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それでは、お楽しみください!
足音が、遠ざかっていく。
いや、近づいているはずなのに、俺の感覚の網が急速に縮小し、世界の輪郭が内側から融解していくようだった。
白い砂浜の熱も、エメラルドグリーンの海の輝きも、上空に浮かぶ浮遊島の非現実的な質量も、すべてがすり硝子の向こう側のようにかすみ、急速にその意味を失っていく。
(……ああ、また、引きずり込まれる)
皮膚の表面をじりじりと灼いていた日差しが消え、代わりに、骨の髄まで凍てつかせるような、あのコーラルの海底の冷気が足元からせり上がってくる。
俺の意識は、肉体という壊れかけた器を離れ、再び、あの昏い記憶の底へと真っ逆さまに墜落していった。
そこは、音のない世界だった。
いや、正確には「一つの音」しか存在しない世界だ。
ひたひたと、絶え間なく鳴り続ける、ぬるい波の音。
「――構えが甘い。腰が浮いているぞ、カイ」
低く、硬く、一切の容赦を排除した男の声が、湿った大気を震わせて俺の鼓膜に突き刺さった。
視界がひらけると、そこはコーラルの外縁にある、うち捨てられた古い造船所の跡地だった。
半ば腐りかけた木材が散乱し、錆び果てたクレーンのアームが、巨大な死骸のように夕闇の空を睨みつけている。
足元には、満潮によって侵入してきた海水が数インチの深さで溜まっており、一歩動くたびに、冷たい水しぶきが上がってズボンの裾を濡らした。
俺は、まだ十歳にも満たない、痩せこけたガキだった。
両手で握り締めているのは、自分の身長ほどもある、ずっしりと重い木刀だ。
手のひらはとっくに摩擦で皮が剥け、固まった血と泥で真っ黒に変色していた。指の関節が強硬にこわばり、自分の意志ではもう開くことすらできない。
その俺の数歩先に、その男――ソウルが立っていた。
無造作に伸ばされた黒髪。顎を覆う不揃いな無精髭。
纏っているのは、潮風に晒されて随所が擦り切れた、灰色の古びた陣羽織。
その手には、刃渡り四尺はあろうかという、禍々しいまでに使い込まれた大鉄剣が握られていた。
親父は、構えすらとっていない。ただ剣の先を水面に沈め、退屈そうに、だが底知れない昏さを孕んだ茶色の瞳で、俺の全身をねめつけていた。
「もう……うごけないよ、父さん」
俺の声は、情けないほどに震えていた。
全身の筋肉が疲労で痙攣し、熱を持った膝がガタガタと音を立てて笑っている。
呼吸をするたびに、喉の奥から酸っぱい胃液の匂いが込み上げてきて、涙がぼろぼろと溢れて止まらなかった。
「動けないのではない。動こうとするから動けないのだ」
ソウルは、冷酷に言い放った。
一歩、親父が足を動かす。水面が、微かな音を立てて揺れた。
だが、その動きには「重さ」が全くなかった。まるで水面を滑るアメンボのように、質量を感じさせない、不気味なほどに滑らかな移動。
「剣を振るうということは、己の腕力を誇示することではない。ましてや、鉄の塊を力任せに振り回すことでもない。世界を巡る『魂の波長』を読み、その流れに己の刃を『置く』ことだ」
「そんなの……わかんないよ……!」
「分からないなら、骨に刻め」
次の瞬間、親父の姿が視界から完全に消えた。
(――ひだり!?)
