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それでは、お楽しみください!
光が、届かない。
水の底というのは、これほどまでに世界のすべての色彩を奪い去るものなのか。
上層の揺らめきすらもはや視認できないほどの深みに沈むにつれ、俺の視界は、ただただ濃密で、冷徹な、どす黒い紺青の闇へと塗りつぶされていく。
(……冷たい、な。感覚が、消えていく)
手足の先から、体温がじわりじわりと、目に見えない無数の棘に穿たれるようにして強奪されていく。
自分が今、右腕を伸ばしているのか、それとも力を失ってだらりと垂れ下げているのかすらも判然としない。
ただ、手首の古い包帯だけが、水流に揉まれて細い蛇のように水中で踊っている感触が、辛うじて俺という肉体の生存を告げていた。
ゴボリ、と、最後の一欠片だった酸素の塊が、唇の隙間から滑り落ちていく。
それは丸い透明なビーズのようになって、暗い水圧のなかを、俺の手の届かない遥か彼方へと昇っていった。
肺が、限界を告げるように、きりきりと内側から締め付けられる。
胸を直接素手で掴まれ、全力で雑巾のように絞り上げられているかのような、鋭く、鈍い、矛盾した激痛。
呼吸を求める本能が、喉の筋肉を不随意に痙攣させるが、そこに入り込んでくるのは冷たく重い海水だけだ。
気管が、塩水によって灼かれるように熱い。
(ああ、これでおしまいか。あっけないもんだ、俺の人生も)
諦めという名の、酷く甘やかで、ぬるい泥のような感覚が、急速に脳の視床を麻痺させていく。
あれほど俺を苦しめていた全身の筋肉の叫びも、右手首の古い傷跡の疼きも、水底の静寂のなかに静かに溶けて、消えていく。
だが、完全に意識の灯火が消え去るその寸前。
やはり、あの音が聞こえた。
歌だ。
水の分子を一つずつ細かに震わせるようにして、深海の闇を鋭く切り裂き、俺の凍りついた鼓膜へと滑り込んでくる旋律。
哀しく、それでいて、聴く者の魂の最も柔らかい部分を優しく包み込むような、圧倒的に透き通った声。
それは、死者の手を引いて冥府へと歩む優しさと、死にゆく者の襟元を掴んででも現世へと引き戻そうとする、強情な生への執着が同居した、不思議な祈りの歌だった。
(誰だ……? 誰が、歌って……)
その問いに答える者はいない。
ただ、俺の身体が、海流の気まぐれな渦に捕まり、暗い海底の裂け目から、這い上がるような上昇流へと引きずり込まれていくのを感じた。
意識が、完全に暗転した。
*
焦げた匂いがした。
鼻腔の奥を、酷く不快に灼きつける、硝煙と、何かが燃え尽きて灰になる時のあの、乾燥した死の匂い。
どこかで、誰かが狂ったように叫んでいる。
悲鳴、怒号、それから、すべてを圧殺するようにして響き渡る、世界そのものがへし折れるような轟音。
「――カイ! 立て! 目を開け、カイ!」
低い、驚くほどに低く、そして耳の奥にまで響く、よく通る男の声。
その声の主の太い指が、俺のまだ小さな、骨の細い肩を、砕かんばかりの力で強く掴んで揺さぶっていた。
視界を開くと、そこは燃え盛る地獄だった。
空は、不気味などす黒い紫色に変色し、空間のあちこちが、まるでガラスが粉々に砕け散るようにして「穴」を開けている。
その穴から、粘り気のある漆黒の瘴気――大魔獣ヴォイドの波濤が、津波となって、美しい水上都市コーラルを次々と建物の基礎からへし折り、飲み込んでいく。
「父、さん……? いたい、よ……」
幼い俺の声は、周囲の爆音にかき消されて、自分にすら届かない。
肩を掴む親父の太い腕は、あちこちから赤い血を噴き出し、纏っている衣服はボロボロに引き裂かれていた。
いつも不機嫌そうに、無精髭を生やした口元をへの字に曲げている親父が、その時だけは、見たこともないほどに必死な、鬼のような形相で俺を見つめていた。
「よく聞け、カイ」
ソウルは、長い言葉を使わない男だった。
いつもぶっきらぼうで、家に帰らず、母さんが死んだ夜でさえ、どこかの戦場で剣を振るっていた、最低の父親。
「生きろ。お前は、何があっても、生き延びろ」
「いやだ! おいていかないで、父さん!」
幼い俺は、必死に手を伸ばした。
親父の右手首には、さっきついたばかりの、骨が見えるほどの深い剣傷が刻まれており、そこから溢れ出た熱い血が、俺の手のひらを真っ赤に染めていく。
だが、親父はその血まみれの手で、俺の小さな身体を軽々と抱え上げると、近くの埠頭に繋がれていた、頑丈な小型の木舟の底へと、容赦なく放り投げた。
「父さん!」
「お前に剣の握り方を教えたのは、誰かを殺すためじゃない。生き残るためだ。……生きろ、カイ」
それが、ソウルが俺に遺した、最後の言葉だった。
木舟の固定索が、親父の一閃によって叩き切られる。
引き潮の猛烈な激流に乗り、小舟は燃え盛るコーラルから、急速に外海へと引き離されていく。
埠頭の端に、ぽつんと立つ親父の背中。
黒髪を短く刈り上げ、使い込んだ大剣を無造作に正眼に構え、迫り来る数万、数十万の漆黒の奔流に向かって、たった一人で歩みを進めていく、あの圧倒的な後ろ姿。
その背中が、押し寄せた黒い質量の中に静かに沈み、見えなくなるまで、俺は泣き叫びながら、その姿を網膜の裏側に灼きつけ続けた。
世界一の剣士。そして、世界一最低な、俺の父親。
なぜ、あのとき。
なぜ、俺に何も言わずに、お前は一人で消えたんだ。
置いていかれた側の人間が、どれほどの暗闇を歩くことになるのか、お前は少しでも考えたことがあったのか。
(……父さん。なぁ、親父……!)
