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最後の歌を歌えば死ぬという少女の、手を引いた。——世界を救う義務なんて、俺にはない  作者: じょな


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ご覧いただきありがとうございます!

少しでも「おっ、面白いな」「続きが気になる」と思ってくだされば、ページ下部にある【ブックマーク登録】や【評価(星・いいね)】で応援していただけると、執筆の凄まじい原動力になります!

それでは、お楽しみください!


「息を吹き返してくれたのですね」という、鈴を転がすような少女の声の残響が、白く灼けた砂浜の熱気のなかに溶けていく。


俺は仰向けに倒れたまま、激しく込み上げる咳を幾度も繰り返し、胸の奥に残る苦い海水を吐き出し続けた。喉の奥が裂けたように熱く、呼吸をするたびに、乾ききった気管が引き攣るような痛みを訴える。視界の端では、エメラルドグリーンの不自然なほど澄んだ海が、サラサラと波音を立てて引いては返していた。その白波の向こう、あり得ない高度の虚空には、無骨な岩肌と青々とした巨木の森を戴いた巨大な浮遊島が、物理法則をあざ笑うかのように悠然と鎮座している。すべてが俺の知る、濁った油とヘドロの臭いが漂うコーラルの海とは違っていた。


目の前で膝をついている銀髪の少女――まだその名を知らぬ彼女は、俺が狂ったように咳き込む姿を、淡い青緑色の瞳に深い痛念の色彩を滲ませて見つめていた。彼女の細い指先が、自身の右肘をきゅっと強く掴み、白い布地の礼装を小さく歪ませている。それは単なる気まずさの表現ではなく、内に渦巻く何か巨大な動揺や、彼女自身の運命が課す重圧を必死に抑え込もうとするかのような、奇妙に張り詰めた、痛々しいまでの防衛の仕草だった。


俺の右手首が、ボロボロの包帯の下で、ドクン、と熱く脈打った。かつて親父に叩き込まれた剣の記憶、あるいは母さんの形見の布が巻かれていたあの場所。そこが、この少女が放つ微かな空気の振動と、まるであの深海の底で聞いた謎の歌声の残響と調和するかのように、不気味なほど一定の規則性を持って共鳴している。


(……やっぱり、この女が。あの暗闇のなかで、俺を――)


カサリ、と。背後の砂が微かに擦れる音が、俺の思考を強引に断ち切った。


それは、人間が歩くときに発する足音としては、あまりにも不自然なほどに「音の質量」が欠落した響きだった。気配の波長が、完全に周囲の潮騒と風の音に同調している。スラムの路地裏で、背後から迫る泥棒や刺客の殺気を察知することだけで生き延びてきた俺の野生的な本能が、一瞬にして最大級の警報を脳の芯へと叩き込んだ。


「う……っ」


俺は軋む筋肉に鞭を打ち、砂に半ば埋もれていた鉄剣の柄を、文字通り指の骨が砕けんばかりの力で握り締め、半身を起こした。そのまま、迫る気配の主を睨みつける。


少女を庇うようにして、俺の視界のなかに滑り込んできたのは、黒い外套を深く羽織った長身の男だった。白髪交じりの黒髪を、軍人のように短く、容赦なく刈り上げている。その顔の左目から頬にかけて、古く、赤黒くひび割れた一本の刀傷が、彼の人生の凄絶さを雄弁に物語っていた。男の目は、暗い灰色の、凍りついた湖底のような光を湛えていた。一切の感情を排したその氷の眼が、俺の顔、職人特有の手入れが施された鉄剣の柄へと向けられる。


一瞬にして、周囲の熱気が消え去り、極寒の吹雪のなかに放り込まれたかのような錯覚が全身を駆け抜けた。男は、まだ武器を抜いていない。ただ、腰に下げられた無骨な黒い鞘の刀、その柄の付近に、皮の手袋に包まれた指先をかすかに近づけているだけだ。それなのに、俺の皮膚は、すでにその刃によって鋭利に切り裂かれているかのような、圧倒的なプレッシャーを感じていた。圧倒的な「格の差」。こいつの前に出れば、俺がコーラルで磨いてきたはずの、小手先の剣技や小賢しい立ち回りのすべてが、紙細工のように無惨に叩き切られる。その絶対的な恐怖が、喉を詰まらせた。


「おい、そこまでにしておけ。セイジ」


地鳴りのような太い声が、男たちの間に割り込んだ。俺のすぐ横に立っていた、人間の胴体ほどもある巨大な鉄槌を背負った褐色の肌の大柄な男が、ふぅ、と大きなため息をつきながら、自身の頭を乱暴に掻きむしった。その明るい茶色の瞳には、黒外套の男に対する微かな苦言の念が浮かんでいる。


