ピタリと噛み合う。
その瞬間。
ドォォォォォォォンッ!
砂浜全体を激しく揺さぶるような、爆発的な衝撃音が炸裂した。
当たった瞬間にだけ、俺の全身のバネと、敵自身の突進の力が完全に同期し、何倍にも増幅された質量となって刃の上に爆ぜる。
これが「波断ち」の恐怖だ。当たった相手にしか分からない、異常なまでの、世界の重みをそのまま叩きつけたかのような「重さ」。
パキィィィィン、と硝子が大量に砕け散るような美しい音が響き、断片獣の巨大な結晶の頭部が、首の結合部から綺麗に切断されて宙を舞った。
頭を失った胴体は、勢いのまま白い砂の上を激しく転がり、数回不格好に痙攣した後、サラサラとした黒い砂となって、跡形もなく崩れ落ちていく。
静寂が、再び砂浜を支配した。
ひたひたと、ぬるい波の音だけが、何事もなかったかのように響く。
「はぁ、……はぁ、……っ、あ」
俺は剣の先を砂に突き立て、なんとかその場に立とうとした。
だが、その直後だった。
身体の芯から、すべての熱量が一瞬にして引き抜かれるような、凄絶な虚脱感が襲いかかった。
アドレナリンによって強制的に麻痺させられていた漂流のダメージ、脱水、そして今の無茶な踏み込みによる筋肉の断裂。それらのツケが一気に、津波となって俺の肉体を押し潰した。
「ガハッ……あ、……っ」
視界がぐにゃりと反転する。
俺は鉄剣を手放さないことだけに指の力を費やし、そのまま、白い砂の上へと横倒しに激しく崩れ落ちた。
側頭部が熱い砂に衝突し、細かな粒が容赦なく口や目に飛び込んでくるが、それを拭う腕すら、もうピクリとも動かない。
肺が狂ったように過換気を繰り返し、浅い呼吸を引き攣るようにして貪る。視界の四隅から、急速にどす黒い闇が侵食してくるのが分かった。
「おい! カイ! しっかりしろ!」
遠く、歪んだ世界の向こう側で、バルドの焦ったような叫び声が響いた。
重い地響きを立てて、大男がこちらへと駆け寄ってくる。その太い両腕が、ボロ雑巾のようになった俺の身体を強引に抱き上げ、太陽の直射日光を遮る、岩陰の僅かな木陰へと運び去るのを感じた。
「無茶な真似を……。漂流直後、それもこの衰弱しきった肉体で『波断ち』など放てば、こうなることは明白だろう」
セイジの冷徹な声が、すぐ近くで聞こえた。
皮手袋に包まれた男の指先が、俺の首筋の脈拍を乱暴に、だが的確に確認していく。その手つきには、戦場で数え切れないほどの負傷者を見てきた者だけが持つ、特異な慣れがあった。
「脈は速いが、ヴォイドの瘴気による内面汚染は極めて軽度だ。ただの深刻な肉体疲労と脱水、それから、筋肉の過度な酷使によるショック状態だな。……シオン、神殿の聖水を」
「はい」
衣服の絹が擦れる微かな音のあと、俺の頭が、誰かの柔らかく温かい膝の上へとそっと乗せられた。
銀髪の少女――シオンの、あのどこか浮世離れした、甘く切ない百合のような匂いが、鼻腔の奥を優しく満たしていく。
「カイさん、少しだけ、喉を通しますね。無理に飲み込もうとしないで、自然に流し込んでください」
ひび割れて血の滲む俺の唇に、ひんやりとした、驚くほど澄んだ液体の入った小瓶の縁が押し当てられた。
ぬるりとした水滴が、砂漠のようになった俺の口内の粘膜へと染み込んでいく。
神殿の聖水。詠唱院が精製しているというその気付け薬は、喉を通った瞬間、まるで凍てつく氷の刃が体内の血管を駆け巡るかのような、強烈な刺激を俺の神経へと与えた。
「――っ、ゴホッ! ゲホッ……!」
激しく咳き込みながら、俺の意識が、暗闇の底から強引に引き揚げられた。
視界を開くと、すぐ目の前に、シオンのあの淡い青緑色の瞳があった。彼女は自身の右肘をきゅっと掴んだまま、本当に消え入りそうなほどに痛々しい、心配そうな表情で俺を見つめていた。