本能的な恐怖が、動かないはずの俺の身体を強引に跳ね上げさせた。
俺は木刀をがむしゃらに左側へと振り抜いた。だが、そこには何もなかった。風を切る虚しい音だけが響く。
「遅い。波の頂点を見てから動いては、すでに死んでいる」
背後からの声と同時に、俺の脇腹に、猛烈な衝撃が走った。
親父の剣の平が、俺の肉を容赦なく叩き伏せたのだ。
「がはっ……!」
水のなかに激しく転倒し、口と鼻から汚れた海水が侵入してくる。
あまりの痛みに一瞬、息ができなくなった。肋骨にヒビが入ったような、鋭い痛みが走る。
泥水の中に這いつくばりながら、俺は激しく咳き込み、親父の足元を睨みつけた。
憎かった。
この男が、心の底から憎かった。
他の街の子供たちの父親は、もっと優しい。魚の捕り方を教えてくれたり、夜には暖炉の側で面白い絵本を読んでくれたりする。
だが、この男は違った。
家に帰ってきたかと思えば、俺をこのような薄暗い廃墟へ連れて行き、泥水の中に叩ききることがすべてだった。
母さんが、酷い病にかかって、毎晩苦しそうに咳をしていた時も、この男はコーラルにいなかった。
「詠唱院の連中が、世界の根幹を腐らせている」だの「俺が行かなければ、次の波でこの街が消える」だの、わけのわからない大義名分を並べ立てて、ずっと外海へ出たままだった。
そして、母さんがついに息を引き取った、あの嵐の夜。
枕元で泣きじゃくる俺の隣に、親父の姿はなかった。
翌朝、すべてが終わった頃に、泥と血にまみれて帰ってきた親父は、横たわる母さんの遺体を一瞬だけ見つめ、それから、何も言わずに俺の前に木刀を放り投げたのだ。
『泣いている暇があるなら、剣を握れ。泣いても、誰も救えない』
冷徹極まりない、その一言。
母さんの死すら、この男にとっては剣を振るう理由の、一つに過ぎないのだと思った。
俺のせいで、母さんが死んだのではないか。俺がもっと強ければ、何かを助けられたのではないか。
幼い俺の胸に植え付けられたのは、圧倒的な「罪悪感」と、それを植え付けた父親への、深い、深い、拒絶の念だった。
「立て、カイ。お前の中に流れている血は、ただの飾りか」
ソウルの声が、上空から降ってくる。
「……うるさい。うるさい、うるさい!」
俺は泥水を撒き散らしながら、ふらつく足で立ち上がった。
右手首の、母さんの形見の布を巻きつけたその場所が、怒りで激しく脈打っている。
俺は両手で木刀を握り直し、親父の胸元めがけて、渾身の力で突進した。
力任せの、何の技術もない、ただの感情の爆発。
親父は、眉ひとつ動かさなかった。
大鉄剣を構えることすらせず、ただ剣先を水面に落としたまま、俺が間合いに入るのを待っている。
(殺してやる。こんな奴、大嫌いだ――!)
俺の木刀が、親父の脳天へと振り下ろされる、まさにその瞬間。
ソウルの大鉄剣の先が、まるで生き物のように、水面から跳ね上がった。
それは、力で俺の木刀を弾き飛ばしたのではなかった。
俺の木刀が放つ下向きの運動エネルギー、その「流れ」の最も脆弱な分岐点に、親父の刃の腹が、吸い付くようにして『触れた』のだ。
摩擦の音すら、しなかった。
俺の全力の一撃は、親父の剣のわずかな傾きによって、まるで水流が岩を避けるようにして、完全に軌道を逸らされた。
それどころか、俺が込めたはずの力が、親父の剣を経由して、そのまま俺の身体へと逆流してくる。
「これが、『波断ち』だ」
ソウルの低い声が、耳元で聞こえた。
ドン、と、爆発的な衝撃が俺の全身を突き抜けた。
自分が放った力が、何倍にも増幅されて自らの肉体に返ってきたのだ。
俺の身体は軽々と宙を舞い、今度は造船所の崩れかけた壁に、背中から激しく叩きつけられた。
「カハッ、……、あ……」
木刀が手からこぼれ落ち、水面に虚しい音を立てて浮かぶ。
背骨が砕けたかと思うほどの衝撃。俺はもう、指先一つ動かすことができなかった。
視界が急速に狭まり、暗闇が押し寄せてくる。