「ただの遭難者のガキだ。全身ボロボロで、服のあちこちが塩を吹いてやがる。ほらみろ、意識が戻った途端に、怯えて猫みたいに毛を逆立ててるじゃねえか。そんなに睨みつけてやるなよ、お前のその眼は、カタギの奴ならそれだけで心臓が止まるぜ」


「……違う」


セイジと呼ばれた黒外套の男の口から、短く、硬質な一言が漏れ出た。その声には、一切の揺らぎがなかった。男の目は、大柄な男の言葉を完全に無視し、俺の右手、その指先の微妙な配置、および鉄剣の全体のバランスと、柄に巻き付けられた古い革紐の擦り減り方に固定されていた。


「ただのガキではない。足の置き方、重心の掛け方。……ソウルの、残滓がある」


ソウル。


その二文字が空間に落ちた瞬間、俺の胸の奥で、冷たい氷の楔が突き刺さったかのような衝撃が走った。忘れるはずのない、あの呪わしい父親の名前。俺を泥水に叩きつけ、強くなければ誰も救えないと冷酷に言い放ち、最後にはたった一人で絶望の渦へと消えていった、あの男の名前が、なぜこの見知らぬ島の、見知らぬ男の口から出てくるのか。


セイジの灰色の目が、さらに鋭さを増して俺を射す。


「お前が……カイか」


男が、確固たる確信を持って、俺の名前を呼んだ。


「な……っ!?」


驚愕のあまり、俺の喉からかすれた声が漏れた。名乗ってもいない。この島に流れ着いてから、俺は一言も自らの素性を開かしていない。それなのに、この初対面のおっさんは、俺の構えと、このなまくらの鉄剣を見ただけで、俺がソウルの息子であるカイだと断定したのだ。


大柄な男の瞳も、驚きに限界まで見開かれた。「おい、セイジ、正気かよ!?」と、彼は背中の鉄槌の柄を思わず掴み直した。「ソウルって、あの十五年前に消えた、神殿の歴史にすら傷を刻んだっていう、伝説の『波断ち』の……? なんでそんな男の技を、こんな薄汚れた遭難者のガキが受け継いでるんだ?」


「……ふん」


俺は、自分のなかの動揺を必死に押し殺し、割れた唇から滲む血の鉄の味を舐めとりながら、強引に口の端を釣り上げた。目が先に細くなり、その後に口が開く、いつもの傲岸不遜な笑み。スラムの路地裏で、舐められたら終わりだという極限状態を生き抜くために肉体に染み込ませた、俺のたった一つの「鎧」だ。俺は鉄剣を杖のようにして、砂を掴みながらゆっくりと上半身を完全に起こした。


「おいおい、おっさんたち。人の顔を見て、勝手に死んだ親父の名前やら何やらを並べ立てるのは、あまり上等な趣味じゃねえな。見ての通り、俺はただの哀れな行き倒れだ。コーラルって街の、しがない雇われ人の真似事をしてただけでね。それより……教えてくれ。ここは一体どこだ? コーラルへ戻る船は、どこに行けば乗れる?」


俺が放った「コーラル」という言葉を聞いた瞬間、目の前で静かに佇んでいた銀髪の少女の表情が、凍りついたように静止した。青緑色の瞳が、信じられないものを見たかのように微かに震える。彼女は再び、自身の右肘をきゅっと強く掴み直した。その細い指先が、白銀の織物に深くめり込んでいく。


「コーラルは……カイさん。あそこは、十五年前の『大いなる波』のときに、大魔獣ヴォイドによって完全に消滅したはずです。現在の詠唱院の海図にも、その名は残されていません。歴史からも、地図からも、すでに失われた場所なのです」


「……消滅? 何を言ってやがる、お嬢さん」


頭の芯が、急激に冷えていくのを感じた。脳裏の裏側で、ドバドバと不快な泥水が流れ込んでくるような感覚。冗談にしては悪質すぎるし、この少女の瞳には、一切の欺瞞も、悪意も含まれていなかった。どこまでも透き通った、真実を告げる神官特有の、残酷なまでの純粋さだけがあった。


「コーラルは、今でも俺たちのスラムがある。ガキどもだって、腹を空かせながら、泥にまみれて確かに生きてる。消滅なんかしてねえよ。俺はさっきまで、あそこの防波堤で……」


そこまで言って、俺は自分の言葉の矛盾に気づき、言葉を失った。さっきまで。そうだ、俺はさっきまでコーラルの防波堤にいた。だが、そこに現れたのは大魔獣の「残滓」だった。空間を叩き割り、すべてを無に返そうとした漆黒の奔流。俺はあれに立ち向かい、親父の剣を模倣して『波断ち』を放とうとし――そして、完全に敗北して、海の底へと沈んだのだ。


(じゃあ、あの街は……俺が今まで生きてきた、あの薄暗いスラムは、一体何だったんだ……?)


