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自分が読みたいものを書いていくと、話が変わり何度か聞き直しました。
コメント、ブクマ、リアクションあるとめっちゃ嬉しいです。
あればあるほどたくさん書きます。
毎日20時更新予定です。
風が、凪いだ。
ひりつくような静寂が、鼓膜を執拗に圧迫する。
灰色の空。遥か上空に浮かぶ無数の浮遊島から、千切れた雲が糸のように垂れ下がっている。
足元に広がるのは、かつて栄華を極め、今は完全に崩壊した海底神殿の祭壇。
その中心で、シオンの青白い唇が、凍てつく冬の夜のように震えながら微かに開いた。
紡がれようとしているのは、世界をこの泥濘から救うための、美しくも残酷な旋律。
そして、彼女自身の細い命を燃料として焼き尽くす、最後の鎮魂歌。
(……ふざけるな。そんなもののために、お前は生まれたわけじゃない)
奥歯がパキリと嫌な音を立てるほど噛み締めると、錆びた鉄の味が舌の上にじわりと広がった。
肺の奥で空気が暴発し、気管が焼け焦げるように熱い。
視界の端が赤く染まり、体中の血管が破裂しそうなほどの怒りが、泥のようになっていた俺の肉体を無理やり突き動かす。
重鉛を流し込まれたように軋む両脚を、狂ったように前へ蹴り出した。
石畳を踏みしめるたびに、底のすり減った靴の裏から骨を伝って、脳頭頂部を直接殴りつけるような鈍痛が走る。
だが、その痛みが、俺の意識を無理やりこの過酷な現実に繋ぎ止めていた。
「やめろ」
喉を引き裂くような叫びが、冷たい祈りの場に、まるで硝子が割れるような鋭さで木霊した。
ピタリと、世界から一切の音が消失する。
シオンの、あまりにも細く、今にも折れそうな肩がビクンと跳ねた。
ゆっくりと振り返った彼女の瞳が、驚きに大きく見開かれ、まっすぐに俺の姿を射抜く。
南の深い海の底を思わせる、淡い青緑色の瞳。
その奥にこびりついた、生への諦めと、すべてを受け入れたような死の静けさ。
俺は、その冷徹な色を、力ずくで引き剥がしたかった。
「……カイ?」
震える声。
俺はもう一度、肺に残ったすべての熱を吐き出しながら、彼女の前に、世界そのものを遮るようにして立ちはだかった。
彼女が死ぬために旅をしている。
俺はそれを知って、その呪われた隣を歩いている。
これは、最後の歌を歌ったら死ぬと知りながら、それでも誰かのために笑おうとする少女と、その未来を世界から力ずくで強奪してでも止めたい俺の、どうしようもなく泥臭く、そして狂おしい、旅の始まりの記録だ。
*
(……暑いな。クソ、脳みそが沸騰しそうだ)
頭蓋骨を直接内側から焼かれるような、容赦のない日差しに、俺は思わず額に手を当てて目を細めた。
鼻腔を執拗に突くのは、引き潮の後に残された腐りかけた海藻の生臭さと、長年、塩水に剥き出しにされ続けた鉄が放つ、ひどく重苦しい錆びの匂い。
足元では、ぬるく濁った波が、ひたひたと壊れかけた石畳の隙間を舐め続けている。
廃都コーラル。
大昔の航海士たちの手記には「海の宝石」とまで謳われた、美しい水上都市だったらしい。
だが、今となっては、海に半ば沈みかけた巨大なガラクタの山、あるいは、世界の吹き溜まりに過ぎない。
かつて数万人の市民や商人が行き交ったという大通りは、今やフジツボの不気味な群生と、どす黒い苔に完全に覆い尽くされている。
1日に2回、満潮の時間が訪れるたびに、この街の半分は静かに波の下へと沈み、人々は腐りかけた木板や錆びた鉄パイプを渡した仮設のキャットウォークの上を、這うようにして移動するしかなかった。
建物の基礎は塩水に蝕まれ、触れればボロボロと赤黒い鉄粉が崩れ落ちて風に舞う。それが目に入るたびに、涙が止まらなくなる。
「それで? それでどうなったの、カイ兄! 早く続きを教えてよ!」