応えはない。
精神世界の炎は、やがて冷たい氷の波へと姿を変え、俺の意識を再び、容赦のない現実の境界へと押し戻していく。
*
「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……っ!」
激しい嘔吐感とともに、俺の意識は強引に覚醒へと引き揚げられた。
口から溢れ出たのは、大量の、生温かい海水。
胃袋のなかが完全に空っぽになるまで、何度も、何度も、激しい不随意の収縮が襲いかかり、そのたびに腹筋が引き裂かれるような鈍痛が走る。
鼻腔の奥に、ツンとした鋭い塩の痛みが突き抜け、脳の芯が痺れるように痛む。
(……ハァ、はぁ、……っ、あ、あ……)
荒い呼吸を繰り返すたびに、割れるように痛む頭蓋骨を両手で押さえつけようとしたが、右腕が、まるで自分の肉体ではないかのように、痙攣して動かない。
指先を動かそうとするだけで、肘から肩にかけて、無数の針で同時に突き刺されるような、猛烈な痺れと痛みが走る。
まぶたを覆う、不快なざらつき。
こびりついた砂の粒と、太陽の熱で急速に干からびた塩の結晶が、睫毛をセメントのように固めている。
指先で無理やりそれを拭い去り、ひび割れたまぶたを、血が滲むような痛みに耐えながら持ち上げた。
「……っあ、まぶし、……」
網膜を直接白熱灯で灼かれるような、強烈極まりない直射日光。
まぶしさに顔をしかめ、涙を流しながら、俺は辛うじて周囲の景色を視界に収めた。
そこは、見渡す限りの白い砂浜だった。
コーラルの、あのフジツボと汚れたヘドロにまみれた石畳の世界ではない。
触れた肌をじりじりと焦がすほどに熱を帯びた、純白の、きめの細かい砂が、どこまでも、どこまでも続いている。
視線を少し上げると、海が広がっていた。
だが、その海の色は、俺の知るコーラルの陰鬱な緑色ではなかった。
息を呑むほどに透明で、太陽の光を浴びて、まるで砕いたエメラルドを一面に敷き詰めたかのように、眩しく、美しく輝いている。
(なんだ、この海は……こんな場所が、世界にあるのか……?)
驚きは、それだけでは終わらなかった。
水平線の遥か彼方、本来なら空しか存在しないはずのその場所に、信じられない光景が広がっていた。
巨大な岩塊が、大地が、浮かんでいる。
切り立った絶壁に青々とした原始の森を湛えた、巨大な「島」が、重力を嘲笑うかのように、悠然と群青の空に静止しているのだ。
その浮遊島の裾からは、何筋もの巨大な滝が、下層の海へと向かって、終わりのない白いリボンを垂らすようにして流れ落ちていた。
海と、空に浮かぶ島々の世界。
これが、外の世界。旅の商人が、コーラルの酒場でおこぼれのように語っていた、本当の世界の姿。
「……ハッ、はは……。本当に、浮かんでやがる……」
掠れた声で笑おうとしたが、唇が完全に乾燥してひび割れており、ピリッと裂けて鉄の味が口の中に広がった。
俺はなんとか生き残ったのだ。あのヴォイドの残滓という、自然災害のような暴力に蹂躙されながらも、海流の悪戯によって、この見知らぬ異郷の地にまで流れ着いた。
(だが……動けねえ)
全身の関節という関節が、冷えて固まった鋳鉄のようになっていて、びくともしない。
衣服は波に揉まれてボロボロに引き裂かれ、露出した肌は太陽の光で赤黒く焼け爛れている。
喉は、干からびた砂漠のようになっていて、唾液の一滴すら出せない。
このまま誰も来なければ、俺はあと数時間もしないうちに、この美しい砂浜のうえで、干物のように干からびて死ぬだろう。
「まあ……ここまで来て、のたれ死ぬってのも……三流の結末だな、クソ……」
己の無力を呪うようにして目を閉じようとした、その時だった。
ザゥ、ザゥ、と、微かな、しかし確実に人間のものと分かる足音が、遠くから潮騒の音を割って近づいてくるのが聞こえた。
ただの足音ではない。
砂に深く沈み込まない、一定の訓練を受けた者だけが持つ、重心のブレない確かな足取り。
その音は、一つではない。
重い金属が擦れ合うような鈍い音を伴う足音。
そして、完全に気配を消し、周囲の風景に溶け込もうとしている、極めて軽い足音。
足音は、複数。
(……誰か、来る)
俺は、残されたわずかな力を振り絞り、砂の中に半ば埋もれていた右腕を、無理やり動かそうとした。
手のひらに触れたのは、傷だらけの、愛用の鉄剣の柄だ。
革紐が血を吸って硬化したその感触だけが、今の俺にとって唯一の、世界を信じるための命綱だった。
動かない身体のまま、俺は、顔だけを足音のする方向へとゆっくりと向けた。
視界の端、揺らめく陽炎の向こう側から、複数の影が、こちらへ向かって真っ直ぐに歩み寄ってくるのが見える。
それが、俺の凍りついた時間が、再び動き出す前触れだということを、俺は本能的に察知していた。
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