混濁する思考の隙間に、かつて旅の商人が酒場の片隅でおこぼれのように語っていた、不気味な噂話が蘇る。『コーラルなんて街は、十五年前に死んだ奴らの幽霊が、未練だけで作り上げている幻影に過ぎない。あそこにいる奴らは、全員自分が死んでいることすら気づいていないのさ』


背筋に、ぞっとするような冷たい汗が奔る。俺が信じてきた現実が、足元からサラサラと白い砂のように崩れ去っていくような、圧倒的な眩暈。俺の呼吸が浅くなり、鉄剣を握る手が小刻みに震え始める。


「本当、だな」


セイジが、俺の動揺を見透かすように、一歩、歩を進めた。しかし、彼は俺を正面から威圧することはせず、視線を遠い水平線の彼方へと向けたまま、低い声で言葉を重ねる。


「その剣。なまくらだが、手入れの癖がソウルのものだ。刃の研ぎ方、峰に残された僅かな傷の残し方。正式な訓練を受けていないが、お前が右手首の古い包帯を気にするその仕草……。間違いない。お前が、あの男が外海に遺した、唯一の血脈だ。私はかつて、あの男と共に神殿の戦列に立ったことがある」


「親父を……知っているのか。おっさん」


「……ああ」


短い返事。それ以上の感傷的な説明を、セイジは拒絶するように再び黙り込んだ。彼のなかに眠る過去の傷跡の深さが、その沈黙の質量となって俺たちにのしかかる。


「待ってくれよ、じゃあ、こいつが本当にあのソウルの息子なのかよ」


大柄な男が、太い腕を大きく振り回しながら、俺とセイジの顔を交互に見つめた。それから、彼は少しだけ呆れたように息を吐くと、俺に向かって悪びれずに白い歯を見せた。


「信じられねえな。英雄の息子が、こんな辺境のベルタ島に、ボロ雑巾みたいに流れ着くなんてよ。……俺はバルドだ。見ての通り戦士をやってる。名乗るのが遅れてすまねえな、カイ。さっきは怪しんじまって悪かった」


「ベルタ島……ここが、外の世界の島か」


俺は痛む頭を押さえながら、再び上空を仰ぎ見た。群青の空に、悠然と浮かぶ巨大な岩塊。そこから流れ落ちる滝の白。コーラルの濁った空気とは違う、どこまでも透き通った、だが、俺にとってはあまりにも広すぎて、己の無力さと孤独を痛感させる新しい世界。俺は、もうあの場所に帰れないのかもしれない。帰るべき家も、あの生意気なガキどもも、すべては遠い海の彼方、あるいは、最初から存在しなかった幻なのか。


絶望が、冷たい触手のように俺の心臓を縛り上げようとした、その瞬間。


「カイさん」


銀髪の少女が、俺の前に静かに膝をついた。純白の礼装の裾が、白い砂の上に美しく広がる。裸足のつま先が、砂の熱に微かに耐えるようにして丸まっていた。彼女の全身からは、どこかこの世の者ではないような、微かな神聖さと、それ以上の圧倒的な「薄幸」の気配が漂っていた。


「私はシオン。神殿の『詠み人』として、世界を巡る巡礼の旅をしています。あなたが本当にコーラルへ帰りたいのなら、私たちの旅に、ついてきてください」


「シオン!?」


バルドが驚いて声を上げる。「何言ってんだよ! 俺たちの旅がどれだけ危険か分かっているだろ! 詠唱院の目を盗んで、各地の聖所を巡るんだぞ。こんな死にかけの、素性の知れないガキを連れて行けるかよ!」


「分かっています、バルド」


シオンは視線を逸らさなかった。まっすぐに、その青緑色の瞳で、俺の目の奥を見つめ続けている。


「ですが、私たちの目的地である『聖都ミラージュ』の詠唱院本部には、世界のすべての海域、すべての失われた島々の記録が保管されている『大書庫』があります。そこなら……カイさんの故郷の本当の姿、それから、そこへ帰るための手がかりが、必ず見つかるはずです」


聖都ミラージュ。すべての詠み人たちの頂点であり、この世界の精神的支柱。そして――親父がかつて「すべてが腐っている」と吐き捨てた、巨大な宗教組織の本拠地。その名を聞いた瞬間、俺の頭の中で、親父の最後の言葉と、目の前の少女の姿が奇妙に重なり合った。


「海図、か」


俺は、小さく呟いた。嘘をついている目ではなかった。彼女の瞳の奥にあるのは、純粋な、そしてどこか哀愁を帯びた、他者への本物の優しさだ。だが、そのシオンの美しい瞳のなかに、俺は、決定的な「違和感」を見出していた。


(このお嬢さん……笑っているのに、なんで、こんなに冷たいんだ?)