甲高い、しかしどこか栄養の足りていない掠れた声が、俺の鼓膜を揺らした。
見下ろすと、日焼けした鼻の頭に、真珠のような汗の粒をいくつも浮かべた、スラムの小鬼どもが三匹、目を皿のようにして俺を見上げていた。
どのガキも、擦り切れて灰色になったボロ布を纏い、足元は裸足だ。
「焦るな。そこからが、俺の親父……あの伝説の剣士、ソウルの本当の見せ場だ」
俺はわざとらしく喉を鳴らして咳払いをして、手元にあった、波に洗われて白く褪せた木の棒を、大剣に見立てて正眼に構えた。
背筋を伸ばし、顎を引く。その瞬間だけは、俺のなかのスラムの傭兵という「鎧」が、ほんの少しだけ本物の剣士の形を帯びる。
「突如として海が割れ、空を覆い尽くすほどの巨大な口を開けた、青黒い海竜が現れた。船乗りたちが恐怖で腰を抜かし、祈ることも忘れて泣き叫ぶなか。親父は、ただ一人、ニヤリと笑ったんだ。そして、へし折れかけた船の帆柱を力強く蹴って、重力なんて最初からなかったみたいに、ひらりと宙を舞った」
「おおっ……!」
子供たちのなかで一番小さなチビが、口から唾を飛ばしながら身を乗り出す。その手は、興奮で小さく震えていた。
「迫り来る海竜の牙を、親父は空中でわずかに身体を捻ってかわした。そのまま、愛刀の柄を両手で握り締め、上段から一閃。ザシュゥゥゥッ、と、肉を断つ凄まじい音が響いて、辺り一面にクジラ一頭分じゃきかないほどの血飛沫が舞ったんだ。太陽の光を反射して、それがまるで赤い宝石みたいにキラキラ光るなか、親父は着地して、こう言った」
「なんて言ったの!?」
「『波に乗るなら、もう少し行儀よくしな』ってな」
子供たちから、わぁっ、と割れんばかりの歓声が上がった。
小さな手のひらが何度も打ち鳴らされ、スラムの淀んだ空気が、その瞬間だけはわずかに華やぐ。
俺は満足げに鼻を鳴らし、海に突き出た、今にも崩落しそうな防波堤の端に、どっかりと腰を下ろした。
(……我ながら、三流の講談師も真っ青の、薄っぺらい作り話だ)
胃の奥が、冷たく焼けるような感覚に襲われる。
俺は無意識に、右手首を幾重にも覆う、薄汚れた包帯の上から、その下にある古い傷跡を指先でなぞった。
十五年前。
「大いなる波」と呼ばれる、百年に一度の厄災・大魔獣ヴォイドが、この美しいコーラルを文字通り飲み込んだ日。
俺はまだ、自分の名前をようやく舌足らずに言えるようになったばかりの、ただの物心つかないガキだった。
親父が本当に海竜と戦ったのか、それとも、ただ押し寄せる圧倒的な波の前に、犬のように無様に逃げ惑って死んだのか。
本当のところは、何一つ覚えていないし、確かめる術もない。
ただ、俺を無理やり小さな木舟の底へと放り投げ、迫り来る漆黒の絶望に向かって、たった一人で剣を引き抜いた、あの背中の圧倒的な熱。
空間全体が焦げ付いたような、嫌な硝煙の匂い。
そして、遠ざかる小舟に向かって俺の名前を呼んだ、親父の、ひどく掠れた低い声。
それだけが、今の俺という人間の輪郭を形作っている、すべての「記憶」であり、呪いだった。
「ねえ、カイ兄。カイ兄の親父さんって、本当にそんなに強かったの? 他の大人はみんな、ソウルは街を見捨てて逃げた臆病者だって言ってるよ」
一番年かさの、少し冷めた目をした少年が、鋭い視線で俺を問いかけてきた。その瞳には、スラムの過酷な現実が早くも影を落としている。
「……ああ。世界で一番強かったよ。だから……」
俺は、そこから先の言葉を、口の中に溜まった苦く粘り気のある唾液とともに、無理やり喉の奥へと連れ戻した。
だから、死んだんだ。
誰にもその最期を見取られず、何の痕跡も、骨の一片すら残さず、ただ圧倒的な黒い質量に飲まれて消えた。
英雄なんて、そんなもんだ。死んでしまえば、残された人間にとっては、ただの都合の良い「思い出」か、あるいは呪いの偶像に成り下がる。
