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視界のすべてを埋め尽くしていた世界が、凄絶な速度のなかで完全に反転していた。
鼓膜を容赦なく叩き潰すのは、下層の海から猛烈な勢いで吹き上げてくる外海の、濃厚な瘴気と狂暴な飛沫の嵐だ。
上空にそびえ立っていたはずの港町リガの影は、すでに千切れた灰色の雲の向こう側へと完全に消え去り、今や俺たちの視界を支配しているのは、ただ一点、凄まじい質量を持って迫り上がってくる漆黒の海面だけだった。
グラン・リヴァイア号の甲板を覆う防腐鉄板が、大気の激しい摩擦熱によって、悲鳴のようなキリキリとした高音を立てて震えている。
自由落下という、重力そのものから見放された極限の加速のなかで、俺は右手の指先が白くなるほど強く、甲板の鉄の手すりを握り締めていた。
「全員、衝撃に備えろッ! 舌を噛むんじゃねえぞ!」
船長の野太い咆哮が、風圧を引き裂いてスピーカーから炸裂した。
その刹那、俺の視界の端で、シオンの銀髪が逆巻く嵐のなかで激しく躍った。彼女は隣に立つセイジの黒い外套の裾を固く握り締め、あの淡い青緑色の瞳を真っ直ぐに、激突の瞬間へと向けていた。
来る。
世界の底、本物の海の底が、俺たちの肉体を押し潰しにやってくる。
ドォォォォォォォォォォォンッ!
世界が、完全に爆発した。
激突。それ以外の表現が、この瞬間の衝撃の前には無力だった。
数千メートルの虚空を自由落下してきた百メートルを超える鉄の巨躯が、下層の海面へと真正面から激突したのだ。
その瞬間、俺の身体は強烈な慣性によって、文字通り甲板の上へと叩きつけられそうになった。
全身の骨が歪な音を立てて軋み、内臓がすべて喉元まで押し上げられるような、凄絶な衝撃。
だが、昨日までの衰弱しきった肉体とは違う。十五時間の爆睡を経て、極上の肉の活力を完全に吸い上げた俺の右太腿の筋肉は、弾かれたバネのように、その圧倒的な衝撃を鉄板の上でギリギリと踏みとどまって受け止めた。
鉄の手すりが、俺の握力と船体の歪みによって、ぐにゃりと不格好にねじれる。
直後、船首の楔型の装甲が引き裂いた海水が、高さ数十メートルにも及ぶ巨大な白亜の「壁」となって、甲板の両側へと一気に噴き上がった。
それは、コーラルの濁った泥水とは全く違う、不気味なほどに青黒く、そして硝子の破片のように鋭利な外海の海水だった。
巻き上がった大量の飛沫が、豪雨となって甲板のすべてを容赦なく叩きつける。
海水が皮膚に触れた瞬間、ジリジリと、まるで薄めた酸でも浴びせられたかのような、奇妙な熱が走った。
外海の瘴気。
詠唱院の歴史書に書かれていた、人間の理性を内側から腐らせるという、呪われた海の洗礼そのものだった。
「ハッ……ハハ! なんだよこれ、最高に手荒い歓迎じゃねえか!」
俺は、口の中に飛び込んできたひどく苦く、正式な訓練を受けていない俺の舌を麻痺させる鉄の味がする海水を荒々しく吐き出しながら、狂暴な笑みを顔に張り付けた。
目が先に笑う、いつもの不敵な笑顔。
右手首の古い包帯の下が、この異質な海の波長に呼応するようにして、沸騰した油を注がれたような熱を持ってドクドクと暴れ狂い始めている。
ズ、ズズズ……と、船体が大きく左右に揺れ、推進筒から吐き出された高圧の蒸気が、海面下でゴボゴボと重苦しい音を立てて爆ぜ始めた。
グラン・リヴァイア号は、完全に海面へと「着水」していた。
自由落下の凄絶なエネルギーは、船底の強固な装甲と、四基の巨大な鉄製の蒸気推進筒の逆噴射によって、強引なまでの浮力へと変換されていた。
船体は何度も激しく上下に揺れ、波頭を噛み砕きながら、ようやくその巨躯を、本物の海の上へと安定させつつあった。
「おいおいおい! 正気かよ、カイ! この衝撃のなかで、よくもまあそんな悪魔みたいな顔で笑っていられるな!」
すぐ近く、甲板に打ち込まれた巨大な鉄のボルトに、文字通り猿のようにしがみついていたバルドが、全身を海水でビショ濡れにしながら叫んだ。
彼の明るい茶色の瞳には、恐怖を通り越した呆れの色が濃く浮かんでいる。背中の巨大な鉄槌が、船体の振動に合わせて、ガチガチと硬質な音を立てて揺れていた。
「大クジラのくせに、海の上が苦手なのかよ、バルド! コーラルのガキだって、もう少しマシな顔をして波を被るぜ!」
俺は手すりから手を放し、激しく揺れる甲板の上で、まるで自らの足の裏が鉄板と磁石で吸い付いているかのように、滑らかな歩調でバルドへと歩み寄った。
『波断ち』の感覚。