彼女の笑顔は、完璧だった。聖職者として、誰の心も救うような、そんな暖かな光に満ちていた。だが、その笑顔の裏側には、まるで「自分という存在が明日には消えてしまう」ことを知っているかのような、絶対的な諦念が張り付いている。死の匂い。十五年前にコーラルが消えた日、親父の背中の向こう側に広がっていた、あの抗いようのない死の気配が、この少女の細い身体のまわりを、ひっそりと取り囲んでいるように見えた。


「ただし」


セイジが、冷徹な声を挟んだ。その手は依然として刀の柄の近くにあり、彼の発する威圧感は1ミリも衰えていない。


「シオンの巡礼は、死の旅路だ。各地の痛みが集まる聖所を巡り、その身に世界の穢れを宿しながら、『最後の歌』へ向かう。ただのガキがついてきて、命を保てる場所ではない。ソウルの息子であろうと、ここで犬死にするだけだ」


最後の歌。


その単語が、俺の脳裏に、不気味な予感となって刻まれる。理由までは分からない。だが、すべてのロジックが、俺の頭の中でピシャリと噛み合った。彼女は、世界を救うために、あるいは何か別の目的のために、自ら死ぬために旅をしているのだ。その「最後の歌」を歌い切ったとき、この少女の命は、おそらくこの世界から完全に消滅する。


(ふざけるな……。親父と、まったく同じじゃねえか)


勝手に一人で何かを背負い、勝手に納得して、残される人間のことなど微塵も考えずに、笑いながら消えていく。俺がこの世で最も憎み、最も拒絶したあの親父の生き方を、この目の前の銀髪の少女もまた、なぞろうとしている。胃の奥から、ドロドロとした熱い怒りが、再び湧き上がってくるのを感じた。


「……いいぜ」


俺は、目が先に笑う不敵な笑みを、より深く、その顔に張り付けた。右手首の古い包帯を、左手でギリギリと締め上げる。傷跡が、火傷のように熱い。だが、その痛みが、俺が今ここで生きているという唯一の証明だった。


「聖都ミラージュだろうと、地獄の底だろうと、ついていってやるよ。俺には、どうしてもコーラルへ帰らなきゃいけない理由がある。そのためなら、お嬢さんの護衛でも、なんだってやってやるさ。なにより、その『死ぬための旅』ってやつに、俺の親父の影がチラついてるのが、最高に気に入らねえ」


嘘だ。コーラルへ帰りたいという表の欲求は、本物だ。だが、それ以上に、俺の無意識の底にある「本当の欲求」が、この少女から目を離すなと激しく命令していた。俺のせいで、誰かが消えるのは、もう絶対に嫌だ。親父のときのように、ただ無力に、誰かの背中を泣きながら見送るだけのガキのままでは、絶対に終わらせない。この少女が死ぬというのなら、その運命の喉元を、このなまくらの鉄剣で叩き割ってやる。


「……命の心配なら、俺じゃなくて、この先現れるっていう化け物たちにしてやるんだな。俺の剣は、親父譲りで、ちっとばかり手癖が悪いんだ」


俺は、鉄剣の先を砂に深く突き立て、それを杖代わりにして、ふらつく身体を無理やり立ち上がらせた。全身の骨が悲鳴を上げ、視界が火花を散らすように歪む。それでも、俺は一歩も引かず、セイジの灰色の目を正面から睨み返した。足元の砂が、俺の覚悟を確かめるように、じわりと熱を伝えてくる。


シオンは、俺のその歪な生き汚さと、瞳の奥に宿る漆黒の炎のなかに、何かを感じ取ったようだった。彼女は、左手で右肘を掴んでいた力を、ゆっくりと緩めた。精度を保ったままで、これまでの聖職者としての完璧な「鎧」ではない、ほんのわずかに、年相応の少女としての、本物の、柔らかな笑みをその唇にこぼした。


「そうですね。……よろしくお願いします、カイさん」


波の音が、激しく砂浜を叩く。引き返せない旅の歯車が、世界の痛みを含んだ潮風のなかで、ガチリと、重い音を立てて噛み合った。俺と、死へ向かう少女の、泥臭い巡礼の旅が、今、ここから本当に始まる。


お読みいただき、ありがとうございました!


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