「まあ、親父の昔話はこれくらいにしとけ。ほら、足元を見てみろ。潮が満ちて、鉄橋の下まで水が来てる。早くスラムの共同区域に戻らないと、今日の掃除当番のクソババアに、そのまま海へ放り込まれるぞ」
「うわ、もうそんな時間!? やべえ、逃げろ!」
ガキどもが、錆びついた鉄橋の隙間から覗く波に怯えながら、蜘蛛の子を散らすようにして走っていく。
木板がガタガタと鳴る音が遠ざかり、やがて、街は完全な静寂に包まれた。
いや、静寂ではない。
ひたひたと、建物の壁を削り続ける、陰湿な波の音だけが、世界のすべてを支配していく。
俺は再び、たった一人になった。
「……何が世界一の剣士だ。大嘘つきが」
誰もいない海に向かって吐き捨て、防波堤の下を覗き込む。
海水は、底が見えないほどに濁り、不気味な緑色に変色している。
なぜ、あの日に俺だけが生かされたのか。なぜ、親父は俺に剣の握り方だけを教えて、自分はあんな不器用な生き方のまま消えてしまったのか。
答えは、この腐った海にいくら問いかけても、冷たい泡となって消えるだけで、決して返ってはこない。
(……チェイサーの配給時間まで、まだ間があるな。今日も、異常なしか)
日課の見回りを終え、身体の向きを変えようとした、まさにその瞬間だった。
ピリ、と、首筋の産毛が一斉に逆立つような、強烈な悪寒が走った。
ザァァァァァァッ!
大気が、悲鳴を上げるような不自然な音が、背後の海域から爆ぜた。
ただの波の音ではない。
大地そのものが、内側から激しく震え、人間の胃袋を直接素手で掴んで握りつぶすような、不快極まりない超低音の鳴動。
振り返った俺の視界を、すべてを塗りつぶすような漆黒の影が覆い尽くした。
「……嘘、だろ」
空が、割れていた。
海面から、意志を持つ巨大な大蛇のように渦を巻いて立ち昇る、粘り気のある漆黒の瘴気。
光そのものを吸収して捻じ曲げるそのエネルギーの塊のせいで、周囲の空間が、熟しすぎた果実のようにぐにゃりと歪み、直径十メートルはあろうかという巨大な「穴」が開きかけている。
十五年前の、あの地獄の記憶が、一瞬にして脳内に蘇る。
親父を、この街を、数万人の命を、一瞬で飲み込み尽くした、絶対的な死の象徴。
大魔獣ヴォイドの、残滓。
空気中の水分が、一瞬で凍りついたかのように重苦しく変化する。
呼吸をしようと鼻から息を吸い込むたびに、肺の中に細かな硝子の破片を大量に流し込まれるような、鋭い激痛が走った。
視界が急速にセピア色に変色し、世界の色彩が失われていく。
「チッ……!」
激しい舌打ちと同時に、俺の肉体は、思考よりも先に弾かれたように動いていた。
腰に帯びた、傷だらけのなまくらの鉄剣。その柄を、指の皮膚が白くなるほどの力で握り締め、崩れかけの防波堤を力強く蹴る。
逃げるという選択肢は、俺の頭の中には最初から存在しなかった。
ここで俺が背中を向ければ、さっき笑っていたあのガキどもが住むスラムが、この街に残されたわずかな人々の営みが、すべて跡形もなく消え去る。
何より——俺のなかで十五年間、ずっと燻り続けている「親父の背中」を裏切ることになる。それだけは、死んでも嫌だった。
「オラァァァァァッ!」
喉がちぎれるほどの咆哮を上げ、俺はただ一人、漆黒の奔流に向かって剣を引き抜いた。
ドォォォォォォォンッ!
激突。
結晶化した瘴気の先端が、俺の鉄剣の刃と触れ合った瞬間、鼓膜を直接破壊するかのような狂暴な金属音が響き、周囲に真っ黒な火花が飛び散った。
重い。
信じられない質量だ。まるで、海そのものを相手に、一本の鉄棒で突っ張っているかのような、絶望的な格差。
右腕の筋肉がミシミシと悲鳴を上げ、手首の皮膚が裂けて、じわりと赤い血と脂汗が滲んでいく。
一瞬でも力を抜けば、そのまま肉ごと骨を粉砕される。
(波を読め……! 力で抗うな、カイ! 流れと同調しろ!)