それは剣を振るう時だけでなく、この不安定極まりない世界の「揺れ」そのものを皮膚で読み取り、その流れに逆らわずに重心を置くための、野生のバランス感覚でもあった。
セイジは、驚くべきことに、その激突の瞬間すら、一歩もその場から動いていなかった。
黒い外套の裾は海水で重く濡れていたが、フードの奥から覗く灰色の目は、まるで凍りついた硝子のように一点のブレもなく、水平線の彼方を見つめ続けている。
男の右手は、相変わらず腰の刀の柄の数インチ手前で静止しており、その構えの精密さは、世界がどれほど揺れ動こうとも、一ミリの狂いも生ジないことを証明していた。
「……着水、成功です。皆さん、お怪我はありませんか」
シオンが、セイジの外套からゆっくりと手を離し、俺たちへと向かって振り返った。
新しく神殿から支給された微かに青みがかった聖衣は、すでに外海の黒い海水によって斑点のような汚れを刻まれていたが、彼女はその完璧な聖女の笑顔のまま、乱れた銀髪を細い指先でそっと耳の後ろへと掻き揚げた。
その仕草の美しさが、この狂狂しい鉄と飛沫の戦場において、酷く不釣り合いで、同時に硝子細工のような危うさを漂わせている。
彼女の足元、甲板の鉄板の上には、激突の衝撃で擦れたのだろう、真っ白な裸足の踵から、薄い血の跡がじわりと滲み出ていた。だが、彼女はやはり、その痛みに視線すら向けようとはしない。
「お嬢さん、お前こそ足元を見てみろよ。綺麗な服が台無しだぜ。ビジネスライクにいこうって言っただろ、自分の身体の管理くらい、しっかりしてもらわねえとな」
俺は、わざと棘のある言葉を投げかけながら、彼女の前に歩み出た。
シオンは、俺のその歪な言葉を受け止めると、左手で右肘をきゅっと強く掴む、あのいつもの癖を見せた。
実戦を重ねていない彼女の硝子の鎧が、俺の言葉によって僅かに軋む。そして、神殿の彫像のような偽物の笑みではない、ほんの僅かに眉をひそめた、人間らしい困ったような苦笑をその唇に浮かべた。
「……すみません、カイさん。外海の波は、思っていたよりも少しだけ、冷たかったものですから」
彼女のその言葉に、嘘はなかった。
見渡せば、俺たちが今航行している「下層の海」は、上空の浮遊島から見下ろしていたあのエメラルドグリーンの輝きとは、完全に別物だった。
空がないのだ。
見上げれば、俺たちが先ほどまでいたベルタ島はおろか、世界のすべての空が、白く濁った濃密な雲海――下層の瘴気が大気と混ざり合って形成された、底の見えない重苦しい「雲の天井」によって完全に覆い尽くされていた。
その分厚い雲の隙間から、太陽の光が歪な断層となって海面に差し込み、まるで怪物の斑点のような不気味な縞模様を波の上に描き出している。
大気は、コーラルの比ではないほどに濃密な、焦げ付いた硫黄と潮の腐臭が混ざり合った瘴気で満ちている。
波の一つひとつが、まるで生き物の背中のように不気味にうねり、船体がそれを踏み潰すたびに、ゴリ、ゴリ、と、水とは思えないほどに硬質な手応えが甲板を通じて足の裏に伝わってきた。
これが、詠唱院がひた隠しにし、神殿の戦士たちが秩序の裏側として見ない振りをし続けている、世界の本当の姿。
俺たちがこれから進むべき、呪われた外海航路の現実だった。
「おい……なぁ、セイジさん。気のせいか、この波の音、おかしくねえか?」
バルドが、ようやく鉄のボルトから手を放し、這い上がるようにして立ち上がりながら、不穏な声を漏らした。
彼の視線は、船首の楔型装甲が切り裂いていく、前方の一角へと向けられていた。
ズズズ……ズズズ……。
それは、船体の駆動音でも、ドックの解放音でもなかった。
海面のさらに下、大地の底とも言うべき深海の領域から、じわじわと染み出してくるような、あの不快極まりない重低音。
第一聖所の祭壇で、空間がぐにゃぐにゃに溶け落ちる直前に聴いた、あの世界の悲鳴と、全く同じ波長。
「……抜刀に遅れるな。バルド、カイ。外海の『断片』は、空のそれよりも、遥かに腹を空かせている」
セイジの冷徹な一言が、甲板の激しい潮騒の音を切り裂いた。
おっさんの指先が、ついに、腰の刀の柄へと完全に吸い付く。
黒い海水が、船首の数十メートル前方で、まるで意志を持ったかのように不自然な渦を巻き始めていた。
その中心から、陽炎のようにゆらゆらと立ち上る、紫色の不気味な火花。
無事に着水を果たした安堵など、この外海においては一秒すら保障されない。
俺は腰の鞘から、傷だらけの鉄剣の柄をギリリと鳴るほどの力で握り締め、迫り来る影を見据えて、より深く、より凶暴に笑った。
右手首の傷跡が、肉を引き千切らんばかりの熱を持って、激しく、激しく吠え始めていた。