「気が付きましたか……。本当に、良かったです」
彼女はホッとしたように、ほのかな、本物の温かみを含んだ笑みをこぼした。
「……ハッ、はは。面目ねえな。お嬢さんたちの前で、格好よく一発決めてやったつもりが、このザマだ」
俺は掠れた声で自嘲気味に呟き、強引に口の端を吊り上げて、目が先に笑う不敵な笑みを顔に張り付けた。自分のなかの情けない弱さを、これ以上こいつらに見せたくはなかった。
「笑い事じゃねえよ、お前!」
バルドが、近くの岩に腰掛けながら、呆れたように、だがその茶色い瞳に隠しきれない敬意の色を滾らせて吠えた。
「あんなボロボロの体で、よくもまああの結晶の化け物を一刀両断にしやがったな。俺の鉄槌が火花を散らして弾かれたってのに、お前の剣は、まるで水面を撫でるみたいに滑らかだった。ソウルの息子ってのは、全員あんな化け物じみた剣を使うのかよ」
「力任せに振るうから、弾かれるんだよ、大クジラ」
俺は木陰の岩壁に背中を預け、右手首の古い包帯を左手できつく締め直しながら、わざと棘のある口調で言い返した。
「親父の剣は、流れを読むためのもんだ。化け物が突っ込んできたその力の『継ぎ目』に、ただ刃を置いてやっただけさ」
その俺たちのやり取りを、少し離れた場所に立つセイジが、無言のままじっと見つめていた。
男は腰の刀の柄から手を離し、腕を組んだまま、主語を省いた独特の低い声でぽつりと呟く。
「……粗いが、本物だ。ソウルは、確かにその技術の真髄をお前に遺したらしい。だが、今のままでは、次の一振りで本当にお前の腕の骨が自壊するぞ」
「へっ、おっさんに心配されると、背筋が寒くなるな。それより、約束だぜ、シオン」
俺は少女の名前を直接呼び、彼女の青緑色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、お前らの化け物退治を一度手伝った。お前らの足手まといにならねえことも証明してやった。だから……俺を聖都ミラージュの大書庫へ連れて行ってくれ。俺は、どうしてもコーラルへ帰らなきゃいけないんだ」
シオンは、俺のその言葉に、また少しだけ「間」を置いた。
彼女の綺麗な瞳が、切なげに揺れる。何か残酷な真実を喉の奥に隠しているかのような、痛々しい沈黙。
だが、彼女はすぐにその迷いを打ち消すように深く息を吸い込むと、しっかりと頷いた。
「はい。約束します、カイさん。私たちはこれから、このベルタ島の中心部にある『第一聖所』の巡礼を終えた後、聖都へと向かう船を出します。あなたの故郷への鍵を、必ず一緒に見つけましょう」
「……よし、決まりだ」
俺は、ひび割れた唇を舌で湿らせながら、ゆっくりと目を閉じた。
全身の筋肉が未だに熱を持ってジクジクと痛むが、体内に流れ込んだ聖水の効果か、指先の痺れは確実に薄れ始めていた。
「出発は、お前が最低限歩けるようになってからだ。慌てる必要はねえよ、カイ。まずはそのボロ雑巾みたいな体を少しは休めな」
バルドが、携帯用の乾燥肉の塊を俺の膝元へと放り投げながら、豪快に笑った。
白い砂浜の木陰、未知なる海の呼吸がひたひたと響くなかで、俺たちの歪な共同戦線が、確かな輪郭を持って動き始めようとしていた。
隣で静かに佇む銀髪の少女が、その旅の終わりに、自らの命を焼き尽くす「最後の歌」を見つめていること。そして俺が、その運命の喉元を力ずくで叩き割るために戦うことになるのを、この時の俺は、ただ静かに、その胸の奥の炎として滾らせ始めていた。
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