その倒れる俺の視界のなかに、親父の、あの傷だらけの右手が映った。
手首には、かつて大魔獣との戦いで刻まれたという、深い、醜い傷跡。
親父はその右手を無造作に伸ばし、俺の頭を、乱暴に、だが不思議なほどに温かい手のひらで、一度だけぽん、と叩いた。
「お前に剣の握り方を教えたのは、誰かを殺すためじゃない」
その声は、いつもの冷徹なトーンではなく、どこか遠くを見つめるような、酷く寂しげな響きを帯びていた。
「いつか、俺がいなくなるときのために。お前が、誰の助けも借りず、たった一人でも、この腐った世界のなかで生き延びる力をつけさせるためだ。……それだけだ、カイ」
(……嘘だ。だったら、なんで、いつも一人にするんだよ。なんで、何も言ってくれないんだよ……)
言いたい言葉は、すべて泥水とともに喉の奥へと沈んでいき、俺の意識は、そこで完全に途絶えた。
英雄ソウル。
強くなければ、誰も守れない。守るために、家族すら遠ざけ、最後にはたった一人で絶望の核へと消えていった、愚かな男。
俺はあいつのようには、絶対にならない。
誰かを置いて消えることも、誰かを守るために自分を犠牲にすることも、絶対に認めない。
(……だから、俺は……こんなところで……!)
死ねない。
のたれ死んで、親父のあの不器用な背中を、ただの「正しい正解」にしてたまるか。
ドクン、と、俺の心臓が、漆黒の精神世界の底で、激しく爆発的な鼓動を刻んだ。
消失していた全身の末梢神経に、凄まじい熱量が、激流となって逆流してくる。
右手首の古い傷跡が、まるで火を押し当てられたかのように、猛烈に熱い。
(目を、覚ませ――!)
俺の自我が、暗い水の底から、一気に光の射す現実へと這い上がった。
*
「――おい! しっかりしろ! 目が覚めたか!?」
耳元で、現実の、地鳴りのように低い男の声が響いた。
鼓膜を揺らすのは、さっきまでの静寂な深海や燃えるコーラルの音ではない。
ザザァ、と引いては寄せる、あの白い砂浜の、現実のエメラルドグリーンの海の呼吸。
「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……!」
俺は激しく身震いしながら、再び大量の海水を砂の上に吐き出した。
視界が急激に開き、眩しい群青の空と、そこに浮かぶ巨大な浮遊島の輪郭が、今度は鮮明に網膜へと飛び込んでくる。
目の前には、人間の胴体ほどもある巨大な鉄槌を背中に担いだ、褐色の肌の大柄な男が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。その男の明るい茶色の瞳が、俺の覚醒を確認して、ホッとしたように緩む。
そして、その大男のすぐ後ろ。
白に近い、透き通るような銀の髪を風に揺らしながら、淡い青緑色の瞳で俺をじっと見つめている、純白の礼装の少女がいた。
少女と完全に目が合った瞬間、俺の右手首の包帯の下が、微かに、だが確かに、あの深海で聞いた歌声と同じリズムで、トクン、と温かく脈打った。
(間違いない……。あの海の底で、俺の襟元を掴んで引きずり上げたのは……この、銀髪の……)
名前も、身分も、何もかも分からない。
だが、その少女が、左手で自身の右肘をきゅっと掴みながら、安堵の混じった、美しい笑みをこぼしたとき。
「良かった……。息を吹き返してくれたのですね」
鈴の鳴るような、だがどこか酷く静かな声が、砂浜の風に混じって俺の耳へと届いた。
その笑顔を見た瞬間、俺のなかのすべての警戒の「鎧」が、一瞬だけ、音を立てて軋んだ。
この名も知らぬ者たちとの出会いが、俺の、そして世界の運命をどのように狂わせていくのか。
骨の髄に刻まれた親父の剣の温度を宿したまま、俺は今、本当の旅の舞台へと、その第一歩を踏み出そうとしていた。
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