脳内で、親父のあの掠れた声が、驚くほど鮮明に再生された。
剣術「波断ち」。
敵の圧倒的な力に対して、正面から力で押し返すのは三流のすることだ。
その力の「流れ」の向きを瞬時に見極め、引き潮が満ち潮へと切り替わる、そのわずかな「瞬間の凪」に、己のすべての体重と質量を滑り込ませる。
俺は、強引に剣を押し返すのをやめ、あえて漆黒の奔流の勢いに身を任せるようにして身体を沈めた。
刃の角度をわずかに傾け、凄まじい速度で回転する瘴気の渦が作る、ほんのわずかな「継ぎ目」を、皮膚の感覚だけで探る。
今だ。
一点。
最悪の圧力のなか、一瞬だけ生まれた、奇跡のような「空隙」。
俺はそこへ、残されたすべての脚力を爆発させて、全身のバネを叩き込んだ。
ガキィィィィィィン!
鉄剣が、漆黒の壁を斜めに、浅く切り裂いた。
確かな手応え。
だが——奴は、本物の大魔獣ではない。ただの意志を持たない、破壊の残滓だ。
怯むという感情すら持たない漆黒の塊は、切り裂かれた端から、さらに粘り気のある瘴気を触手のように伸ばし、俺の四肢へと容赦なく絡みついてきた。
「ぐっ、あ……ぁ、ガはっ……!」
冷たい。
触れた部分から、体内の熱が、恐ろしい速度で強奪されていく。
指先の感覚が消え、腕が自分のものとは思えないほどに凍りついていく。
視界の四隅から、どす黒い闇が侵食し、世界の音が急速に遠ざかっていく。
(……あ、あ、そうか)
親父も、あの日に、こんな絶望の中にいたのか。
こんなにも冷たく、息もできないほどに暗い場所で、たった一人で、あいつは俺を守るために剣を振るい続けていたのか。
一瞬の、脳の弛緩。
巨大な瘴気の塊が、無防備になった俺の腹部を、正面からまともに捉えた。
「カハッ……!」
肺に含まれていたすべての酸素が、一瞬で外部へと強制的に搾り取られ、肋骨が悲鳴を上げる。
俺の身体は、まるで嵐に吹き飛ばされる一枚の木の葉のように宙を舞い、そのまま、冷たいコーラルの海面へと叩きつけられた。
衝撃で、意識が白く爆ぜる。
ドブォン、と重い水の音がして、俺の身体は光の届かない、深い海の底へと沈んでいった。
泡が、口からゴボゴボと溢れては、上へと昇っていく。それを追うだけの視力も、もう残っていなかった。
暗い。
あまりにも冷たい。
(死ぬのか。……俺も、ようやく、親父と同じ場所へ行けるのか)
諦めが、心地よい眠りのようになって俺の全身を包み込もうとした、その時だった。
遠のいていく意識の、その最も深い境界線の向こう側から、奇妙な音が聞こえた気がした。
歌声だ。
悲しく、しかしどこまでも透き通った、凛とした祈りの旋律。
波の雑音をすべて退け、冷え切った俺の耳の奥へと、真っ直ぐに届く不思議な歌。
死者の魂を、安らかに導くための鎮魂歌か。
あるいは——暗い泥濘の底へと沈んでいく誰かの襟元を掴んで、無理やり引き上げるための、強情な救いの歌か。
(……まだ、だ)
右手首の古い傷跡が、にわかに熱を帯びる。
まるで、誰か見知らぬ人間に、冷え切ったその手を強く握り締められているかのような、確かな熱感。
(まだ、俺は……何一つ、真実を……)
視界が完全に深い闇に包まれる、その最後の一瞬。
砕けかけた世界の境界線の向こう側に、一瞬だけ、淡い青緑色の光が揺れた気がした。
それは、嵐の吹き荒れる夜の海を、ただ静かに照らし続ける灯台の光のように、ひどく、ひどく、優しく揺れていた。
お読みいただき、ありがとうございました!
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